孝子寅二郎~長州(108) [萩の吉田松陰]

SH3B0442.jpgSH3B0442親思うこころ
SH3B0443.jpgSH3B0443今日のおとずれ何ときくらん
SH3B0445.jpgSH3B0445孝行竹(左手、奥は松下村塾)

松陰の自筆を模写し拡大したものを石碑に刻んでいる。

『解説

親思う心にまさる親ごころ
今日のおとずれ何とくくらん

尊王の大義を唱え国事に奔走した松陰先生の言動が当時の幕府を刺激しいわゆる安政の大獄に連座して江戸伝馬町の獄に投ぜられた。

いよいよ処刑を覚悟した先生が安政六年(1859)10月20日、郷里の両親達に書き送った便りの中にある永訣の一首である。享年29歳。
まことに親を思う孝子の至情の表われであり断腸血涙の絶唱である。

付記 長さ20センチあまりの二行の真跡を拡大したもの。寅二郎は通称である。』(抜粋終わり)

この両親へ宛てた手紙は「永訣の書」と呼ばれている。

私は防長2州のうち、瀬戸内に面した防州に住んでいた。
今はもう70歳くらいだろうか、同じ職場に私よりもずいぶん年上の技術者がいた。
生粋の防州人である。

彼は私が入社した当初、若者に向かってこういうのが口癖だった。

「親思う心にまさる親ごころ
今日のおとずれ何とくくらん

孝行したいときは親は無し
さりとて墓に布団を着せられず」

これは松陰の句をもじったものなのか、あるいは防長で古くから言い表されてきた儒教の教えなのかわからない。

墓に布団を着せるのではなく、生きている親に孝行しようとして25歳の私は親に自動按摩器を贈ってあげたが、その程度しか孝行できなかった。

そして、両親がなくなったいま、この言葉の正しさをしみじみと思い出している。

寅二郎は親不孝をしたと当時の世間は思ったことだろう。
しかし、親はそう思っていなかったところがすごい。

とくに母お滝は、松陰の行動を前面的に信じていた節がある。
獄に投じられ、そして士分を剥奪され、斬首されてもなお、松陰の行動は正しいと信じて疑わなかった母こそすばらしい。

それほど松陰がすばらしいということなのだろう。

松陰が案じていたほどに母は軟弱ではなかったようだ。
安心して松陰は死ねたことになる。

親孝行な息子であったが、親はそれ以上に子を信じ子に従っていた。

その句碑の先に「孝子竹」が植えられていた。

「たかこ」ではなく「こうし」と読む。

円政寺境内に「高杉伊藤両公幼年勉学の所、二孝子祈願之金比羅社」があった。

そのことはすでに述べたが、「二孝子」は「にこうし」と読み二人の兄弟の「孝子」だった。

昔からここにあった竹なのか、観光目的で植えられたのかはわからない。

兵学者吉田松陰としては、養子にいった山鹿流兵法家の吉田家に忠義を尽くした人生を送ったといえよう。

もし吉田家ではないところへ養子に行っていれば、松陰はかなり異なった人生を歩んだはずだ。

つまり江戸で山鹿素水とあって時事を論じ合う必要もなく、山鹿素行の末裔である山鹿万介のいる平戸へ行くこともなかっただろう。

平戸はキリスト教会と寺が隣接している町である。


松陰が養子先の吉田家には大変な孝行を尽くしたといえるが、生家の杉家へ孝行についてはあまり知らない。

おそらく聾唖の末弟敏三郎のことを気にかけて度々訪れていたことだろう。

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