神にされた松陰~長州(107) [萩の吉田松陰]

SH3B0438.jpgSH3B0438松陰神社
SH3B0439.jpgSH3B0439鳥居
SH3B0441.jpgSH3B0441祭神 贈正四位 吉田寅次郎命(号 松陰)

松本川を越えるとすぐに松陰神社に着いた。
若い頃、山口県の工場に赴任してきた私は何度もここに友人たちと訪ねてきた。
20歳代のその頃は、有名人の神社だ程度しか思っていない。

米を突きながら読書をしていた松陰の蝋人形を見て、二宮金次郎と同じ人だと感じていた。

日本革命の扇動者だったとは気づいていなかった。

しかし、東京の松陰神社の前に立って、なぜあの萩の田舎の青年が、こうも東京で有名になるほどの偉業を成し遂げることができたのか、不思議な気分になった。

それから松陰の幻の恩師でもある山鹿素行の墓にいき、聳え立つシュロの木に圧倒された。
そばになぜ乃木希典の遺愛の梅「春日」が植えてあるのかもわからなかった。

奥州街道に出てシュロの多いことに気づくが、平泉以北ではぱったり途絶えた。
まったくないわけではないが、街道のサインとしての役割は終えている。

京都か奈良にいる先祖に平泉に後裔が住んでいることの道案内だったのだろうか。

同じシュロが萩城下にはおおい。
それも安芸から来た萩城近い堀内に住む毛利氏ではなく、堀の外にある身分の低い城下町に多く見受けられた。

もっとも多かったのは菊が浜の呉服屋であった。

ここ萩へきて乃木希典は松陰と同じ師匠を持つことがわかった。
ともに玉木文之進に初代の松下村塾(玉木家住宅)で鍛えられたのである。

山鹿素行の墓に乃木希典が愛した乃木家の庭にあった「春日梅」が遺族によって移植された理由はわからないが、松陰もしくは玉木文之進を介して縁があったことはわかった。

松陰はここで「吉田寅次郎命(みこと)」という神にされてしまっている。
本人が決して意図しなかっただろう思いがけないハプニングである。

『松陰神社由緒
祭神 贈正四位 吉田寅次郎命(号 松陰)
祭日 春祭 5月25日安政6年江戸へ檻送のため萩の地に永訣の日
   例祭 10月27日 同年 江戸伝馬町の獄内に刑死された日

明治23年8月松下村塾出身者其他故旧の人々の協力により、松下村塾改修のさい、実家杉家の私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠を建て、神霊を鎮祀し併せて遺著遺品を収めたのがはじまりである。
後、明治40年9月15日、門人伊藤博文・同野村靖の名をもって公に神社創建を出願、同年10月4日県社(旧社格)として認可を得成ったものである。
中略。

末社 松門神社

祭神 主な門人(高杉晋作・久坂玄瑞・吉田取稔麿・入江九一・前原一誠・木戸孝允・伊藤博文・野村靖・品川弥二郎・山田顕義・山県有朋達)の神霊を奉斎した社で42柱が合祀されている。昭和31年10月26日鎮座祭斎行
以下略』(境内の木製掲示板より抜粋)

おやおや、末社ではあるが戦後に山県有朋まで神になってしまっている。
「主な門人」42名が神で、「主でない」その他は神となっていない。

なったものとなっていないものの境目を研究すると面白いかも知れない。

第二次世界大戦の敗戦までは高杉晋作以下を神にすることは困難だったのだろう。

敗戦によって日本の権力構造は大きく変化した。
それから11年後、高杉晋作も久坂玄瑞も神となることができたが、伊藤博文や山県有朋までついでに神になってしまっている。

私は42名全員の名前を知りたいと思った。
そして、なれなかった門人との違いを知りたい。
松陰、いやこの現代では「吉田寅次郎命(みこと)」は天から後輩たちの行状を見ており、すべてを知っていることだろう。
まさか神と凡人の境界が特定団体への寄付金の多寡ではあるまいと思うのだが。

それより、松陰自身が恥ずかしい気持ちになっていることだろう。

「明治23年8月松下村塾出身者其他故旧の人々の協力により、松下村塾改修のさい、実家杉家の私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠を建て、神霊を鎮祀し併せて遺著遺品を収めたのがはじまりである。」

そこでとめておけばよかった。

幼い頃に父杉百合助と椎の実を拾った椎原にある枯葉に埋もれた小さな松陰の霊を祭る祠。

それはとても松陰に似合っていたはずだ。
おそらく祠の石は母お滝の選んだデザインだったであろう。

萩を去る前に、何度も訪れたことがありずいぶん見慣れているこの神社の境内を散策する。

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