熊谷家住宅~長州(102) [萩の吉田松陰]

SH3B0413.jpgSH3B0414門?
SH3B0414.jpgSH3B0415屋敷?
SH3B0415.jpgSH3B0416敷地隅にシュロの木
SH3B0418.jpgSH3B0418熊谷家住宅の蔵?

一見、関所の門かと思ったが、国道沿いに大きな黒い門構えが見えた。
広大な敷地は砂利をしいた空き地になっており、右隅奥に蔵がポツンと残されている。
門の内側をのぞいてみると、手前の角(敷地の北西隅)にシュロが植えられていた。

『熊谷家といえば菊屋家と並んで萩毛利家の財政を支える大黒柱でありました。

熊谷家先祖の歴史はずい分古いものですが、 萩藩毛利氏七代の重就に藩財政の御用達として抜擢された熊谷五右衛門芳充(1719~1791)を初代としています。

熊谷五右衛門芳充は毛利候の意を受けて天賦の才を発揮し、藩財政をたすけて、自らも大阪の鴻池や加賀屋とも比べられる立場に成長し、藩の大年寄でも ありました。

歴代主人のうち特に4代は文化愛好者として学者や文人墨客に経済的援助をしたり、ドイツの医家シ ーボルトとも親交をむすび、6代は幕末維新に際して尊攘運動を大いに支援して贈位の恩命に浴している。以下略。』
(「(財)熊谷美術館の沿革」より)
http://www3.ocn.ne.jp/~kumaya/en.htm

萩の勤皇の志士は、熊谷家にくれば長崎のシーボルトからの情報を入手できたはずだ。

島根県大田市にも同名の史跡住宅があるが、ここと親戚筋かどうかはわからない。
おそらく資本としては関係が深いのであろう。

島根県の熊谷家住宅は、石見銀山御料の有力商人の家である。
毛利が石見銀山を配下に組み入れたあと豪商を萩へ連れてきたのかも知れない。

参考((島根の)熊谷家住宅の概要)
http://ginzan.city.ohda.lg.jp/Kumagai/outline/outline01.htm

これだけ広い敷地に屋敷があったのか、あるいは右隅奥に見える3~4棟を熊谷家住宅というのかわからない。

説明板にはこう書いてある。

『熊谷(くまや)家住宅 4棟(主屋、離れ座敷、本蔵、宝蔵)

熊谷家は萩藩の御用達を勤めた旧家である。

主屋は切妻造り、桟瓦葺きで、道路に南面し東側に茶室・式台等が突出している。

平面は桁行きを3等分して西側を通り土間とし、床上部は梁間を4等分して2間の部屋が8室整然と並ぶ部屋割りになっている。

特に土間回りは、丁寧に仕上げた太い梁を縦横に架け渡した豪壮な構成を見せている。

このほか離れ座敷や本蔵・宝蔵が建ち並び、江戸時代後期における地方豪族の富を示す好個の遺例である。

主屋の建築年代は明和5年(1768)で、その他の建物は18世紀から19世紀ころと思われる。 萩 市』

本蔵と思われる建物の扉が表裏とも開いてあり、こちらから奥の建物の扉が開け放たれているのが見える。

どうやら蔵はただの通行路にすぎず、主屋へ招き入れて見学してもらう趣向になっているようだ。

私はただ蔵の中をのぞいただけで、そこを立ち去った。

これだけ広い敷地には何を置いていたのだろうか。
商品類や樽、俵などを山積みしていたのだろうか。

馬車などの駐車場でもあったのだろうか。

当時の生活様式や商いの様子について知らない私には、想像がつかない空き地の広さである。

呉服屋のシュロ~長州(101) [萩の吉田松陰]

SH3B0410.jpgSH3B0410一直線に城下町へ
SH3B0411.jpgSH3B0411女台場
SH3B0412.jpgSH3B0412キヌヤ菊が浜店のシュロ並木
SH3B0413.jpgSH3B0413シュロの壮観

キリシタン殉教地をあとにして、私は城から城下町へと下っていく。
このまっすぐな道は藩主が通った御成道(おなりみち)だろうか。

城下を国道に沿って東へと進む。
民宿「女台場」の看板があるが、このあたりを左折し海岸へ出ると、台場の跡があるという。
松陰が女たちに築かせた台場だと思って調べてみたが、そういう記事は見当たらない。

どうやら外国船に下関でこてんぱんにやられてから、あわてて毛利藩がやったもののようだ。

村田清風の言葉に攘夷をあらわすこういう詩があった。

「敷島の大和心を人とわば 蒙古の使い斬りし時宗」

鎌倉時代の外国人防御は防塁でよかったのだが、江戸末期に防塁で黒船を撃退できる訳がない。
松陰ならそれを気づいていたことだろう。

「無駄な労働をさせている」と。

萩市大字今魚店町付近にある菊ヶ浜台場跡がそれで、女台場公園として整備されている。

『文久三年(1853)5月10日の攘夷決行の日、下関の萩藩馬関砲台は関門海峡を通過する外国船に砲撃を加えたが、反撃を受け、大損害を被った。

これを機に萩藩は外国船の来襲に備えて菊ヶ浜に土塁の築造を住民に命じた。

土塁の築造に当たって、特に武士の妻や奥女中の功績が大きく、通称「女台場」と言われている。
また、山口県を代表する民謡「男なら」はこのときの作業唄として歌われたもの。
現在、高さ3メートル、幅12メートルの土塁が50メートルにわたって比較的よく旧態を保っている。 『菊ヶ浜台場跡案内板』より』
(「菊ヶ浜台場(女台場)跡」より抜粋)
http://www.siromegu.com/castle/yamaguti/kikugahamadaiba/kikugahamadaiba.htm

この防塁は、幼児、老人、女中など多くの住民によって築かれたという。
武士の妻や奥女中の功績が大きかったことは、松陰による兵学教授の功績でもあろう。

こういういざというときのために、武家は米を藩主から給付されて生きてきたのである。
「今働かないでいつ働くのか」という危機感が武士の家族にもあったのである。

あいにく女台場見物は予定にない。
私は野山獄へと歩いている。

途中、呉服屋スーパーの店沿いにすばらしいシュロの並木を見た。
写真でも7~8本は敷地内に確認できるから、10本以上あっただろう。

これは単なる植栽や飾りではないだろう。
明らかな信仰に基づいて大事に管理しているのだ。

奥州街道を歩いているとき、めったに見なくなった平泉以北で珍しくシュロを見たのもやはり呉服屋の玄関先だった。

呉服屋の前のシュロのことは、新興キリスト教を奥州街道で布教しながら自転車を漕いでいた外国人青年も知っていた。

古代から日本人がシュロを大事にしてきた理由はあの外国人青年にはわかならないだろう。
彼の母国でまだインディアンが生息していた時代の出来事だからだ。

私は天台真言密教の時代に、中国の景教(ネストリウス派キリスト教)が密教と習合して日本へ入ってきて、旧約聖書の教えにあるナツメヤシの枝で神を祝う習慣が根付いて、禅宗も密教の流れを汲んだものと推測している。

だから豪商や醸造業を営む商人がシュロを大事にするのは、彼らもその意味はよくわかっていないようだ。

密教とはそういう教えなのである。
一部の人しか事実を知らせていない。

シュロがいいといわれたからシュロを植えただけで、それ以上の意味がシュロの枝に宿っていることは教えられていない。

旧約聖書をよく読めば書いてあるが、それは漢字で書かれ漢字のお経本と混ざって高野山に納められている。
空海が唐から持ちかえってきた。

最澄はうかつにも新約聖書しか持ち帰らなかった。

それを見るために最澄は空海に弟子入りする必要があった。
自分の弟子にならなければ見せないと空海が言ったのである。

庶民は読む必要などないのである。

バルトロメオ大村純忠の眼差し~長州(100) [萩の吉田松陰]

SH3B0409.jpgSH3B0409天野元信殉教碑

写真は熊谷元直とともに殺されたキリシタン藩士天野元信の殉教碑である。
その前で私は考えている。

ここ萩キリシタン殉教者記念公園は、私が事前に想像したものとはかなり異なったものだった。

村田清風居宅に近い位置に住むキリシタンがいたと想像していたのだが、彼らは江戸時代中期に迫害にあい、阿武郡の山の中に逃げて隠れ住んでいた。
幕末には萩城下には住んでいなかった。

ここのキリシタンは長崎の浦上崩れによりその一部が萩へと送られてきたものだということがわかった。

しかし、その記述の中で外国からキリシタン迫害を非難され、新政府が官吏を派遣し実態を調査したことが書いてあった。

調査のあとで、萩だけは一層待遇が悪化したという下りには妙にひっかかるものがある。
その他の藩では、あとで待遇が改善しているのである。

外国からの圧力をはねつける力が明治初年の長州藩内にはあったということだ。

『中略。

彼らが収容されたのが、岩国屋敷という場所でした。
広い敷地内に建物はありましたが、馬小屋に住まわされたり、光も差さない勘弁小屋に入れ、20~30日もの間食物を全く与えないということが、日常的に行われていました。

浦上キリシタンの碑
明治4(1871)年諸外国からの非難を受け、楠本正隆が実態を調査するため岩国屋敷を訪問しました。
巡察後他の地域では待遇が良くなったのに、ここではより悪くなったと証言されています。

明治5(1872)年帰村が許されると、改心していた者たち26名が早速改心を取り消し、翌年に長崎に帰るまで草鞋を作るなどの内職をしました。

明治6(1873)年、ようやく長崎に向けて出発できるようになりましたが、それまでに43名の命が失われていました。
以下略。』(「萩キリシタン殉教者記念公園」より)
http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/place/yamaguti/hagijunkyousya.html

キリシタン迫害の実態を調査したのは楠本正隆である。
大久保利通の片腕となっていた人物で、長崎大村藩の生まれである。

「旧楠本正隆屋敷」という観光案内にこう書いている。
http://www.jalan.net/ou/oup2000/ouw2001.do?spotId=guide000000164657
『旧楠本正隆屋敷から約4.1km

大村純忠は,日本最初のキリシタン大名。洗礼名バルトロメオ。
長崎開港,南蛮貿易,キリスト教保護の外交政策を展開し,天正10年にはローマ法王へ少年使節を派遣。
ここは純忠が最晩年隠居してすごした場所である。』

有名なキリシタン大名であるバルトロメオ大村純忠の晩年の隠居部屋は、旧楠本正隆屋敷から約4.1kmのところにあるという意味である。

大久保は大村藩がキリシタン信仰に篤い藩であることから、事情に詳しい楠本を浦上事件の調査担当に命じたのである。

その調査があったあとで、なぜ萩藩だけはキリシタンへの迫害に激しさを増していったのか、大いなる謎である。

神経戦のような「いやらしさ」を感じるのは私だけだろうか。

新政府の要人となっていた井上馨、木戸孝允、伊藤博文などの元長州藩士たちが、萩にキリシタン改宗のための信者預かりを受け入れた理由も同じものであろう。

この国でキリスト教が普及するのを好ましく思わない宗教家がいて、それが革命にも深く関与していて、革命成就後に長州藩内で発言力を増していたのであろう。

松陰自身は儒教に基づく尊王の精神が旺盛で、神道を重んじていたが、他の宗派を攻撃するような考え方はしていなかったと思う。

自然と私には、月性と三条実美の顔が浮かんでくるが、あるいは岩倉の上に立つ公家か皇族かも知れない。

公家や皇族の中にも隠れキリシタンはいたであろうから、それらの中の権力闘争と関係があったのかも知れない。

関が原のあと安芸の毛利氏が萩へやってきたとき、萩に居住していた元山口のキリシタンたちと同じくキリシタンであった安芸熊谷氏が結びつこうとした。
結果的に安芸熊谷氏一族は殺害され葬りさられた。

政権内の基盤変化によって複数の特定宗教集団が結合するときに、ある脅威が発生する。

明治維新でもキリスト教集団が結束し膨張する脅威が具体化してきていたのだろうか。
とくに武器を大量に輸入していた長崎では商業を通じてか隠れキリシタンが実力財力を身につけていたことは容易に想像できる。

グラバーもシーボルトも彼らの勢力伸張を応援してくれたはずだ。

それを潰す目的でわざとバテレンを来日させたとすれば、浦上崩れは相当な謀略家の仕業である。
外国の要請による調査のあとで、更に待遇を悪化させるという手段も同じ根に発している。

大化の改新の際に中臣鎌足が暗唱するほど読み込んでいたという『六韜』(りくとう)の世界を思い出させてくれる。

北山さんの明治維新~長州(99) [萩の吉田松陰]

SH3B0399.jpgSH3B0399キリシタン灯篭(墓石?)

北山さんのことはあと述べる。

公園に並ぶ墓石はキリシタン灯篭のようにも見える。
明かり入れの中に像が入っており、三角に腕を組んでいるように見える。

毛利家にキリシタン重臣が確かにいたことがわかった。
毛利藩重臣熊谷豊前守元直の碑がそれを証明してくれた。

大内義隆とバテレンたちとの交流により山口が段々発展する様子を隣の安芸の毛利氏も眺めて知っていたはずだ。
また、領土拡大のためにはポルトガル商人と繋がりを持つ必要性があることも織田信長の権力拡大の要因分析により痛いほど知っていただろう。

毛利氏もザビエルと手を結んでいたことを予想していたが、そのことが確かめられてよかった。

熊谷の名に平安時代の武将を思い出している。
「安芸熊谷氏当主」とはどういう人物だったのだろうか。

Wikipediaは、「熊谷直実の末裔」だという。

『熊谷 元直(くまがい もとなお、弘治元年(1555年) - 慶長10年7月2日(1605年8月16日))は、安土桃山時代から江戸時代の武将。

妻は佐波隆秀の娘。熊谷高直の子で、熊谷信直の嫡孫。男子に直貞、二郎兵衛、猪之介。女子に天野元信妻など数名。初名は元貞。二郎三郎。伊豆守。豊前守。蓮西(法名)、メルキオル(洗礼名)。

主君との対立の末処刑され、その家名を没落させたものの、キリスト教との生前の縁からその死から402年を経て、名誉の回復がなされることとなった。

生涯
安芸の熊谷氏は源平合戦で源氏方で活躍した武将熊谷直実の末裔であり、鎌倉時代初期に安芸に所領(三入高松庄)を得て以来安芸に土着した一族である。

南北朝時代以降は安芸武田氏の家臣となり、その衰退後は安芸において台頭した毛利氏の傘下となった。
元直の祖父の熊谷信直は娘を吉川元春(毛利元就の次子)に嫁がせ、16000石の所領を持つなど毛利氏の縁戚として重用されていた。

元直は父の熊谷高直が1579年に祖父の信直に先立ったため、家督を継承する。
主君の毛利輝元に従い、四国征伐や九州征伐、小田原征伐や文禄の役などに従軍して活躍する。

1600年の関ヶ原の戦いにおいて西軍についた輝元は安芸国をはじめとする所領を減封されることになり、元直も伝来の所領と三入高松城を失い、ともに周防長門に移り、8000石を領した。

これ以前の1587年、黒田孝高の影響を受けてキリシタンとなっていた(洗礼名はメルキオル)。

当初はキリスト教に熱心ではなかったものの、次第に熱心な信者となり、豊臣秀吉の棄教令の後も信仰を守り、毛利領のキリスト教信者の庇護者となった。

主君の毛利輝元にもキリスト教の棄教を命じられたが元直はこれも拒絶する。
元々元直は家中での権勢を背景に独断専行の傾向があったこともあり、輝元の強い不興を買う。

1604年より輝元は、新たな毛利氏の本城を萩城と定め、重臣である元直と益田元祥にその築城を命じた。

その際に益田元祥の家臣が元直の一族の天野元信の配下の者から築城の材料(五郎太石)を盗む事件が勃発する。

その責任をめぐって元直・元信と元祥は対立し、築城作業は遅延する(五郎太石事件)。
輝元は築城作業の遅延が徳川氏の不興を買うことを恐れ、また家中の反主流派となっていた元直と領内のキリスト教勢力を除く好機とも判断し、1605年に萩城の築城の遅延の責を問うという理由で兵を送り、元直は一族の天野元信らと共に粛清された。

この粛清の際に元直の妻や子の二郎兵衛、猪之介も殺害された。
また毛利領内のキリスト教関係者の多くが処刑された。』
(熊谷元直(Wikipedia) より)

熊谷に洗礼を薦めた黒田孝高(くろだ よしたか)とは、黒田如水(くろだ じょすい)のことで、キリシタン大名ドン・シメオン黒田官兵衛のことである。
この人物は秀吉がキリシタンを禁止するとさっさと棄教しているから、ただ南蛮の火薬と鉄砲がほしかったのである。
棄教して仏道出家したあと如水を名乗った。

ここ萩城の石組建築工事に関するいざこざで、熊谷の信者一族が成敗されてしまったのだ。

『領内のキリスト教勢力を除く好機』という下りに、私はひきつけられた。

大内義隆の遺児は、吉見正頼の正室で大石義隆の実姉を頼って毛利が来る前からこの指月館(萩城)に住んでいたのである。
彼らはキリシタンの洗礼を受けていた可能性が高い。

1551年、大内義隆は「大寧寺の変」で自害する。
その末裔たちが萩へ移住し、関が原の戦いの後に毛利氏が萩へ移封されるまでのおよそ半世紀にわたり、この地でキリスト教の信仰を守り、大内家再興を願いながら艱難辛苦に耐えてきていたのだ。

松陰の実家である杉家の門前にあったシュロの木のそばから眼下の指月城を見下ろしながら、私は松陰の生まれた杉家も大内家家臣団の一人だったのだと直感した。

その信仰集団と、キリシタンとなった武将熊谷直実の末裔が歴史の偶然により萩で合流することとなった。

毛利家主流派は、萩領内における権力闘争のために熊谷元直を失脚させる必要に迫られたのであろう。

その目的でキリシタン重臣を殺害した毛利氏家臣団の動機は理解できないでもない。

しかし、革命成就した直後の明治新政府が隠れキリシタンを多数迫害した事件の動機がよく理解できないのである。

吉田松陰はすべての人々の自由を求めて革命に火をつけているからだ。

『吉田松陰の『草莽崛起論』
2010/12/28(火)
(1)「草莽崛起論」とは何か?
草莽 = 在野、民間、草叢の意味。転じて「官に仕えないで民間に在る人」
崛起 = 急に聳え立つ。起ち上がる。
草莽崛起の人 = 在野から奮い立ち、尊皇攘夷の「志」ある人。

(2)安政6年4月7日、佐久間象山の甥「北山安世」宛書簡(在、野山獄)
「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに偲ぶべけんや。那波列翁を起してフレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。徒らに岸獄に座するを得るのみ。・・・今の幕府も諸侯も最早粋人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。」

<大意訳>
(外国通の北山に対して)三千年このかた独立を守り抜き、外国からの支配を受けたためしのない大日本が、ある日突然外国の支配を受ける事を、血気盛んな者は平然と見ていることができようか。ナポレオンが決起したように、独立国の自由を勝ち取らねば胸中の苦悩を解消出来そうもない。

獄中にいる自分には実行できないが、昨年以来、力の限り尽くそうと模索しているが収監中どうしようもない。
国や藩の為政者は酔っ払いのごとくでなす術なしだ。

この難局打開は、幕府や藩の官途に就いている者でなく、在野の「尊皇攘夷」の志を持った人(志士)しか出来ないだろう。(維新の先覚者、吉田松陰のやさしい研究入門)』(「吉田松陰の『草莽崛起論』」より)
http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-77.html

この記事では「独立国の自由」というふうに「自由」を謳歌する対象を国家だけに限定して訳しているが、松陰自身は障害を持つ聾唖の実弟杉敏三郎をも含めて「人民の自由」を意図して書いたのであろう。

「那波列(ナポレオン)翁を起してフレーヘード」とは、『自由を吾に』という「市民の希望」を意味している。

当時の日本語にはなかった「自由」というものを表現するために、オランダ語の「フレーヘード(自由)」を原語のままに用いて書いたものだ。

こういう松陰が天下を取った暁には、隠れキリシタンに拷問を加えるはずがない。

ある意味で思想面で日本にとって危険な松陰である。
松陰は敢えて急ぎ過激派へと仕立て上げられ、急いで死すべく走らされた可能性がある。

松陰が革命前夜に死んだおかげで、ある連中は堂々とキリシタンを迫害できたわけである。

パリ宣教会はその連中に謀られた可能性がある。

つまり、松陰先生の画策した草莽崛起革命が成就したのだからどうぞバテレン(宣教師)さん日本へおいでなさいと誘われ、信じてのこのこやってきた。

200年以上も潜伏して信仰を守ってきた長崎の浦上村全信徒三千八百人が、歓喜してバテレンの前に現れてきたのである。

ザビエル来日(1549年)から数えれば、300年間に渡って育ててきたキリスト教の教えを、一気に根絶させる大きなリスクを負った信仰告白劇だった。

キリシタンと敵対する者からすれば、それは壊滅のための千載一隅のチャンスとなる。

松陰思想の流れからすれば、隠れキリシタンにも自由を与えるための革命であったはずだから、バテレン来日までは素直に認めたのであろう。

しかし、あれよあれよと出てくる無数の隠れキリシタンの存在を知って、誰かがこの国の将来に恐れを感じたのではないか。

そこで気が変わった。

松陰思想とは180度転換した新政府方針をとったのである。

つまり、「自由の拘束」、「宗教選択の強制」である。

草莽崛起の言葉を初めて松陰が伝えた人物は、「外国通の北山に対して」とあるから北山さんである。

『佐久間象山の甥で、松代藩士。
嘉永6年江戸遊学中から松陰と相交わる。

安政2年正月藩の表番医となったが、その後安政4年長崎に蘭学研究のため赴き、帰途同6年4月萩に帰り密かに獄中の松陰を訪ね何事か策謀したが遂に果たせなかった。

文久元年正月長州藩練兵場を設けると招聘されて騎兵書を講じ、また和蘭の兵書を翻訳したことがある。

帰国後発狂して一時座敷牢に入れられ漸く回復し、明治3年8月再び発狂し母を殺し、自らも9月病死する。
』(「北山 安世(~1870)」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-k.htm

北山さんは、長州藩練兵場で騎兵書を教えた人物で、佐久間象山の甥である。

明治元(1868)年萩に送られてきた浦上崩れの第一陣66名は、棄教しないまま死亡したものはわずか1名であり、逃亡した2名を除き全員改心(棄教)している。
まだ被害は軽微だった。

しかし、明治2年に信徒の家族として送られてきた134名は女子供と老人ばかりだったが、彼らが改心しようとしなかった。
餓死寸前の飢え、劣悪な衛生状態、寒空に裸で放置される寒晒し、鉄砲責めなどの拷問、殴る蹴るの暴力に耐え、ほとんどの者が迫害に耐えて、数十名が命を落としている。

萩のキリシタン殉教は明治2年から過酷を極め始めた。

松陰が草莽崛起の覚悟を告げた相手、北山さんは長崎で医学を学んだ松代藩医だった。
長崎のシーボルトや浦上の信者たちとも音信があったことだろう。

めでたく明治新政府が成立したはずの明治3年8月、北山さんは自宅の座敷牢を管理していた実母を殺して発狂し,
翌月病死している。

病死したことにした可能性もある。

パリ宣教会が浦上の隠れキリシタンを発見~長州(98) [萩の吉田松陰]

SH3B0403.jpgSH3B0403毛利藩重臣熊谷豊前守元直の碑
SH3B0402.jpgSH3B0402道路向かいはヨットハーバー

『萩城の石垣築造に際して、五郎太石(石垣の間に詰める石)が盗まれるいう紛争が益田元祥と熊谷元直、天野元信の間で始まり、石垣築造工事が2ヶ月以上も遅延し、毛利輝元は非は熊谷、天野両氏にありとして、一族11人を討ち滅ぼしました。

これを五郎太石事件といい、この事件は熊谷、天野両氏がキリシタン信者であったため、この事件を口実に誅伐されたものといわれています。

宣教師ビリオンによって建てられた熊谷、天野らの殉教碑と、明治初年に萩へお預けになった長崎浦上村のキリシタン信徒が眠る墓が並び、当時の悲惨な状況を今に伝えています。担当: (萩市)観光課』
(「萩キリシタン殉教者記念公園」より)
http://www.city.hagi.lg.jp/portal/bunrui/detail.html?lif_id=10287

ここは浦上キリシタン捕囚屋敷の裏地を買い取って記念公園としたものである。
革命成功したために、鎖国令は解かれた。
そのためにイエズス会の本拠地パリ宣教会から宣教師が日本へ送り込まれ、長崎浦上村に多数の隠れキリシタンが居たことを発見し驚いている。

その後で迫害・拷問が始まったことは何とも皮肉なことである。
パリ宣教会も当時の日本事情に関する情報分析を怠っていたのではないだろうか。

ザビエル書簡やルイス・フロイスの日記を読むと、彼らが日本での重要なリスク情報を欠落させていた可能性はない。

先読みはかなり正確にしていたはずだ。
革命戦争の直後とはいえ、日本国で隠れキリシタンの存在を明らかにすれば、次に何が起きるか知らないはずはない。

あるいは、「そうなること」を読んだ上で、敢えて浦上信徒の存在を暴露し殉教させたのであろうか。

それは明治新政府との外交交渉で相当キリスト教を重んじる外国には有利に働く日本カードとなっていくはずだし、現にそうなっている。

『途中略。

萩キリシタン殉教者記念公園
鎖国が解かれるや否や来日し、禁制下で隠れて信仰を守り続けたキリシタンがいたことを「発見」したパリ宣教会。

日本は開国し、明治政府が立てられたにも関わらず、徳川期から続くキリスト教禁令を解いていませんでした。

そのため長崎で「発見」された信徒たち(多くが浦上村の者たちだった)は、処罰の対象とされ、見ず知らずの土地に流されて、そこで棄教するようにとの説諭と拷問を受けることとなりました。

浦上キリシタンの墓と記念碑
明治政府の要職につき、信徒問題の方針を定めた井上馨、木戸孝允、伊藤博文らを輩出した長州藩には、他藩より多くの信徒たちが預けられることとなりました。

明治元(1868)年に第一陣として萩に送られてきた66名の信徒は、棄教しないまま死亡した1名と逃亡した2名を除き全員改心(棄教)し、当時空き家となっていた清水屋敷に収容されました。

殉教者記念公園
しかし翌年その家族として送られてきた134名は、女子供と老人ばかりであったにも関わらず、餓死寸前の飢え、劣悪な衛生状態、寒空に裸で放置される寒晒し、鉄砲責めなどの拷問、殴る蹴るの暴力に耐え、ほとんどの者が改心しませんでした。

彼らが収容されたのが、岩国屋敷という場所でした。
広い敷地内に建物はありましたが、馬小屋に住まわされたり、光も差さない勘弁小屋に入れ、20~30日もの間食物を全く与えないということが、日常的に行われていました。

浦上キリシタンの碑
明治4(1871)年諸外国からの非難を受け、楠本正隆が実態を調査するため岩国屋敷を訪問しました。
巡察後他の地域では待遇が良くなったのに、ここではより悪くなったと証言されています。

明治5(1872)年帰村が許されると、改心していた者たち26名が早速改心を取り消し、翌年に長崎に帰るまで草鞋を作るなどの内職をしました。

明治6(1873)年、ようやく長崎に向けて出発できるようになりましたが、それまでに43名の命が失われていました。

近辺から集められたキリシタン墓
彼らの忍耐と信仰を記憶の風化に任せてはいけないと考えたパリ宣教会のビリヨン神父は、明治24(1891)年岩国屋敷の裏手にあたるこの土地を買い求め、碑を建てました。

浦上キリシタンの碑の土台には、信徒たちが寒晒しにされた庭の石が積み上げられています。

きれいに管理され、季節の花が彩りを添える公園には、江戸期に殉教した熊谷元直と天野元信の碑、この近辺から集められたキリシタン墓があり、静かな祈りのひと時をもつことができます。』(「萩キリシタン殉教者記念公園」より)
http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/place/yamaguti/hagijunkyousya.html

おやおや、「信徒問題の方針を定めた井上馨、木戸孝允、伊藤博文ら」と元長州藩士の名が出てきた。

松陰の弟子の伊藤博文が浦上崩れを容認していたのだ。

堀内でキリシタンを拷問にかけたということは、毛利重臣たちとその家族に信者がいたからだろう。
そうでなければ、拷問は城下から離れた田畑や河川敷で行われるのが普通である。
会津ではそういうところで斬首されている。

井上馨、木戸孝允、伊藤博文らは土佐でいうところの郷士に相当する。
堀内地区には住めないし通行許可証がなければ夜間は通行さえできない家格の出身である。

腹いせに敢えて長州藩の堀内でキリシタン迫害をやらせたということは考えられないだろうか。

「元郷士による腹いせ」とは狭い了見ではあるが、場所が場所だけになぜ拷問の場所が堀内かという理由が思いつかない。

拷問で悲鳴を発すれば、夜であれば厚狭毛利家屋敷にも聞こえるはずだ。
それが狙いか?

厚狭毛利家といえば、宇部市の領域を差配していた殿様である。
今では宇部興産など臨海工業地帯でさまざなな産業が発達した山口県の主要都市になっている。

井上と伊藤はイギリスに留学していたから、外国でのキリスト教の捕らえ方も十分わかっていたはずだ。
彼らが新政府内部でキリシタン迫害を決定するはずがない。

おそらく彼らの上層部、天皇と岩倉の間に位置する高級公家(5摂家)の間で、キリスト教の扱いについて異論がぶつかったことだろう。

表の歴史資料には岩倉以下の行動しか記録されていないから、すべて岩倉の指図のような扱いになっている。

善からぬことは自分を愛するところから始まる(西郷隆盛)~長州(97) [萩の吉田松陰]

SH3B0392.jpgSH3B0392殉教碑を背後から
SH3B0394.jpgSH3B0394木の根から可憐な花が
SH3B0396.jpgSH3B0396キリシタンの墓標(腕の三角印がある)

ここに20名もの殉教者が葬られているのだ。
殉教碑のひときわ大きな石は、岩国屋敷の庭石であり、拷問の際にキリシタンの膝や胴の上に置いたもののようだ。

こんなものを置かれたら、相撲取りでも内臓破裂する。
真夏の正午過ぎである。

木陰に座って冷えた缶ジュースを飲みながら、迫害されたキリシタンたちの冥福を祈った。
歩き疲れて汗びっしょりになり、上着とシャツを脱いで水道水で洗った。
木陰でそれを干す間、せみの声の中で殉教碑を見上げている。

西郷隆盛は浦上崩れに対して何も行動しなかったのだろうか。

おかしなことに西郷の英雄的な歴史は、江戸無血開城でほぼ消えている。
東北でも同じように会津若松城の無血開城に出かけるはずだった。

松陰の思想によれば、内輪もめしている場合ではなかったはずだ。

急いで全国各地の海防戦備を強化するために、まずは産業振興により富国すべきであることは高杉晋作も悟っていた。

少なくとも将軍慶喜が降参した以上は、日本人同士で殺しあっている暇はなかったはずだ。

西郷の明治元年前後の不可解な行動を見てみよう。

『江戸幕府を滅亡させた西郷は、仙台藩(伊達氏)を盟主として樹立された奥羽越列藩同盟との「東北戦争」に臨んだ。

(慶応4年(1868年))5月上旬、上野の彰義隊の打破と東山軍の白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかに悩み、江戸守備を他藩にまかせて、配下の薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとしたが、大村益次郎の反対にあい、上野攻撃を優先することにした。

5月15日、上野戦争が始まり、正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。
5月末、江戸を出帆。
京都で戦況を報告し、6月9日に藩主・島津忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。
この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した。

北陸道軍の戦況が思わしくないため、西郷の出馬が要請され、7月23日、薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられ、8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。

来て間もない14日、新潟五十嵐戦で負傷した二弟の吉二郎の死亡を聞いた。

藩の差引の立場から北陸道本営(新発田)には赴かなかったが、総督府下参謀の黒田清隆・山縣有朋らは西郷のもとをしばしば訪れた。

新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。

このとき、西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。
この後、庄内を発し、江戸・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治した。

薩摩藩参政時代
明治2年(1869年)2月25日、藩主・島津忠義が自ら日当山温泉まで来て要請したので、26日、鹿児島へ帰り、参政・一代寄合となった。

以来、藩政の改革(藩政と家政を分け、藩庁を知政所、家政所を内務局とし、一門・重臣の特権を止め、藩が任命した地頭(役人)が行政を行うことにした)や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消につとめた。

文久2年(1862年)に沖永良部島遠島・知行没収になって以来、無高であった(役米料だけが与えられていた)が、3月、許されて再び高持ちになった。

5月1日、箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。
途中、東京で出張許可を受け、5月25日、箱館に着いたが、18日に箱館・五稜郭が開城し、戦争はすでに終わっていた(戊辰戦争の終了)。

帰路、東京に寄った際、6月2日の王政復古の功により、賞典禄永世2,000石を下賜された。

このときに残留の命を受けたが、断って、鹿児島へ帰った。
7月、鹿児島郡武村に屋敷地を購入した。
9月26日、正三位に叙せられた。
12月に藩主名で位階返上の案文を書き、このときに隆盛という名を初めて用いた。

明治3年(1870年)1月18日に参政を辞め、相談役になり、7月3日に相談役を辞め、執務役となっていたが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された(辞令交付は8月)。

大政改革と廃藩置県
明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事・毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。

同年7月27日、鹿児島藩士で集議院徴士の横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。

これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した。

12月、危機感を抱いた政府から勅使・岩倉具視、副使・大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。

明治4年(1871年)1月3日、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を持って上京するため鹿児島を出帆した。
8日、西郷・大久保らは木戸を訪問して会談した。

16日、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かった。
17日、西郷一行は土佐に到着し、藩知事・山内豊範、大参事・板垣退助と会談した。

22日、西郷・大久保・木戸・板垣・池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。

東京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。
この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で東郷平八郎に会い、勉強するように励ました。

2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、御親兵に編成する旨の命令が出されたので、西郷は忠義を奉じ、常備隊4大隊約5,000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。

この御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。

このときに西郷は再び正三位に叙せられた。

7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。
これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、朝議を経て、14日、明治天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。

また、この間に新官制の決定や内閣人事も順次行い、7月29日頃には以下のような顔ぶれになった(ただし、外務卿岩倉の右大臣兼任だけは10月中旬にずれ込んだ)。

太政大臣(三条実美)
右大臣兼外務卿(岩倉具視)
参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信)
大蔵卿(大久保利通)

以下略。

この経緯については、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、廃藩置県をいきなり断行するなど言わば騙し討ちに近い形であった。

留守政府

明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞・村田新八もいた)。

西郷らは明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、同5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して近衛兵を置いた。

5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。
鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、陸軍元帥兼参議に任命された。

このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟西郷従道を近衛副都督から解任した。

明治6年5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった。

なお、明治4年(1871年)11月の岩倉使節出発から明治6年(1873年)9月の岩倉帰国までの間に西郷主導留守内閣が施行した主な政策は以下の通りである。

府県の統廃合(3府72県)
陸軍省・海軍省の設置
学制の制定
国立銀行条例公布
太陽暦の採用
徴兵令の布告
キリスト教禁制の高札の撤廃
地租改正条例の布告

明治六年政変
対朝鮮(当時は李氏朝鮮)問題は、明治元年(1868年)に李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことに端を発しているが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。

そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷・板垣退助・副島種臣らは、調査のために、明治5年(1872年)8月15日に池上四郎・武市正幹・彭城中平を清国・ロシア・朝鮮探偵として満洲に派遣し、27日に北村重頼・河村洋与・別府晋介(景長)を花房外務大丞随員(実際は変装しての探偵)として釜山に派遣した。

明治6年(1873年)の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記・森山茂が釜山から帰って、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔・上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は6月12日から7参議により審議された。

議案は当初、板垣が武力による修好条約締結(征韓論)を主張したのに対し、西郷は武力を不可として、自分が旧例の服装で全権大使になる(遣韓大使論)と主張して対立した。

しかし、数度に及ぶ説得で、方法・人選で反対していた板垣と外務卿の副島が8月初めに西郷案に同意した。

西郷派遣については、16日に三条実美の同意を得て、17日の閣議で決定された。
しかし、三条が天皇に報告したとき、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。

以上の時点までは、西郷・板垣・副島らは大使派遣の方向で事態は進行するものと考えていた。

ところが、9月、岩倉が帰国すると、先に外遊から帰国していた木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が表面化してきた。

大久保らが参議に加わった9月14日の閣議では大使派遣問題は議決できず、15日の再議で西郷派遣に決定した。

しかし、これに反対する木戸・大久保・大隈重信・大木喬任らの参議が辞表を提出し、右大臣・岩倉も辞意を表明する事態に至った。

これを憂慮した三条は18日夜、急病になり、岩倉が太政大臣代行になった。
そこで、西郷・板垣・副島・江藤新平らは岩倉邸を訪ねて、閣議決定の上奏裁可を求めたが、岩倉は了承しなかった。

9月23日、西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。

翌24日に天皇が岩倉の意見を入れ、西郷派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。

このとき、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されなかった(岩倉・木戸・大久保らは、これらを許可しないことによって、西郷ら遣韓派をいずれ政府に復帰させる意図があることを示したのであろう)。

翌25日になると、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職した。
この一連の辞職に同調して、征韓論・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。
この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。

このとき、西郷の推挙で兵部大輔・大村益次郎の後任に補されながら、能力不足と自覚して、先に下野していた前原一誠は「宜シク西郷ノ職ヲ復シテ薩長調和ノ実ヲ計ルベシ、然ラザレバ、賢ヲ失フノ議起コラント」という内容の書簡を太政大臣・三条実美に送り、明治政府の前途を憂えた。』(西郷隆盛(Wikipedia)より)

西郷は、岩倉・大久保が海外派遣で留守の間に、「キリスト教禁制の高札の撤廃」を実施していた。

中央では革命政府樹立後にキリスト教の扱いで軋轢が生じていたのであろう。
西郷は「鬼の居ぬ間」に洗濯をしたようにも見える。

西郷が白河へ行けば、おそらく奥羽列藩同盟と和平協議が整ったであろう。
それは会津若松城の無血開城を意味する。

長州藩士の大村益次郎がそれを妨害している。
その慶応4年(1868年)5月に西郷は体調を崩して京都を経て鹿児島へ帰着してしまっている。

よほどのショックが西郷にあったのではないだろうか。

慶応4年とは明治元年である。
ちょうど浦上のキリシタン迫害が始まった年である。

西郷を奥羽征伐に行かせずに結果的に鹿児島へ追い返すことになった大村益次郎は、今靖国神社の鳥居の奥に聳え立つ高い柱の上に立って皇居の方を見つめている。

東北戦争終結に際し、「西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。」という。
ヒューマニズムあふれる処置に庄内藩士たちは後々までも西郷を南州侯と称して尊敬している。

西郷が最初の奥州鎮撫府下参謀に薩摩の黒田清隆を推奨したのは、東北への寛大な処置を想定したものであろう。

それをひっくり返したのも、大村益次郎だったのか。

長州藩は、山口県柳井市にある西本願寺派の寺の僧月性が育てた世良修蔵を品川弥次郎に代えて推奨した。

それは木戸孝允による仕掛けだろう。
予定通り世良は仙台藩士に切り殺されて、奥羽での紛争ネタを提供してくれている。

穏便に革命を成し遂げようとしていた西郷が、明治元年以降のキリシタン迫害を容認していたとは思えない。

キリシタン迫害が始まった明治元年から西郷は体調を崩している。
明治2年12月、西郷が朝廷へ宛て藩主名で「位階返上の案文」を書いたことは、朝廷への相当な当てつけになったのではないか。

明治三年に西郷は生涯2度しか書かなかったという墓碑文を新政府に抗議し自刃した横山安武のために書いている。
それが明治3年のことである。

『横山安武は、森有礼の実兄。
明治初年、久光の第五子忠経の随行員として山口、佐賀に派遣されていたが、独断で帰藩したことが久光の勘気に触れ罷免された。

蟄居謹慎中に明治維新を迎えたが、明治三年(1870)七月二十六日、集議院の門前に意見書を掲げ、退いて津軽藩邸門前で屠腹して果てた。
意見書は十条から成る新政府に対する批判であった。

当時郷里にあった西郷隆盛は横山安武の死を悼み碑文を書いている。
西郷が人のために墓碑文を書いたのは生涯に二度(もう一人は染川實秀)と言われる。

横山の政府批判は、新政府の官員が驕奢に溺れ、私利私欲に走っていることから、巷を賑わせている征韓論の愚にまで及んでいる。

明治三年の段階で西郷は征韓について主唱していないので他人ごとだったかもしれないが、新政府官員の堕落については大いに感ずるところがあったのであろう。 

西郷の「横山安武碑文」は、鹿児島市内の福昌寺に建立されているというが、未だ実見していない。

今度、鹿児島を訪れたら是非立ち寄ってみたいものだ。
なお碑文は岩波文庫「西郷南洲遺訓 山田済斎編」80ページ以降に全文が掲載されている。』

これはまだ読んだことはない本だが、一体「西郷南洲遺訓 山田済斎編」とはいかなる書籍か。

『戊辰の役の後の庄内藩は恐怖のどん底にいた。

敗軍となった庄内藩は勝利者である薩摩藩からどんな仕打ちを受けるかわからない状態であった。
まして、庄内藩は戦争前から薩摩藩の怨みを買っていた。

幕府が急遽組織した新徴組が再三再四薩摩屋敷を襲ったからだ。
その新徴組を動かしていたのが庄内藩であった。

庄内藩の人たちはどんな仕打ちがなされるのかと戦々恐々としていたが、お咎めはほとんどないに等しかった。
それは西郷隆盛の意向であった。

戊辰の役の後、東北の多くの人たちは薩摩・長州藩を恨んだが、意外にも西郷隆盛を悪くいう人は少なかった。
その理由が上にあげた庄内藩に対する寛大な処置にあるのは明らかであろう。

西郷南洲はとてつもなく度量の大きな人であった。
西郷の度量の大きさは何も庄内藩だけに示したものでなく、他にもいろいろな状況・場面で示している。

ただ、その度量の大きさが仇(あだ)になって、賊軍という汚名を着て、鹿児島の城山で果てるのは何とも惜しいことである。

西郷南洲とはどんな人間であったのか。
西郷ほどわかっているようでわからない人もいないのではないか。
西郷は何を考えそしてどこへ向かおうとしていたのか。
西郷の行動原理は未だにわからないことが多い。
そもそも西南戦争とは何のための戦争だったのか。

明治10年の西南戦争後、西郷は当然のごとく陸軍大将という官位は剥奪され、国賊となった。
明治22年に大日本帝国憲法が発布されると、俄かに西郷の名誉挽回の運動が起こり、結局、西郷の名誉は復活し、西郷は上野の山で銅像となった。

西郷の名誉を挽回しようとしたとき、西郷の生前の言行録がまとめられた。

この言行録は、維新になって鹿児島に下野した西郷を訪ねた庄内藩の藩士が西郷から聞いた話が中心になっている。
この言行録が「西郷南洲遺訓」である。』
(「山田済斎「西郷南洲遺訓」を読む」より)
http://meityo.blog44.fc2.com/blog-entry-39.html

西郷がまだ明治新政府に出仕していた頃、西郷のブレインの一人とも言える人物が政府では活躍していた。

西郷辞職を受けて共に辞任した薩摩藩士池上四郎(いけうえしろう)であるが、その当時は西郷の命令で満州を偵察していた。

西郷の城山切腹まで、そばでそれを見届けた。
西郷のガードマン兼諜報エリートである。
西郷の軍略策定のための頭脳に当たる人物だといってもいいだろう。

西南戦争では熊本鎮台に固執せず、一気に東上して新政府を突く戦略を提案したが、桐野らの同意を得られなかった。

もし池上の提案どおりに西郷が東上していれば、戦備不十分な新政府は瓦解していた可能性もあった。

鎮台が長期間篭城している間に、新政府は軍備増強する時間が稼げたのである。

『『西南記伝』には「四郎、天資聡敏にして才幹あり、又韜略(とうりゃく)に通ず、其軍中に在るや、兵士を馭する、甚だ紀律あり、其事を処する、裁決流るるがごとし、故に其声望、或は桐野利秋に亜ぐに至る。西郷隆盛、嘗て四郎を評して曰く『四郎の智慮周密、張子房(張良)の流亜なり』と」という評が残っている。

才幹(才能)に秀で、軍略家であり、事務処理能力もあったので、池上は戊辰戦争・満洲偵察では軍事参謀、西南戦争では軍事参謀・方面司令・後備事務・病院を一人で担当している。

酒豪としても知られ、満洲偵察時には強度の焼酎を飲んで寒を凌いだという。』
(池上四郎(薩摩藩士)(Wikipedia)より)

この薩摩の切れ者は、日本陸軍の将来を担うチャンスを失ってしまった。
薩摩の海軍、長州の陸軍といわれ、昭和初期の陸軍のアジア大陸での暴走は記憶に新しい。

しかし、西郷隆盛は陸軍であった。
もし西郷が生きていたら、もし海防戦略家の松陰が生きていたらと、思わざるを得ない。

そういう新政府の論理破綻の中で、キリシタンへの拷問が続けられていたのである。

西郷がようやく「キリスト教禁制の高札撤廃」の命令を発したのは、明治6年(1873)2月のことだった。

「善からぬことは自分を愛するところから始まる」というのは西郷隆盛の言葉だそうだが、自分の信じる教団を愛するところから善からぬことをはじめた人々が新政府内部に居たことは確かであろう。

そのことについて、歴史的な反省の弁というものは公開されているのだろうか。

こっそり秘匿しているのであれば、それはまた再発するはずだ。

この公園への道のりのわかりにくさが、まだ反省が足りないことを物語っているようだ。

浦上崩れ~長州(96) [萩の吉田松陰]

SH3B0385.jpgSH3B0385「案内板」
SH3B0386.jpgSH3B0386殉教碑
SH3B0387.jpgSH3B0387殉教碑(拡大)

萩キリシタン殉教者記念公園の入口にある案内板より抜粋する。

『キリシタン殉教者と記念碑

明治元年(1868)に続いて明治三年、政府はキリスト教弾圧政策をとり、長崎の浦上村全信徒三千八百人を全国各地に流刑した。

これがいわゆる「浦上崩れ」である。
このうち約300人が萩の地に流された。

信仰篤い彼らを改宗させるために三年間続けられた過酷な拷問と飢えのため、四十余名が英雄的な殉教を遂げた。

そのうち二十名がここに埋葬されていた。

在りし日の迫害、忍苦の跡を偲んで萩カトリック教会初代司祭ビリヨン神父は、明治24年(1891)に、信徒が幽閉されていたこの岩国屋敷跡に、寒天に裸体にされて責められたという庭石を集め、それを基礎として記念碑を造り、「奉教到死之信士於天主之尊前」の碑文を刻んだ。

またここには、慶長十年(1605)に棄教を拒んで殉教した毛利藩重臣熊谷豊前守元直の碑等がある。 萩カトリック教会』

やはり毛利氏家臣にもキリシタンがいた。
毛利氏も火薬と鉄砲は必須だったからだ。

熊谷元直は、安芸熊谷氏の当主で洗礼名をメルキオルと言う。

明治維新革命が成功した明治元年~三年に、なぜこのようなむごいことが萩ほか全国各地で行われたのか。

浦上信者を潰すだけなら長崎でやればいい。

わざわざ信者を全国に分割して、各地で見せしめの拷問をやる動機は何か。

善悪は別として、この国でキリスト教が普及しては困る団体の仕業であろう。

敢えてキリシタンが多く住んでいる藩に送り込み、見せしめにより棄教を促す政策のように見える。

送り込まれた藩には、それぞれキリシタン居住の情報が中央政府(当初は京都)にあったのであろう。

明治元年から3年間もの長い間の過酷な拷問は、政治の世界に影響を及ぼしていたはずだ。

吉田松陰も高杉晋作も久坂玄瑞も、坂本龍馬も、彼らは皆、立派な身分の上士の出ではない。
下士や郷士の出身者たちがやった革命である。

彼らが明治新政府の要人であれば、長い間貧しく虐げられてきたはずのキリシタンに死を与えるほどの拷問を課すはずはない。

しかし、彼らはすべて革命成就前に死亡している。
革命のエンジンにはなったのだが、革命の成果を手にしてはいない。

しかし、生きて革命の成果を一旦手にした同じ種類の日本人がいた。
西郷隆盛である。

明治3年前後の西郷の動きを見れば、当時の政府の素顔が見えるかも知れない。
それはあとで調べることにしよう。

今回萩を訪れようと思ったのは、2009年6月に萩市内にキリシタン殉教地があり、それが村田清風の居宅と近いところだということを知ったからだった。

両者のどこかに接点があるのではないかと思ったのである。

「萩キリシタン殉教記念公園」で検索してみると、その頃書いた拙著ブログ記事が出てきた。
それを抜粋する。

『2009-06-04
清風邸跡と萩キリシタン殉教記念公園の間の距離

地図 清風~萩キリシタン殉教記念公園間(googleマップより)

私が気になっていることは松陰の精神的支柱であった村田清風の居宅跡と、萩のキリシタン殉教者公園が約600メートルしか離れていないことである。

そこで会津を訪ねたときのことを思い出している。
会津の市観光協会発行の市内地図に、キリシタン「殉難の碑」が書かれてあった。
市の西北寄りの郊外にある。

初めて見に行く人はおそらく2~3回は道で迷うだろう。
なぜならば、案内が正確に出ていないからである。
そしてそれは個人住宅の庭先にあって、普段は入りにくい雰囲気がある。

なぜ、会津の観光雑誌などに正確な位置を載せないのだろうかと不思議に思う。
私にとって会津はキリシタンの濃い藩なのである。

理由は、豊臣政権時代に軍事力の勝るキリシタン大名、蒲生氏郷が藩主をしていたからである。

大友宗麟の臼杵といい、藩主大名がキリシタンの場合の城下の布教の盛んなことは当たり前のことである。

会津に数え切れないほどの隠れキリシタンの末裔が江戸時代と言えども住んでいたことは容易に想像できる。

彼らが斬首されたり、磔(はりつけ)の刑に遭った場所が「殉難の地」である。
会津のそれは川幅10mもない小さな小川の岸辺であった。
川辺に連れてこられて斬首されたり火あぶりされたりしたのである。
だからそこに殉難の碑を建立するのである。

つまり、キリシタン信者が日頃暮らしていた場所は殉難の地よりももっと市街に近かったはずである。

郊外に連れてこられて、そこで殺されたのである。
それは人々が人間の死を忌み嫌うからである。

そう考えると、村田清風の邸宅跡とキリシタン信者たちの住む家々はもっと近かったのではないかと思えるのだ。

『「萩キリシタン殉教者記念公園」付近(0.4km四方)の人気の旅行・観光・おでかけスポット』http://odekake.jalan.net/spt_35204af2170019915.html
というおあつらえ向きのサイトがあった。

そこには奇岩,砂浜等の景勝地、「北長門海岸」があった。
つまりポルトガル船やスペイン船が直接海から接近できる位置である。

また藩家老であった周布政之介の旧周布家長屋門もある。
周布も村田清風に近い政治心情であったと記憶している。

村田と反目したのは家老の椋梨藤太であった。
それに、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋がある。


一方、『村田清風別宅跡の旅行・観光:おでかけガイド』を見てみよう。
http://odekake.jalan.net/spt_35204af2170018513.html

今度は『「村田清風別宅跡」付近(0.5km四方)の人気の旅行・観光・おでかけスポット』と紹介されている。

前の紹介が0.4km以内で、今度は0.5km以内の紹介である。

もし0.6km以内の紹介にしてくれれば、両方の紹介にお互いが掲載されるはずである。
「微妙な間合い」をとった観光案内である。

「村田清風別宅跡」付近(0.5km四方)にあるものは、

「久坂玄端誕生地」があり、これには丁寧に「村田清風別宅跡から約0.3km」と解説が付いている。
隣近所にいた青年は、蛤御門の変で御所に向かって大砲や鉄砲をぶっ放したのである。
久坂玄端は、戦況悪化の中で負傷した上に自害して果てている。

また、「高杉晋作誕生地」があって、「村田清風別宅跡から約0.5km」となっている。
ここは旧宅として保存されている。

松下村塾はここからは遠く外れた郊外にあるが、松陰の直弟子で比較的身分の高い藩士たちは村田清風とキリシタン殉難の地に極めて近いところで生活していたことになろう。』(抜粋終わり)

この頃、私は時代の前後について考慮していなかった。
ここにある案内板を見ると、キリシタン殉難は明治になってからの3年間であり、村田清風は江戸時代の天保の改革を行った藩士である。

もし、萩市内に住んでいたキリシタンが明治になって拷問を受けたのであれば、村田清風との因縁を追いかけることも意味があるが、浦上崩れによって300名が萩藩に預けられたのだとすれば、それは長崎から移送されてきたキリシタンだということになる。

萩にいたキリシタンが、浦上天主堂の信者たちと連絡を取っていて、その人物が300人の中に含まれていたのかどうか、そこまではまだわかっていない。

案内図にある距離のことにこだわって書いていたが、実際に歩いてみるとあまり問題になる距離ではない。

近いといえば近いし、結構遠いともいえる。

それよりも、堀内という高貴な身分の人々が暮らす町内で敢えて拷問を続けさせた意図の方が興味深い。

萩では、堀内に住む大名クラスの重臣こそキリシタン信仰は盛んだったのではないだろうか。

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