村田瀧という女~長州(110) [萩の吉田松陰]

SH3B0457.jpgSH3B0457吉田松陰旧宅

村田昌筠(しょういん)と読む。
出家前の竹院の本名のようである。

松陰の母滝の兄であり、村田姓で、名は松陰と同じ「音読み」であった。
これは偶然であろうか、あるいは必然であろうか。

『デジタル版 日本人名大辞典+Plus 竹院昌筠(ちくいん しょういん)

1796-1867江戸時代後期の僧。
寛政8年生まれ。吉田松陰(しょういん)の伯父。臨済宗。
長門(ながと)(山口県)徳隣寺、鎌倉円覚寺で修行し、天保14年鎌倉瑞泉寺住職。
のち円覚寺さらに京都南禅寺の住職となった。
慶応3年3月28日死去。72歳。長門出身。俗姓は村田。』
(「竹院昌筠とは」より)
http://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E9%99%A2%E6%98%8C%E7%AD%A0

私は萩を訪問する前に、吉田松陰、村田清風、キリシタン殉教碑の間に細い線がつながっているのではないかという仮説を立てていた。
その検証の旅でもあった。

鎌倉の禅僧竹院は、松陰の米国渡海の計画を事前に聞いており、それを推奨していた。
その意味において、佐久間象山と竹院は、討幕行動を画策する超危険人物松陰に関しては、同レベルの重要人物と言える。

日本史の中では象山は陽に松陰の前に登場してくるが、なぜか竹院は出てこない。

その竹院は、松陰の母の実兄である。

母も竹院も元「村田」姓だったが、生家の村田家が村田清風とどういう関係にあるか、それはまだわからない。

ただ、細い細い線であるが、松陰を取り囲む「旧姓村田」の重要な男女がいた。
一人は鎌倉に住む臨済宗の僧侶で、一人は松陰の母である。

いずれも出家と婚姻を経て、「村田」の名は消されている。

母滝のことを考えている。
先の引用記事では「松陰の母瀧子は竹院の妹」と書いてあった。

そこでは瀧の字を書いている。

萩城の場所に鳴瀧山という名を持つ寺があった。
以前の拙著ブログより再掲する。

『吉見正頼の息女(法名、見室妙性大姉)の菩提のために妙性庵が建立され、その寺中に石塔があり、位牌の裏に「天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所」とあるといいうのである。』(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm

本能寺の変が天正10年である。
天正13年に、既に「指月」の呼び名があり、萩の鳴滝山妙性院(現禅林寺)に妙性庵が建立されていた。

戒名に「妙」の文字を持つ「見室妙性大姉」こそ、ザビエルに山口の布教を許した大名大内義隆の実姉の娘であり、指月山の萩城主吉見正頼の娘でもあった。』(当ブログより再掲)

これは関が原の後、広島(安芸)から毛利氏が萩へやってくる前に萩には城があり、それを指月城と呼んでいたことを語ったものである。

しかも住人はおそらくザビエルの布教の成果であるキリシタンで、大内義隆の実姉(吉見氏の正室)と義隆の遺児、家臣たちだっただろう。

その吉見氏の正室の娘が織田信長の時代に「萩津指月」で死んだと戒名に書いてあったのだ。

当時「しづき」と読んだか「しげつ」と読んだかわからない。
今は「しづき」と読む。

村田瀧は萩のどこで生まれたのか。
おそらく瀧の見える場所だったのだろう。

村田瀧は、兄竹院が認めた松陰の革命の成功をその眼でしかと見届けている。

『1807-1890江戸後期~明治時代の女性。
文化4年1月24日生まれ。吉田松陰の母。
児玉家の養女となり、杉百合之助(ゆりのすけ)に嫁ぎ3男4女を生む。

次男松陰が松下村塾をひらくと、これをよくたすけた。
晩年仏門に帰依(きえ)した。

明治23年8月29日死去。84歳。
長門(ながと)(山口県)出身。

本姓は村田。』(「杉滝子【すぎ-たきこ】」より)
http://kotobank.jp/

また、瀧は塾生の母親役さえ果たしていた。

『途中略。
やがて(松陰は)牢から出され、謹慎を命じられた。
ここで、内々に塾を開き、青少年の教育に当たるようになった。
有名な「松下村塾」である。
高杉晋作、伊藤博文らを輩出した。
塾に寝泊りして苦学している者もいる。

松陰の母は、食べ物を差し入れるだけでなく、洗濯や掃除、風呂の準備まで、細々と門下生の世話を焼いた。

時勢を論じれば議論百出し、会合が冬でも深夜に及ぶことが。
そんな時でも、常に母は、終わるまで隣室に控え、火鉢で焼いたかきもちや熱い番茶を配り、皆の疲れをいたわっていたという。

松陰の門下生の心をつかみ、幕末に活躍する人材を育てた背景には、優しい母が、門下生の母となって愛情を注いでいたことも見逃せない。

徳川幕府は、松陰と松下村塾に不穏な動きがあると見た。
松陰は、再び捕らえられ、江戸へ送られてしまう。

母は、松陰が江戸へたつ前の晩に、風呂で背中を流してやった。
「きっと無事で帰ってこられるでしょうね」

心配する母に松陰は、
「大丈夫、帰ってきますから」と、にこやかに答えるのであった。

松陰が江戸へ向かってから五ヶ月後のこと、母は疲れてうたた寝をしていた。
すると松陰が、「お母さん。ただいま帰ってまいりました」と元気な笑顔で言った。
それは、近年にない明るい姿であった。

母は、非常に喜んで、「まあ、珍しい」と声をかけようとすると、夢が覚めたという。

それから、二十日余りして、松陰が刑場の露と消えた知らせが届いた。
母が夢を見たのは、ちょうど息子の死刑の時刻であった。』
(杉滝子【すぎ-たきこ】より)
http://kotobank.jp/word

この最後の下りを読むと、涙になき暮れる母親滝の姿をついつい連想してしまう。
しかし、日本人的なセンチメンタルはこの女性にはなかったようだ。

悲しみはどの母親にも共通のものがあったはずだが、滝には信念があった。

息子松陰はたとえ獄門にかけられたとしても正しいことをするために命を投げ出したということに疑いを持っていなかった。

その強い確信は兄竹院からもたらされた手紙によって作られたのだろうか。
あるいはもっと根が深い信仰にあったのだろうか。

正義のために死すことは、言わば殉死である。

そういえば、乃木希典は明治天皇の崩御に際し、皇居門を出棺する時刻に合わせて自宅で夫婦ともに自害している。

松陰も乃木希典も、同じ玉木文之進に幼児の頃から鍛えられて育っている。

母滝は、松陰の斬首刑の便りに接したとき、息子は「何か」に対して殉死したと確信を持っていたのではないだろうか。

滝は杉家に嫁ぐために村田家から児玉家の養女になっている。
村田姓のままでは貧しいとはいえ藩士の家に嫁げなかったのかも知れない。
滝が養子にいったのはおそらく武家の児玉家であろう。

あの石高2,243石の奥阿武惣郷を領する児玉家との関係はどうだっただろうか。
萩の北方山奥に奥阿武宰判勘場跡があり、そこは紫福村(現福江村)という隠れキリシタンの村だった。
児玉氏はそこへ定期的に顔を出す役目の代官だった。

代官児玉氏は、キリシタン禁制を破って紫福の山村で隠れて信仰を続けていた人々の存在を知らなかったのか、あるいは知っていて大目に見ていたのか。

しかし、奥阿武惣郷を領する児玉家と滝の養子先の児玉家との関連はまだわかっていない。

お滝が杉家に輿入れするためには、児玉家へ養女となる必要があったのであろう。

面白いことに、松陰の兄の名は梅太郎で、叔父は竹院である。
これの並びを変えると「松竹梅」となる。

松陰の兄の「梅」は、おそらく高杉晋作の庭にあった鎮守信仰と同じく、菅原道真を祭る天神信仰による命名だろう。

晋作も偽名に梅の字を用いている。

滝は晩年仏門に帰依(きえ)したとある。
兄と同じ禅宗だろうか。

滝の信仰としては、この仏門と、梅太郎の名にある天神信仰があった。
それにもし、養女となった先があの児玉家であるならば、紫福村のキリシタン信仰との関連性も生じてくる。

ただ、仏門と天神は口外しても問題はないが、当時キリシタンを口外すれば死罪となるから決して表に出してはならない信仰だった。

滝に関わる手紙や発言を追いかけても、それが出てくるはずもない。、
キリシタン信仰は、あくまで想像の世界に限られる。

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