国道4号線と遭遇~奥州街道(4-151) [奥州街道日記]

TS393223.jpgTS393223背丈ほどある草の向こうに青い橋脚が見える
TS393222.jpgTS393222橋である
TS393224.jpgTS393224歩いてきた道を振り返る

背丈ほどある草の向こうに青い橋脚が見えてきた。
あれが国道4号線に違いない。

結局、道路の付け替えなどによって旧街道は消えていたようだ。

地図の通りには歩けないこともある。

それを乗り越える根性と覚悟も街道歩きには要求される。

草の坂道をよじのぼって、ようやく国道4号線に出合えた。

自分の来し方を振り返り、撮影した。
写真下の田の右隅にある小高い土塁の上を、私は歩いてきたのであった。

草に埋もれながら~奥州街道(4-150) [奥州街道日記]

TS393218.jpgTS393218仕方なく川沿いの道を歩く
TS393219.jpgTS393219江戸時代と変わらぬ土草の道
TS393221.jpgTS393221靴も草に埋もれる

草の道は江戸時代の道そのままの姿で今に残っている。
あるいは奈良時代もこのままだったのかもしれない。

アザマロもこういう道を騎馬で駆け回っていたのであろう。

トレッキングシューズの高さより周囲の草の丈のほうが高い。

草に埋もれながら歩いている。

通行止め~奥州街道(4-149) [奥州街道日記]

TS393215.jpgTS393215ますます草深くなってくる
TS393216.jpgTS393216焼畑のあと
TS393217.jpgTS393217あれ!「通行止め」

周囲はますます草深くなってきた。

左手に焼畑の跡があった。

突然「通行止め」の標識に出くわした。

この先に昔の橋があったはずであるが、もうなくなっているのか、あるいは通行が危険な状態になっているのだろう。

引き返すのは癪である。

地図を見ると川沿いに上流に向かえば橋があるはずだ。
その橋が国道4号線の橋である。

ともかく右へ曲がって川の南側沿いの草の道を歩いていくことにした。

砂利道へ~奥州街道(4-148) [奥州街道日記]

TS393212.jpgTS393212アスファルトから砂利道へ入る
TS393213.jpgTS393213広大な休耕田
TS393214.jpgTS393214段々細くなる道

ガイドブックの地図に従って歩いていると、アスファルトの道から砂利道へと入っていくことになる。

不安を感じたので、道を振り返った。
そのときに写した写真が一番上の写真である。

果たして砂利道へと入っていっていいのだろうか?

迷い道へ入っていくような予感を感じつつ、地図に従って砂利道を進んで行く。

広大な休耕田が広がっている。

砂利道は土の道へと変わってゆき、道には草がぼうぼうと生えている。

耕運機が走る轍(わだち)部だけが土がむき出している。
私は土の部分を踏みしめながら、草を掻き分け前へ進んだ。

道は段々細くなってくる。

中国風の歴史館~奥州街道(4-147) [奥州街道日記]

TS393208.jpgTS393208伊治城の歴史館のような建物
TS393209.jpgTS393209伊治城外郭北辺の土塁だろう
TS393210.jpgTS393210栗原市立富野荘学校

蝦夷の豪族「砦麻呂(あざまろ)」が住んでいた伊治(これはる)城の前に私はいる。

先ほど照明寺で見た説明板の内容を思い出している。

『この伊治城は、奈良時代の後期、神護景雲元年(西暦767)秋ごろ造営された。

「続日本紀」の神護景雲元年十月十五日の条に次のように書かれている。

勅すらく、陸奥国の奏する所を見るに、即ち伊治城を作る了ることを知る。

始めより畢(おわ)りに至まで三旬に満たず。

と、このあと城郭施設としておそらく宝亀十一年(西暦780)ころまで十数年かかり、整備されていったであろう。』


「伊治城外郭北辺土塁及び大溝跡」と書いた白い木柱は、街道より1mほど小高い段に立っていた。

街道からその一段高いところにある敷地へ上がってみた。
草むらが広がっている。

広い敷地の奥に、ススキの穂影の向こうに中国の建物を連想させる赤い柱のある建築物が見えた。

「伊治城の歴史館のような建物」であろう。

この一段高いところにある敷地が、「伊治城外郭北辺の土塁」の上に当たるのだろう。

その先に栗原市立富野小学校があった。

古代は小学校の敷地も含めて、広大な城の光景が広がっていたと思われる。

砦麻呂(あざまろ)」を思い出すべく、アザマロの乱の記事を再掲する。

『元々砦麻呂(あざまろ)は「伊治(いじ・これはる)村、現在の宮城県栗原市・「くりはら」は「これはる」に由来すると言われる」の蝦夷でしたが、朝廷に帰服して、外従五位下の官位を賜り、蝦夷としては破格の待遇を受けることになっていたようです。

宝亀11年(780)3月、時の陸奥守兼按察使(あぜち)「紀広純(きのひろすみ)」は、伊治城より北の蝦夷の南進が激しくなってきたことに伴い、伊治城の更に北に「覚鱉(かくべつ)柵」を築き、それを防ぐことにしました。

伊治公砦麻呂は、同じ蝦夷にもかかわらず、砦麻呂以上に朝廷の覚えめでたい牡鹿(おじか)郡の大領「道嶋大楯(みちしまのおおだて)」と伴に、時の陸奥守「紀広純」の下、味方の蝦夷軍を率いて伊治城で待機しておりました。

砦麻呂は広純にたいそう気に入られていたようですので、よほど実直に仕えていたのでしょう。

ところが、一方の道嶋大楯は同じ蝦夷でありながらエリート意識が鼻につく人物だったようで、砦麻呂を蝦夷扱いし、嘲っていたようです。

これにアレルギー反応を起こした砦麻呂は、味方の蝦夷軍を動かしてまず大楯を葬り、その勢いで広純をも殺害してしまいました。

この事件は朝廷を震撼させました。
これまでは外敵としての蝦夷をどう攻め、どう懐柔するかばかりを考えていたのに、こともあろうに懐柔したはずの蝦夷が内部から暴発したのです。

このとき、実に妙なことが起きます。
これだけのクーデターにもかかわらず、何故か唯一人陸奥介「大伴真綱(まつな)」だけは生き残ったのです。

決して奇跡ではありません。
奇跡どころか、はっきりと積極的に生かされました。
砦麻呂勢によってご丁寧に多賀城まで護送されていることが『続日本紀』にも明記されております。

“大伴氏”だけが蝦夷から護衛されて生き残ったのです。
この地の蝦夷にとって、大伴氏とは果たして如何なる存在だったのでしょうか・・・。』(「伊治公砦麻呂と大伴氏」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/16668202.html/

伊治城外郭北辺土塁~奥州街道(4-146) [奥州街道日記]

TS393204.jpgTS393204これでもかと、風車の群れ
TS393205.jpgTS393205シュロのある家
TS393207.jpgTS393207伊治城外郭北辺土塁及び大溝跡

そのうち、ある住宅の庭先に一面の風車が色鮮やかに広がっていた。
これほどの風車(かざぐるま)を一同に見たのははじめてである。

色使いといい、数の多さといい、青森のねぶた祭りのスケールのようなものを感じる。
アザマロの色彩感覚は、今に引き継がれている。


回る原色風車~奥州街道(4-145) [奥州街道日記]

TS393201.jpgTS393201街道の松
TS393202.jpgTS393202畑にカラス除けの風車
TS393203.jpgTS393203ペットボトルで作った色鮮やかな風車

街道の松の名残がある。

草むらの奥に畑があり、そこにカラフルなものが目に付いた。
カラスよけと思われる風車である。

やがて住宅の庭先にも同じものがカラカラと回っていた。

アザマロもこのような原色の配色を好んでいたのだろうか。

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