久坂を松陰の元へ行かせた僧月性~長州(75) [萩の吉田松陰]

SH3B0286.jpgSH3B0286小川を渡って南の路地を西へ歩く
SH3B0287.jpgSH3B0287佐久間佐兵衛(別名 赤川直次郎)
SH3B0292.jpgSH3B0292立派な屋敷
SH3B0293.jpgSH3B02934「日本民政科学研究萩事務所会ハウザー食品普及会 萩支部」

高杉晋作や木戸孝允の住む街区を出て南下する。
小川を渡って、別の路地へ右折する。
ここは特別な旧宅保存地区ではないようで、新しい現代の家屋とふるい家屋が混ざって並んでいる。

「佐久間佐兵衛」と書いて人物の説明をしている案内板がある住宅の前に立っている。
別名 赤川直次郎という人物である。

その住宅は現代風のものだから、その敷地に以前あった古い家屋で佐久間が生まれたという意味だろう。

長州の赤川淡水(おうみ)こと、佐久間佐兵衛は、水戸学の会沢正志斉に門人の礼を取っている。

『通称直二郎、別名義済、号は思斎、佐久間を継いで佐兵衛と改める。天保4年萩に生まれる。
中村道太郎の弟で、幼くして父を亡くし、伯父赤川又兵衛に養われる。

初め徳山の黒髪相模の塾に入り、また周防右田の太田梁平に学び、継いで藩校明倫館、嘉永2年9月松陰の兵学門下となる。

安政2年水戸に遊学し会沢正志斎に3年間師事し、帰藩して安政5年8月明倫館舎長、次いで助教となった。』
(「赤川淡水(佐久間佐兵衛)(1833~1864)」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-a.htm

赤川淡水と久坂には因縁がある。

『安政元年 1854(久坂玄瑞)15歳 2月27日
兄玄機、死去。
それにより、父良迪の嫡子となる。

3月4日 父良迪、死去。
6月9日 家督を相続、知行高二十五石。
6月晦日 名を玄瑞と改める。

この年、兄玄機の盟友中村道太郎の指導を受け、更に僧月性に就き書読を学ぶ。
月性より吉田松陰、口羽憂庵に就学する事を勧められる。

この年以前、幼時に吉松塾(吉松淳蔵の私塾。高杉晋作もここで学んでいた)に学び、後に藩校明倫館に入り、その後医師の養成機関である好生館の寮生となる。以下略。』
(「久坂玄瑞 年譜」より)
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/nenpu01.htm

15歳のときに兄と父を亡くし、久坂家の家督を継いでいるが、その年に中村道太郎の指導を受け、その流れであろうか僧月性からも学んでいる。

松陰の下へ弟子入りせよと久坂に勧めたのは月性であった。
そして中村道太郎とは、赤川淡水の兄である。

旅立つ赤川淡水を水戸へ見送るとき、松陰は漢詩を贈っている。

『吉田松陰先生『赤川淡水(思齋佐久間義濟)の、常陸に遊學するを送るの序』に曰く、

「古昔盛時の學を爲すや、上は治教經藝の大より、下は歌章音樂の小に至るまで、師承する所ろ有らざるは莫し。
是を以て能く其の舊を存し、其の故を守りて、失はざる也。
鎌倉・室町を歴て、逆亂、相ひ尋ぎ、名教□[三水+斯。し]
盡し、授受の義、徒らに之を曲學小數に寓すれども、而も亦た未だ嘗て失墜せざる也。
徳川氏興りて、師道、稍(や)や盛んに、學術、日に闢け、英才、輩出す。
而るに近日、讀書稽古の士、先輩を輕んじ、師儒を慢ること、天下、皆な是なり。
而して吾が藩、特に甚し。
是にして止まずんば、吾は恐る、師道、地を掃ひ、名教、由つて存する無からんことを。是れ固より宏才篤學の士の、起つて之を振ふに待つ有る也。

 吾が友、赤川淡水は、齒ひ富み才足り、志高く氣旺んなり。蓋し後進の袖領也。
傾(このご)ろ將に東のかた常陸に遊び、師を求めて之に從はんとす。
夫れ常陸の學は、天下の推す所にして、其の老輩碩師は、皆な師承する所あり。
今また淡水、遠く往きて之に從ふは、固より以て其の學の蘊を盡さんと欲すれば也。
嗚呼、淡水、師道を慢ること勿れ、私見を立つること勿れ。
取捨去就、唯だ先生に是れ聽かば、則ち古道、及び難からざる也。
吾れ小少より好みて書を讀み文を作ると雖も、未だ師承する所あらずして、自ら焉れを疑ふ。
淡水、往きて、師を得て之に事ふれば、亦た幸ひに斯の言を以て之を質せ」と。』
(「先哲遺文に學ぶ。」より)
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/1-14

赤川淡水、つまり佐久間佐兵衛の旧宅地を通り過ぎて、しばらく行くと立派な屋敷の前を通る。

高齢のご婦人が外庭から勝手口へと入っていったので、今でも居住されている屋敷である。

門に「日本民政科学研究萩事務所会 ハウザー食品普及会 萩支部」と大書してある。

ハウザーとはドイツ系アメリカ人、ベンジャミン・ゲイロード・ハウザー(Bengamin Gayelord Hauser)のことである。

『ゲイロード・ハウザー博士は、ドイツのチュービンゲン出身の栄養学者で、世界各国で健康食のパイオニアとして称揚されている権威者です。

ゲイロード・ハウザー博士は、16歳でアメリカに渡りましたが、当時不治の病とされていた結核性の腰痛を患い生家に戻り、医者に見放される程だったのですが、食事療法によって病状を改善させ、これをきっかけに健康法に興味を持つようになります。

ゲイロード・ハウザー博士は、自然療法であるナチュロパシーと脊椎指圧療法の一種であるナプラパシーにより病気を克服させ、自らもシカゴでナプラパシーを学び同地で治療院を開業しました。

その後、独自の健康法を開発し、健康食品会社の経営で身を立て、ハリウッド映画俳優の支持を受け、著作、講演、ラジオ、テレヴィ番組の出演し、伝説的なハリウッド女優であるグレタ・ガルボとも親交がありました。

ゲイロード・ハウザー博士の著書『若く見え長生きするには』は、ハリウッドの映画スターや王室・貴族などの上流階級の人にも読まれた本で、全米を席巻し、世界37ヵ国語に翻訳される大ベストセラーとなりました。

その内容は、美容、健康、食事、入浴、睡眠に渡りますが中でも、
①醸造酵母
②脱脂粉乳
③ヨーグルト
④小麦胚芽
⑤粗製糖蜜
を「五種の不老食品」と名付け、これらの食品と野菜ジュースを主とする健康食は、わが国では「ハウザー食」と言われ、東京の日本橋や新宿にはハウザー道場が、銀座にはハウザー料理を出すレストランが出現し、勤め帰りのサラリーマンの関心の的になりました。』
(「ハウザー式とは」より)
http://fasting.lolita.la/hauser.html

『「世界的ハウザー健康法」とは、バランスのとれた食事をして、正しい神を信仰しろという物だそうだ。
すでに病気の人は、整体や鍼や、身体に電気を流して治療せよ、とある。
中略。

ハウザーヨーグルト粉末
ハウザー青汁の元粉末
ハウザー小麦ハイガ粉末
ハウザー天然醸造酵母粉末

などがある。
なんで全部、粉末なのかとも思うが、面白いのはこの時代にもう「青汁」という言葉が登場していることである。
この雑誌は昭和49年発売である。
こんなころから、青汁という概念は存在していたのである。以下略。』
(「おいしいハウザー食」より)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~moli/Hauzaa.html

なぜ青汁を萩で販売しているのだろうか。

ドイツ系アメリカ人の名を冠にした食品会社と江戸時代の旧宅の組合せは不思議な雰囲気を持つ。

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