ナポレオンを目指した晋作~長州(128) [萩の吉田松陰]
写真 功山寺挙兵の銅像(高杉晋作(Wikipedia)より引用)
青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」を読んだ。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
「吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付」の内容解説である。
あの「草莽崛起」の言葉の初出の書簡である。
わかりやすく解説されている。
ここでは原文のみ抜粋する。
この書簡の宛名人である北山安世は、明治になって、自宅幽閉されていたとき実母を殺して狂死したことは既に述べた。
松陰処刑の半年前に書かれた書簡である。
『吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付
徳川存する内は遂に墨・魯・暗・仏に制せらるゝこと、どれ程に立行べくも計り難し、実に長大息なり。幸に上に明天子あり、深く爰に叡慮を悩されたれども、□紳衣魚も陋習は幕府より更に甚しく、ただ外夷を近ては神の汚れと申す事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召されず、事の成らぬも固より其の所なり。
列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。
那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。
徒に岸獄に坐するを得るのみ。
此の余の所置妄言すれば則ち族矣なれども、今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。
されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。
草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
幕府も大名も酔っ払いと同じだと断言している。
「那波列(ナポレオン)翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。」は、ナポレオンを起こして自由を唱えねば、問題解決しないという意味で、松陰は軍事クデターの後で民主主義革命を意図していたようだ。
そう書いていて、思い当たった。
晋作はその絵姿を功山寺に残像として残していることに気づいた。
後ろ足立ちして勇む馬を馬上で手綱を操る晋作の銅像である。
写真の銅像が、今の功山寺境内にある。
はじめて現物を見学したとき、「意外と小さい人物だったのだなあ」という印象しか私は持たなかった。
奇兵隊長の馬の体格は立派なのであるが、意外に小柄な晋作のイメージが焼きついている。
しかし、小兵ながらも、晋作の気構えは大きかった。
師の考え方をなぞりつつ、ドラマチックに奇兵隊決起をした晋作だった。
なかなか恩師の言葉通りに生死を選択できなかった晋作であったが、いよいよ死を覚悟して行動を開始したときは、師の言葉通りの絵姿を残していた。
あの椎原の晋作の草庵で、よくよく松陰の書簡や遺書を読み込んだのであろう。
奇兵の「奇」と「狂」とは、ともに「民衆」を意味するらしい。
天下泰平の貴族から見れば、近衛兵が正規軍だし、幕府軍は朝廷の傭兵であって征夷大将軍である。
民衆の軍隊なんて、というあざけりの意味合いが「奇兵」や「狂」の中に含まれている。
高杉晋作は通称であって字は暢夫、号は東行、東洋一狂生と称した。
奇兵も東洋一狂生も、そんな貴族どものあざけりを受け取って今に見ておれという意気込みを含めた用語なのである。
晋作はアメリカで黒人奴隷が白人の正規軍を破ったニュースをどこかで聞いていたのではないか。
黒人奴隷部隊のマサチューセッツ第54歩兵連隊は、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。
『1863年7月18日の戦闘で、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。』
(「Boston African American National Historic site)より)
http://usnp.exblog.jp/5771055/
ワグナー砦の攻撃で黒人「奇兵」部隊が勝利を挙げたのは、日本の暦で言えば文久3年(1863)7月18日となる。
その1ヵ月後、日本の京都で政治クーデターが発生している。
8月18日の政変で、それにより禁門の変が誘発されている。
晋作の挙兵は、文久4年(1864年)12月15日であるから、1年半年も前のアメリカのニュースは長崎の米国人宣教師フルベッキから晋作へ届けられていた可能性がきわめて高い。
晋作は上海視察にいくとき、長崎でフルベッキと懇談している。
晋作は「勝てる戦」と見たから決起したのである。
最後まで慎重な性格の人物だったのだろう。
写真は功山寺挙兵のときの晋作の騎馬像であるが、ナポレオン騎馬像にとてもよく似ている。
青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」を読んだ。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
「吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付」の内容解説である。
あの「草莽崛起」の言葉の初出の書簡である。
わかりやすく解説されている。
ここでは原文のみ抜粋する。
この書簡の宛名人である北山安世は、明治になって、自宅幽閉されていたとき実母を殺して狂死したことは既に述べた。
松陰処刑の半年前に書かれた書簡である。
『吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付
徳川存する内は遂に墨・魯・暗・仏に制せらるゝこと、どれ程に立行べくも計り難し、実に長大息なり。幸に上に明天子あり、深く爰に叡慮を悩されたれども、□紳衣魚も陋習は幕府より更に甚しく、ただ外夷を近ては神の汚れと申す事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召されず、事の成らぬも固より其の所なり。
列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。
那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。
徒に岸獄に坐するを得るのみ。
此の余の所置妄言すれば則ち族矣なれども、今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。
されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。
草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
幕府も大名も酔っ払いと同じだと断言している。
「那波列(ナポレオン)翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。」は、ナポレオンを起こして自由を唱えねば、問題解決しないという意味で、松陰は軍事クデターの後で民主主義革命を意図していたようだ。
そう書いていて、思い当たった。
晋作はその絵姿を功山寺に残像として残していることに気づいた。
後ろ足立ちして勇む馬を馬上で手綱を操る晋作の銅像である。
写真の銅像が、今の功山寺境内にある。
はじめて現物を見学したとき、「意外と小さい人物だったのだなあ」という印象しか私は持たなかった。
奇兵隊長の馬の体格は立派なのであるが、意外に小柄な晋作のイメージが焼きついている。
しかし、小兵ながらも、晋作の気構えは大きかった。
師の考え方をなぞりつつ、ドラマチックに奇兵隊決起をした晋作だった。
なかなか恩師の言葉通りに生死を選択できなかった晋作であったが、いよいよ死を覚悟して行動を開始したときは、師の言葉通りの絵姿を残していた。
あの椎原の晋作の草庵で、よくよく松陰の書簡や遺書を読み込んだのであろう。
奇兵の「奇」と「狂」とは、ともに「民衆」を意味するらしい。
天下泰平の貴族から見れば、近衛兵が正規軍だし、幕府軍は朝廷の傭兵であって征夷大将軍である。
民衆の軍隊なんて、というあざけりの意味合いが「奇兵」や「狂」の中に含まれている。
高杉晋作は通称であって字は暢夫、号は東行、東洋一狂生と称した。
奇兵も東洋一狂生も、そんな貴族どものあざけりを受け取って今に見ておれという意気込みを含めた用語なのである。
晋作はアメリカで黒人奴隷が白人の正規軍を破ったニュースをどこかで聞いていたのではないか。
黒人奴隷部隊のマサチューセッツ第54歩兵連隊は、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。
『1863年7月18日の戦闘で、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。』
(「Boston African American National Historic site)より)
http://usnp.exblog.jp/5771055/
ワグナー砦の攻撃で黒人「奇兵」部隊が勝利を挙げたのは、日本の暦で言えば文久3年(1863)7月18日となる。
その1ヵ月後、日本の京都で政治クーデターが発生している。
8月18日の政変で、それにより禁門の変が誘発されている。
晋作の挙兵は、文久4年(1864年)12月15日であるから、1年半年も前のアメリカのニュースは長崎の米国人宣教師フルベッキから晋作へ届けられていた可能性がきわめて高い。
晋作は上海視察にいくとき、長崎でフルベッキと懇談している。
晋作は「勝てる戦」と見たから決起したのである。
最後まで慎重な性格の人物だったのだろう。
写真は功山寺挙兵のときの晋作の騎馬像であるが、ナポレオン騎馬像にとてもよく似ている。
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2011-02-18 12:56
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