松陰の母、村田滝子~長州(112) [萩の吉田松陰]
SH3B0463吉田松陰幽囚旧宅の庭
椎原地区の松陰生誕地には、敷地に基礎の跡しか残っていなかった。
松陰幽囚の家屋は松陰神社の方へ移築されている。
この「吉田松陰幽囚旧宅」があの椎原の山の中にあった家かどうかわからないが、間取りからすればあの生誕地の敷地にあった基礎跡と合うようである。
その庭先を眺めながら、父百合之助と母お瀧の様子を想像している。
5年ほど前に買って読んだ司馬遼太郎著「世に棲む日々(1)」を最近読み直している。
以前はざっと流しで読み去っていたのだが、ところどころで目が留まることが多い。
それだけ松陰に関する知識や情報が、この5年間の私の中で増えてきたのだろう。
その文庫本では最初の方で母お瀧の性格を描写していた。
一部抜粋する。
ここに出てくる杉民治とは、長男梅太郎のことである。
梅太郎は民政に良くつくしたため藩主から「民治」の名をあたえられた。
『この日、民治は入浴したが、足のあかぎれが傷口をあけており、湯がしみてとても湯船に入っておれず、あわてて飛び出したが、しかしいざ廊下を歩くとなると、夜盗のように抜き足差し足にならねば傷口がひびいた。
お滝はその歩き方をみて声をあげて笑い、
「あかぎれは 恋しきひとのかたみかな ふみ(恋文・踏みにかける)見るたびに 会いたいく(あ痛、にかける)もある」
という即興の狂歌を民治のうしろからあびせかけた。
家じゅうが笑った。
日本人の詩情は奇妙で、あかぎれというこの寒気による皮膚の無残な損傷ですら俳句の世界では冬の好季題になっているが、お滝は民治の悲痛さをユーモアに転化させた。
しかし、この狂歌のたくみさはどうであろう。
ところがお滝にさほどの学問があったわけではない。
娘の頃には、家老の児玉家に行儀見習いとしてあがっていた。
その実家の村田家は、萩に屋敷があるが、陪臣であった。
毛利志摩という者の家来だから、杉家とは1階級下になり、本来ならば縁になりにくい。
このため仲に立つ者がはからって藩士児玉太兵衛養女というかたちをとって輿入れをした。
―読書ずきの家にゆきたい。
というのが、お滝の念願であった。
それには杉家がよかろうということになったのである。
が、杉家の実情は悲惨であった。(火事罹災の話につづく)以下略』
庭にある風呂からあがった民治が歩いた廊下はあれであろう。
居間の奥からお滝がそれを冷やかす。
家族がどっと笑う。
極貧の農家に近い杉家だったが、一応藩士であり、家柄も村家より少しだけ上だったという。
小説だからどこまでが事実でどこまでが虚構かはわからない。
ただ、明治23年、84歳まで長生きしたお滝さんは、明治の元勲たちにも昔話を話して聞かせていたことだろう。
司馬遼太郎氏も、明治の元勲の子孫や地元松本村の長老たちなどの取材を通じてかなり事実を取り入れていたはずだ。
司馬氏の小説では、お滝は家老の藩士児玉太兵衛養女となっていたと書いている。
また生家の池村田家は、萩に屋敷があるが陪臣だったとある。
萩本藩の毛利の殿様の直接の家臣である杉家は、身分は低いといえども直参と言えよう。
あとでわかったことだが村田家の主君は長州支藩の殿様であるから、その家臣の村田家は萩本藩から見れば「臣下の臣」、つまり陪臣となる。
萩本藩の直参藩士にわが娘を嫁がせようとして、罹災後の困窮にあえぐ杉百合之助に、娘も家も与えたのである。
山岡荘八はそのシーンを小説に取り入れていた。
ある読者の方の感想文を抜粋する。
『松蔭の母は滝といい、児玉太兵衛が滝を引き取って家で召し使いとして仕事をさせているが、滝は家事万端を教えてもらっている身ともいえる立場である。
その太兵衛が苦渋の思いで滝に「百合之助のところに嫁がないか?」と話を切り出す。
それが松蔭出生のきっかけとなるから不思議なものだ。
太兵衛の決断がなければ大袈裟に言うと、今の日本の姿はなかったといっても過言ではない。
それだけ松蔭の出現は日本の歴史にとって重要な位置を占めている。
太兵衛は滝を説き伏せる時、学問好きの少し暗い百合之助と明るい性格の滝が一緒になれば・・・すばらしい血筋が出来上がるみたいなことを長々と言って、最後の結びが「・・・・人作り、これがなければこの世にさっぱりおもしろ味もなければ進歩もない。
学問も学黌も、考えてみれば、みなその大きな花を咲かせるための肥料なので、その花作りの上手こそ忠義者というのではなかったかと・・・」と滝に語って暗に滝に使命感を抱かせている。
この辺は、荘八の得意な創造力で拵えたものであるのは言うまでもありませんが、なかなか味のある説得話です。
この太兵衛の言葉は荘八が読者に対する語りでもある。
嫁ぐ話は百合之助が苦労しているのを忍びないと思った太兵衛の気持ちから立ち上がっている。
それは百合之助の父、七兵衛の家が全焼し、不憫な生活を強いられ、霜の立つ頃に死んでしまった経緯からきている。
そこには火災さえなければという偶然性がある。
太兵衛の話を聞いた滝は戸惑うことなく「滝は、学問好きのお方を大好きでございます」の一言を発する。
それは偶然から必然への歴史の道程が始まり、日本史に大変な影響を与えることを孕んでいたことになる。以下略』
(「山岡荘八の吉田松陰を読む。」より)
http://ameblo.jp/mytec/archive1-201009.html
同様の小説を解説した「吉田松陰(1) 著 山岡荘八」
http://www.papy.co.jp/act/books/1-124666/
の書籍解説を読んでみると、「家老格の毛利志摩の家臣、村田右中の三女であるお滝」と出てきた。
お滝は、毛利志摩守の家臣、村田右中(うちゅう)の三女だった。
「毛利志摩守」とはどういう人物だったのだろうか。
それは官位の名で、「従五位下、志摩守」のことである。
すなわち周防徳山藩の第6代藩主、毛利広寛(もうり ひろのり)のことである。
お滝の父は、その家臣だった
『吉田松陰誕生の地から北西に約300メートル行った所に玉木文之進旧宅もある。
ここ樹々亭山屋敷は、吉田松陰の誕生の地である。
この地、松本椎原台団子岩にあった茶亭山荘(所有者、江向八谷藤兵衛)を実父杉百合之助の妻滝子の父村田右中が文政八年(1825)手にいれ百合之助に贈られた。
松陰は天保元年八月四日、士禄二十六石杉家第五代の二男としてここに生まれた。
その後、百合之助が盗賊改方頭役についたため、嘉永六年(一八五三)現在の松陰神社境内の杉家旧宅に引っ越した。
西向平家建の樹々亭は玄関三畳(先生兄妹の勉強間)、表座敷六畳、隠居部屋三畳、居間六畳と台所、物置、納屋、厩舎からなっていた。』
(「史跡・博物館 山口」より)
http://www2.plala.or.jp/shyall/siseki/yamaguti/index.html
これによると、椎原の樹々亭山屋敷が松陰生誕地の家屋であって、それをお滝の父が与えたことになっている。
とすれば、ここ松陰神社境内にある旧宅は、百合之助がある程度出世してから移り住んできたものとなる。
家屋の木材などを移築したものかどうかは不明である。
驚いたことに、滝の父は火事で罹災して山中で貧しくもまじめに農作業に精を出す青年杉百合之助にこの家屋を与えていた。
罹災直後に百合之助は父をも失って一人だった。
それを見て、家を与え、娘を嫁がせたのであろう。
お滝の実父は極貧の萩藩士に娘も家も与え、そしてそこで松陰が生まれている。
「日本史に大変な影響を与えることを孕んでいた。」と先の読書感想文は運命的な出会いを表現していたが、ひょっとして「歴史を転換すべく」計画的になされた松陰の誕生だったかも知れない。
更に驚くことは、村田右中は息子を鎌倉瑞泉寺の住職竹院となし、長じてそこを訪ねた松陰は竹院に米国密航を打ち明け、なおかつ竹院は「米国へ(軍事スパイとして)行け」と背中を押している。
その理由はまだ見えないのだが、村田右中には歴史を動かすために毛利本藩の重臣の中へ過激志士を生み出す必要を抱えていたようだ。
もっと高い位の人物のニーズを代行しただけかも知れない。
文政13年8月4日(1830年9月20日)
松陰の生年は文政13年8月4日(1830年9月20日)である。
その文政年間に江戸で活躍していた老中は阿部正弘であった。
阿部は在任中に度重なる外国船の来航を受け、中国ではアヘン戦争が勃発していた。
対外的脅威が深刻化した時代であった。
琉球に近い九州諸藩には、中国から欧州による植民地支配の情報もすでに入ってきただろう。
この300年も前に薩摩のヤジロウは2名の供を連れてインドへ出かけて行き、来日前のザビエルに聖書の和訳作業を請け負っていた。
九州諸藩が、海外の情勢に疎いはずはない。
平戸の松浦藩が私の脳裏には浮かんでくる。
山鹿素行の末裔が家老をしている藩である。
あの忠臣蔵の歌舞伎ドラマで、日の丸の扇を持って赤穂浪士たちに天晴れ天晴れと喝采する松浦侯である。
松陰が脱藩して東北遊歴のたびに出かけた日は、赤穂浪士討ち入りにの日に意識してあわせている。
功山寺で晋作が挙兵したのも其の日にあわせたが、いろいろあって翌日にずれ込んでいる。
ドラマは脚本家がいて、書いた筋書き通りに演出されて出来上がる。
歴史もそうなのか。
椎原地区の松陰生誕地には、敷地に基礎の跡しか残っていなかった。
松陰幽囚の家屋は松陰神社の方へ移築されている。
この「吉田松陰幽囚旧宅」があの椎原の山の中にあった家かどうかわからないが、間取りからすればあの生誕地の敷地にあった基礎跡と合うようである。
その庭先を眺めながら、父百合之助と母お瀧の様子を想像している。
5年ほど前に買って読んだ司馬遼太郎著「世に棲む日々(1)」を最近読み直している。
以前はざっと流しで読み去っていたのだが、ところどころで目が留まることが多い。
それだけ松陰に関する知識や情報が、この5年間の私の中で増えてきたのだろう。
その文庫本では最初の方で母お瀧の性格を描写していた。
一部抜粋する。
ここに出てくる杉民治とは、長男梅太郎のことである。
梅太郎は民政に良くつくしたため藩主から「民治」の名をあたえられた。
『この日、民治は入浴したが、足のあかぎれが傷口をあけており、湯がしみてとても湯船に入っておれず、あわてて飛び出したが、しかしいざ廊下を歩くとなると、夜盗のように抜き足差し足にならねば傷口がひびいた。
お滝はその歩き方をみて声をあげて笑い、
「あかぎれは 恋しきひとのかたみかな ふみ(恋文・踏みにかける)見るたびに 会いたいく(あ痛、にかける)もある」
という即興の狂歌を民治のうしろからあびせかけた。
家じゅうが笑った。
日本人の詩情は奇妙で、あかぎれというこの寒気による皮膚の無残な損傷ですら俳句の世界では冬の好季題になっているが、お滝は民治の悲痛さをユーモアに転化させた。
しかし、この狂歌のたくみさはどうであろう。
ところがお滝にさほどの学問があったわけではない。
娘の頃には、家老の児玉家に行儀見習いとしてあがっていた。
その実家の村田家は、萩に屋敷があるが、陪臣であった。
毛利志摩という者の家来だから、杉家とは1階級下になり、本来ならば縁になりにくい。
このため仲に立つ者がはからって藩士児玉太兵衛養女というかたちをとって輿入れをした。
―読書ずきの家にゆきたい。
というのが、お滝の念願であった。
それには杉家がよかろうということになったのである。
が、杉家の実情は悲惨であった。(火事罹災の話につづく)以下略』
庭にある風呂からあがった民治が歩いた廊下はあれであろう。
居間の奥からお滝がそれを冷やかす。
家族がどっと笑う。
極貧の農家に近い杉家だったが、一応藩士であり、家柄も村家より少しだけ上だったという。
小説だからどこまでが事実でどこまでが虚構かはわからない。
ただ、明治23年、84歳まで長生きしたお滝さんは、明治の元勲たちにも昔話を話して聞かせていたことだろう。
司馬遼太郎氏も、明治の元勲の子孫や地元松本村の長老たちなどの取材を通じてかなり事実を取り入れていたはずだ。
司馬氏の小説では、お滝は家老の藩士児玉太兵衛養女となっていたと書いている。
また生家の池村田家は、萩に屋敷があるが陪臣だったとある。
萩本藩の毛利の殿様の直接の家臣である杉家は、身分は低いといえども直参と言えよう。
あとでわかったことだが村田家の主君は長州支藩の殿様であるから、その家臣の村田家は萩本藩から見れば「臣下の臣」、つまり陪臣となる。
萩本藩の直参藩士にわが娘を嫁がせようとして、罹災後の困窮にあえぐ杉百合之助に、娘も家も与えたのである。
山岡荘八はそのシーンを小説に取り入れていた。
ある読者の方の感想文を抜粋する。
『松蔭の母は滝といい、児玉太兵衛が滝を引き取って家で召し使いとして仕事をさせているが、滝は家事万端を教えてもらっている身ともいえる立場である。
その太兵衛が苦渋の思いで滝に「百合之助のところに嫁がないか?」と話を切り出す。
それが松蔭出生のきっかけとなるから不思議なものだ。
太兵衛の決断がなければ大袈裟に言うと、今の日本の姿はなかったといっても過言ではない。
それだけ松蔭の出現は日本の歴史にとって重要な位置を占めている。
太兵衛は滝を説き伏せる時、学問好きの少し暗い百合之助と明るい性格の滝が一緒になれば・・・すばらしい血筋が出来上がるみたいなことを長々と言って、最後の結びが「・・・・人作り、これがなければこの世にさっぱりおもしろ味もなければ進歩もない。
学問も学黌も、考えてみれば、みなその大きな花を咲かせるための肥料なので、その花作りの上手こそ忠義者というのではなかったかと・・・」と滝に語って暗に滝に使命感を抱かせている。
この辺は、荘八の得意な創造力で拵えたものであるのは言うまでもありませんが、なかなか味のある説得話です。
この太兵衛の言葉は荘八が読者に対する語りでもある。
嫁ぐ話は百合之助が苦労しているのを忍びないと思った太兵衛の気持ちから立ち上がっている。
それは百合之助の父、七兵衛の家が全焼し、不憫な生活を強いられ、霜の立つ頃に死んでしまった経緯からきている。
そこには火災さえなければという偶然性がある。
太兵衛の話を聞いた滝は戸惑うことなく「滝は、学問好きのお方を大好きでございます」の一言を発する。
それは偶然から必然への歴史の道程が始まり、日本史に大変な影響を与えることを孕んでいたことになる。以下略』
(「山岡荘八の吉田松陰を読む。」より)
http://ameblo.jp/mytec/archive1-201009.html
同様の小説を解説した「吉田松陰(1) 著 山岡荘八」
http://www.papy.co.jp/act/books/1-124666/
の書籍解説を読んでみると、「家老格の毛利志摩の家臣、村田右中の三女であるお滝」と出てきた。
お滝は、毛利志摩守の家臣、村田右中(うちゅう)の三女だった。
「毛利志摩守」とはどういう人物だったのだろうか。
それは官位の名で、「従五位下、志摩守」のことである。
すなわち周防徳山藩の第6代藩主、毛利広寛(もうり ひろのり)のことである。
お滝の父は、その家臣だった
『吉田松陰誕生の地から北西に約300メートル行った所に玉木文之進旧宅もある。
ここ樹々亭山屋敷は、吉田松陰の誕生の地である。
この地、松本椎原台団子岩にあった茶亭山荘(所有者、江向八谷藤兵衛)を実父杉百合之助の妻滝子の父村田右中が文政八年(1825)手にいれ百合之助に贈られた。
松陰は天保元年八月四日、士禄二十六石杉家第五代の二男としてここに生まれた。
その後、百合之助が盗賊改方頭役についたため、嘉永六年(一八五三)現在の松陰神社境内の杉家旧宅に引っ越した。
西向平家建の樹々亭は玄関三畳(先生兄妹の勉強間)、表座敷六畳、隠居部屋三畳、居間六畳と台所、物置、納屋、厩舎からなっていた。』
(「史跡・博物館 山口」より)
http://www2.plala.or.jp/shyall/siseki/yamaguti/index.html
これによると、椎原の樹々亭山屋敷が松陰生誕地の家屋であって、それをお滝の父が与えたことになっている。
とすれば、ここ松陰神社境内にある旧宅は、百合之助がある程度出世してから移り住んできたものとなる。
家屋の木材などを移築したものかどうかは不明である。
驚いたことに、滝の父は火事で罹災して山中で貧しくもまじめに農作業に精を出す青年杉百合之助にこの家屋を与えていた。
罹災直後に百合之助は父をも失って一人だった。
それを見て、家を与え、娘を嫁がせたのであろう。
お滝の実父は極貧の萩藩士に娘も家も与え、そしてそこで松陰が生まれている。
「日本史に大変な影響を与えることを孕んでいた。」と先の読書感想文は運命的な出会いを表現していたが、ひょっとして「歴史を転換すべく」計画的になされた松陰の誕生だったかも知れない。
更に驚くことは、村田右中は息子を鎌倉瑞泉寺の住職竹院となし、長じてそこを訪ねた松陰は竹院に米国密航を打ち明け、なおかつ竹院は「米国へ(軍事スパイとして)行け」と背中を押している。
その理由はまだ見えないのだが、村田右中には歴史を動かすために毛利本藩の重臣の中へ過激志士を生み出す必要を抱えていたようだ。
もっと高い位の人物のニーズを代行しただけかも知れない。
文政13年8月4日(1830年9月20日)
松陰の生年は文政13年8月4日(1830年9月20日)である。
その文政年間に江戸で活躍していた老中は阿部正弘であった。
阿部は在任中に度重なる外国船の来航を受け、中国ではアヘン戦争が勃発していた。
対外的脅威が深刻化した時代であった。
琉球に近い九州諸藩には、中国から欧州による植民地支配の情報もすでに入ってきただろう。
この300年も前に薩摩のヤジロウは2名の供を連れてインドへ出かけて行き、来日前のザビエルに聖書の和訳作業を請け負っていた。
九州諸藩が、海外の情勢に疎いはずはない。
平戸の松浦藩が私の脳裏には浮かんでくる。
山鹿素行の末裔が家老をしている藩である。
あの忠臣蔵の歌舞伎ドラマで、日の丸の扇を持って赤穂浪士たちに天晴れ天晴れと喝采する松浦侯である。
松陰が脱藩して東北遊歴のたびに出かけた日は、赤穂浪士討ち入りにの日に意識してあわせている。
功山寺で晋作が挙兵したのも其の日にあわせたが、いろいろあって翌日にずれ込んでいる。
ドラマは脚本家がいて、書いた筋書き通りに演出されて出来上がる。
歴史もそうなのか。
2011-02-08 20:22
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