ちくちくと~長州(109) [萩の吉田松陰]

SH3B044570%.jpgSH3B0445孝行竹(拡大)
SH3B0446.jpgSH3B0446孝行竹の解説

『孝行竹
蓬莱竹(漢名―観音竹・孝順竹)、インドシナ原産。
株張り竹の一種。

この竹は横走地下茎が発達せず、横にはびこらず、親竹の周りにのみ竹の子が育つ。
したがって、親を守る竹という意味で孝行竹という。

松陰先生は親孝行であり竹を愛した記録もあり、記念として寄贈された。
(参考・門人某の「移竹記」には、松陰先生が竹を愛したことが書かれている。)』

松陰が愛した竹の話を私は知らないが、松陰がことのほか尊敬し師事した僧侶に竹院という人が鎌倉にいた。

松陰の自画像は萩の絵師が書いたものが有名になっているが、野山獄中の松陰は刑死の前年にその絵師を鎌倉に派遣し、竹院の自画像を書かせようと勧めている。
おそらくその絵は松陰の望むとおりに書かれていて、その絵が今も鎌倉にあるのではないだろうか。

なぜ獄中の松陰は松浦松洞に自分と竹院の自画像を書かそうとしたのか。
あるいは別の文化歴史に関係の深い人物がそれを残すことを所望していたのか。

どちらにせよ、松陰と竹院が後の歴史において極めて重要な位置を占めることを松陰自身も気づいていたのであろう。

自画像を残す心理とは、そういうものであろう。

『安政5(1858)年3月3日頃、松陰は門人の画家松浦松洞が東上するに際し、鎌倉を訪問させ竹院の肖像画を描かせようと考え、竹院宛の紹介状を彼に持たせている。

「此の生を松浦松洞と申し、松本村中の一奇才子、幼より畫名を得、今は隠然たる一家に御座候。詩も亦清雋すべし。
然れども詩畫を以って称せらるる事は好む所に御座なく候。

此の度東遊仕り候ゆえ、貴寺へ立寄り候はば御尊容照写仕らせたく、永く後世に伝ふるの存念に御座候。

然るべく御頼み仕り候。
委細は別翰申上ぐべく候と存じ奉り候ゆえ、匇々閣筆仕り候。
恵純も徳隣寺住職に相成り繁用の趣に御座候。
帰国已来(※以来)両度ほど相対致し候。

吉田矩方再拝
錦屏老方丈 獅座下

佐々木小次郎帰国、御近況承知仕り安心仕り候。此の地いずれも無事に御座候」

これが松陰と竹院が交わした最後の通信であったかどうか。』
(「吉田松陰と鎌倉」より)
http://cookiemilk.web.fc2.com/syouin-top.htm

この竹院は、松陰の伯父であって、黒船密航を事前に相談し背中を押した人物である。
松陰密航時は、鎌倉瑞泉寺の住職をしていた。
夢想疎石が嘉暦二年(1327)に建立した寺で、臨済宗円覚寺派の禅寺である。

江戸からペリー艦隊を見るために下田へ向かう途中、密航の志を松陰は竹院に披露している。

『竹院和尚とは・・・
寛政8(1796)年、萩に生まれる。
松陰の母瀧子は竹院の妹。
幼くして僧となり萩の徳隣寺で修行し、長じて鎌倉円覚寺に学ぶ。
天保14(1843)年、瑞泉寺の第25代住職となる。
安政2(1855)年、円覚寺の第197代住職となる。
文久3(1863)年、京都南禅寺の住職となる。
慶応3(1867)年3月27日、熱海にて示寂。享年72歳。』
(同上抜粋)

松陰の最愛の母、お滝(お瀧)の実の兄が竹院であった。
「松陰が愛した竹」とは竹院のことであろう。

松陰神社の前の商店街には、「竹々」(ちくちく)という名の焼肉屋があるそうだが、竹院と何か関係でもあるのだろうか。

討幕せよ、密航頑張れと、幕府にとっては「ちくちく」するような言葉を竹院は松陰に言ったことであろう。

息子が獄死してもなお、その行動を信じて安心していた母お瀧の心が少し見えてきた。

お瀧は萩で竹院と一緒に育っている。
兄の性格もよく知っているだろうし、その兄に指導を受けながら息子は養子先の軍事業務に励んで死んだのである。

きわめて危険な松陰の足跡でさえ、安心しつつ見ることができたのであろう。

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