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松陰の奥州旅行 [奥州街道日記]

何故松陰は雪深い時期に奥州を旅したのか?
私にはそれが謎だった。

しかし今日その理由がわかった。

(東北遊行)赤穂義士復讐の日を期して途に就かんとす。嘉永4年12月15日発
(「吉田松陰」徳富蘇峰著、岩波文庫より)

村田清風の精神 [奥州街道日記]

萩市の村田清風の住居跡に立つ。
長屋門のみ残り敷地内は草の原。奥に村田清風の邸宅跡を示す石碑が立つ。

時代は松陰より早いが、精神文化として松陰は村田清風を引き継いでいるようだ。

村田清風が残した言葉を記す。(「吉田松陰」徳富蘇峰著、岩波文庫より)

「来て見れば聞くより低し富士の山

釈迦も孔子もかくやあるらん」

「敷島の大和心を人とわば

蒙古の使い斬りし時宗」

「高千穂の峰に神戟有り

即ちこれ億兆の日本魂(やまとだましい)

日本刀の源流~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393468.jpgTS393468 磐井橋
TS393467.jpgTS393467 磐井川
TS393470.jpgTS393470 橋より西を見る
TS393472.jpgTS393472 橋より東を見る

芭蕉の二夜庵跡は磐井川のすぐ傍にある。
磐井川は、度々氾濫した川のようである。

磐井橋の上から東西に川面を眺める。

一関の古代に思いを馳せる。
平泉の入口にあった交易中心町である。

『原始・古代
太古の地質時代、一関地方は広大な湖になっていたが、狐禅寺付近が 削られて現在の北上川ができ、長年月をかけて北上盆地がつくられた。

日本列島に人類が住みついたのは約十万年前頃だが、この時代は土器を使用せず、石器だけを使用する生活だった。
一関ではこのころの遺跡はまだ見つかっていないが、一関市内では水口(真滝)、結渡(厳美町 山谷)、祭畤(厳美町)で一万数千年前の石器が見つかっている。

一関地方は、遠い昔から東西の政治・文化・経済の接点となっていた。
縄文中期には、東北南部の大木文化圏に属しながら東北北部の円筒文化圏の影響を受け、弥生時代にも南側から浸透してくる様相が認められている。

縄文時代の遺跡には、庄司合(山谷)、樋ノ口(厳美町)、岡山(同) 四度花山(同)、上野(同)、荷掛場(舞川)、草ヶ沢(狐禅寺)、羽根 橋(萩荘)、八起島(同)などがある。

一関は古代、磐井郡に属し、前九年の役(1051~1062)の激戦地として知られている。
この戦いは陸奥国奥六郡(現在の岩手県内陸部)を主戦場に安倍氏と源頼義・義家父子軍が戦った。

出羽山北の豪族・清原氏の参戦で源氏軍が勝利し、安倍氏は滅亡した。
その後藤原氏の東北支配下で平泉が政治・経済・文化のセンターとして栄えた。

その平泉の入り口にあった一関には、当時の文化的遺産として、泥田廃寺跡(平安末期)、延喜式内社の配志和神社と舞草神社、藤原時代の作とされる永泉寺本造聖観音立像、願 成寺の木造薬師如来像などが遺っている。

また、舞草地区には、日本刀の源流の一つともいわれる刀鍛冶にちなんだ口承や地名が伝えられているが、刀鍛冶に直接係わる場所等の特定はできていない。』
(「一関の歴史」より)
http://www.teganuma.ne.jp/ichi/rekishi/index.html

「弥生時代にも南側から浸透してくる様相」とあるが、征夷大将軍の坂上田村麻呂以降、稲作民族「大和族」が押し寄せてきたのである。

「日本刀の源流の一つともいわれる刀鍛冶にちなんだ口承や地名」が伝わるというが、東北地方が鉄の発祥地であったのであろう。

このブログでは私は東北の蝦夷、即ちアイヌ族は大陸渡来の鉄勒(テュルク)人、トルコ系騎馬民族ではないかと書いてきた。

トルコ系騎馬民族に鉄勒という漢字を当てたのは中国人であるが、馬のお面に鉄製のものを使用したからであろう。

おそらく騎馬戦闘時の槍や矢の防御のための馬具である。

陽が落ちかけている磐井川の上に立って、紀元前の一関の姿を想像している。
この川は一関城の外堀でもあったという。

廣幡八幡神社がこの奥州地域に残っているのも、奥州が製鉄技術の起源であることを感じさせてくれる。
廣幡(ひろはた)、八幡(やはた)、いずれも現在の新日鉄の基幹製鉄所の名である。

天気吉一ノ関ヲ立~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393464.jpgTS393464 墨絵の中の芭蕉翁
TS393463.jpgTS393463 奥の細道曽良旅日記抄
TS393466.jpgTS393466 奥の細道の地図板

二夜庵跡の少し手前のところに、街道左手に立派なシュロの木が3本あった。
そのことは既に書いた。
そこは「ふみしろ」というのは呉服屋であった。

呉服屋からそう遠くないところに磐井川が流れ、その橋のたもと(手前)が二夜庵跡である。
家の前に説明板がおいてある。

『芭蕉奥州路
最北の宿
芭蕉二夜庵 跡

俳聖・松尾芭蕉が弟子、曽良を伴い奥の細道行脚(あんぎゃ)の旅で一関を訪れたのは元禄二年(1689)5月12日、雨の夕暮れだった。

翌13日は平泉に遊趣し、高館、衣川、中尊寺などを巡り一関に帰る。
金森家は芭蕉翁が二宿したことから二夜庵と呼ばれるようになった。

14日はここを立ち、尿前ノ関を越えて日本海の出羽の国に入った。
詩歌俳諧の聖典『おくのほそ道』の頂点にあたる平泉の著述が、ここに宿することで編まれたことを想うと二夜庵の存在は大きい。

再建 平成11年3月 社団法人 一関青年会議所』(抜粋終り)

また石碑に「奥の細道曽良旅日記抄」が書いてあった。

『奥の細道曽良旅日記抄
元禄二年五月
十二日雲 戸今を立 安久津雨
強降ル 馬ニ乗 一リ加 
澤 三リ 皆山坂也 一
ノ関黄昏ニ着 合羽モト
ヲル也 宿ス

十三日天気明 巳ノ刻ヨリ平泉
へ赴 一リ山ノ目 高館
衣川 中尊寺 光堂 秀
平やしき等を見ル 申ノ上刻帰る 主 水風呂敷
ヲシテ待 宿ス

十四日天気吉一ノ関ヲ立』(抜粋終り、「刻(こく)」の字は当用漢字に換えて記載した)

二夜庵跡~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393460.jpgTS393460夕暮れの」一関宿
TS393461.jpgTS393461この先が武家住宅のようだ
TS393465.jpgTS393465松尾芭蕉「二夜庵跡」

夕暮れの一関宿の写真には案内標識が写っている。

「旧沼田家武家住宅」は左方向だと示している。
中街通りも左にある。

一関わが街ガイドに「旧沼田家武家住宅」の説明があったので抜粋する。

『江戸時代後期に一関藩家老職を勤めた沼田家の住宅です。
創建は18世紀の初頭から中頃と推定され、約三百年の歴史を有していて、付近を流れる磐井川のたび重なる水害にも倒壊することなく今日に至りました。

一関市教育委員会文化振興課 
休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始
公開時間
9:00~16:00(4月~10月)
10:00~15:00(11月~3月)
入館料 無料
住所 一関市田村町2-18
交通 JR一ノ関駅より徒歩5分 』
(「旧沼田家武家住宅」より)
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,4321,111,77,html

沼田家は、一関城主田村氏の家老だった。

『沼田家は一関藩家老を勤めた家柄です。
城主である田村家の陣屋に程近く、外堀内部に配置されている事から「内家中」と呼ばれ、一般の足軽や商人達と区別されていました。

外掘にあたる磐井川は度々叛乱し、特に昭和21・22年に襲ったカザリン・アイオン台風は城下町の風情が残る町並みを一掃し、一関が近代的な町になるある意味で起点となりました。

その中で、旧沼田家住宅は幕末に建てられた当時の原型を留めていて、当時の一関藩上級武士の生活を知る上で貴重な存在となっています。

一関藩は三万石と言われていますが実石では二万三千石程度だったと言われ、財政面では常に逼迫した状態にあり、家老職を務めた住宅であっても破風付な玄関など華美な装飾がなく極めて質素な形態を取っています。

又、間取り的には同じ岩手県で伊達領の要害が置かれた金ケ崎の武家屋敷で見られるような座敷が道路側でなく奥に配置されているのが特徴的です。

道路側に座敷を配置するといのは、藩主(城主)が道路を通った時逸早く出る事が出来る事や、外部の侵入者に対して有利とも言われていますが、逆に土間や玄関が手前にある事は利便性に長け実用的だったとも考えられます。

一関藩では学力に力を入れ、多くの学者を輩出していますので、より合理的に考える藩風があったのかも知れません。』
「一関市・観光・歴史・名所 」より)
http://www.iwatabi.net/morioka/itinoseki/buke.html

武家住宅への路地をのぞいてみるだけに留め、私は街道を先へ進むことにする。

もう日が暮れかけているから、今夜のテント宿泊地を探さねばならない。

街道に古風であるが新しい木造住宅があった。
家の前に墨絵を書いた石の板が置いてある。

普通の住宅ではないなと感じたので、10mほど後戻ってみると、そこには「漂白の詩人 松尾芭蕉「二夜庵跡」」と書いてあった。
ここに芭蕉が宿泊したのである。

広島は原子爆弾でやられて大変らしい。(翌日新橋駅にて) [つれづれ日記]

「高見順敗戦日記」というサイトから昭和20年8月7日の新橋駅前の会話を抜粋する。
この日残留放射能のある広島市内に十万人前後の人々が火傷に苦しみ、父や母や子供を捜してさまよい歩いていた。

『(8月7日)
新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。
「大変な話・・・聞いた?」と義兄はいう。
「大変な話?」
あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないところへと彼は私を引っ張っていって、「原子爆弾の話・・・」
「・・・!」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし・・・」
「もう戦争はおしまいだ」
原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾がついに出現したというのだ。・・・衝撃は強烈だった。
私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。
対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。』
(抜粋終わり)
「高見順敗戦日記」
http://www.k4.dion.ne.jp/~skipio/21essay2/takami-jun-haisen-diary.htm

では、当時日本でもっとも原子物理学に詳しい学者は何をしていたのか?

『同年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍によって広島市に「新型爆弾」が投下されると、8月8日に政府調査団の一員として現地の被害を調査し、レントゲンフィルムが感光していることなどから原子爆弾であると断定、政府に報告した。こ
れが日本のポツダム宣言受諾への一因となった。
引き続き8月14日には8月9日に2発目の原爆が投下された長崎でも現地調査を実施し、原爆であることを確認している。
また、「終戦の日」8月15日のラジオ放送において原子爆弾の解説をおこなっている。』(仁科芳雄(Wikipedia)より)

8月10日に原爆調査団の京都の会議に出席しているから、仁科博士は8日に広島に入り、その日9日か10日には京都に行っていることになる。

トルーマンが世界に向けて原爆を広島に投下したと発表したのは7日午前0時過ぎである。
高見順が義兄から原爆だよとささやかれたのも7日の昼である。

仁科氏は結局残留放射能を最小限しか浴びていないことになる。
長崎に調査に入ったのは14日で、翌日15日にラジオ放送で原子爆弾の解説をおこなっているから、おそらく1日か2日で長崎を脱出していることになる。

広島現地調査の時点、つまり8月8日に調査団は広島の爆弾は原爆だとほぼ断定している。
ならば、翌9日に長崎に新型爆弾が投下されたときに、取るものも取り合えず長崎へ行くべきだったのではないか。
長崎も原爆であり、その直後の状況が観察できるのである。
しかも残留放射能がもっとも大きいのである。

なぜ14日まで、9日を含めて6日後に長崎へ入ったのだろうか。
彼の豊富な知識を持ってすれば、原爆投下から6日間置く意味は深いのだろうが、広島・長崎市民は残留放射能の中に放置されたままだったのだ。

仁科氏が政府の許しを得て国民に広島のは原爆だったと説明したのは8月15日のことである。
科学者の良心はそのとき一体どうだったのだろうか、仁科博士の日記を見てみたいと思った。

私の父は原爆投下の1週間後に広島市内に入り、腐乱した兵士の遺体の回収作業に従事している。
75歳のときに肝臓がんでなくなった。
肝臓の80%が硬化しており、こげ茶色に変色していた。

仁科さんがどれほど戦前戦中に原爆に詳しい人物だったのか?
同上記事より見てみよう。

『ヨーロッパ留学
1920年に理化学研究所の研究員補となると翌1921年には2年間のヨーロッパ留学が決まり、4月5日に神戸港を出て日本郵船の北野丸でマルセイユに渡った。

最初にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所に滞在し、翌1922年11月にゲッティンゲン大学に移った。
ここでは「物理学は十分に成熟していて新たに取り組むべき問題はもはやない」と家族への手紙に書き、科学技術の底上げのために帰国後は玩具を本格的に研究する事を考え、ラジコンなどに興味を示した。

11月12日に母・津禰が亡くなり、これが留学期間の延長を後押しする要因の一つとなった。

ニールス・ボーアの講演を聴いて物理学の新しい分野の研究に興味を持ち、1923年4月にコペンハーゲン大学のボーアの研究室に移った。ここでは研究員として5年半過ごし、1928年にはオスカル・クラインとともにコンプトン散乱の有効断面積を計算してクライン=仁科の公式を導いている。
同年10月にコペンハーゲンを出港し12月25日に横浜港に到着、7年半ぶりに帰国した。

帰国後の動向
帰国後は招待してくれる大学がなく、理研の長岡半太郎研究室に所属し、1929年にはヴェルナー・ハイゼンベルク、ポール・ディラックを日本に招いている。

1931年7月に理研で仁科研究室を立ち上げ、当時国内では例のなかった量子論、原子核、X線などの研究を行なった。

翌年に中性子が発見されるとX線の代わりに宇宙線を研究対象に加えた。
1937年4月には小型のサイクロトロン(核粒子加速装置)を完成させ、10月にボーアを日本に招いている。
1939年2月には200トンもの大型サイクロトロン本体を完成させ、1944年1月から実験を始めた。

日米戦争と原爆開発「ニ号研究」
仁科は、米国の科学技術が進んでいることから日米開戦(太平洋戦争)には反対していた。

一方、1938年(昭和13年)にオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーらが原子核分裂を発見し、膨大なエネルギーを得られることが判明。

1940年(昭和15年)、仁科は安田武雄陸軍航空技術研究所長からウランを用いた新型爆弾の開発研究を要請され、理論的可能性の検討に入った。

アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年1943年(昭和18年)、仁科はウランの分離によって原子爆弾が作れる可能性を軍に提示。

この年から理研の仁科研究室が中心になって原子爆弾の開発がおこなわれることになった。

この開発は、仁科の「に」から「ニ号研究」と呼ばれた。

しかし結局、1945年(昭和20年)のアメリカ軍の空襲(日本本土爆撃)によって設備が焼失し、日本の原爆開発は潰えることになる。

またサイクロトロンは、戦争のために活躍する事なく(日本の原子爆弾開発を参照)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によって11月にサイクロトロンは東京湾に投棄された。』(仁科芳雄(Wikipedia)より)

仁科芳雄氏は、原爆製造に関して当時の世界トップレベルの技術と知識を有していた科学者だった。

牛縊(うしくびる)~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393456.jpgTS393456 「ふみしろ」の横にシュロの木
TS393457.jpgTS393457 手前に2本、奥に1本シュロがあった
TS393458.jpgTS393458 「この先田村町電線地中工事のため・・・」

「ふみしろ」というひらがの看板がある。
その建物の横にシュロの木が見えた。

それで一度立ち止まって5~6mほど後戻りしてみた。

見る位置が変われば樹木の本数が変わることがあるからだ。
「ふみしろ」の横には街道沿いに2本シュロの木が植えられていて、さらに奥のほうもう1本シュロの木があった。

歩道に工事中の看板があった。
「この先田村町電線地中工事のため・・・」と書いてある。

この先が「田村町」だそうだ。

「奥州街道 肘(ひじ)曲がり坂」の案内板「磐井郡鬼死骸村を通り田村氏の城下町一関に至る」と書いてあった。

ここ一関宿は田村氏の支配する宿場だった。
そして田村氏とは、坂上田村麻呂の末裔である。


『田村氏(たむらし)は陸奥国の田村郡を支配していた戦国大名。
豊臣秀吉の奥州仕置により改易となるが、後に仙台藩伊達家の内分分家大名として再興される。
明治以降は子爵となり華族に列せられた。

出自
平安時代、桓武天皇より征夷大将軍に任命されて蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂を祖とし、その子孫が代々田村郡を領してきたとされる。

だが、応永期までの田村庄領主であった田村庄司家は藤原姓であり、それ以後に田村庄司職を奪取したとみられる三春田村氏は、田村義顕が大元帥明王社に奉納した大般若経に平義顕とあり、同様に田村清顕発行文書には平清顕とあることから、平姓と考えられる。

その一方で両田村氏とも坂上氏の後裔と称しており(田村庄司家は鎌倉大草紙、三春田村氏の場合は家譜類に見える)、田村郡の領主は坂上氏の末裔でなくてはならないという伝統があったと考えられる。

それはこの地における支配の正当性を示すものであり、徳川氏が三河国の領主としての正当性を示そうと河内源氏を称したのと同種であろう。

中略。

伊達政宗と田村仕置
郡山合戦に勝利した伊達政宗は三春城に入城、清顕後室を船引城に隠居させ家中相馬派を一掃した。

そして、清顕の甥である田村孫七郎を三春城主に据え、宗の一字を与え田村宗顕と名乗らせた。
宗顕の父は清顕の弟氏顕であり、清顕と同母であるため、宗顕も伊達氏の血を引いている。

これら伊達政宗による一連の相馬家の影響力排除を「田村仕置」と呼ぶ。

なお、これによって田村氏が伊達家中に含まれたわけではない。

伊達氏の影響力が強まり、また宗顕も田村家中も政宗へ依存したことは事実である。
しかし、宗顕は政宗と愛姫の子供が生まれるまでの「名代」とされており、中継相続人として期間限定的に田村家の家督を継いだと考えられる。

このことから、伊達家の与力的な立場ではあるが、あくまでも独立領主としての地位を保持していたと考えうるのである。

奥州仕置による改易
宗顕は1590年、豊臣秀吉の小田原の役に参陣せず、奥州仕置によって改易された。
田村領は政宗に与えられた。これは、田村家の家督は清顕より渡され自分にあるとした伊達政宗が宗顕の参陣を止めさせたためであり、結果的に政宗は奥州仕置を利用して田村領を乗っ取った形になった。

この政宗の裏切りとも思える行為に宗顕以下田村家中は失望、憤慨した。

宗顕は改易後、政宗の庇護の申し出を断り、牛縊定顕と名乗り隠棲した。
なお、宗顕は後に愛姫の意向により仙台藩領白石に身を寄せ白石城主片倉景綱の姉・片倉喜多の名跡を継いだ。

改易後の旧田村家中
伊達政宗は田村家中を伊達家中として召し抱えようとしたが、乗っ取られた形となった田村家中の政宗への不信感と反発は強かった。 そのため、彼らの多くはこれを断り蒲生氏や上杉氏、相馬氏などに仕官するか、旧知行地に帰農した(のちに蒲生家の改易や上杉家の減封によって浪々し、伊達家に仕官する者もいた)。

帰農したものは近世に至って庄屋に任ぜられるなど、村落特権層を形成し、郷士や在郷給人といった待遇を受ける者もいた。実際、近世三春藩の庄屋層は田村氏の一族や家中館主の後裔と思われる者が多数を占める。なお、家中館主配下の地侍の流れを汲むと思われる者は領内の上層農民にみられる。

また、合戦の敗北による断絶ではなかったため、帰農した旧田村家中とその子孫は敗北感を持たず、剛腹で武勇に富み、村民から「御屋形様」などと呼ばれた。彼らはその高い誇りゆえに、新領主の蒲生氏や上杉氏の武威の前にも容易には下らなかったという。そこで新領主は旧田村家中を庄屋に任じ在郷の士分として扱い懐柔した。そのため、彼らは在地の実力者として大いに権勢を誇った。

しかし、それによる弊害も多く、秋田氏の入封後は平庄屋の苗字帯刀の禁止と持高の制限を行い、地侍的性格を否定した。一方で藩命により転村することも多く、支配の末端に属する藩の下級官吏的な面が強く残った。

庄屋層の中でも新田開発や献金、役儀精勤の者、特に由緒のある者、割頭(大庄屋)は在郷給人に列せられた。在郷給人は給地や苗字帯刀御目見えの特権を与えられ、臨時の軍役が課せられることもあるなど、士分に準じた郷士待遇であった。

これらの背景から帰農した旧田村家中の子孫は、士分的意識を持ち続けることが多かった。

なかには大名家への仕官を試みる者もおり、農商の世界に浸りきれなかった彼らの心情が表れているといえよう。
なお、明治初期の版籍奉還を前に、三春藩は在郷給人・郷士制度を廃止したため、これらの待遇を受けていた旧田村家中の子孫は士族とはならず、平民籍となった。

伊達家による田村氏の再興
その後、愛姫の遺言により伊達忠宗の三男宗良が1652年岩沼3万石を分知され、田村宗良を名乗って田村氏が再興される。

後に一関に移り一関藩となった。

この近世大名田村氏は伊達62万石の内に3万石の領地を分与された内分分家大名であったが、幕府に対して直接公役を果たし、譜代大名格となる。

なかでも一関初代藩主(近世大名田村氏としては二代)田村建顕は、奏者番として江戸城に出仕し、浅野長矩の刃傷事件に際してその身を預かり、邸内で切腹させたことでも有名である。再興された田村氏は幕末まで一関を領し、明治以後は華族令によって子爵に列せられた。
』(田村氏(Wikipedia)より)

坂上田村麻呂から始まって漸く一関初代藩主田村建顕が登場してきた。
それだけ田村氏の歴史は権力闘争に明け暮れていたということだろう。

アイヌ族の中へ植民地政策で入り込んできて、いきなり田村麻呂の末裔だから領主様だといってもなかなか国人たちの了解を得にくかったのだろうか。

奥州仕置による改易の際に、政宗は奥州仕置を利用して田村領を乗っ取った。
この政宗の裏切りに憤慨し、田村宗顕は政宗の庇護の申し出を断り、牛縊定顕と名乗り隠棲したという。

「牛縊(うしくびる)」という姓を名乗ったところが面白い。

おなじ「くびる」でも「括る」という漢字を当てれば「ひもなどでくくり締める」という意味になる。
しかし「縊る」という感じを当てれば、それは「首を絞めて殺す」という意味になる。

アイヌ族は馬の文化である。
トルコ系などの騎馬民族の血が入っているのかもしれない。

一方、弥生人、とりわけ大和族は稲作や輸送には牛を用いる。

京都祇園祭の牛車はその象徴である。

「牛の首を絞め殺す」と名乗った田村宗顕は自らを馬の文化と思っていたのではないかとふと思った。

伊達政宗を牛とみなしていたとすれば、伊達家は大和族から奥州へ植民してきた大和族の末裔なのかもしれない。

坂上田村麻呂も大和族の征夷大将軍としてやってきたのだが、奈良の坂の上に住む帰化人であった。

ただ田村麻呂の後裔を名乗る田村氏も歴史の中では姓を剥奪してものもいるようなので、果たしてどこまでが奈良の坂上の末裔かははなはだ疑問がある。

肉食が許されるようになった明治以降、牛タンが仙台名物となったことは、伊達政宗あるいは伊達家が牛を多用する民族だったことと関係あるのかもしれない。

福島県郡山市の中田町に「牛縊本郷」という地名がある。
「うしくびる」と読むのだろうか。

茨城県筑波郡にも牛縊村という地名があるが、この二つの地には「田村宗顕の憤慨」が伝播したのかもしれない。

蔵のある道~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393453.jpgTS393453 「トップウェルネス一関」の看板(左端)
TS393454.jpgTS393454 整備された歩道
TS393455.jpgTS393455 一関宿の蔵のある旧道

「トップウェルネス一関」の看板が交差点の左端に立っている。

『ペアーレ一関(一関社会保険健康センター)が『トップウェルネス一関』に変わりました!
 地域のみなさんが健康的でキラキラ輝く(=ウェルネスな)人生を過ごせますように、常時100種類以上の講座を開講しております。プールとジムは一般利用も行っております。』
(「トップウェルネス一関」より)
http://top-wellness.jp/ichinoseki/

市の保健福祉施設のようである。

行政も横文字を多用する時代になったので、ときどきなんだろうかと面食らう。

歩道は左側だけ広く整備されている。

蔵のある古風な街道に出てきた。

東京人は翌日広島は原爆だったと知っていた! [つれづれ日記]

NHK総合テレビで作家高見順の日記が紹介されていた。

『新橋駅で義兄に声をかけられた。
「大変な話-聞いた?」と義兄はいう。

「大変な話?」あたりの人をはばかって、
義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。

人のいないとこへと彼は私を引っぱて行って、「原子爆弾の話-」
「……!」
広島の全人口の三分の一がやられたという。

「もう戦争はおしまいだ」

原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める。
そういう話はかねて聞いていた。
私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。』
(NHK総合テレビ番組「あの日 昭和20年の記憶」より抜粋)

高見順は福井県知の妾腹から生まれているから、知事の息子から聞いたのかもしれない。

『福井県知事阪本釤之助の非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。

母は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性。

阪本釤之助は永井荷風の父方の叔父であり、したがって荷風と高見順は従兄弟同士になるが、それにも拘らず互いに極めて険悪な関係にあった。

1歳で母と共に上京。
実父と一度も会うことなく、東京麻布飯倉にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。

私生児としてしばしばいじめを受けた。

阪本家からは毎月10円の手当てを受けていたがそれでは足りず、母が針仕事で生計を立てた。
東京府立第一中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。

在学中より「左翼芸術」などに作品を発表し、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動する。
1932年、治安維持法違反の疑いで検挙されるが、「転向」を表明し、半年後に釈放される。

1935年、饒舌体と呼ばれる手法で「故旧忘れ得べき」を著わす。
これが、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。

第二次世界大戦中の1939年には、戦時下の重圧の中の浅草風俗を描いた「如何なる星の下に」で高い評価を受ける。

戦後は、「わが胸の底のここには」、「あるリベラリスト」などの作品で私小説風に傷つきやすい精神を掘り下げた作品を次々と発表する。

また、晩年は、昭和という時代を描く「激流」「いやな感じ」「大いなる手の影」の連作を発表する。長編などでは他に「都に夜のある如く」、「生命の樹」、「今ひとたびの」、「胸より胸に」などがある。

また、詩人としても活躍し、「樹木派」、「わが埋葬」、「死の淵より」(最晩年の作、新版が講談社文芸文庫)などを発表する。

永井荷風と並ぶ日記作家としても知られ、昭和史の資料ともいえる「高見順日記」を著わす。
(「敗戦日記 新版」が中公文庫で再刊)。回想記に「昭和文学盛衰史」がある。』(高見順(Wikipedia)より)

別のネット記事にある高見順の日記は、テレビの報道内容とほぼ同じだが、一部異なる部分がある。

『(8月7日)
新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。
 「大変な話・・・聞いた?」と義兄はいう。
 「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。

人のいないところへと彼は私を引っ張っていって、
 「原子爆弾の話・・・」
 「・・・!」
 「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし・・・」
 「もう戦争はおしまいだ」

原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、
原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。

そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾がついに出現したというのだ。
・・・衝撃は強烈だった。

私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。

対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。

(8月9日)
4時過ぎごろ、林房雄が自転車に乗ってきて、
 「えらいことになった。戦争はもうおしまいだな」という。新爆弾のことかと思ったら、
 「まだ知らんのか。ソ連が宣戦布告だ」3時のラジオで報道されたという。

永井(龍男)君が来た。
東京からの帰りに寄ったのである。
緊張した表情である。

長崎がまた原子爆弾に襲われ広島より惨害がひどいという。
二人のものが、同盟と朝日と両方から聞いてきて、そう言ったから、うそではないらしい。

避難の話になった。
もうこうなったら避難すべきときだということはわかっているのだが、誰もしかし逃げる気がしない。
億劫でありまた破れかぶれだ。
 「仕方がない。死ぬんだな」〗(「高見順敗戦日記より)
http://www.k4.dion.ne.jp/~skipio/21essay2/takami-jun-haisen-diary.htm

NHKテレビの内容とこの記事の内容で大きく異なるのは以下の部分であった。

『原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。

そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾がついに出現したというのだ。
・・・衝撃は強烈だった。』

おそらく東京にいる物理科学者たちの常識を識者たちは共有していたのである。
原爆を先に開発した国が勝利するということを東京人の一部は知っていた。

しかも原爆投下の翌日に新橋駅で立ち話するくらいに知っていたのだ。
原爆と知っていれば、原爆投下地には入ってはならないというのも常識である。

広島の人々はそういうことを知らない。
翌日も残留放射能を浴び続けていた。

政府や官僚が知らないはずはないのである。

現在でもこの日本の民主主義の欠陥はなお継続していると考えるべきだ。
国民の命が一番大事と思う国ではないということだ。

「あなたがいつ犠牲にされるかもしれない」という緊張感を持って、この国では生きていかねばならない。



一関の観光案内~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393450.jpgTS393450 「錦町水天宮通り」の標識
TS393451.jpgTS393451 赤い実
TS393452.jpgTS393452 「地主町通り」「蔵のひろば」

案内標識が歩道に出ている。

標識にはこう書かれていた。
「錦町水天宮通り」
「蔵のひろば」
「浦しま公園」
「一関文化センター」

そして楓の葉色に良く似た木に、赤い実が沢山なっていた。

もう一つの標識はこういうものもあった。

「地主町通り」
「大町通り」

「地主町通り」や「蔵のひろば」には財力を誇る庄屋や商家が並んでいたのろう。

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