松陰は寅年生まれ~長州(126) [萩の吉田松陰]

SH3B0493.jpgSH3B0493松下村塾座敷の写真(鉢巻姿の久坂玄瑞ほか)
SH3B0494.jpgSH3B0494今年(2010年)は松陰寅次郎の「寅年」だった

松下村塾座敷に明治の偉勲たちの写真が飾ってあった。

私は鉢巻姿の久坂玄瑞の姿がこの塾生に一番にあっていると思った。

少年団が鉢巻姿で死を覚悟して革命の火蓋を切る。

ここは、そのためのボーイスカウト道場だった。

実は世田谷松陰神社鳥居の左手奥にボーイスカウトのトーテムポールが立っている。
そのことは、ほとんどの人は知らないだろう。

尤も師匠の松陰が追及した思想はもっと深いものがあった。
おそらく松陰の最終断面での思想は、天皇制度さえも否定する完全民主化路線だったであろう。

井伊直弼と幕府寄りの朝廷方はそれを聞き、震え上がったのであろう。

残酷ではあるが、萩松陰神社を去るにあたり、松陰斬首の姿に迫っておきたい。

私がかつてやったように、松陰刑死の足跡を東京・江戸で追う人の記事が二つあったので紹介する。

『松蔭が世田谷区若林に埋葬された経緯について

安政の大獄に連座し1859年(安政6年)10月27日に伝馬町の獄牢で処刑された吉田松陰の遺体は、最初は小塚原回向院に埋葬された。

その後、毛利家が所有していた東京都世田谷区若林お抱え地(現在、世田谷区若林4丁目)に改葬された。
この改葬地が現在、東京にある松陰神社となっている。

当時、刑死者の扱いは極めて粗雑で、松蔭の遺体は四斗桶に入れ、回向院のわら小屋に置かれていた。

役人が桶を取り出し、蓋を開けると、首の顔色はまだ生きてるようにも見えたが、髪は乱れ顔面を覆い、血がべったりとこびりつき、胴体は裸のままだったという。』
松蔭先生は寅年生まれ(立志尚特異・俗流與議難)
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col15236.htm

「胴体は裸のままだったという。」と表記している伝聞記事の出典はよくわからない。


『松陰 最初の墓
松陰処刑の報を知った在江戸の門下生達は、何とか師の遺骸を取り戻すべく百方手を尽くしたが上手く行かず、遂に正々堂々と獄吏に面会を求め熱心に引き渡しを請うた結果、その熱意と至誠に動かされた獄吏は「獄中死骸の処分に苦しむ」として小塚原回向院での交付を約し、桂小五郎、伊藤博文らが受取りに行き、四斗桶の遺体を見てあまりの処刑の凄まじさに驚いた。

首は落ち、身は一寸の衣も纏っていなく、首を繋ごうとしたが後日の検視を恐れた獄吏に止められ、各自が脱いだ衣服で遺体を包み、橋本左内の墓の左に葬り、巨石で覆った。

その後遺体は、高杉晋作らによって世田谷若林に改葬されたが、墓碑は今も回向院に現存している。

遺骸の改葬
門下生の晋作や久坂玄瑞らは、小塚原は火付けや強盗、殺人犯の遺骸の埋葬地で、このような連中とわが師を一緒にするなと他所への移葬を願い出たがこれがうまく行かず、後の大赦令の布告により現在の世田谷区若林の毛利家お抱え地に埋葬することが出来た。

この地の風景が松下村塾のあった松本村に似ており、この地が選ばれたようである。
明治に入り、この地に松陰神社が建てられたのはご存知の通りである。』
(「東京の中の防長・見てある記 2」より)
http://homepage3.nifty.com/ne/kk/kk-kaiho/kk-1999/1999-14/p-05.html


斬首直後に幕府の目に隠れて、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文らが遺体に面会していることは始めてこの記事で知った。

これにも胴体が全裸であることがかかれている。

見るに忍びず、彼らは着ていた着物を脱いで遺体に着せたようだ。

首を縫うことも許されずに、回向院を立ち去っている。

将軍が日光へ行くときに通る御成街道を南へくだりつつ、木戸も伊藤も泣いたことであろう。

しかし、このとき晋作らはその場にいたのだろうか。

松門の三秀(晋作、久坂、吉田稔麿)のいずれか一人でもこの場にいたならば、幕吏の命令とは言え、首と胴体を縫い合わせずにこの場を立ち退けただろうか。

松陰の弟子といえども、伊藤博文は松門の三秀と大きな温度差を持っているようだ。

木戸孝允は松陰の弟子ではない。
木戸孝允は、明倫館教授でもあった松陰が、明倫館で兵学を教えた学生の中の一人に過ぎない。


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