中田英寿の現役復帰の可能性について [奥州街道日記]

ミッドフィールダー。
サッカーでフィールドの中央を守り、フォワード(FW)とディフェンダー(DF)の間に位置し、両者をつなぎつつ攻撃と守備の両方に関わるポジションのことである。
ゲームを組立てる重要な役割を持つ。

アルゼンチンではVolante(ボランテ)という。

スペイン代表のMFであるシャビ(Xavi)のワールドカップ決勝戦でのほぼ全プレーを注目してみてみた。

スペイン・カタルーニャ州テラッサ市出身でリーガ・エスパニョーラのFCバルセロナに所属するスペイン代表の MFである。
決勝戦のシャビのプレーを見て、あの中田英寿が現役復帰したいと思ったというから見たのである。

7月23日夜9時からのNHKのテレビ番組で「中田英寿の見たワールドカップ」を放映していた。

その中で決勝戦の終了直後に中田英寿が吐いた言葉が「シャビ」だった。
シャビの役割なら自分の年齢でもできるし、やってみたいと思ったのではないだろうか。

中田はおそらく復帰するだろう。
その光景を撮ったのはNHKの手柄だ。

中田英寿は日本のMFとしてシャビと同じ背番号8番をつけ、ドイツW杯のグループリーグ全3試合にフル出場した。
ブラジル戦終了後にピッチに仰向けになりタオルを頭からかぶって10分間ほど泣いていたシーンは有名である。

そのプロ中のプロである中田が、涙のブラジル戦から4年後の南アフリカ大会決勝戦で見たのはシャビのプレーだと語ったのである。

実は私はほとんど決勝ではシャビの姿を追って見てはいなかった。

スペインはイニエスタとビジャとプジョルのチームだとばかり思っていた。
しかし、プロが同じ試合を見るとそうではないということだった。

スペインはシャビのチームだということだ。
決勝点のシーンではシャビは画面に登場してこない。

それはスペインサッカーのスタイルではなく、セスク・ファブレガスによってまるでオランダロッペン式に右サイドを突破することから生まれた勝機を生かしたシーンだからだ。
シャビは画面を右に外れた位置にいたはずだ。

だからシャビは私にとって印象が薄かったのだ。

スペイン対オランダの決勝戦「90分+30分」のフル試合をビデオで見直してみた。
背番号8番のシャビに注目してみた。

シャビがつぶされているときはスペインの攻撃の目が失われていた。
シャビが自由に球をさばいていると、シャビから鋭い攻撃開始の指令パスが出ていた。
それを合図に前方の選手たちは一斉に互いに約束していたかのような場所へ向かって加速する。

シャビはスペインの司令塔であった。
そしてその動きは120分間まったく変わらなかった。

MFの走る距離や速度はフォワードほど要求されない。

位置はいつもピッチの大体真ん中辺りなので体力の損耗は少ない。
それでいてゲームの流れを変えることができる。

頭脳プレーそのものである。
年齢や体力によらず勤まるポジションである。

中田はそこにプロとしての自分の生き方を発見したのだろう。

万一現役に復帰するとしても、中田はおそらくJリーグではやらないだろう。
スペインかイタリアだ。

「シャビの価値」を認めているプロリーグに名乗りを上げるのではないか。

中田の番組発言に刺激されて、もう一度決勝を見た私だったが、確かにプロが見るサッカーは違うことがわかった。

中田はシャビの優れたプレーを一番印象深いものとして指摘していたが、これまで決勝戦を2回(ライブとビデオ再生)見たときには、その意味が理解できていなかった。

中田に言われて今回3回目に見たときは、番組内で解説の山本さんがいう言葉の意味が理解できた。
山本さんは、2度ほどシャビのプレーを絶賛していたのだった。

つまり中田と山本さんは同じところを見て評価しているのだった。

私は目が見える人間だが、それなのにそれが見えていなかった。
サッカーは奥が深い。

中田が日本代表のMFを勤めるとすれば、フォワード陣やサイドバックの人選は中田自身が決めねばならないだろう。

自分がパスによって理想的な形で使える能力を持つ人材が中田の周囲に必要となるだろう。
監督が代表選手を人選するようでは中田は生きてこないだろう。

それだけ中田は選手としては難しい人材だ。
中田には世界が見えているからだろう。

テレビ解説者の「山本監督」に、中田MFという組み合わせがいいかもしれない。

私は「フォワードの起用ミス」を今回の日本代表の敗戦理由としてあげたが、それは瑣末な現象だったかも知れない。
一人だけわがまま勝手なフォワードを一人交代させても負けていた可能性が高い。

ワールドカップで決勝まで進もうとするには、その程度のミスの修正ではすまないということだ。

中田はパラグアイ戦に確実に勝つ方法を知っているだろうし、日本が優勝するための方法も見えていることだろう。
パラグアイ戦では、日本代表は防御一辺倒で「戦うことを忘れていた」という見方は私も中田と一緒だった。

引退後の中田の行動は尊敬に値するが、私はあまりそれは好きではない。
50歳の中田の行動ならば賛同するだろう。
まだ中田は若い。

現役復帰するならば、かつての中田ファンに私は戻るだろうと思う。
がんばれ、中田英寿。

7月25日16時40分からNHK総合で「中田英寿が見たワールドカップ、独占インタ!」として放送される。
私が見たのはNHKのBS放送だったようだ。

「自由」とは何か? [奥州街道日記]

自由について考えている。
定時に退社するとき、私と同じビルから二十歳半ばの若い女性がいつも出てくる。

彼女の右手には白い杖が握られている。
目が不自由なのだ。
彼女を見る度に私は「自由」とは何かを考えてしまう。

夕方、定時に退社するときに必ず出会うのだから彼女は会社勤めなのだろう。
外資系のIT企業名が同じビルのテナント名としてあるから、そこで働いているのかも知れない。

白い杖の手に持つ部分は赤い色をしている。
それが塗料なのか赤いテーブを巻いているのかは私にはわからない。
真剣にそれを見たわけではないからだ。

しかし、彼女がときどきわずかな歩道のタイルの段差に杖の先を突っかけてはちょっと速度を落とすので、杖の先の構造に向けて私は目をやった。

杖の先端は長さ30mmほどの樹脂製の部品が付けてある。
白い杖の先に小さなクリーム色の部品が埋め込まれている感じだ。

地面を擦(こす)りながら歩くので、もともとは丸かっただろう樹脂の先は片減りしており、今はややゴツゴツしているようだ。

回転するコロが先端についていれば数mm程度の凹凸は乗り越えられるのではないかと思った。
しかし、そのアイデアを彼女に伝えるでもなく、他人である私は今日も黙って彼女の横を追い越していった。

追い越しながらも私の目は歩道の段差とそれに当たって跳ねている杖の先端を凝視しているのだが、彼女はそういうことは知らない。
彼女を帰り道追い越すときに、毎度のことであるが「自由とは一体なんだろう?」という言葉が私の脳裏を横切る。

なぜ「自由」という言葉が脳裏に浮かんできるのだろうか。

私には二人の娘がいる。
両方とも働いている。
しかも白い杖の彼女と同世代だ。

目の不自由な人が毎日頑張って働いているのだから、娘たちも贅沢言わずに頑張りなさいと、いうような教訓めいた思いが少し浮かんだことは事実だ。

しかし、あの「自由」という言葉は、そういう浅い意味の問いかけではない。
私の人生に重くのしかかってくるような問いなのである。

彼女を見たときに私の胸に突き刺さる「自由」という言葉は、娘たちや他の人への教訓として 浮かんで来ているのではない。
白い杖の若い女性の姿は、直接私自身に向けて「自由」とは何かを問い掛けているのだ。

彼女の「不自由さ」が、そのまま私にそれ考えさせている。

目が不自由な彼女。
そして目が自由な私。

それが「自由」ということの一つの姿である。

何でも見たいものを私は見ることができる。
見たくないものには目を背ければよい。

しかし、白い杖の彼女には目を背ける「自由」さえない。

「自由」とは、私の意志に従い行動できるということだ。
人生の終盤近くに立って、果たして私は「私の意志に従い行動した」ことがあっただろうか?
そう自分で考えてみたいのだろうか。

目の不自由な彼女とすれ違うとき、必ず「自由」の文字が浮かんでくる。

私は、もの心ついた三歳くらいからこの方自分だけの意志に従い行動したことなど一度もなかったように思われる。
ただこの五年間だけは、長い連休が取れるときは日本橋から出発する五街道を一人でシュラフとテントを担いで歩いた。
この行動だけは完全に自由な意思決定によるものだった。

街道を歩いている間は、「私の意志に従い行動した」ことは間違いない。
完全なる私の自由のもとに計画をし、そして実行した。

おかげで五街道を、繋ぎながらだが全て通しで歩き通すことができた。
確かにあれは「自由」だった。

それを許してくれたカミさんや子供たちに感謝しなければならない。
つまり私の完全なる自由とはカミさんや子供たちの犠牲の上で得たものだ。

ならば、家を捨て世間を捨てる出家人ならその行動は「自由」なのか?

いや、寺や宗派には守るべき戒律がある。
寺の規則や僧侶の先輩後輩の関係もある。
坊主も自由とは言えまい。

翌日有楽町線で麹町へ移動の途中、人身事故で地下鉄が止まった。
仕方がないから構内にあるスタバでコーヒーを飲もうとした。

料金を支払う私のすぐ左手の窓側に大きな犬が「ハアハア」息を吐き長い舌を出して暑さに耐えている。

地下鉄構内になぜ犬が?

その犬の側で、若い女性が立ったまま窓辺のスタンドでコーヒーを飲んでいた。
盲導犬だったのだ。

その人も20歳代と思われる若い女性だった。
彼女の目の周囲の様子で目から、目が見えない人だとすぐわかった。

昨夕に白い杖の女性を見たことが契機になって「自由」の意味を考えていて、今度は別の目が不自由な女性にあった。

意外に目が不自由な人々が都内を「自由」に歩いていることに驚いている。

目が見えない人が意外に自由に外出している。
逆に、目が自由に見える私の方がかえって休日に部屋の中でゴロゴロしているのかも知れない。

自由とは与えられるものではなく、努力して勝ち取るものである。

歩きたいと言う思いが強い人は、歩く自由を手に入れるのである。
失った視力を返せと願っても、それは叶わない。
しかし、目が見えない人でも、歩きたいと強く思う人は、殆ど自由に歩き回れる。

五街道を歩いてみて、私はそれと同じことを学んだ。

私に街道歩きを辞めさせようとする理由はここに書き切れないほど沢山生じてくる。
足に豆が出来て歩けない。
小遣いがなくて新幹線が使えない。
大型台風が接近しているから危険だ。

全ての理由を私は無視してきた。

足に豆が出来て痛くなったら「無無痛(むむつう) 亦無無痛(やくむむつう)」などと般若心経の替え歌?を唱えながら、痛みは「無」であると脳に教え込み歩き続けた。

正しい文句は「般若心経( Wikipedia)」に詳しく載っているが、私が活用したフレーズは下記の部分だけである。
『無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。』

独学で理解すればこうなろうか。

『灯りがないということもない。(つまり無明などない。)
また(亦)、無明が尽きるということもない。

さらには(乃至)、老いて死ぬることも無いし、また(亦)、老いや死が尽きるということもない。』

一切は無である。
明るいというのも無いし、また暗いというのも無い。
そう錯覚しているだけだ。

老いることや死ぬことも錯覚であるだけで、実はない。
生きていることすら「無」なのだから。

時間軸を100年先に延ばせば、私は土になっているはずだ。
そういう小さな立場の私が生きているとか、老いるとか、死ぬとか、明るいとか、暗いとか騒いでいるだけのことなのだ。

悠久の宇宙の姿から見れば、私ひとりの体なんて無いのに等しい。
瞬間的に存在し、あとの長い時間はずーと「無」の状態のままなのである。
それはほぼ無いに等しい。

私は勝手にこのように理解している。

それを一休和尚はこういった。

「空中 しばし 我あり」

「しばし」しか人間は存在していないのだから、痛いの、明るいの、暗いの、老いるの、死ぬのと無駄なことはするな。
大事なことはほんのちょっとでも生きていることをお釈迦様に感謝しなさいということだろう。

だから足の豆の痛みも同様に「無いに等しい」ものだ。
私の脳神経が「ただ痛いと錯覚しているだけ」なのだから、痛みのせいで街道歩きをやめることなど意味のないことだ。

そう考えて痛みを無視して歩いていると、不思議に足のほうが丈夫に変化していった。

今では10日間連続で歩いても、足の痛みで歩きをやめることは絶対ない。
私の足で10日間歩く距離はざっと250kmである。

それが街道歩きを始めた5年前では、わずか3日目でたびたび街道歩きを中断していた。

つまり、現在は「痛みが無くなる」ということさえも無くなったのである。

それでも足の前ができるときは、ちゃんと豆の手当はしている。
それだけでは激痛を乗り越えられないということだ。

そこで自己洗脳を工夫したのである。

痛みだけではなく、他の原因で街道歩きを中止しようと思うこともたくさんあった。

次の出発点まで移動する場合に小遣いが足りないときは、若者たちに混じって格安の深夜高速パスを多用した。
お金がないから街道歩きができないと考えないから、なんとしてでも出発点へ移動しようと努力したのである。

大型台風のど真ん中でテントを張って一晩中堪えたこともある。
中仙道妻籠宿でのことだった。

真田雪村たちの篭城作戦に手間取った徳川秀忠は、妻籠宿に到着したときに関が原の戦いが終わったという知らせを受け取った。
秀忠が父家康の激怒の姿が浮かんだだろう妻籠宿で、私は強烈な台風の攻撃を受けた。

このとき家康は徳川本軍を子の秀忠に与えて、自分はどちらかというと外部の雇用した兵隊を率いていた。
家康は東海道を秀忠は中山道を通って関が原へと向かったのだ。
6万を超える軍隊が一本の街道を歩けば、不意打ちにあう可能性がある。
二手に分けるとともに、三男秀忠を次の征夷大将軍にすべく手柄を与えようとの父親の思いは馬鹿息子に踏みにじられた。

その妻籠宿に秀忠軍とは逆の方向から私が着いたのは、日がとっぷり暮れた夜8時だった。
すでに雨風は強くなってきていた。
予報では風速35mを超える強風が吹くと告げていた。

そこで私はテントは夜のうちに飛ばされるものと覚悟した。
公園の草むらでやや小高いところにテントを張った。
いずれ公園も水浸しになるはずだ。
少しでも高い位置に張っておくことで、体が水にぬれるのを防ごうとした。

リュックの中身を出さずに、しかもカッパを着たままシュラフに潜り込んだ。
もしテントが吹き飛ばされたときに、そのままリュックを担いで逃げ出せるためにそうしたのである。
そういう非常事態ではテントやシュラフは捨てるしかない。

これも備えあれば憂いなしのやり方の一つである。

なぜそうまでしたのか?

ただ街道を歩き続けたいからだ。

そういう工夫を重ねることによって、私は五街道すべてを通しで歩くことができた。
つまり「歩く自由」は人から与えられたものではなく、私自身の強い意志によって勝ち取ったのである。

あるとき奥州街道歩きの出発の前日、大型台風の接近は確実と天気予報が知らせていた。

会社の同僚は登山に行くかどうか迷っていた。
彼は私に聞いてきた。

「近づいていますよねえ。どうしますか?」

彼は2000メートル級の登山の計画で、私はほぼ平地の奥州街道歩きだ。
聞くのは逆ではないか?

彼の方が遥かにリスクの高いレジャーを企画している。
街道歩きをやるか辞めるかと私に聞いて、それが彼に役立つ話ではない。

もし私が街道歩きを辞めるなら、彼も2000メートル級登山を辞めようと考えたのかも知れない。
それは質問する相手を間違えたというべきだろう。

こういうところは日本人的な非合理性が働くのだろう。

欧米人なら自分自身で判断するか、 自分よりキャリアが上の登山家に尋ねるはずだ。
私にもそういう日本人的な性向がまだ残ってはいるが、日本人は大体訳もなく雷同を好む。

私は彼に答えてあげた。

「私は、槍が降って来ても辞めないよ。」

それから彼が台風の中を山に登ったかどうかを知らないし、聞いてもいない。

自分のリスクは自分できちんと判断すべきだ。
それこそ私たちには無限の自由度が与えられているのだから。

ここまで書いて来て、目の見えない彼女たちが無意識に私に投げかけてくれた問いの答えに「はた」と気付いた。

「自由」は無限であって、そして自らの意思で勝ち取るべきものであると。

歩きたいと言う思いが強い人は、歩く自由を手に入れるのである。
同じように、働きたいと思う人は、働く自由を手に入れるのである。

自由とはそういうものなのだ。


それから数日後のことだった。

その日は定時で退社出来ずに3~4分遅れでビルを出た。

昨日より日陰の気温は低いなあと感じながら大暑の日の歩道を歩いて地下鉄駅への階段へと降りた。

自動改札を通り、聞き慣れた「ピッ」と言うRFIDの読み取り音を耳の後ろに聞きながら改札を通過した。

通過した後ですぐ前方に立ち止まっている若い女性の背中にあやうく当たりそうになった。

あとで気づいたが、その女性は手に白い杖を持っていた。
立ち止まって定期入れを腰に下げた鞄の中に仕舞うところだった。

改札機から下りの階段までは約10メートルの距離である。
危険な階段を降りる前に、彼女は身支度を整えていたのである。

私は今日少し遅れて退社したから、同じビルから出たあの白い杖の娘さんがこの目の前にいる女性なのだと気づいた。

地下鉄構内で彼女を見たのは珍しかったので、すぐにそれとは気づかなかったのだ。

良く考えてみると、白い杖のこの娘さんが勝ち得た自由とはなかなか大変なものである。

水平歩行だけでも歩道の凹凸に杖が突っ掛かる。
自動改札を皆と並んで通過しなければならない。
下り階段に差し掛かるその前には、杖を小脇に挟みながら定期入れを鞄に仕舞わねばならないのだ。

そこへ白い杖が死角に入るためだが、後ろから私のようなデリカシーの欠けた「自分のことしか考えないおじさん」がぶつかりそうになってやって来る。

「自由に歩きたい」、たったそれだけのことを実現するために、白い杖の彼女はどれほどの努力をしなければならないのだろうか。

いままでそういうことを「思いやる心」が私には欠けていたようだ。

しかし意外とご本人はそれらの一連の努力を大変だと思っていないのかも知れない。

それはご本人に聞いてみなければわからないことであるけれど。

旅の備えは体に聞け~奥州街道(4-169) [奥州街道日記]

TS393295.jpgTS393295翌朝のテントの光景
TS393296.jpgTS393296駐輪場の鉄格子を利用
TS393297.jpgTS393297コンクリートの端の土に杭を打つ

翌朝のテントの光景を見れば昨夜の私のテント設営の工夫がよくわかる。

まず左手の川に近いほうは、駐輪用のタイヤ入れの鉄格子にロープでテントを結び付けている。
右手はコンクリート面だから杭が打てない。
ならば、杭が打てる場所まで杭を移動させよう。

するとロープが足りない。
ならば「予備のロープ」を結んでロープを延長すればよい。

リュックの中に長すぎず短すぎない「予備のロープ」をちゃんと入れているところが、街道歩きに慣れた証拠でもある。
短いロープ1本がなくて何度も泣く目にあって、その体験から備えが充実してくる。

初めて旅にでるときは、誰でも準備は不十分なのである。
最初から玄人並みに準備してから旅で出ようなどと考えるだけやぼである。

頭で考えてできるものではないからだ。

もし賢い御仁が頭で考えて事前準備を完璧にしたと仮定しよう。
おそらくリュックの重量は30kgを超えてしまい、自分では持ち上げられなくなるだろう。
それは頭でっかちなアイデアに過ぎない。

私のリュックは重量が15~16kgである。
その限られた狭い空間に「必要なものがちゃんと過不足なく」詰められていることが肝心なのだ。
そういうことは、旅の実地体験を通じて体で覚えていくしかないものなのだ。

温泉「延年閣」へ~奥州街道(4-168) [奥州街道日記]

TS393292.jpgTS393292旧道は今度は国道の右手を行く
TS393293.jpgTS393293「栗原市金成稲荷前(かんなりいなりまえ)」東京より427km地点
TS393294.jpgTS393294坂上の灯り(説明は本文参照)

金成宿のハリストス国教会には寄りたかったが、残念だが行けない。

バイクや自動車の旅なら、あちこち寄ることはできよう。
私の100ccの心臓バイオエンジンとこの3日目の疲れた二本の脛(スネ)では、あれもこれもの贅沢はできない。

今日は風呂を優先する。
ハリストスは、いつかまた車でくれば良い。

街道歩きは体が元気な今しかできない。
しかし車での旅なら10年後の私でもまた来れるだろう。
「今できること」を今やる。

久しぶりにファミマを発見した。
この間殆どコンビニを見なかった。

体が欲しがるものを素直に買った。

ビール。チーズ、ピーナッツ、はちみつレモン(飴)、紀州梅お握り、サッポロ一番みそラーメンだ!

驚いたことに、みな安いものはがりである。
私の体は安い食品で養われたことがわかる。

お坊ちゃん育ちならワインやハム、チーズなどを買うのだろうか。
コンビニの駐車場に座り込んでビールを飲む。
酔っ払い歩行になるけれど、温泉はもうすぐである。

18時30分にコンビニを発ち、15分後に温泉「延年閣」に着いた。

真っ暗な坂道を緩やかに曲がりながら登っていくと、なんの花だったか「ようこそ延年閣へ」と書いたロータリーの花文字が出迎えてくれた。

ちゃんとした温泉であって、日帰り入浴料は400円と安い。
忙しく服を脱いで湯船にどぶんと飛び込んだ。

日焼けた顔と体が目立つのだろう。
湯船の中に浸かっている地元のお客さんたちの視線が「明らかなよそ者」の私の体に注がれる。

最初は戸惑ったことだが、今では慣れている。
九州育ちで東京住まいの私が、顔立ちだけでも奥州では珍しいのである。
それが農家の人よりも日焼けして、腕は黒いが体や足は白いというツートンカラー姿で湯船に入ってくるのである。

妙な人物に見えないほうがおかしい。

湯上りにホールでビールと山菜そばを食べた。
今日の最大の目的「温泉ドボン」は達成できた。

湯上りの風に清清しさを満喫しながら、坂を下り再び夜の旧奥州街道を歩く。
すぐにテント泊に適した場所が見つかることはまずない。

「栗原市金成稲荷前(かんなりいなりまえ)」東京より427km地点の標識がある。
「金成稲荷」の前なのか、「栗原市金成」にある「稲荷」の前なのか、この表示ではわからない。

おそらく「金成稲荷の前」を通過しているのであろう。
暗闇でお稲荷さんとの遭遇などはご遠慮したいものである。

旧道をヘッドランプをつけて歩いていく。
写真下の解説に「坂上の灯り(説明は本文参照)」と書いたが、ここからそのシーンに入る。

いくつか小山を越え、坂を下ってきたが、私を追い越して先へ行く自動車のヘッドランプはまたかなりの急な坂道を登っていく。
暗闇なのになぜそれがわかるのか?

私の目線よりも高いところに自動車のヘッドランプが向かって上るからわかるのだ。
写真下は自動車の列がゆるややかに左旋回をしながら、次の小山の上へと上っていくシーンを写したものだ。
写真の高さ方向で下端から1/4くらいのところが私が歩いている道路である。

風呂上りのさっぱりした体にこれ以上汗をかかせたくはない。
しかも足はかなりしびれてきている。

中くらいの川を渡る橋があった。
川の傍には草むらがあるはずだ。

橋を渡ったところに確かに草むらが少しあったが、自動精米機の前に使われなくなった自転車の駐輪場らしいコンクリート敷きの空間があった。
屋根がついているのだ。
自転車は一台もない。

よし、このコンクリートの上にテントを張ろう。
コンクリートには杭が打てないが、知恵でテントを張ろうと考えた。

暗闇の中でようやく今夜の寝床が確保できた。
寝床の様子は翌朝の次の記事で紹介しよう。

草むらとテント~奥州街道(4-167) [奥州街道日記]

TS393289a.jpgTS393289a街灯がつきはじめた
TS393290.jpgTS393290旧道は国道4号線と並ぶ
TTS393291.jpgS393291テントが張れそうな草むら

温泉を目指して歩いている。
3日目に入る風呂であるから、楽しみである。
旧道はやがて国道4号線と並んで進む。

まだ空は少し明るいが、すでに古い町並みにある街灯には灯りがついている。
街灯がつきはじめると、動物としての人間である私は自然と寝床の心配をしはじめるようだ。

左手の駐車場の傍の草むらに目が行く。
日暮れ時には、こうやって緑の狭いスペースを見つけるとどうやってテントを張ろうかと考える癖がついている。

風呂に行こうとしているのに、頭は街道歩きの習慣に従ってテント泊地を探しているようだ。


金成の網走ラーメン~奥州街道(4-166) [奥州街道日記]

TS393285.jpgTS393285金成(かんなり)の「網走ラーメン」
TS393286.jpgTS393286一関まで15km
TS393287.jpgTS393287赤いバラ

金成(かんなり)の「網走ラーメン」の看板がある。
もし九州で「網走ラーメン」の看板を見れば場違いなものという感じがするだろうが、奥州で見る「網走ラーメン」が場違いなのかどうかわからない。

道路標識には「盛岡107km、奥州40km、一関15km」と書いてある。

確かに北海道は奥州からは近いのであるが、北海道の中でも網走は北の果ての方にあり、やはり遠い。

「遠い網走のラーメン」という印象を地元の人は受けるのだろう。
明治時代には元会津藩士を始め多くの東北人が蝦夷開拓のために北海道に入植した。
ありていに言えば、現地人アイヌの人々の土地を無断で奪い植民地化していったのである。

先祖に開拓民がいる家庭の人々にとって、最果ての網走は決して知らない土地ではないのであろう。

一関まで15kmだから、一関が私の1日の旅程の範囲に入ってきた。
しかしそろそろ日が西に落ちて行っている。
3日目のテント設営の場所を決める必要が出てきた。

畑に農家のご婦人が植えたのだろうか、赤いバラたちが美しい。

街道のどこかで見かけた温泉が数km先にあるという。
風呂に入るため国道4号線を歩く。

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