育て主、村田清風~長州(127) [萩の吉田松陰]

SH3B0495.jpgSH3B0495境内西横に歴史館?
SH3B0500.jpgSH3B0500蝋人形が語る「村田清風(右手)と松陰(背中)」

萩・松陰神社境内を出て帰途に着くことにしよう。
そう思って境内を歩いて鳥居の下をくぐった。

夏の西日が暑いのでついソフトクリームの模型に目がいった。
そのままソフトクリームを買ってよろよろとベンチに座り、木陰で冷たいクリームを堪能した。

顔をソフトクリームから上げて自分の正面を見ると、境内の西の方に館がある。
歴史博物館のようでもある。

立ち上がって自然にそちらへ入っていった。

入館料を500~600円くらい支払ったようである。
入ってみると、なんと松陰の歴史を蝋人形で表現した館だった。

「蝋人形かあ」と落胆しつつ、逆流して出るわけにも行かないので、ざっと見て巡った。

地元の古老に松陰生存時の話を聞いたりして、地元の皆さんが語りつないできたものを小学生にもわかりやすく人形で教えたものである。

明治維新革命直後であったならば、まだ文盲の人も多かったはずだ。
蝋人形の果たした役割は大きかったであろう。

テレビが普及し、インターネットが発達した現代では、訪問する一般者は少ないように見受けられた。

修学旅行や団体旅行者が目当ての興行ということであろう。

ところが最後のこの見学が、思いがけずに私に大きな勇気を与えてくれることになった。

私は、萩のキリシタン殉教地と村田清風の居宅(別宅)の距離が近いこと、ひょっとして村田清風と松陰に隠れキリシタンを介して接点があったのではないかという推理を立てて、今回の萩訪問を企画した。

松陰とキリシタンの関係はわからないままであった。
ただ萩を追われたキリシタンたちは、松陰神社西側の道を通って山の中へ入っていったのは確かである。

松陰の母お滝の父村田右中(うちゅう)にはそれらしき雰囲気が漂っていた。
右中(うちゅう)は、毛利志摩守、支藩徳山藩主の家臣である。
萩毛利本藩から見れば陪臣である。

今回の萩訪問は「村田清風と松陰の接点探しの旅」でもあった。

それを探せないまま、これから帰京しようとしていた。

ところが幼い頃の松陰の蝋人形を見て歩いていると、藩主に向かって講義している幼い松陰の両側に藩士2名が座っており、その傍の名札に村田清風の名があったのだ。

藩主に11歳の兵学者松陰を師として立ち会わせた仕掛け人はこの二人である。
村田清風と、もう一人は甥の山田亦介だったと記憶している。

あまりの感激で、もう一人の武士の名前を記憶しないまま出てきてしまった。
それほど私にとってはこの蝋人形は嬉しい情報だったのである。

地元の人々の言い伝えを元に、正確を期して製作しただろう蝋人形である。

内部は暗いため、携帯カメラは長時間露光となり、ピントボケして写ってしまった。
よって、付き添いの藩士の傍に名札が立ててあるのだが、それも判読できなかった。

現地の蝋人形館に入って直接確かめていただくほかない。

私の記憶では、松陰の傍に臨席した藩士は、藩主に向かって右手が村田清風で、左手が山田亦介だった。

両者は伯父、甥の関係である。

村田清風が松陰を兵学者として育てたということがこの光景からよくわかる。
実際に後見人として手を下したのは、山田宇右衛門のようであるが、大きな仕掛けは村田清風が創ったのであろう。

吉田松陰(1830~1859)が吉田家に養子に行ってからの教育環境を見てみよう。
藩主慶親の前で「武教全書戦法篇」を講じたのは松陰11歳のときだった。
1783年生まれの村田清風はそのとき58歳になる。

年齢的にみて、両者が互いに同席できたぎりぎりの接点だったようだ。

村田清風は1855年(安政2年)に、持病の中風が再発して73歳で死去しているが、あの村田清風別宅内で寝起きしつつ、脱藩事件や米国密航未遂事件のことなどを頼もしく聞いていたことだろう。

そういう松陰となるべく、村田清風は松陰を引き立ててきたのである。

『中略。
五歳のとき、藩の兵学師範吉田家の仮養子となる。
翌年、養父・吉田大助が亡くなり、六歳で吉田家の八代当主となる。
大次郎と改名。 後には寅次郎、松陰を名乗る。

父と叔父玉木文之進から厳しい教育を受け、天保十(1840)年、藩校「明倫館」で山鹿流兵学を講義し、林雅人(大助の高弟)らが後見人となる。

同十一年、藩主慶親の前で「武教全書戦法篇」を講じ、慶親を驚嘆させる。

少年時代の松陰に感化を与えた人物に、家学の後見人である山田宇右衛門と、山田亦助がいる。

宇右衛門は、他流を学び海外の知識に通ずる必要性を説き、世界地図を収録した「坤輿図識」(こんよずしき)を松陰に贈って、欧米列強の存在を教えた。

また、長沼流兵学者、山田亦助を松陰に紹介した。
松陰は十六歳で亦助の門に入り、翌年に免許を受けて家伝の長沼流兵要録を贈られた。

この頃から海外の情報を得ることに熱心で、アヘン戦争についての情報を得て、強い衝撃を受ける。

十九歳で明倫館の兵学教授となる。
嘉永二年(1849)、藩の海岸線を視察し、海岸防備の必要性を実感する。

その後、九州を旅し、江戸に遊学、熊本藩士・宮部鼎蔵らとともに東北にも旅行して様々な人々と逢い見聞を広めた。

しかし手続き上の不備から亡命の罪に問われ、士籍、世禄を剥奪されてしまう。
その後、藩主より十年間の諸国遊学の許可を受け、再び江戸に向う。

安政元(1854)年、ペリー再来航時に密航を企てた罪で入獄、その後萩へ護送され、野山獄に入獄。

同二年、実家の杉家預りとなり、同四年に松下村塾を主宰。
その間、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山田顕義、山縣有朋ら約八十人の人材を育成した。

安政五(1858)年、幕府による通商条約調印を批判して、老中間部詮勝の暗殺を企てたことから、藩政府は松陰を再び野山獄に収容する。

安政六(1859)年四月、幕府より松陰の江戸護送の命が下る。
「安政の大獄」で勤皇派への弾圧が続くなか、同年10月27日、死罪となり斬首された。』(「人物紹介 長州藩」より)
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/choshu1.html

萩で松陰の思想形成に影響を及ぼしたのは、吉田家家学(山鹿流兵学)の後見人である山田宇右衛門と、長沼流兵学者の山田亦助だった。

大抵の記事にはそう書いてあるが、村田清風が藩主に面会させたことはほとんど出てこない。

地元萩では蝋人形で周知のことなのに、である。

この長州藩の兵学者両名は、文久元年に下関に着いた英国軍艦に乗り込み誰かと何事かを話し合っている。

『天保5年(1834年)、父の弟である吉田大助の仮養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった。

天保6年(1835年)、大助の死とともに吉田家を嗣ぐ。
天保11年(1840年)、藩主・毛利慶親の御前で『武教全書』戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。

天保13年(1842年)、叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける。

弘化2年(1845年)、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。

九州の平戸へ遊学した後に藩主の参勤交代に従い江戸へ出て、佐久間象山らに学ぶ。

嘉永4年(1851年)、東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。

嘉永5年(1852年)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる。

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、金子重輔と長崎に寄港していたロシア帝国の軍艦に乗り込もうとするが、失敗。

安政元年(1854年)、再航したペリー艦隊に金子と二人で赴き、密航を訴えるが拒否される。
事が敗れた後、そのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。

安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。
その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、幕末維新の指導者となる人材を多く育てる。

安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄される。

安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致される。老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。』
(吉田松陰(Wikipedia)より)

山田亦介は村田清風の甥である。

ここに村田清風と松陰の間に、意外と太い関係線があることが見えてきた。

また、山田宇右衛門は世界地図を収録した「坤輿図識」(こんよずしき)を松陰に贈り、欧米列強の存在を教えたという。

後、文久3年に、山田宇右衛門は隠れキリシタン村の行政担当者として奥阿武山中に赴任することになる。

山田宇右衛門がその地区のコントロールを得意としていた理由は、おそらく宣教師や信者からもたらされる西洋情報にもかなり通じていたからであろう。

松陰は寅年生まれ~長州(126) [萩の吉田松陰]

SH3B0493.jpgSH3B0493松下村塾座敷の写真(鉢巻姿の久坂玄瑞ほか)
SH3B0494.jpgSH3B0494今年(2010年)は松陰寅次郎の「寅年」だった

松下村塾座敷に明治の偉勲たちの写真が飾ってあった。

私は鉢巻姿の久坂玄瑞の姿がこの塾生に一番にあっていると思った。

少年団が鉢巻姿で死を覚悟して革命の火蓋を切る。

ここは、そのためのボーイスカウト道場だった。

実は世田谷松陰神社鳥居の左手奥にボーイスカウトのトーテムポールが立っている。
そのことは、ほとんどの人は知らないだろう。

尤も師匠の松陰が追及した思想はもっと深いものがあった。
おそらく松陰の最終断面での思想は、天皇制度さえも否定する完全民主化路線だったであろう。

井伊直弼と幕府寄りの朝廷方はそれを聞き、震え上がったのであろう。

残酷ではあるが、萩松陰神社を去るにあたり、松陰斬首の姿に迫っておきたい。

私がかつてやったように、松陰刑死の足跡を東京・江戸で追う人の記事が二つあったので紹介する。

『松蔭が世田谷区若林に埋葬された経緯について

安政の大獄に連座し1859年(安政6年)10月27日に伝馬町の獄牢で処刑された吉田松陰の遺体は、最初は小塚原回向院に埋葬された。

その後、毛利家が所有していた東京都世田谷区若林お抱え地(現在、世田谷区若林4丁目)に改葬された。
この改葬地が現在、東京にある松陰神社となっている。

当時、刑死者の扱いは極めて粗雑で、松蔭の遺体は四斗桶に入れ、回向院のわら小屋に置かれていた。

役人が桶を取り出し、蓋を開けると、首の顔色はまだ生きてるようにも見えたが、髪は乱れ顔面を覆い、血がべったりとこびりつき、胴体は裸のままだったという。』
松蔭先生は寅年生まれ(立志尚特異・俗流與議難)
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col15236.htm

「胴体は裸のままだったという。」と表記している伝聞記事の出典はよくわからない。


『松陰 最初の墓
松陰処刑の報を知った在江戸の門下生達は、何とか師の遺骸を取り戻すべく百方手を尽くしたが上手く行かず、遂に正々堂々と獄吏に面会を求め熱心に引き渡しを請うた結果、その熱意と至誠に動かされた獄吏は「獄中死骸の処分に苦しむ」として小塚原回向院での交付を約し、桂小五郎、伊藤博文らが受取りに行き、四斗桶の遺体を見てあまりの処刑の凄まじさに驚いた。

首は落ち、身は一寸の衣も纏っていなく、首を繋ごうとしたが後日の検視を恐れた獄吏に止められ、各自が脱いだ衣服で遺体を包み、橋本左内の墓の左に葬り、巨石で覆った。

その後遺体は、高杉晋作らによって世田谷若林に改葬されたが、墓碑は今も回向院に現存している。

遺骸の改葬
門下生の晋作や久坂玄瑞らは、小塚原は火付けや強盗、殺人犯の遺骸の埋葬地で、このような連中とわが師を一緒にするなと他所への移葬を願い出たがこれがうまく行かず、後の大赦令の布告により現在の世田谷区若林の毛利家お抱え地に埋葬することが出来た。

この地の風景が松下村塾のあった松本村に似ており、この地が選ばれたようである。
明治に入り、この地に松陰神社が建てられたのはご存知の通りである。』
(「東京の中の防長・見てある記 2」より)
http://homepage3.nifty.com/ne/kk/kk-kaiho/kk-1999/1999-14/p-05.html


斬首直後に幕府の目に隠れて、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文らが遺体に面会していることは始めてこの記事で知った。

これにも胴体が全裸であることがかかれている。

見るに忍びず、彼らは着ていた着物を脱いで遺体に着せたようだ。

首を縫うことも許されずに、回向院を立ち去っている。

将軍が日光へ行くときに通る御成街道を南へくだりつつ、木戸も伊藤も泣いたことであろう。

しかし、このとき晋作らはその場にいたのだろうか。

松門の三秀(晋作、久坂、吉田稔麿)のいずれか一人でもこの場にいたならば、幕吏の命令とは言え、首と胴体を縫い合わせずにこの場を立ち退けただろうか。

松陰の弟子といえども、伊藤博文は松門の三秀と大きな温度差を持っているようだ。

木戸孝允は松陰の弟子ではない。
木戸孝允は、明倫館教授でもあった松陰が、明倫館で兵学を教えた学生の中の一人に過ぎない。


平戸行きを勧めた人物~長州(125) [萩の吉田松陰]

SH3B0489.jpgSH3B0489松下村塾(松陰神社境内)
SH3B0490.jpgSH3B0490講義室
SH3B0491.jpgSH3B0491庭から講義室を見る

萩の松陰神社境内にある松下村塾の講義室の前に来ている。

庭の方から講義室を眺めていると、松陰が本を読む声が聞こえ、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿らがそれを復唱する姿が見えてくるようだ。

東京・世田谷の松陰神社横の墓所で松陰の墓に参った。

葉が真っ赤に色づいた11月のことだった。
楓の木の下の埋められている長州人の青年松陰の死の理由について考えようと思った。

静かに落ち着いた田舎町の萩で生まれ育った青年が、なぜ江戸で罪人として斬首されるまでに至ったのか。

山口県で20年間ほど暮らしたことのある私には、とうてい想像がつかない異常事件である。

誰が松陰青年をそういう過激志士へと教育したのか、それが大問題である。

平戸は、松陰が藩外へ出た最初の旅の行き先だった。
その藩は新生日本の天皇の誕生に関係していたことは先の記事で述べた。

藩主松浦清(静山)のひ孫が明治天皇だった。
私の推理では、静山の孫忠光と天皇を入れ替えており、入れ替えられた方の天皇は忠光になりすまして攘夷の第1声を発するため長州下関へやってきていた。

その間に滞在中の長府藩から惨殺された。
忠光が長府藩士に暗殺されたのは事実であるが、身代わりだったかどうかは議論の余地があるだろう。

若き松陰が、修行のために平戸へいくのを大げさに誉めて薦めた兵学者が萩にいた。

彼は幼い頃の松陰の後見人で、周防国熊毛郡上関(かみのせき)の生まれである。

私は司馬遼太郎著「世に棲む日日」でそのくだりを読んだが、その部分を抽出している記事があったので、抜粋する。

『松陰は平戸に留学する。生まれて初めて長州藩の外に出た。

この山田宇右衛門が、
「遊歴のこと、容易なことではおゆるしがおりまい。いったい、どこへゆくつもりか」と、松陰にきいた。

「肥前(長崎県)平戸へまいりたいとおもいますが」

松陰がいうと、宇右衛門はひざをうって声をあげ、
「こいつはぐうぜん、一致した。わしも平戸がよいとおもった。平戸へゆけ。ゆけば、おぬしの学問がひと皮むけるはずだ。」
と、ひどく昂奮した。

山田宇右衛門が「平戸、平戸」と、しきりにいう肥前平戸とは、わずか六万一千石の小藩にすぎない。

そのおもな藩域である平戸島は、まわりが一六〇キロ、山がほとんどで海岸に断崖がせまり、人口は三万に足りない。

しかしこの藩(松浦家)はむかしから学問のさかんなことで有名であり、多くの人材を出したが、いま松陰が考えつづけている平戸ゆきの目的は、かれの専門である山鹿流兵学の研究のためであった。
中略、

話をはやく他へ転じたいとおもいながら、この稿における松陰はまだ九州に、とくに平戸に居つづけている。

このこと、どうも筆者にとってやむをえない。
なぜならば松陰にとって最初の外界への旅立ちである九州旅行は、この青年の生涯のものの考え方の一部をきめてしまったようにおもえるからである。

このうつくしい城のある平戸島は、島そのものが書物の宝庫のように松陰にはおもえた。さまざまの書物を借りだしては読み、あるいは全部写したり、一部だけ写しとったりした。』
(「世に棲む日日(その3)平戸編」より)
http://homepage3.nifty.com/torabane/meisaku27.htm

『この青年の生涯のものの考え方の一部をきめてしまったようにおもえる』と司馬氏はほのめかしているが、司馬氏はもっと確かな証拠をつかんでいたのではないだろうか。

彼は京都で寺社に関する新聞記者をしていたから、宗教関係については造詣が深かった。

おそらくそれを知っていても言えなかったのであろう。

私は、山鹿素行の末裔、山鹿万介が家老をする平戸藩滞在中に、青年松陰は別人となるべく訓練か修行がほどこされたものと推理している。

ひょっとすると、それは「宗教的な洗礼のような儀式」だったかも知れない。

後の松陰の江戸における悲惨な死は、平戸訪問によって決定付けられたと言ってもよい。

それに比べると、司馬遼太郎氏の言い方は慎重である。

松陰を斬首刑に追い込んでいくことで、三条実美や月性が育てた草莽たちをまんまと崛起させた。

そういう「闇の力」がこの国に存在すると仮定しよう。

その組織はこの国の出版界をも牛耳っている可能性が高い。
とくに革命成就した明治以降の活版印刷事業には深くかかわっているだろう。

世界で最初に活版印刷を事業活用したのは、確か「聖書」ではなかっただろうか。

司馬さんには、作家の生活がかかっている。
だから司馬氏も慎重な表現にならざるを得なかったのだろう。

さて、この小説では長州藩の山田宇右衛門が松陰の平戸行きの願いを吟味し、承認した人物として登場してきた。

山田宇右衛門は、幼い頃の松陰の後見人であった。

松陰に平戸へ言ってみたいと言わせることなど造作もないことだろう。
言わせて、誉めて、旅立たせている。

山田宇右衛門は、革命直前に55歳で世を去っている。

『名は頼毅、号を治心気斎(じしんきさい)または星山という。
長州藩士、禄100石。
文化10年(1813)熊毛郡上関(山口県)に生まれる。
藩士増野茂左衛門の三男。
 
文化14年、山田家を継ぐ。
吉田大助門下の高弟で松陰幼少時代の後見人、また山鹿流の代理教授も行う。

松陰の教育には最も力を尽くし将来の方向を与える。
松陰はその人物に敬服し、終生先生として崇める。
 
安政元年(1854)2月浦賀戌衛総奉行の手元役、2年3月長崎薩摩に出かける。
後徳地の代官。

文久元年(1861)5月英国軍艦が馬関(下関)に碇泊すると山田亦介(またすけ)と出張する。

文久2年8月学習院用掛として上京、勤皇のことに働き、帰国して参政する。
文久3年奥阿武の代官、慶応元年1月表番頭格に進み兵学校教授、2月には参政し教授を兼務。当時恭順派(きょうじゅんは)が失政し、その後をうけて藩政を改革し、兵備を拡張し幕府との戦いに備える。
 
慶応2年四境戦争に勝利したのは彼の功績は大きい。
5月撫育方(ぶいくがた)用掛を兼務。慶応3年6月民政方改正掛となり、11月11日亡くなる。享年55歳。明治31年正四位を贈られる。』
(「山田宇右衛門」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-y.htm

文久元年(1861)5月、英国軍艦が馬関(下関)に碇泊するとこれを訪ねていると紹介されている。

攘夷を叫んでいた長州人が、なぜ英国軍艦を訪問したのであろうか。
その3年後には、山田宇右衛門は奥阿武の代官をしている。

松陰の後見人で山鹿流兵学の代理教授たる人物が、この風雲急を告げる文久3年に山奥のキリシタン遺跡のある奥阿武の代官となって静かにしている意味は何なのか。

それは文久元年にあった英国人との話と、どう関連しているのか。

兵学専門家だった山田宇右衛門がキリシタン村のある奥阿武の代官をしていた文久3年とは、長州藩にとって藩滅亡の寸前にまで行った大変な年である。

山の中の村民の生活指導どころの事態ではない。

山田はあえて長州藩自体、それも長州の古い体質を対英国戦争で破壊しようとしていたのではあるまいか。

兵学者が戦略も持たずに戦争を眺めたりはしないはずだ。
ある戦略をもって、山中の行政担当として戦争中に引きこもったと私には読める。

明治天皇の叔父の中山忠光が狐一疋(ひき)を光明寺へ持参し、その1ヵ月後に下関戦争は火蓋を切った。

砲撃開始の合図は、松陰の一番弟子の久坂玄瑞の仕事であった。

次の記事の中に、米国南北戦争の終結間際にアジア方面へと逃げていった南軍の軍艦を追って日本へやってきた北軍の軍艦のことが出ている。
彼らもやはり久坂らの砲撃を受けている点に注目すべきである。

アメリカ南北戦争の勝敗があらかた決まり、やがて世界中の武器が余るという時代が文久3年であった。

既に述べたことだが、黒人奴隷だけで編成した北軍側部隊が白人だけの南軍正規部隊を負かしたことがきっかけで、戦争の勝敗が分かれた。


銃による近代武装によれば、農民兵中心であっても幕府の正規軍を負かすことができると言う知恵は、形を変えて世界中に伝わったはずである。

晋作も上海や長崎の米国人宣教師フルベッキから聞かされていたはずだ。
それが奇兵隊へとつながってくる。

明治維新とアメリカ南北戦争の関係を分けて考える限り、松陰の死の謎は解けない。

この攘夷戦争のあとで、世界中に余った大量の武器が「まるで長州藩が江戸幕府に勝利するかように」大量に届けられるのである。

『1863年(文久三年)5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えた。
中略。

長州藩の攘夷決行
攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である下関海峡に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。

攘夷期日の5月10日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ベンプローク号(Pembroke)を発見。

総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。

海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったベンプローク号は周防灘へ逃走した。

初めて外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。


フランスの通報艦キャンシャン号の被害23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号(Kien-Chang)が長府沖に停泊しているのを発見。

長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。

キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず(ベンプローク号が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水兵4人が死亡した。

キャンシャン号は急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、癸亥丸がこれを追うが振り切られ、キャンシャン号は損傷しつつも翌日長崎に到着した。

26日、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号(Medusa)が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。

キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代からの長い友好関係があり、攻撃はされまいと判断していた。

だが、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となった。
メデューサ号は1時間ほど交戦したが死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。

米仏軍艦による報復
この時期のアメリカは南北戦争の最中で、軍艦ワイオミング号(砲6門)は南軍の襲撃艦アラバマ号の追跡のためにアジアに派遣されていたが、アメリカ公使ロバート・プルインの要請を受けて横浜に入港していた。

アメリカ商船ベンプローク号が攻撃を受けたことを知らされたデービット・マックドガール艦長はただちに報復攻撃を決意して横浜を出港した。


米艦ワイオミング号の下関攻撃
6月1日、ワイオミング号は下関海峡に入った。
不意を打たれた先の船と異なり、ワイオミング号は砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見し、壬戌丸に狙いを定めて砲撃を加えた。

壬戊丸は逃走するが遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈する。

庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、ワイオミング号はこれを返り討ちにし庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。

ワイオミング号は報復の戦果をあげたとして海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。

もともと貧弱だった長州海軍はこれで壊滅状態になり、ワイオミング号の砲撃で砲台も甚大な被害を受けた。


フランス艦隊による報復攻撃6月5日、フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号(砲36門)とタンクレード号(砲6門)が報復攻撃のため海峡に入った。

セミラミス号は砲36門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。

長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。
長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。

米仏艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。

このため、長州藩は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決める。
これにより高杉晋作が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成した。
また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの諸隊も結成された。

長州藩は砲台を増強し強硬な姿勢を崩さなかった。」(下関戦争(Wikipedia)より)


「藩兵ほか1000名、帆走軍艦2隻、蒸気軍艦2隻配備して海峡封鎖の態勢」を取っている文久3年に、松陰の後見人で山鹿流兵学代理教授たる人物が隠れキリシタン村の代官として阿武山中の村民生活全般の世話を焼いていたことは、とても信じがたいことである。

戦争の帰結を確信しており、しばらくは高みの見物としゃれ込もうという心境ではなかったか。

かつて東北遊歴の際に、松陰は友人との約束を優先して藩主を裏切り脱藩した。
そのとき来島、宮部らの説得を受け入れ、松陰は帰藩し野山獄へ入れられた。

そのとき後見人であった山田宇右衛門老人は松陰になんと言ったか。

「脱藩したのになぜおめおめと帰ってきたのだ。お前のような根性なしとは今後絶縁する」という意味の言葉を松陰へ与えている。

「友人との約束のためなら、藩主への忠誠なんて忘れちゃえ。」

そう言ったも同然である。

長州藩などという小藩は捨て去り、日本人兵学者として大きく国防に身をささげよといいたかったようである。

『松陰は叔父玉木文之進以外からも兵学を学んでいった。

山田宇右衛門は吉田大助の高弟で、江戸から帰ったばかりだった。
宇右衛門は西洋列強の侵略に対する危機意識を喚起し、海防研究を兵学上の重要課題とした。

さらに、長沼流兵学を山田亦介から学んだ。
亦介は国内外情勢に詳しく、西洋兵学も研究していた。

この二人の師の影響で、西洋列強からいかに国を守るかの研究に没頭するようになっていった。

二十歳の時、外国との水戦、陸戦について論じた『水陸戦略』を藩に提出した。

そこでは、日本の危機を指摘し、軍備の充実を論じているが、戦術としては「大船より小船のほうが適している。

小船なら素早く動け、砲術も正確で大きな外国船にはよく命中する。
外国船は大きく動きにくく、大砲の弾丸は遠くへ飛ぶが、命中しにくい」と述べている。

危機感はあっても、外国事情に関しては、まだ井の中の蛙であった。』
(関根徳男著「偉人たちの獄中期」より)
http://www.page.sannet.ne.jp/tsekine/book1-1.htm

外国にはとてもかなわなかったのが幕末の歴史事実だったから、この記事の著者は松陰の海防論を井の中蛙と形容している。

一部あたってはいるが、しかし、私はそうは思わない。

幕府と薩長土肥が一致協力して松陰の戦法を取っていれば、日本の沿岸戦であれば日本水軍は戦えたのではないかと思う。

「小船なら素早く動け、砲術も正確で大きな外国船にはよく命中する。」という戦法は、暗闇の周防大島沖で晋作が西洋式の幕府軍艦に仕掛けた戦法であり、長州藩の勝利へ貢献している。

もっとも昼間の戦闘では下関戦争では散々な目にあっているから、武力の差異は大きかった。

ベトナムのベトコンのような闇夜での艦船攻撃を継続することで、相手の戦意を喪失させることはできたかも知れない。

当時は日本の造船技術が未熟だったので、沈めてしまえば異人は帰国できなくなる。
日本刀がうじゃうじゃいるこの国で生きていくのは大変なことだっただろう。

そういう海防研究を兵学上の重要課題としていた山田宇右衛門が、文久3年に隠れキリシタン村の行政担当者として生活指導をしていたということが脳裏に焼きついている。

文久元年に下関で英国軍艦に乗り込んだ山田宇右衛門は、誰と、何を、話し合ったのだろうか。

おそらく相手は英国通訳書記官アーネスト・サトウであろう。
話し合ったテーマは幕府の怒りも配慮して、当然極秘扱いとしたはずだ。

アーネスト・サトウの日記抄、荻原延壽著「遠い崖」は全14巻を全て読んだが、下関戦争の3年前(文久元年)に長州藩兵学者山田宇右衛門と密談があったという記載の記憶はない。

英国軍艦の表向きの用事は、薪と水の補給を長州藩に申し入れただけであろう。

日本革命を仕掛けるスパイサトウと、長州藩の山鹿流兵学の代理教授との面談である。

国防や戦争、それへの英国軍支援などの話題が出ないはずはない。

山田は、ともかく一番重要な局面に臨んで、山の中のキリシタン村の行政担当を命じられている。

松陰が脱藩後に帰藩した態度をきつくなじった山田であるが、その厳しい姿勢は下関戦争を前にして急におとなしくなっている。

それはなぜだろうか。

55歳で無くなったのは、その4年後の慶応3年である。
文久3年当時の山田は、51歳である。

死の前の隠居仕事というにはまだ早い。

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