三迫川河川公園~奥州街道(4-162) [奥州街道日記]
TS393267古風な雰囲気を残す民家
TS393269三迫川河川公園
TS393271線路が途切れていた
テントを張ってくださいといわんばかりの絶好の芝生地である。
しかし、ここで安易に妥協することはできない。
ノルマの距離を歩いていないからである。
断腸の思いとはこういうことを言うのだろう。
3日目の足は足の指のほう、足のひらの1/3くらいがしびれ始めている。
およそ70kmを歩いてきた。
見れば見るほど三迫川河川公園でテントを張りたいと思う。
思いを振り切って先へ急ぐことにする。
街道筋に踏み切り跡があるが、線路は途切れていた。
線路の途切れた鉄道とはどういうことだろうか。
私鉄が線路の補修か付け替え工事をしているのだろうか。
TS393269三迫川河川公園
TS393271線路が途切れていた
テントを張ってくださいといわんばかりの絶好の芝生地である。
しかし、ここで安易に妥協することはできない。
ノルマの距離を歩いていないからである。
断腸の思いとはこういうことを言うのだろう。
3日目の足は足の指のほう、足のひらの1/3くらいがしびれ始めている。
およそ70kmを歩いてきた。
見れば見るほど三迫川河川公園でテントを張りたいと思う。
思いを振り切って先へ急ぐことにする。
街道筋に踏み切り跡があるが、線路は途切れていた。
線路の途切れた鉄道とはどういうことだろうか。
私鉄が線路の補修か付け替え工事をしているのだろうか。
沢辺宿~奥州街道(4-161) [奥州街道日記]
TS393264沢辺宿に着く
TS393265宿場町
TS393266沢辺仲町
沢辺宿は、宿場と宿場の間の宿、つまり間宿(あいのじゅく)だった。
長さは800メートルである。
金成宿とは接近しており、伝馬役は両宿交代で担当していたという。
TS393265宿場町
TS393266沢辺仲町
沢辺宿は、宿場と宿場の間の宿、つまり間宿(あいのじゅく)だった。
長さは800メートルである。
金成宿とは接近しており、伝馬役は両宿交代で担当していたという。
苦あれば楽あり~奥州街道(4-160) [奥州街道日記]
TS393261野川?の橋だ
TS393262絶好のテント宿泊地だ
TS393263ほぼ山の上に位置する川だ
野川だと思われるが、橋を渡る。
河川敷を見下ろすと、そこは絶好のテント宿泊地だ。
しかし、今日は第4幕の三日目でまだ午後 4時である。
1日25kmのノルマを自分に課しているから、まだかなり歩かねばならない。
後ろ髪を引かれながら、橋を渡る。
この先、日暮れまでにテント宿泊地を見つけ出せなかったときには、この川でテントを張らなかった自分を猛烈に後悔することになるだろう。
しかし、毎日妥協を繰り返していく限り、奥州街道の終点三厩宿へはなかなかたどり着けないのである。
楽あれば苦ありなのである。
逆に苦あればこそ楽があるのである。
亡き母がよく言っていた。
「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」と。
TS393262絶好のテント宿泊地だ
TS393263ほぼ山の上に位置する川だ
野川だと思われるが、橋を渡る。
河川敷を見下ろすと、そこは絶好のテント宿泊地だ。
しかし、今日は第4幕の三日目でまだ午後 4時である。
1日25kmのノルマを自分に課しているから、まだかなり歩かねばならない。
後ろ髪を引かれながら、橋を渡る。
この先、日暮れまでにテント宿泊地を見つけ出せなかったときには、この川でテントを張らなかった自分を猛烈に後悔することになるだろう。
しかし、毎日妥協を繰り返していく限り、奥州街道の終点三厩宿へはなかなかたどり着けないのである。
楽あれば苦ありなのである。
逆に苦あればこそ楽があるのである。
亡き母がよく言っていた。
「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」と。
稲穂の兵馬俑~奥州街道(4-159) [奥州街道日記]
TS393256見事な稲穂の兵馬俑
TS393258同上
TS393259国道4号線の傍の旧道を歩く
金成町の見事な稲穂の列。
私はこれを稲穂の兵馬俑と勝手に名づけた。
国道4号線を歩いていると、こういう景色は見えない。あるいは見えにくい。
国道傍の旧道を歩くとこういう光景に出会えるからうれしい。
九州育ちの私には、穂積は小山状態に積んだものだったから、こういう稲穂の積み方は珍しい。
TS393258同上
TS393259国道4号線の傍の旧道を歩く
金成町の見事な稲穂の列。
私はこれを稲穂の兵馬俑と勝手に名づけた。
国道4号線を歩いていると、こういう景色は見えない。あるいは見えにくい。
国道傍の旧道を歩くとこういう光景に出会えるからうれしい。
九州育ちの私には、穂積は小山状態に積んだものだったから、こういう稲穂の積み方は珍しい。
金成(かんなり)の女神~奥州街道(4-158) [奥州街道日記]
TS393249旧道の正面上に車道が見えてきた
TS393250国道4号線だ(東京から422km地点)
TS393251廃業か?パチンコ屋
TS393252「金成女神」(Wwlcome to JOY)
金成町の旧道は国道4号線へと合流した。
国道4号線に入る。
ここは東京から422km地点である。
国道沿いに白い建物があり、「パチンコ屋」という看板が見える。
人気のない田舎に作ったパチンコ屋に入る人などいるのだろうか。
「金成女神」(Wwlcome to JOY)と書いたカラフルな看板がある。
アザマロの末裔たちはカラフルな色彩感覚が優れている。
おそらくこのパチンコ屋は廃業してカラオケかなにかの遊興施設に変わっているのだろう。
TS393250国道4号線だ(東京から422km地点)
TS393251廃業か?パチンコ屋
TS393252「金成女神」(Wwlcome to JOY)
金成町の旧道は国道4号線へと合流した。
国道4号線に入る。
ここは東京から422km地点である。
国道沿いに白い建物があり、「パチンコ屋」という看板が見える。
人気のない田舎に作ったパチンコ屋に入る人などいるのだろうか。
「金成女神」(Wwlcome to JOY)と書いたカラフルな看板がある。
アザマロの末裔たちはカラフルな色彩感覚が優れている。
おそらくこのパチンコ屋は廃業してカラオケかなにかの遊興施設に変わっているのだろう。
三界万霊牌~奥州街道(4-157) [奥州街道日記]
TS393246姉歯地区の風景
TS393247三界万霊供養塔の説明板
TS393248三界万霊供養塔
先に紹介した江戸時代の旅行家「菅江真澄」の文章には、ここを通った妹が「あがあねのはか松」と言ったと書かれている。
「あが」は「あれが」という意味。
「あねのはか松」とは「姉の墓松」である。
妹よりも先だって京都へ旅立った姉が病でこの地で死んだ。遺骸を埋めた場所を示すために松を植えたのであろう。
数年後に妹が京都へ向かう折にここを通った。
「あの松が姉の墓の松ですよ。」と言ったのだろう。
「あねのはか」が「あねのは」となり「姉歯」と転じたのかもしれない。
朝廷が地方の豪族に女官を差し出せと命令し、豪族の娘の中から綺麗なものを京都へと送り込んでいたのであろう。
女官といえば聞こえがいいが、女奴隷、性の奴隷として使われた可能性もある。
地元の人々にとって悲しみを共有できる姉の死だったに違いない。
だから後世にまでその悲しみを継承しているのであろう。
表面立って朝廷へはむかうことなどできないから、こうやって昔の悲しみをただ綿々と伝えているだけなのだろう。
私有地内に説明版がたっているのもそういうことがあるのかもしれない。
大和族の公有地には、蝦夷の豪族の娘の悲しみを記念する場所などないからだ。
蝦夷の悲しみは蝦夷の敷地で慰めるという意地でもあろう。
ここの三界万霊牌は、天明6年(1786)の大飢饉の死者の供養碑である。
説明板より抜粋する。
『姉歯の門屋敷前に「三界万霊供養塔」が建っている。
文化15年(1818)初夏の仏縁日の33回忌に姉歯馬場屋敷菅原三郎兵衛が建立したものである。
これは天明6年(1786)江戸時代後期には、しばしば飢饉が起り享保、天明、天保は近世の三大飢饉といわれ、惨状がはなはだしかった。
天明3年諸国飢饉、東北地方は最も被害甚大で、米麦は勿論雑穀の収穫も皆無に等しいので、牛、馬、鶏、犬の肉はもとより、雑草、樹皮まで食ったという。
また道路に倒れて死んでいく者、その数も知らず、始めは個々に埋めていたが後には誰もがかえりみる者もなく、屍は犬やからすの餌になったと記されてある。
当時の農民の飢饉の資料を全慶寺過去帳から天明6年死者55人、同7年23人、同8年61人、同9年19人、同10年には10人となっている。
全慶寺の檀家には当時沢辺の町だけだから150戸くらいであったろう。
これからみると天明8年には40%の家で死亡者が出たことになる。
一家で4人も死亡した例もある。
過去帳にあるのは葬式弔いのあった家のみだろうから、貧農で飢饉に堪えかねて知らぬ土地に行き野たれ死した者も相当あったと想われる。
平成5年3月
金成町教育委員会』(抜粋終わり)
三界万霊牌とは全国にあるものだ。
『寺には三界万霊牌がある。
境内に三界万霊牌の石塔のある寺も少なくない。
三界とは私どもが生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊牌はこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のことである。
どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自地平等、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものである。
私どもの先祖は二十代溯ると実に百万人を超すのである。
それだけ多くの先祖の方々がこの世に生存していた間、現に私どもがそうであると同じように、数多くの人々と親しい交流をもたれたことであり、その数は数え切れないものであろう。
これらの、我が家の先祖と親しい間柄にあった方々のすべてが子孫に恵まれておればよいのだが、すでに子孫が絶えて供養してもらえない精霊の数は実に多いのである。
そうした恵まれない精霊を先祖と親しい間柄にあったご縁をもって供養してあげることは人間的にみて誠に奥床しいことである。
それだけではなく、仏教では怨念平等といって敵味方共々に平等であるという立場から戦争の時など敵味方のわけへだてなく供養し、供養塔を建てたのであるが、残念ながら今日はそうしたおおらかさがなくなった。
せめて先祖供養と共に有無両縁の精霊に供養する施餓鬼の意義を忘れないでほしいものだ。』
(「第九十六話 三界万霊」より)
http://www.jtvan.co.jp/howa/Sato/houwa096.html
TS393247三界万霊供養塔の説明板
TS393248三界万霊供養塔
先に紹介した江戸時代の旅行家「菅江真澄」の文章には、ここを通った妹が「あがあねのはか松」と言ったと書かれている。
「あが」は「あれが」という意味。
「あねのはか松」とは「姉の墓松」である。
妹よりも先だって京都へ旅立った姉が病でこの地で死んだ。遺骸を埋めた場所を示すために松を植えたのであろう。
数年後に妹が京都へ向かう折にここを通った。
「あの松が姉の墓の松ですよ。」と言ったのだろう。
「あねのはか」が「あねのは」となり「姉歯」と転じたのかもしれない。
朝廷が地方の豪族に女官を差し出せと命令し、豪族の娘の中から綺麗なものを京都へと送り込んでいたのであろう。
女官といえば聞こえがいいが、女奴隷、性の奴隷として使われた可能性もある。
地元の人々にとって悲しみを共有できる姉の死だったに違いない。
だから後世にまでその悲しみを継承しているのであろう。
表面立って朝廷へはむかうことなどできないから、こうやって昔の悲しみをただ綿々と伝えているだけなのだろう。
私有地内に説明版がたっているのもそういうことがあるのかもしれない。
大和族の公有地には、蝦夷の豪族の娘の悲しみを記念する場所などないからだ。
蝦夷の悲しみは蝦夷の敷地で慰めるという意地でもあろう。
ここの三界万霊牌は、天明6年(1786)の大飢饉の死者の供養碑である。
説明板より抜粋する。
『姉歯の門屋敷前に「三界万霊供養塔」が建っている。
文化15年(1818)初夏の仏縁日の33回忌に姉歯馬場屋敷菅原三郎兵衛が建立したものである。
これは天明6年(1786)江戸時代後期には、しばしば飢饉が起り享保、天明、天保は近世の三大飢饉といわれ、惨状がはなはだしかった。
天明3年諸国飢饉、東北地方は最も被害甚大で、米麦は勿論雑穀の収穫も皆無に等しいので、牛、馬、鶏、犬の肉はもとより、雑草、樹皮まで食ったという。
また道路に倒れて死んでいく者、その数も知らず、始めは個々に埋めていたが後には誰もがかえりみる者もなく、屍は犬やからすの餌になったと記されてある。
当時の農民の飢饉の資料を全慶寺過去帳から天明6年死者55人、同7年23人、同8年61人、同9年19人、同10年には10人となっている。
全慶寺の檀家には当時沢辺の町だけだから150戸くらいであったろう。
これからみると天明8年には40%の家で死亡者が出たことになる。
一家で4人も死亡した例もある。
過去帳にあるのは葬式弔いのあった家のみだろうから、貧農で飢饉に堪えかねて知らぬ土地に行き野たれ死した者も相当あったと想われる。
平成5年3月
金成町教育委員会』(抜粋終わり)
三界万霊牌とは全国にあるものだ。
『寺には三界万霊牌がある。
境内に三界万霊牌の石塔のある寺も少なくない。
三界とは私どもが生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊牌はこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のことである。
どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自地平等、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものである。
私どもの先祖は二十代溯ると実に百万人を超すのである。
それだけ多くの先祖の方々がこの世に生存していた間、現に私どもがそうであると同じように、数多くの人々と親しい交流をもたれたことであり、その数は数え切れないものであろう。
これらの、我が家の先祖と親しい間柄にあった方々のすべてが子孫に恵まれておればよいのだが、すでに子孫が絶えて供養してもらえない精霊の数は実に多いのである。
そうした恵まれない精霊を先祖と親しい間柄にあったご縁をもって供養してあげることは人間的にみて誠に奥床しいことである。
それだけではなく、仏教では怨念平等といって敵味方共々に平等であるという立場から戦争の時など敵味方のわけへだてなく供養し、供養塔を建てたのであるが、残念ながら今日はそうしたおおらかさがなくなった。
せめて先祖供養と共に有無両縁の精霊に供養する施餓鬼の意義を忘れないでほしいものだ。』
(「第九十六話 三界万霊」より)
http://www.jtvan.co.jp/howa/Sato/houwa096.html
あねはの松~奥州街道(4-156) [奥州街道日記]
TS393244街道右手の草むらに案内板
TS393243金成町姉歯地区史跡案内
TS393245三界万霊供養塔案内柱
旧街道を歩いていると、右手の民家の庭先というか、家の前の畑の草むらに案内板が見えた。
私的なものと公的なものが混在するおおらかさは、私には慣れないものである。
つまり公的な説明板を見るために、民家の庭先に入ることになり、近代の法によれば個人の宅地内への「不法侵入罪」を意識せざるを得ないからだ。
奈良、平安の時代のおおらかさはこういうものだったのだろうか。
あるいは大和族がこの国を支配する以前の、日本列島の原住民たちの暮らしがおおらかなものだったのだろうか。
おそらく後者であろう。
だからこそ、朝鮮半島を経由して日本列島に渡来してきたユダヤ人たちは、このおおらかな国を自分たちの儲かるほうへと誘導することも容易だったのである。
ユダヤ人といってもピンとこないだろうが、多くは公家であり、明治以降は貴族となってこの国の利権を支配してきた。
第2次世界大戦で敗戦してもその構造は破壊されることなく今も温存されている。
誰が総理になっても何も代わらないような仕組みにしているのは彼らの知恵による。
ついつい古代日本列島征服のうらみつらみが沸いてきてしまった。
「金成町姉歯地区史跡案内」の説明を読もう。
「かんなりちょうあねはちく」と読む。
『一、これより東に100メートル
姉歯横穴古墳群
一、これより東に580メートル
鷹の羽清水
一、これより東に600メートル
姉歯上館(古館)
一、これより東に1,500メートル
姉歯御倉跡
一、これより東に1,800メートル
姉歯下館(新館)
一、これより東に2,500メートル
姉歯地区集会所(旧姉歯分校)入口に上下両館の由来碑
姉歯下地区集会所西方瑞満寺に中世姉歯氏族板碑、廟及び姉歯武之進の墓碑等あり
一、これより東に2,700メートル
姉歯の松(伊勢物語記)
昭和62年12月
金成町教育委員会』(抜粋終わり)
ここから東の方にたくさんの史跡があるという主張である。
文面からみると、「中世姉歯氏族」に関する遺跡のようだ。
伊勢物語の在原業平が詠んだ歌にあねはの松が出ている。
「栗原や あねはの松の人ならば 都のつとに いさといまわしを」
平安朝物語文学でみちのくの歌枕となっているほど有名な松である。
姉歯で検索してみると、「耐震強度偽装問題で姉歯秀次元1級建築士の証人喚問を行った。」という記事が出てきた。
現代はこちらの宮城出身の姉歯氏のほうが有名になっている。
姉歯の松を述べている江戸時代の文章を見てみよう。
天明3年に三河を出奔して46年間漂泊の旅を続けた菅江真澄(すがえますみ)という人物が書いたものだ。
『いでその処にいかんとて、「都のつとに、いざといはましを、あねはの松の人ならば」といくたびもずんじかへして、おもふこころをいふ。
都人いさてふこともなかなかに絶えてあねはのまつそひさしき
此の松のことは、用明天皇の御時、気仙の郡高田という処より、たれのむすめならん、都に行とて、此里にて死たり。
其しるしに植たる松を、又妹都へ行とて、あがあねのはか松なりとて、いたくなきて行がてに、なみだをぬくひしふところ紙の、ここらありとて、今紙下坂(カミヨリ)といふゆへやあいけん。
そが姉のはか松とも、又松浦佐用姫のあね、うつみしともいへり。
又義経、かみの郡に掛りて、いちの関を越へて、宮城野の原、つつぢが岡、ちかのしほがま、松ヶ浦島と申、名所名所見給ひて、三日横道にて候、かなよりの地蔵堂、瓶破山を越ては、昔、出羽郡司か娘、小野小町と申者の、すみ候ける、玉造むろの里とも申ところ、又小町が、関寺に候ける時、業平中将吾妻へくだり給ひけるに妹のあねはがもとへ、文かきて、ことづてしに、中将くだり給ひて、あねはを尋ねたまへば、空しくなりて年久しくなりぬと申せば、あねはがしるしはなきかと仰せられければ、ある人、墓にうへたる松をこそ、あねはの松とは申候へと申ければ、中将あねはが墓に行て、松の根にふみを埋めて、よみ給ひける歌
栗原やあねはの松のひとならは都のつとにいさといはましものを
とよみ給ひける。
名木を御覧じては、松山ひとつ越めれば、秀衡かたち近く候、とも書たり。
又、まちまちにいへりける、いにしへ、みやこより、松護山龕倉寺といふ御寺を、建給ひしなどいひ伝へたり。祐誉(タカ)のいへらく、
かくはかりとしてつもりぬる我よりも姉歯の松は老ぬらんかし
秀能朝臣は
くりはらや姉歯のまつをきそひても都はいつとしらぬ袖かな
と聞え給ひぬ、』(「菅江真澄全集・第十二巻」より)
http://www.st.rim.or.jp/~success/kasumu_12.html
「信州・東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。
享和元年(1801年)に再度の秋田入りをした際には白井真隅と名乗ったが、文化7年(1810年)の日記『氷魚の村君』(ひおのむらぎみ)からは菅江真澄を名乗っている。」(菅江真澄(Wikipedia)より)
先の案内板が遺跡が多くあるよと主張している東の方向を見る。
狭いアスファルトの車道とその右手に広い稲田が広がっている。
何百メートルも先に何があるかなどは私の目では見えない。
旅の途中のこの足で寄り道できる距離ではない。
民家の入口に立っている三界万霊供養塔だけお参りすることにした。
その他の遺跡を見たい人は、下記サイトに写真で解説されているのでお勧めする。
「栗原市金成」
http://homepage1.nifty.com/akabeko/kannari.htm
三界万霊供養塔の案内となる木柱にはこう書かれていた。
『江戸時代後期には、天候異変によりこの地方でもしばしば飢饉に見舞われました。
そのため食料の収穫も乏しく、多くの人々が犠牲になりました。
供養塔は、犠牲となった人々の供養のために建立されました。』
年貢(税金)で半分幕府に召し上げられていただろうから、納税免除してあげれば相当数の人が生き延びることができただろう。
朝廷や幕府の贅沢のために多くの人が死んでいったということだ。
就職難で生活苦の多い国民がいる中で、事業仕分けでさえも逃げ切れて贅沢を継続している独法や特殊法人がいる。
構造は中世とあまり変わっていない。
TS393243金成町姉歯地区史跡案内
TS393245三界万霊供養塔案内柱
旧街道を歩いていると、右手の民家の庭先というか、家の前の畑の草むらに案内板が見えた。
私的なものと公的なものが混在するおおらかさは、私には慣れないものである。
つまり公的な説明板を見るために、民家の庭先に入ることになり、近代の法によれば個人の宅地内への「不法侵入罪」を意識せざるを得ないからだ。
奈良、平安の時代のおおらかさはこういうものだったのだろうか。
あるいは大和族がこの国を支配する以前の、日本列島の原住民たちの暮らしがおおらかなものだったのだろうか。
おそらく後者であろう。
だからこそ、朝鮮半島を経由して日本列島に渡来してきたユダヤ人たちは、このおおらかな国を自分たちの儲かるほうへと誘導することも容易だったのである。
ユダヤ人といってもピンとこないだろうが、多くは公家であり、明治以降は貴族となってこの国の利権を支配してきた。
第2次世界大戦で敗戦してもその構造は破壊されることなく今も温存されている。
誰が総理になっても何も代わらないような仕組みにしているのは彼らの知恵による。
ついつい古代日本列島征服のうらみつらみが沸いてきてしまった。
「金成町姉歯地区史跡案内」の説明を読もう。
「かんなりちょうあねはちく」と読む。
『一、これより東に100メートル
姉歯横穴古墳群
一、これより東に580メートル
鷹の羽清水
一、これより東に600メートル
姉歯上館(古館)
一、これより東に1,500メートル
姉歯御倉跡
一、これより東に1,800メートル
姉歯下館(新館)
一、これより東に2,500メートル
姉歯地区集会所(旧姉歯分校)入口に上下両館の由来碑
姉歯下地区集会所西方瑞満寺に中世姉歯氏族板碑、廟及び姉歯武之進の墓碑等あり
一、これより東に2,700メートル
姉歯の松(伊勢物語記)
昭和62年12月
金成町教育委員会』(抜粋終わり)
ここから東の方にたくさんの史跡があるという主張である。
文面からみると、「中世姉歯氏族」に関する遺跡のようだ。
伊勢物語の在原業平が詠んだ歌にあねはの松が出ている。
「栗原や あねはの松の人ならば 都のつとに いさといまわしを」
平安朝物語文学でみちのくの歌枕となっているほど有名な松である。
姉歯で検索してみると、「耐震強度偽装問題で姉歯秀次元1級建築士の証人喚問を行った。」という記事が出てきた。
現代はこちらの宮城出身の姉歯氏のほうが有名になっている。
姉歯の松を述べている江戸時代の文章を見てみよう。
天明3年に三河を出奔して46年間漂泊の旅を続けた菅江真澄(すがえますみ)という人物が書いたものだ。
『いでその処にいかんとて、「都のつとに、いざといはましを、あねはの松の人ならば」といくたびもずんじかへして、おもふこころをいふ。
都人いさてふこともなかなかに絶えてあねはのまつそひさしき
此の松のことは、用明天皇の御時、気仙の郡高田という処より、たれのむすめならん、都に行とて、此里にて死たり。
其しるしに植たる松を、又妹都へ行とて、あがあねのはか松なりとて、いたくなきて行がてに、なみだをぬくひしふところ紙の、ここらありとて、今紙下坂(カミヨリ)といふゆへやあいけん。
そが姉のはか松とも、又松浦佐用姫のあね、うつみしともいへり。
又義経、かみの郡に掛りて、いちの関を越へて、宮城野の原、つつぢが岡、ちかのしほがま、松ヶ浦島と申、名所名所見給ひて、三日横道にて候、かなよりの地蔵堂、瓶破山を越ては、昔、出羽郡司か娘、小野小町と申者の、すみ候ける、玉造むろの里とも申ところ、又小町が、関寺に候ける時、業平中将吾妻へくだり給ひけるに妹のあねはがもとへ、文かきて、ことづてしに、中将くだり給ひて、あねはを尋ねたまへば、空しくなりて年久しくなりぬと申せば、あねはがしるしはなきかと仰せられければ、ある人、墓にうへたる松をこそ、あねはの松とは申候へと申ければ、中将あねはが墓に行て、松の根にふみを埋めて、よみ給ひける歌
栗原やあねはの松のひとならは都のつとにいさといはましものを
とよみ給ひける。
名木を御覧じては、松山ひとつ越めれば、秀衡かたち近く候、とも書たり。
又、まちまちにいへりける、いにしへ、みやこより、松護山龕倉寺といふ御寺を、建給ひしなどいひ伝へたり。祐誉(タカ)のいへらく、
かくはかりとしてつもりぬる我よりも姉歯の松は老ぬらんかし
秀能朝臣は
くりはらや姉歯のまつをきそひても都はいつとしらぬ袖かな
と聞え給ひぬ、』(「菅江真澄全集・第十二巻」より)
http://www.st.rim.or.jp/~success/kasumu_12.html
「信州・東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。
享和元年(1801年)に再度の秋田入りをした際には白井真隅と名乗ったが、文化7年(1810年)の日記『氷魚の村君』(ひおのむらぎみ)からは菅江真澄を名乗っている。」(菅江真澄(Wikipedia)より)
先の案内板が遺跡が多くあるよと主張している東の方向を見る。
狭いアスファルトの車道とその右手に広い稲田が広がっている。
何百メートルも先に何があるかなどは私の目では見えない。
旅の途中のこの足で寄り道できる距離ではない。
民家の入口に立っている三界万霊供養塔だけお参りすることにした。
その他の遺跡を見たい人は、下記サイトに写真で解説されているのでお勧めする。
「栗原市金成」
http://homepage1.nifty.com/akabeko/kannari.htm
三界万霊供養塔の案内となる木柱にはこう書かれていた。
『江戸時代後期には、天候異変によりこの地方でもしばしば飢饉に見舞われました。
そのため食料の収穫も乏しく、多くの人々が犠牲になりました。
供養塔は、犠牲となった人々の供養のために建立されました。』
年貢(税金)で半分幕府に召し上げられていただろうから、納税免除してあげれば相当数の人が生き延びることができただろう。
朝廷や幕府の贅沢のために多くの人が死んでいったということだ。
就職難で生活苦の多い国民がいる中で、事業仕分けでさえも逃げ切れて贅沢を継続している独法や特殊法人がいる。
構造は中世とあまり変わっていない。