我思う、ゆえに我あり~奥州街道(4-184) [奥州街道日記]

TS393352.jpgTS393352有壁宿の風景

山が間近に迫ってきているので、そろそろ有壁宿は終わりに近い。

宿場街を歩きながら「観世音」の意味を考えている。

「世の中を観て聞く」という意味ではないだろうか。
世の中のあらゆるもの、富んだ人や貧しい人、それぞれに菩薩が内在しており、菩薩の働きにより人は生きている。

今風に言えば、遺伝子の構造そのものを知恵の集大成をしたものとしての「菩薩」と表現したのであろう。

それは人間に限らず、世のすべてに通じる。

小さな野菊にも菩薩があり、その働きの妙(みょう)により、生命が育まれている。

花の色、葉の形、大きさなどを子々孫々に伝えている。
それは菩薩の働きであり、遺伝子のなせるわざである。

遺伝子工学などない紀元前6世紀に、釈迦はそのことに思い至ったのである。
すばらしい洞察力である。

観ることと聞こと(=音を感じること)を「世」にかけることで、世のあらゆるものに対してフィーリングを働かせるということを表している。

般若心経の中に釈迦の「無眼耳鼻舌身意」という言葉がある。
これらは人間の働きの総称であるが、それらはすべてが「無」であるという。

耳も鼻も体も意識さえも無いという。

確かに、30年後の私は火葬によって骨と灰になっているはずだ。
しかし骨だけは残る。

だから釈迦は「骨」が無いとは言っていない。

しかしそれ以外は何も残らないのだと喝破した。

『無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法(むげんにびぜつしんい むしきしょこうみそくほう)とは、

眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、心もなく、形も、声も、香りも、味わいも、触覚も、心の対象もない。

迷いや邪念や妄想を起こすのは、人間に眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(ろっこん)が備わっているからであるが、「六根」によって、次の「六境」色・声・香・味・触・法を認識する。

六根と六境すなわち主観と客観が、相互に交渉していくことを「十二処」という。

この処は、迷いと邪念を生じる根元の場所という意味。』
(「般若心経解読」より)
http://blog.goo.ne.jp/4126nk/e/07a79d9f179c55e8a2b5cd787b7ceb63

「むげんにびぜつしんい」の下りは、「むげんにびぜつしんにい」と言ってもよい。
形はあまり気にしないでよいだろう。
漢字の意味を感じながら、それに近い音(おん)を発すれば唱和したことになる。

お経の読み方の上手下手なども「無」である。
釈迦の教えに従えば、小さなことを気にしないでよいはずだ。

この解説によると、野菊の「色」さえも「無」だといっている。

しかし、これは哲学的結論なのであり、釈迦の教えはその反対をも意味している。

つまり、私の「眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、心もなく、形も、声も、香りも、味わいも、触覚も、心の対象も」実際は「ある」のである。

生きている間だけは、それらの働きによって喜怒哀楽を感じることができる。
死ねば喜怒哀楽は「無」になる。

それらの体の不思議な働きは遺伝子プログラムのコントロールのお蔭様なのであるが、それを釈迦は「菩薩の働き」だと洞察した。

駄目な人間だと悩む人に対しても、「心配ありませんよ、あなたの中にはちゃんと菩薩さまがおられるから安心して生きていきなさい。」と遠まわしに励ましている。

生きていることを楽しんでいない人に対しては、釈迦は厳しく教える。
「どうせいずれあなたも無になるのですよ。生きている今を精一杯楽しみなさい。」と。

玄奘の「観自在菩薩」も同じサンスクリット文字を漢字に訳したのだから、内包する意味は同じである。

「じーっと世の中のすべてのことを観察すれば、自然とそこに菩薩様が広く存在していることに気づくだろう。」

出家者に対しては厳しい修行を行うことを「観る」というのだろう。
私たち在家のものにとっては、「自らのことを深く見つめる」ことを指している。

「我思う、ゆえに我あり」ということだ。

いつもぼーっとしていて、自分自身の存在価値だとか、人間とは何かだとかの思索をしないものには菩薩が見えてこないこと教えてくれている。

奥州街道4日目の昼近くを迎えている。

私の足は半分痺(しび)れはじめているが、足の弱かった皮膚が角質化し変化を起こしているので豆はできていない。
初めての東海道歩きでは豆だらけで泣きながら歩いていたが、5年間の街道歩きによって菩薩様は私の「身」をまるっきり丈夫な「身」に変えてくれたようだ。

豆ができない体質に変えてくれたのも菩薩の働きだし、「そろそろ無理をしないで」というサインのとして神経を麻痺させているのも菩薩の働きである。

昼になってお腹がぐーっと鳴った。
これも菩薩による腹腔圧(あるいは腸内圧)制御の結果である。

すべての私の体の作用は、遺伝子プログラムにしたがって生じている。

確かに遺伝子プログラムという名の「近代的な菩薩」は私の中にちゃんとある。

それに気づいたなら、私は私の体のことをこれまで以上に大事にしていくことができるだろう。

観レバ自ニ在リ菩薩カナ~奥州街道(4-183) [奥州街道日記]

TS393351.jpgTS393351鳥居に「観世音菩薩」の字!
353px-Kano_White-robed_Kannon%2C_Bodhisattva_of_Compassion.jpg白衣観音図(狩野元信・画) (観音菩薩(Wikipedia)より引用)
TS393353.jpgTS393353『奥州三十三観音霊場』観音寺

有壁宿の町並みを楽しみながら北の方へ歩くと、すぐに宿場外れの雰囲気になる。
左手に大きな鳥居があるが、鳥居の上部には「観世音菩薩」と大書した扁額が掲げられている。

「観世音菩薩」とは確かインドの僧侶である鳩摩羅什(くまらじゅう)が般若心経を中国語訳したときの冒頭句「観世音菩薩」だったと思う。

釈迦の言葉がなぜ神社の鳥居に書かれているのだろうか?
鳥居の右下に細い石柱が立っている。

『奥州三十三観音霊場第二十一番札所』と読める。
これはお寺である。

鳥居があるから神社だと思い、奇妙な印象を持ってしまったのだが、霊場の札所ならばお釈迦様の教えを祀る寺である。

寺名は「観音寺」という。
私は街道に立って、小高い丘にある僧坊を見上げているだけなのだが、それでも大きなお寺であることがわかる。

有壁のこの寺について詳しく書いてある記事を見つけたので、それにより紹介したい。
街道歩きの先達の記事だと思われる。

『有壁の歴史は古く、町並みの最後尾にある観音寺(奥州三十三観音霊場第二十一番札所)は大同2年に坂上田村麻呂が三上大明神本地観音を建立し伝教大師を開山したと伝えられています。

一時は坊舎が24坊を数える大寺院でしたが衰退し、中世一帯を支配した菅原長尚が弘治3年に中興開山します。

近世に入り奥州街道が整備されると、有壁は峠前という地理的の要所という事で、元和5年(1619)に宿場町と整備され、有壁本陣を始め脇本陣、74軒にも及ぶ旅籠などがありました。

現在は有壁本陣や萩野酒造の土蔵などの古建築があり、町割りや敷地割りなどが大幅に変わっていない為、宿場町としての雰囲気を保っています。

特に新しく建替えられた住宅も瓦葺きの寄棟の建物が多く統一感を感じ、水場なども良く管理されています。 』
(「栗原市金成: 有壁宿町並み」より抜粋)
http://www.miyatabi.net/miya/kannari/arikabe.html 

「伝教大師を開山した」という表現がわからない。
伝教大師が開山したというのならわかる。

寺を開山するというが、人物を開山するとは言わないからだ。

おそらく伝教大師の許しを得て天台宗寺院として当初は開山したということだろう。

「菅原長尚が弘治3年に中興開山」とあるのは、廃れていた寺を再興したということだ。

弘治(こうじ)3年(15557)にはこういう出来事があった。

『信濃国川中島において甲斐国の武田晴信(信玄)と越後国の長尾景虎(上杉謙信)の軍勢が衝突(第三次川中島合戦)
この時代の天皇は後奈良天皇、正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝。』
(弘治 (日本)(Wikipedia)より)

比叡山延暦寺の僧「最澄(さいちょう)」のことを伝教大師(でんぎょうだいし)と呼ぶ。

『法名 最澄
法号 福聚金剛
諡号 伝教大師(傳敎大師)
宗派 天台宗

最澄(さいちょう)は、平安時代の僧で、日本の天台宗を開く。
近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。
生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。

先祖は後漢の孝献帝(こうけんてい)に連なる登萬貴王(とまきおう)で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。』

最澄は中国からの渡来人だったのか。
今でいう帰化した外国人である。

遣唐使として中国にわたり、最澄は旧約聖書の漢字訳を持ち帰った。
しかし、キリスト生誕以降のことを書いてある新約聖書は空海がもち帰り、高野山に納めてしまった。

あとで密教の経典として大事な新約聖書がないことに気づいた最澄は、空海に新約聖書の貸し出しを求めるが拒絶される。

弟子にならないと教えることはできない。

ならばということで最澄は高野山に出かけて空海の下に弟子入りして新約聖書を見せてもらった。

これを今風に言えばこうなる。

密教だと思って最澄が日本の比叡山に持ち帰った経典がユダヤ教の聖典だった。
カトリックの新約聖書は空海が持ち帰っていたのだ。
あわてて最澄は聖書の借用を願ったが、信者でないものには見せないとにべもなく断られた。

よって最澄は高野山で空海から洗礼をさずかり、新約聖書を読ませてもらった。

以上は私の空想である。

だが、これは本当のことらしい。
高野山には秀吉に国外追放されたキリシタン大名高山右近の十字架付の兜が保管されている。
また高野山の僧侶は早朝のお経を読み上げる前に袈裟の胸元で手で十字を切るという。

お経とは、釈迦の語った言葉を弟子たちが代々口伝で伝えてきたものである。
その「言葉」をインドの古代文字サンスクリット語で書いたものがインドにある「釈迦の経典」である。

中国へ伝来させるには、サンスクリット語で書いたお経を漢文に翻訳することが必要となる。

鳩摩羅什は「般若心経」を訳すときに、最初の句を「観世音菩薩」と漢訳した。

『350年 インド出身の鳩摩炎(サンスクリット:Kumārayana)を父に、亀茲国王の妹のジーヴァカ(サンスクリット:Jīva)を母として亀茲国に生まれる。
356年 母と共に出家。
360年代 原始経典や阿毘達磨仏教を学ぶ。
369年 受具し、須利耶蘇摩と出会って大乗に転向。主に中観派の論書を研究。
384年 亀茲国を攻略した後涼の呂光の捕虜となるも、軍師的位置にあって度々呂光を助ける。
以降18年、呂光・呂纂の下、涼州で生活。
401年 後秦の姚興に迎えられて長安に移転。
402年 姚興の意向で女性を受け入れて(女犯)破戒し、還俗させられる。以降、サンスクリット経典の漢訳に従事。
409年 逝去。

臨終の直前に「我が所伝(訳した経典)が無謬ならば(間違いが無ければ)焚身ののちに舌焦爛せず」と言ったが、まさに外国の方法に随い火葬したところ、薪滅し姿形なくして、ただ舌だけが焼け残ったといわれる(『高僧伝』巻2)。 』
(鳩摩羅什(Wikipedia)より)

インド人の父を持つ鳩摩羅什は亀茲国王の妹であるお母さんの影響で出家したようだ。
今風に言えばインド人とペルシャ人のハーフということになろう。

『亀茲(キジ)国とは、古代にクチャを中心に栄えたオアシス国家名の漢字表記である。

7/14付け毎日には、1世紀昔にその一帯を探査した大谷探検隊を、「阿弥陀が来た道15-クチャに広がる石窟群」と言う見出しで紹介していた。

近畿日本ツーリスト編:「クラブツーリズムの旅 保存版」、'02/7/10号には、「西域シルクロードとタクラマカン砂漠縦断の旅10日間」と言う企画が載っていて、この砂漠周辺に点在する、クチャを含めた旧オアシス国家群の古跡を歴訪するグループ・ツアーを募集していた。』
(「亀茲国」より抜粋)
http://www005.upp.so-net.ne.jp/shigas/HOMPG580.HTM

これによれば、鳩摩羅什がサンスクリット経典の漢訳に従事したのは402年のことである。

日本では第17代履中(りちゅう)天皇の時代である。(336年~405年)
履中は、仁徳天皇の第一皇子で母は葛城襲津彦の女・磐之媛(いわのひめ)である。

日本では古事記に記載されているような「神代の時代」に、鳩摩羅十は既に知的な翻訳作業に従事していたのだ。

四国のお遍路さんたちが霊場に到着してからすぐにお経をあげているが、それが「般若心経」である。

しかし、現在のお遍路さんたちが読んでいる般若心経の出だしの句は「観世音菩薩」ではない。
「かんじーじざいぼーさつ」と大きな声で唱えている。

「観自在菩薩」である。
これはインドに旅をした唐人僧「玄奘(げんじょう)」の漢訳である。

私たちは孫悟空の傍にいつもいる美しいお坊さんの「三蔵法師」として、玄奘の空想上の姿を思い浮かべることができる。

645年1月に生死を賭けた厳しい旅の末に657部の膨大な経典を唐の都長安に持ち帰っり、翌月から漢訳を開始したものだ。

現代日本人が接することができるお経は、玄奘の翻訳書を原点としているといってもいい。

ところがここ有壁の観音寺の鳥居扁額には鳩摩羅什の「観世音菩薩」が書かれている。

「かんぜーおほぼーさつ」という読み方のほうが、「かんじーざいぼーさつ」というよりも、やや優しい響きがある。

母に手を引かれて仏道に入った鳩摩羅什の暖かさのようなものがあるのだろう。
これに対して玄奘の観自在菩薩は学者や哲学者のような厳格な雰囲気を感じる。

世の中の音を観る(=聞く)ということは、世相を見るという意味であろうか。

『鳩摩羅什(くまらじゅう)の旧訳では観世音菩薩と言い、当時の中国大陸での呼称も、観世音菩薩であった。
これには、観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)の趣意を取って意訳したという説がある。

中央アジアで発見された古いサンスクリット語の『法華経』では、「avalokitasvara」となっており、これに沿えばavalokita(観)+ svara(音)と解され、また古訳では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、異なるテキストだった可能性は否定できない。

さらに、「世」の文字が唐の二代皇帝太宗李世民の名(諱)の一部であったため、避諱の原則により、唐代は「世」の文字は使用出来なくなった。
そのため、「観音菩薩」となり、唐滅亡後も、この名称が定着した。』(観音菩薩(Wikipedia)より)

うーん、いつもの事ながら仏教語の説明はわかりにくい。

聖書のように「誰が読んでも同じように理解できる言葉」でなぜ書かないのだろうか。
釈迦が実際に語った言葉は平易だったのではないかと思われるのだが、サンスクリット語が読めない私には想像するしかない。

ただ、『光世音菩薩』の訳語があることは、大変興味深い。
日本の歴史を大きく転換させた時代に「光」の文字を持つ人物が多く登場するのだ。

明智光秀、石田光成、将軍家光などである。
その気になって探せば、他にも重要人物が沢山浮かんでくるはずだ。

人名ではないが、攘夷の魁(さきがけ)となった下関「光明寺」なども興味深い。

観世音菩薩から「世」の文字が消えた理由はわかった。
中国では当時の皇帝の名前と同じ字は、一般の人が使ってはいけないことになっていたためだ。

「世」が消えて「観音菩薩」となったという。

『 「あなたはここにある白い紙の中に、ポッカリ浮かぶ白い雲が見えますか?」

ベトナムの僧侶、ティクナット・ハンさんの「般若心経〈ハート・スートラ〉」は、こんな書き出しで始まります。

「見えません。」とあなたは答えるでしょう。

ミルという言葉には、二つの漢字があります。
見る〈肉眼で〉と観る〈心眼で〉です。

白い紙の上に白い雲が、肉眼で見えたらすぐに眼科か精神科に駆け込んでください(笑!!)。

「観る」は観察するということです。
質問を変えると「白い雲なしに、この一枚の白い紙は存在することが出来ますか?」ということです。

あなたは「分かりません。」と答えます。

ではお答えしましょう。
一枚の白い紙は、紙になる前は木、樹木として存在していました。
樹木には水が欠かせません。
その水はどこから来ましたか?

そう、ポッカリ浮かぶ白い雲なしには、一枚の白い紙は存在しないのです。

でも実は、木を切る木こりのエネルギーなしには、運んでくるトラック運転手のエネルギーなしでは、太陽のエネルギーなしでは、一枚の紙はここに存在できないのです。

すべての物質は関わり合って、いまここに存在しています。
単独で勝手に存在しているものなどないのです。

それを「すべてはひとつ」と言うのです。

一枚の紙の中にさえも、さまざまなエネルギーが存在しているのです。
その存在の状態を仏教用語で一如〈一つのようなもの〉といいます。

この観察が出来る人のことを「観自在菩薩〈自由に観察できる人〉」と呼びます。

一如の世界とは真如〈本当の〉の世界なのです。 』
(「あなたも観自在菩薩」より抜粋)
http://mandalaya.com/kanji.html

「単独で勝手に存在しているものなどない」ということは、紙にも「人間」の上にも白い雲が見えるということだ。

鳩摩羅什の翻訳から240年後、中国の僧玄奘(げんじょう)は観自在菩薩と新しい翻訳を行った。

玄奘訳の「観自在菩薩」の解釈をわかりやすく説明した日本人がいる。
今その人物の名前を思い出せないが、たしか僧侶だったと思う。

「観(み)レバ自(じ)ニ在(あ)リ菩薩(ぼさつ)カナ」

「観れば自に在る菩薩なり」などと、多少振り仮名が違っているかもしれないが、概ねこういう七五の句にしていた。

じーっと自分の心の中を観察すると、自分の中にちゃんと観音様が座っていらっしゃるということがわかりますよという意味だ。

厳しい修行をして長い間悟りを捜し求めていた修行僧が、やっと見つけた観音様は実は自分の体の中にちゃんと座っておられたという意味である。

自分自身を観察すれば、観音様は自分の中におのずから存在するものだ。

すべての人間、一人一人がありがたいかけがえのない観音様なのだと教えている。
それは人間だけでなく、生きとし生けるものすべてが観音様だという教えでもある。

最初の五文字の解釈はそういうことであるが、字際に般若心経「262文字」を全部読んでみると、『自然と自分を大切にして、短い人生だけど明るく楽しく精一杯生きなさい』ということが書かれている。

おそらくお釈迦様は自身の哲学を、心経の最初の五文字に凝縮したのであろう。


ここ奥州金成の山奥にある観音寺の鳥居、そこにある文字が鳩摩羅什訳「観世音菩薩」となっていることに深い意味がある。

関東以西では、奈良時代以降新しい玄奘訳が輸入されており、その後「観自在菩薩」に統一されただろう。

ところが大昔に西方から(その昔はアジア大陸から)やってきた弥生人は当初はアイヌなど縄文人たちと仲良く暮らしていたのだが、「ある時代」から縄文人迫害が始まった。

やがて奥州は「蝦夷(えみし)」と大和族からさげすまれるようになり、文化程度の低い外国人としての差別扱いを受けることになる。

平安時代以降、いや桓武天皇の時代から、白河以北へは西からの新しい文化の伝来が停止されてしまったのではないか。

有壁宿の観音寺の鳥居の扁額を見あげつつ、古代日本における植民地化の流れを想像している。

自由とは何か?(2) [奥州街道日記]

freedom.jpg民衆を導く自由の女神(ウジェーヌ・ドラクロワ,1833年)(自由(Wikipedia)より引用)

以前書いた「自由とは何か?」という記事の続編である。

白い杖のいつもの女性を今日歩道で追い越そうとした。
パラパラ小雨が降りだしたから、彼女は既に右手に杖を、左手に傘をさしていた。

私は鞄の中に折畳み傘を持っているがまだ傘はささないでよい。
その程度の雨だ。

海側からやや強い風がたまに吹き付ける。
白い杖の動きに注意しながらその左側をいつものように追い越しかけた。

いつもと違い白い杖の女性は右へ斜めに歩いた。
あまり右へ行きすぎると車道に出て車に当たるから危ない。

だがすぐに方向を修正した。

今度は左に寄り過ぎてコンビニの看板すれすれを歩いたが、何とかぶつかることなく通り過ぎた。
私は追い越しながらも速度を緩めて左右にゆれる彼女のやや後ろを注意しながら歩いた。

瞬間の判断で追い越すのをやめたのである。
もし危ないならば彼女に声をかけねばならないが、なんとか三メートル幅内でのゆるやかな蛇行で済んでいる。

やがて青色信号が点滅をしてから赤になった。

そこへ大通りを横断歩道を通って右手から自転車に乗ったおじさんが私と彼女の間に入ってくる形で横からやってきた。
彼女の白い杖を発見したのか、あるいは隙間が狭いので通過できないと読んだのか、おじさんは急にブレーキ音をきしませながら減速し、彼女の右斜め後ろで停止した。

私たちの進む方向の歩行者信号は赤だから、彼女も私も信号機の前で止まって立っていた。

そこまではよかったのだが、おじさんは止まった自転車から右足を地面に降ろそうとしたように見えた。
しかし、足が地面に届くのに時間を要したために、ゆっくりとスローモーションで右のサツキの植え込みの中へ頭を入れる形で倒れていった。

完全に倒れれば、歩行者から大丈夫ですか?と声をかけられたことだろう。

しかし、運悪くおじさんは頭を歩道の植え込みの茂みに当てたところで右足が地面に着いた。

「おっとっと」と何とか斜めになる自転車を右足と左手のハンドルで支えながら、横倒しにならずに斜めのまま静止した。

倒れてしまったのではないから、歩行者たちは人の過失行為を見てみぬ振りををした。
私も右斜め前方の叔父さんのこっけいな姿が視界に入っているが、それを凝視するような失礼な行為は慎んだ。

そのため斜め45度に傾いたままのおじさんは3~4秒間しばらくそのままの姿勢でいることになった。
本人は必死で力を入れて起こそうとしているのだが、自転車の重量と彼の馬力が妙にバランスしてしまって姿勢が動かない。

おじさんの頭は頭頂部から頭の半分が禿げている。
裾野に薄い毛が残っている程度である。

その剥げた頭の部分に、枯れた植え込みのサツキの小枝が当たったままである。
頭皮に凹みまでできているかは見えないのでわからないが、痛いだろうなあという想像はつく。

「怪我なくて(=毛が無くて)よかったですね。」

どこからともなく、そういう日本語のフレーズが私の脳裏に浮かんできた。

時間にして全部で5秒間のシーンであるが、内容は濃かった。

周囲にいた10名程度の歩行者は横目でちらりと見ながら、私と同じことを考えたに違いない。

やがておじさんは必死の形相のまま自転車との綱引き勝負に勝って、誇らしげに再び自転車をこいで左へと去っていった。

白い杖の彼女には、その中身の濃い古典劇のシーンは見えていない。
彼女の右手斜め後ろでなにやら自転車らしい音と、おじさんが足で「とっとっと」と地面をける音だけが届いていることだろう。

おじさんかおばさんかも彼女にはわからない。
嗅覚が発達していれば額の油や加齢臭により年をとったおじさんということは感じることができるかもしれない。
しかし、禿げていることまではわからない。

だから滑稽さは決して彼女にはつたわらないのです。

おじさんにとっては、おじさんの恥に上塗りするような冷ややかな視線を与えなかったのはあの白い杖の彼女だけだったことになる。

私は待っていた歩行者信号が青に変わってから、今度は彼女を追い越して行った。
そして、今日はなぜ彼女がいつものように真っすぐ歩けないのか、その理由を考えている。

私にとってはいつもと変わらない歩道の環境だが、彼女にとってはおそらくいつもと違う環境なのだろう。

体調が悪いケースも考えられるが、そういう場合は休む可能性が高いはずだ。
今日の南風はやや強いが、体を煽(あお)るほどではない。
雨もぽつり程度だ。

左手に傘をさしているのはいつもと大きな違いだ。
鞄は左肩から提げているが、小さい軽そうなものだ。
傘をさしているからといってそれほど方向感覚が狂うはずもないように思われる。

しばらく考えていて気づいたが、歩道にはいつもより歩いている人が少ない。
10メートルの長さの中に平均で3~4名しかいない。
いつもは同じ区間に平均で10名くらい入っていて、若い女性たちがベチャクチャ話をしながら歩いている。

しかし今日は静かだ。
夏休みが始まったので、学生たちを中心とする若者たちが東京から消えているのだった。
彼らは夏に疎開したのだ。

白い杖の女性はまだ杖が不慣れのように見える。
いつもは人の話声の流れる方向で歩道の直進方向を判断していたのであろう。

若者たちはヒートアイランド戦争から逃避してしまった。
本当は彼等が一番自由な人々なのだろう。
お小遣の不足という不自由さえ我慢すればだが。

調べてみると、白い杖は地面を叩いて反響音で地面の性質を知るような使い方をするそうだ。
夏休みになり歩道を歩く群集の密度が急に減ったために、彼女の耳には聞き慣れない反響音が返っていたのだろう。
それが彼女の方向感覚を微妙に狂わせていたものと推測される。

『白杖(はくじょう)とは視覚障害者が歩行の際、路面状況を触擦し、又、ドライバーや他の歩行者、警察官などに注意を喚起して、視覚障害者が安全に街路を歩行するために使用する白い杖をいい、外観は直径2cm程度、長さ1mから1.4m程度のものが一般的である。

概要
これらは木や竹、軽金属等の各種素材で作られるが、近年ではグラスファイバーやカーボンファイバー等を用いた丈夫で軽量な繊維強化プラスチック製など、非金属製のものが多い。

なお先端で物を叩く音により、周囲を認識するためにも用いられるため、石突(先端部)は一般的な歩行補助器具としての杖とは違い、滑り止めのゴムなどは取り付けられておらず、硬質の素材(金属やプラスチックなど)となっている。

身体障害者福祉法や福祉用具の分類では盲人安全つえという名称で呼称されている。

色は、白い杖と黄色い杖がある。ものによっては地面側20センチくらいが赤色に塗装されているものもある。

またその役割には他に、障害物や危険からの防御の目的や、存在を周囲に知らせるためというのもあり、特に 「存在を周囲に知らせるため」に関しては、結果的に周囲の援助が自然に受け入れられることにも大きな意味がある。

又、そのような理由により夜間に車両から視認しやすいよう、反射材を巻き付けてある製品も多い。

中世で視覚障害者が歩行の際に使用していたと思われる細い竹の棒に代わるものとして使われている。

英語ではケーン(Cane:【意味:葦(あし)・さとうきび、のような中が中空になっている植物】)と言うがこれは杖の形態を表したものといえる。
これらは中空となっていて軽く、また適度に固いために地面を叩いた時と石を叩いた時で明らかに音が違う。

今日の白杖も、同様に使用者に通路の様々な情報を、音によって与えている。

白杖のはじまり
昔から、盲人にとって、杖は歩くためには欠かせない道具であったが、現在のように、白くて光沢のある塗装を施した杖が考え出されたのは、第一次世界大戦以後のことである。

イギリスのブリストルの写真家 James Biggs は、事故により失明した。
増加する交通量に家の周りを歩行することにも不便を感じていた彼は、杖を白く塗って見えやすくした。

フランスのある警察官の婦人だったen: Guilly d'Herbemontは、1931年頃、自動車の増加に伴って、視覚障害者が交通の危険にさらされているのを見て、夫の使っていた警棒からヒントを得て、現在の形の物を考えつくとともに、視覚障害者以外の人が白い杖を携行することを禁止させたという。』(白杖(Wikipedia)より)

白い杖が正式には白杖(はくじょう)ということをはじめて知った。
杖の中は空洞になっていて、硬い先端部品で地面を叩いて、土かコンクリートか、木の橋かなどを音の反響で確かめているのだった。

英語ではケーンと呼ぶそうだが、日本語では薄情と同じ音(おん)であるのが少し気になる。
ぜひ暖かい目で白杖(はくじょう)を持つ人を見守るようにしたい。

世界で共通の仕組みのようであるから、日本でも「ケーン」で統一し、その杖の持つ意味や歴史や構造を小学生教育の中でしっかりやっておく必要がある。

私のように年をとって初めて気づくようであれば、これまでケーンをもつ人を幾度肩で弾き飛ばして来たかもしれない。
気をつけているのと、突然発見するのでは、こちら側の応対や態度にも温度差が生じるのである。

同様の学習は視覚以外の身体障害を持っている人についても小学生のころからしっかり理解させておく必要がある。

それは単なる学習知識ではなく、人々が共生していくための必要な深い「知恵」である。

大陸渡来の「残虐性と斬新さ」の共存 [奥州街道日記]

井沢元彦著「逆説の日本史」(小学館文庫)第10~12巻を読んだ。
信長、秀吉、家康の時代である。

秀吉が信長の遺児たちを次々と殺して主人信長の持っていた領土を我が物にする様は凄(すさ)まじいが、家康が豊臣恩顧の家臣たちを分断しながら秀吉の遺児を殺していく様はなお凄まじかった。
大名たちが謀略の限りを尽くす戦国時代は、これが「和をもって尊しとなす」と言う倭人の歴史かと目を疑うようである。

大阪夏の陣における家康の処置を「逆説の日本史」から一部要約して抜粋しよう。

『五月八日、家康は淀殿からの助命嘆願を拒否、家臣の井伊直孝、安藤重信に命じ淀殿と秀頼の隠れている本丸北の倉を包囲させ、そして銃撃した。
突入せずに自害をさせるためだ。
やむなく自刃に至る。
享年は秀頼23歳、淀殿49歳。

淀殿は都合3度目の落城体験だった。

秀頼には千姫以外の女に生ませた一男一女がいた。

『母は秀頼の側室の伊茶(渡辺五兵衛の娘。小田原北条家の家臣成田氏の娘との説があるが、最近は渡辺氏説が有力である)。妹に天秀尼がいる。』(豊臣国松(Wikipedia)より)

女児は家康の孫の千姫養女とし、鎌倉の東慶寺に尼として入れた。
二十世住持「天秀尼」となる。

ところが家康は、男児の国松(八歳)に対しては、市中引き回しの上、京の六条河原で斬首した。

家康は吾妻鏡を愛読していた。
平清盛が温情により生かした源氏の遺児頼朝がその後どうなったかを良く知っていた。 』

秀吉の孫で八歳の男児国松を市中引き回しの上、京の六条河原で斬首する家康。
信長も秀吉も似たようなことをしている。

姓名を持つこれらの大名たちが、私には「話し合いを尊し」とする倭人の末裔にはとても見えない。
江戸時代まで天皇と庶民は姓を持っていない。
倭人がみな姓を持つようになったのは明治になってからのことだ。

維新革命があってやっと姓を持った。
つまり2000年の日本の歴史の中で、倭人は1850年間も姓を持っていなかったのだ。

大名や武士は姓を持つ。
武士の頭領とである源氏は、その姓を天皇から賜った。

姓を持つ大名たちの生き様は、大陸的な臭いがする。
彼らも倭人の風にやがて同化してくるはずだが、戦国時代はそうではなかった。

実はその少し前、つまり信長の天下統一の前に「黒船」が日本に来航している。

幕末のアメリカ艦船団を江戸時代の人々は「黒船」と称したが、実は信長の時代にポルトガル船を見た武士が「黒船」と記録したものがあると言う。
(逆説の日本史より)

また木造船に薄い鋼鉄を貼付けた「鉄甲船」を世界で始めて作ったのが織田信長だった。
石山合戦で石山本願寺城(大阪城のあるところ)に篭城する本願寺派へ毛利氏によって村上水軍が兵糧米を運び込もうとし、信長は九鬼水軍を使って撃退を試みた。
しかし、村上水軍が用いた火球のよって木造船は燃え、兵糧米派城へと運び込まれ篭城は続いた。

そこで信長は燃えない船を建造することを命じた。
鋼(はがね)を木造船の外側や甲板に貼り付けたのである。

軍艦に金属素材を利用するという「技術イノベーション」を起こしたのは、日本人の織田信長と刀鍛冶たちの業績だった。

幕末に坂本龍馬が見て驚いたアメリカの鋼鉄船「黒船」は、元はといえば侍の大先輩である織田信長のアイデアによるものだった。
龍馬は「信長の発想の大きさ」に腰を抜かしたことになる。

信長の構想という視点に立てば、300年を経ての里帰り顔見世興行といえるだろう。
天国の空から、黒船に腰を抜かす龍馬の姿を見ながら、信長は笑ってみていたことだろう。

織田信長が作らせた鉄甲船を見て、イエズス会の宣教師たちは日本人がそういうものを作ったことに大変驚いている。
鉄甲船に関する報告はローマ教皇を通じて欧州カトリック各国の海軍関係者へと伝えられたはずだ。

信長の野望はシナ征服のみならず、インドシナやインドまで含めていた。

ローマ教皇と連携して東洋支配を狙うポルトガル・スペイン艦隊は、インドシナで織田信長率いる九鬼水軍と一戦を交わす可能性があったはずだ。
本能寺の変はその可能性を潰したという点で、ポルトガル・スペイン側とローマカトリック側にメリットを与えたといえよう。

殺人事件の犯人は、被害者が死ぬことにより最大の受益をしたものであることが多い。

信長の死により、ポルトガル・スペインとイエズス会の持つインドシナやインド方面の交易利権は保護されたことになる。

では、戦国時代に日本人が見た黒船とは一体は何か?
それは種子島に二年に渡り二度到着した船である。

最初の漂着はシナの外洋船「ジャンク」だった。
おそらく二年目も同じシナ船だろう。

船の外周や甲板、には撥水性能を高める「黒いコールタール」が塗られていたはずだ。

中国人の倭寇リーダー王直(おうちょく)は、鉄砲交易のためにポルトガル人数名と鉄砲数丁をシナ船に積み込み、難破を理由にして種子島を狙って上陸した。
歴史で言われている「ポルトガル船の種子島漂着」というのは口実のようである。




がんばれ、中田英寿 [奥州街道日記]

シャビ.jpgシャビ(Wikipedia)より引用
アロンソ.jpgシャビ・アロンソ(Wikipedia)より引用

ミッドフィールダー、サッカーで自陣フィールドの中央を守り、フォワード(FW)とディフェンダー(DF)の間に位置し、両者をつなぎつつ攻撃と守備の両方に関わるポジションのことである。

ゲームを組立てる重要な役割を持つ。
アルゼンチンではVolante(ボランテ)という。

スペイン代表のMFであるシャビ(Xavi)のワールドカップ決勝でのほぼ全プレーを注目してみてみた。
スペイン・カタルーニャ州テラッサ市出身でリーガ・エスパニョーラのFCバルセロナに所属するスペイン代表の MFである。
シャビのプレーを見て中田英寿が現役復帰したいと思ったというからビデオで見た。

7月23日夜9時からのNHKのテレビで中田英寿の見たワールドカップを放映していた。
その中で決勝戦の終了後に中田英寿が吐いた言葉が「シャビ」だった。

シャビの役割なら自分の年齢でもできるし、やってもたいと思ったのではないだろうか。中田は復帰するだろう。その光景を撮ったのはNHKの手柄だ。

中田英寿は日本のMFとしてシャビと同じ背番号8番をつけてドイツW杯のグループリーグ全3試合にフル出場した。
ブラジル戦終了後にピッチに仰向けになり10分間泣いた。

そのプロ中のプロである中田が涙のブラジル戦から4年後の南アフリカ大会決勝戦で見たのはシャビのプレーだと語ったのである。

私はほとんど決勝ではシャビの姿を追ってみてはいなかった。
スペインはイニエスタとビジャとプジョルのチームだと思っていた。プロが見るとそうではないということだ。

スペインはシャビのチームだということだ。
決勝点のシーンではシャビは登場してこない。

それはスペインサッカーのスタイルではなく、セスク・ファブレガスによりオランダ式のごとく右サイド突破から生まれた勝機を生かしたシーンだからだ。
だからシャビは私にとっては印象が薄かったのだ。

スペイン対オランダの決勝戦90分+30分のフル試合をビデオで見直してみた。
背番号8番のシャビに注目してみた。

シャビがつぶされているときはスペインは攻撃の目が作れていなかった。
シャビが自由に球を扱うと、シャビから鋭い攻撃開始の指令パスが出ていた。
それを合図に前方の選手が加速する。

シャビはスペインの司令塔であった。
走る距離や速度はフォワードほど速い必要はない。
位置は真ん中辺りなので体力の損耗は少ない。
それでいてゲームの流れを変えることができる。

頭脳プレーそのものである。
年齢や体力によらず勤まるポジションである。
中田はそこにプロとしての生き方を発見したのだ。

通称がシャビ(Xavi)で,本名は シャビエル・エルナンデス・クレウス(Xavier Hernández Creus)である。

同じスペインチームにはシャビ・アロンソという有名なMFもいる。
リーガ・エスパニョーラのレアル・マドリードに所属している。

ワールドカップではシャビより少し後方で右サイドのMFをやっていた。
こちらのほうが本当はシャビなのに、なぜスペインリーグではシャビエルの方を「シャビ」と呼ぶのだろうか。
いまだにその理由を私は知らない。

二人の顔はかなり違っている。
シャビは濃いラテン系の顔である。

一方シャビ・アロンソはヨーロッパ人と東洋人の混じったような雰囲気を持つ。

シャビ・アロンソが出ている試合をテレビでみるとき、私の目はいつもシャビ・アロンソの顔に引き付けられる。
それは彼がスペイン、バスク自治州トロサ出身の人だからだ。

つまり昔のバスク王国である。
ザビエルはバスク王国のザビエル城の子として生まれている。

シャビ・アロンソの顔はバスク人の顔なのである。
山口市のザビエル堂の前に立つフランシスコ・ザビエルの銅像を見上げたことがあるが、それと顔の陰影がよく似ている。

シャビ・アロンソがボールを持つと顔が大きく写される。
私はボールを見ず彼の顔の方に目をやる。

生きているザビエルを探そうとしているようである。
日本の街道に「シュロの木」を植えていった人物の顔かも知れない。

以前から私はレアル・マドリードのシャビ・アロンソのファンだったが、中田の発言に刺激されてシャビのファンにもなった。

もし中田が現役に復帰するとしても、おそらくJリーグではやらないだろう。
シャビ風の腕を磨くならスペインかイタリアだ。

シャビの価値を認めているプロリーグに名乗りを上げるのではないか。
中田の発言に刺激されて、もう一度ワールドカップの決勝戦を見た私だったが、確かにプロが見るサッカーは違うことがわかった。

中田やNHK解説の山本さんがシャビの優れたプレーを指摘していた.

それまで2回見たときには、その解説者の言葉の意味が理解できなかった。
なぜなら私の目はフォワードのほうへ引き付けられているから、司令塔の指令パスを出す前の姿や位置取りを見ていないからだ。

中田がシャビが凄いと言ったのを聞いてから、3回目に同じ試合を見た。
そのときは解説の山本さんがいう意味が理解できた。

つまり中田と山本さんは同じところを見て評価しているのだった。

私は目が見える人間だが、それなのに見えていなかった。
ワールドカップレベルのサッカーは奥が深い。

中田が日本代表のMFを勤めるとすれば、フォワード陣やサイドバックの人選は中田自身が決めねばならないだろう。
自分がパスによって理想的な形で使える能力を持つ人材が周囲に必要となる。

監督が人選する様では中田は生きない。
それだけ中田は選手としては難しい人材だ。

中田は世界が見えているから、中田を使いこなす人物も世界が見えていなければならない。
オシム再登場しかないのではないか。

私は監督のフォワード起用ミスを今回の日本代表の敗戦理由としてあげたが、それは瑣末な現象だったかも知れない。
確実に勝つためにはフォワード1名の交代程度ではできなかったかも知れない。
優勝などとてもそれだけでは実現できない。

中田はパラグアイ戦に確実に勝つ方法を知っているだろうし、日本が優勝するための方法も見えていることだろう。


引退後の中田の社会行動は尊敬に値するが、私はあまり好きではない。
50歳を越えてからやるなら納得できる。
まだ若いうちにしかできない高いレベルの仕事があるはずだ。

現役復帰するなら、私はかつての中田ファンに戻るだろう。
がんばれ、中田英寿。

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