書けと言われて~長州(111) [萩の吉田松陰]

SH3B0458.jpgSH3B0458「史跡 吉田松陰幽囚旧宅」の石柱

ここであの「幽囚録」が書かれのかと思ったが、実はそうではない。
それは野山獄で書かれている、

そのあと自宅軟禁されていた場合も、幽囚というようだ。

『安政元年冬、松陰は萩「野山獄」に収監されていた。
ここで松陰最大の論文『幽囚録』が書かれた。
これは松陰が佐久間象山の影響を受けつつ抱懐していた國家的時務論であり・・・志士としての松陰を記念する貴重な文献である。(玖村敏雄)

本文略。

<大略解説>
佐久間象山の先見性と識見による提唱も実現しなかった。
「官よくこれを断行するなし」の表現に松陰の憤怒と憂国の精神が凝縮されて「予が航海の志、ここに決す」と時務論に命懸けで受け止めないことへの反発から、密航は試みられたわけです。

成功しなかったが、ペリー艦隊への乗船が実は「刺客」だったとの説を唱えた研究者がいます。
小説なら話は別ですが、佐久間象山から「この挙」、つまり下田密航計画の事情を書くように言われて真剣で書いた松陰の代表的な著作はそのまま受け取って考えるべきと思う。』
『幽囚録』
http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-63.html

24歳の若き松陰は、師の佐久間象山に書けと勧められて海外渡航計画の理由を紙に書いたのである。

師匠が言わねば書かなかったかも知れない。


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