関ヶ原のその時 [奥州街道日記]
小山評定(ひょうじょう)(=会議)は
、関ヶ原の戦いで家康につくか、それとも秀吉につくか、上杉征伐に従軍していた大名たちに大老の家康が覚悟を求めるものだった。
山内一豊が「城を空け渡して、掛川藩全員で家康殿のお味方をする」と発言し、「われもわれも」と皆がそれについて来た。
家康は大変驚き喜んだ。
このとき、関ヶ原の勝負がついたと井沢元彦氏はいう。
一豊の意見は会議場にいく途中の朝同行した20歳代の若い武将堀尾忠氏から騎馬で並走しながらこっそり聞いた若者の覚悟をパクったものだという。
若者はまだ二十歳代半ばの武将だった。
小山(おやま)に従軍していた堀尾忠氏のその父吉晴(大阪に残る)は山内一豊(五十代半ば)の同僚だった。
つまり友人の息子の覚悟のほどを聞いて、それを一豊がパクったのだ。
いつの世にもそういう輩(やから)はいる。
特許出願していればよかったのに。
、関ヶ原の戦いで家康につくか、それとも秀吉につくか、上杉征伐に従軍していた大名たちに大老の家康が覚悟を求めるものだった。
山内一豊が「城を空け渡して、掛川藩全員で家康殿のお味方をする」と発言し、「われもわれも」と皆がそれについて来た。
家康は大変驚き喜んだ。
このとき、関ヶ原の勝負がついたと井沢元彦氏はいう。
一豊の意見は会議場にいく途中の朝同行した20歳代の若い武将堀尾忠氏から騎馬で並走しながらこっそり聞いた若者の覚悟をパクったものだという。
若者はまだ二十歳代半ばの武将だった。
小山(おやま)に従軍していた堀尾忠氏のその父吉晴(大阪に残る)は山内一豊(五十代半ば)の同僚だった。
つまり友人の息子の覚悟のほどを聞いて、それを一豊がパクったのだ。
いつの世にもそういう輩(やから)はいる。
特許出願していればよかったのに。