育て主、村田清風~長州(127) [萩の吉田松陰]

SH3B0495.jpgSH3B0495境内西横に歴史館?
SH3B0500.jpgSH3B0500蝋人形が語る「村田清風(右手)と松陰(背中)」

萩・松陰神社境内を出て帰途に着くことにしよう。
そう思って境内を歩いて鳥居の下をくぐった。

夏の西日が暑いのでついソフトクリームの模型に目がいった。
そのままソフトクリームを買ってよろよろとベンチに座り、木陰で冷たいクリームを堪能した。

顔をソフトクリームから上げて自分の正面を見ると、境内の西の方に館がある。
歴史博物館のようでもある。

立ち上がって自然にそちらへ入っていった。

入館料を500~600円くらい支払ったようである。
入ってみると、なんと松陰の歴史を蝋人形で表現した館だった。

「蝋人形かあ」と落胆しつつ、逆流して出るわけにも行かないので、ざっと見て巡った。

地元の古老に松陰生存時の話を聞いたりして、地元の皆さんが語りつないできたものを小学生にもわかりやすく人形で教えたものである。

明治維新革命直後であったならば、まだ文盲の人も多かったはずだ。
蝋人形の果たした役割は大きかったであろう。

テレビが普及し、インターネットが発達した現代では、訪問する一般者は少ないように見受けられた。

修学旅行や団体旅行者が目当ての興行ということであろう。

ところが最後のこの見学が、思いがけずに私に大きな勇気を与えてくれることになった。

私は、萩のキリシタン殉教地と村田清風の居宅(別宅)の距離が近いこと、ひょっとして村田清風と松陰に隠れキリシタンを介して接点があったのではないかという推理を立てて、今回の萩訪問を企画した。

松陰とキリシタンの関係はわからないままであった。
ただ萩を追われたキリシタンたちは、松陰神社西側の道を通って山の中へ入っていったのは確かである。

松陰の母お滝の父村田右中(うちゅう)にはそれらしき雰囲気が漂っていた。
右中(うちゅう)は、毛利志摩守、支藩徳山藩主の家臣である。
萩毛利本藩から見れば陪臣である。

今回の萩訪問は「村田清風と松陰の接点探しの旅」でもあった。

それを探せないまま、これから帰京しようとしていた。

ところが幼い頃の松陰の蝋人形を見て歩いていると、藩主に向かって講義している幼い松陰の両側に藩士2名が座っており、その傍の名札に村田清風の名があったのだ。

藩主に11歳の兵学者松陰を師として立ち会わせた仕掛け人はこの二人である。
村田清風と、もう一人は甥の山田亦介だったと記憶している。

あまりの感激で、もう一人の武士の名前を記憶しないまま出てきてしまった。
それほど私にとってはこの蝋人形は嬉しい情報だったのである。

地元の人々の言い伝えを元に、正確を期して製作しただろう蝋人形である。

内部は暗いため、携帯カメラは長時間露光となり、ピントボケして写ってしまった。
よって、付き添いの藩士の傍に名札が立ててあるのだが、それも判読できなかった。

現地の蝋人形館に入って直接確かめていただくほかない。

私の記憶では、松陰の傍に臨席した藩士は、藩主に向かって右手が村田清風で、左手が山田亦介だった。

両者は伯父、甥の関係である。

村田清風が松陰を兵学者として育てたということがこの光景からよくわかる。
実際に後見人として手を下したのは、山田宇右衛門のようであるが、大きな仕掛けは村田清風が創ったのであろう。

吉田松陰(1830~1859)が吉田家に養子に行ってからの教育環境を見てみよう。
藩主慶親の前で「武教全書戦法篇」を講じたのは松陰11歳のときだった。
1783年生まれの村田清風はそのとき58歳になる。

年齢的にみて、両者が互いに同席できたぎりぎりの接点だったようだ。

村田清風は1855年(安政2年)に、持病の中風が再発して73歳で死去しているが、あの村田清風別宅内で寝起きしつつ、脱藩事件や米国密航未遂事件のことなどを頼もしく聞いていたことだろう。

そういう松陰となるべく、村田清風は松陰を引き立ててきたのである。

『中略。
五歳のとき、藩の兵学師範吉田家の仮養子となる。
翌年、養父・吉田大助が亡くなり、六歳で吉田家の八代当主となる。
大次郎と改名。 後には寅次郎、松陰を名乗る。

父と叔父玉木文之進から厳しい教育を受け、天保十(1840)年、藩校「明倫館」で山鹿流兵学を講義し、林雅人(大助の高弟)らが後見人となる。

同十一年、藩主慶親の前で「武教全書戦法篇」を講じ、慶親を驚嘆させる。

少年時代の松陰に感化を与えた人物に、家学の後見人である山田宇右衛門と、山田亦助がいる。

宇右衛門は、他流を学び海外の知識に通ずる必要性を説き、世界地図を収録した「坤輿図識」(こんよずしき)を松陰に贈って、欧米列強の存在を教えた。

また、長沼流兵学者、山田亦助を松陰に紹介した。
松陰は十六歳で亦助の門に入り、翌年に免許を受けて家伝の長沼流兵要録を贈られた。

この頃から海外の情報を得ることに熱心で、アヘン戦争についての情報を得て、強い衝撃を受ける。

十九歳で明倫館の兵学教授となる。
嘉永二年(1849)、藩の海岸線を視察し、海岸防備の必要性を実感する。

その後、九州を旅し、江戸に遊学、熊本藩士・宮部鼎蔵らとともに東北にも旅行して様々な人々と逢い見聞を広めた。

しかし手続き上の不備から亡命の罪に問われ、士籍、世禄を剥奪されてしまう。
その後、藩主より十年間の諸国遊学の許可を受け、再び江戸に向う。

安政元(1854)年、ペリー再来航時に密航を企てた罪で入獄、その後萩へ護送され、野山獄に入獄。

同二年、実家の杉家預りとなり、同四年に松下村塾を主宰。
その間、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山田顕義、山縣有朋ら約八十人の人材を育成した。

安政五(1858)年、幕府による通商条約調印を批判して、老中間部詮勝の暗殺を企てたことから、藩政府は松陰を再び野山獄に収容する。

安政六(1859)年四月、幕府より松陰の江戸護送の命が下る。
「安政の大獄」で勤皇派への弾圧が続くなか、同年10月27日、死罪となり斬首された。』(「人物紹介 長州藩」より)
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/choshu1.html

萩で松陰の思想形成に影響を及ぼしたのは、吉田家家学(山鹿流兵学)の後見人である山田宇右衛門と、長沼流兵学者の山田亦助だった。

大抵の記事にはそう書いてあるが、村田清風が藩主に面会させたことはほとんど出てこない。

地元萩では蝋人形で周知のことなのに、である。

この長州藩の兵学者両名は、文久元年に下関に着いた英国軍艦に乗り込み誰かと何事かを話し合っている。

『天保5年(1834年)、父の弟である吉田大助の仮養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった。

天保6年(1835年)、大助の死とともに吉田家を嗣ぐ。
天保11年(1840年)、藩主・毛利慶親の御前で『武教全書』戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。

天保13年(1842年)、叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける。

弘化2年(1845年)、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。

九州の平戸へ遊学した後に藩主の参勤交代に従い江戸へ出て、佐久間象山らに学ぶ。

嘉永4年(1851年)、東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。

嘉永5年(1852年)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる。

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、金子重輔と長崎に寄港していたロシア帝国の軍艦に乗り込もうとするが、失敗。

安政元年(1854年)、再航したペリー艦隊に金子と二人で赴き、密航を訴えるが拒否される。
事が敗れた後、そのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。

安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。
その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、幕末維新の指導者となる人材を多く育てる。

安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄される。

安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致される。老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。』
(吉田松陰(Wikipedia)より)

山田亦介は村田清風の甥である。

ここに村田清風と松陰の間に、意外と太い関係線があることが見えてきた。

また、山田宇右衛門は世界地図を収録した「坤輿図識」(こんよずしき)を松陰に贈り、欧米列強の存在を教えたという。

後、文久3年に、山田宇右衛門は隠れキリシタン村の行政担当者として奥阿武山中に赴任することになる。

山田宇右衛門がその地区のコントロールを得意としていた理由は、おそらく宣教師や信者からもたらされる西洋情報にもかなり通じていたからであろう。
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