旅順監獄看守だった千葉十七が建てた安重根記念碑 [奥州街道日記]

TS393277.jpgTS393277金成正教会まで1.3kmの標識

私は旧奥州街道の沢辺市役所の道路向いの縁石に腰掛けて涼んでいるところだ。

たまたま左手に「安重根記念碑(大林寺)2.8km」と書いた白い案内板を見かけた。
この疲れた3日目の足では、2.8km先の顕彰碑文までの道草はとてもできない。

「大林寺(宮城県栗原市 観光名所)」というサイトにその顕彰碑の写真と建立理由が載っていた。
http://rover.seesaa.net/article/105292961.html

記事を一部抜粋する。

『行ってみると、本当にあります。安重根の碑。
そこには「為国献身軍人本分」と書かれています。

何故にここに安重根の碑があるかという事が、解説されていました。

安重根死刑囚を看守する役目にある、千葉十七というこの地出身の人物がいて、安重根義士の東洋平和論と民族独立への悲願に深く
心を動かされ、いつしか二人は互いに敬愛の念で結ばれるようになったそうです。

安重根義士は、死を目前に千葉氏に「為国献身軍人本分」の書を今生の別れに贈ったとの事。

安重根生誕100周年の1979年、それまで千葉氏並びに遺族により大切にされてきたこの書は、祖国に返還された。
碑はこれを記念して千葉氏が建立した物という事です。』(抜粋終わり)

先ほどあげた遺墨「一日不讀書口中生荊棘」は、キリシタンだった安重根が聖書を読まない日はないという意味のものだった。

安は獄中で200もの「遺墨」を書いたそうだが、「為国献身軍人本分」はそのうちの一つである。
しかし「一つの墨書」と言っても「最後の一つ」だから、その意味はとても重要なものを含んでいるかも知れない。

『死を目前に千葉氏に「為国献身軍人本分」の書を今生の別れに贈った。』という代物なのである。

「国の為身を捧げることは、軍人の本分(本来の役割)である。」という意味であろう。

安の言う「軍人」とは、次の韓国陸軍が今年3月の義士殉国100年祭について書いた記事にある「大韓義軍」のことであろう。

『安義士は殉国の前、「大韓義軍参謀中将(将軍級)として敵将を射殺したため戦争捕虜として扱ってほしい」と日帝に要求した。
安義士は自ら将軍だと主張した』

戦争捕虜として銃殺刑となることを望んだ安だったが、結局は罪人として絞首刑となった。
武士が斬首刑よりも切腹を名誉の死とする日本人の心に近いものがある。

うがった見方をすると、千葉十七が200の遺墨の中からもっとも気に入ったものがこの書であるのだから、「軍」は「日本陸軍」という線もあり得る。

韓国を保護国化したあとで独立させようという伊藤博文などの思惑、それとは別の「いきなり韓国併合」という強引な植民地化を目指す思惑と、両方が日本国内にあった。

当時の政治状況や日本国のアジアにおける優勢な姿を想像するに、日本陸軍が多数の韓国人スパイを雇用していたことは間違いないだろう。
それは植民地化する場合の常套手段である。

韓国併合を強行したい勢力からすれば、柔和な政策を掲げる伊藤博文の存在は邪魔になる。
しかも、幕末維新以来、日本陸軍内は長州閥の天下になっており、苦い思いをしている陸軍中層部以下の軍人は多数いたであろう。

この際、義勇軍を自称する安重根を使ってハルピンで伊藤を消してしまおう。
そういう推理も成り立つが、その場合安は「日本陸軍」のために献身することになり、「日本陸軍傭兵」としては本分を果たしたことになる。

その事情を密かにしっている千葉十七だったとすれば、その場合は間違いなく安の遺骨を抱いて帰国したはずである。

日本国のために散っていった英霊を祭る神社は、国レベルでは靖国神社であり、都道府県レベルでは護国神社となる。
人種差別的発想が当時の日本人にあったとすれば、護国神社に魂を祭るということになろうか。

以上は、安が日本陸軍の傭兵、もしくはスパイであったと仮定した場合の遺墨の解釈である。

しかしこの仮説の可能性は、安のキリスト教信仰とベクトルが一致していなければ可能性は低くなる。

キリシタンには、神のお導きにより命をささげるという大きな形がある。

もし神が「日本陸軍の手先になって伊藤を暗殺せよ」とお望みになるとすれば、それは願ってもない果報となる。

当時の世界のカトリック教徒の望む朝鮮半島の望ましいあり方というものが「安の運命」を決めた可能性が高い。
それはローマ法王の目指す方向といってもいいだろう。

中国は豊かだが軍が弱く侵略しやすい。
日本は貧しいが、兵士が強く侵略しにくい。

これはザビエルのあとに京都にやってきた巡察使バリニャーノの持っていた戦国時代のアジア感だが、おそらく江戸末期から明治に至っても基本は変わっていないだろう。
当時世界を支配する権利をローマ法王から得ていたカトリッ教国スペインの国王に対して、バリニャーノはいずれ強兵の日本人がそのアジア支配において役立つだろうと述べている。

ザビエル自身も日本での布教は2年そこそこで終え、自らは中国大陸へ上陸しようとしていた。

日清、日露戦争における日本軍の勝利は、「バリニャーノの予想」が見事に当たっていたことになろう。

つまり、カトリック教徒たちは、アジアの布教はまず中国からだと期待していたということだ。
しかも日本人の侍の軍事力を使ってということだった。

朝鮮半島は日本陸軍が陸伝いに中国へ行軍する「陸の道」である。
朝鮮にいるカトリック教徒の役目は、ローマの求める日本陸軍による中国征服を推し進めることになる。

保護国化して国力を充実させたあと、隣国の韓国を独立に導こうと考えていた伊藤博文は中国征服のための陸路を塞ぐことになってしまう。
中国侵略を強行したい陸軍や、陸軍内のカトリック信者にいとっては、伊藤博文は邪魔な存在であった可能性がある。


安重根は、1909年10月26日午前9時にハルビン(哈爾浜)駅で伊藤博文を狙撃した。
銃弾3発が命中し、伊藤は約30分後に死亡した。

伊藤の死からちょうど5か月後の1910年3月26日に、安重根は旅順刑務所内にて処刑された。

場所は中国・大連市旅順口区の旧旅順監獄である。

栗原市出身の千葉十七という人物はこの旧旅順監獄に勤務していて、囚人の安重根と親しくなったのである。

19歳のとき洗礼を受けその後11年の間、安重根は牧師になろうとして努力した。
そういう宣教師の知識を持つ安にとって、獄舎看守の日本人を説得することは比較的容易だったのかもしれない。

しかし、野山獄にいた吉田松陰が看守まで朱子学を教え感化したこととは状況がずいぶん違う。

日本国への反逆を試みた重大犯罪犯である。
接見する人物の選別は厳重に管理されていたはずだ。

それでも安の思想に染まった日本人看守の存在はいささか奇異な印象を受ける。

大林寺は、現在は曹洞宗寺院であるが、昔は別の宗派だったようだ。
寺に顕彰碑を建立したことから、表向きには千葉十七は曹洞宗の檀家か信徒だったと思われる。

だから獄中の安重根に説得されてキリスト教徒になったということではない。
もし千葉がキリスト教徒だったら、明治時代はキリスト教の禁止令はなかったのだから、何も隠す理由はないはずだ。
つまり教会に「顕彰碑」を建てればよいのであって、曹洞宗寺院境内に建てる必要はない。

今まで私はそう思ってきた。

しかし、次の記事を読んでから考えを改める必要が生じてきた。
明治どころか昭和の1981年(昭和56年)に、日本国内には3万人の「カクレキリシタン」がいたということだった。

江戸時代の「隠れキリシタン」ではなく、それから変質した「カクレキリシタン」の存在である。

『カクレキリシタン(離れキリシタン)

江戸時代潜伏していたキリシタン達の中には、200年以上もの間司祭などの専門家の導きを受けることなく自分達だけで信仰を伝えていったため、教義などの信仰理解が大きく変化し、仏教や神道などとも結びつき、もはやキリスト教の原形をとどめないきわめて日本的な俗信と化した者たちもいた。

このため、明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁され、再びカトリックの布教がなされても、これを受け入れられずに復帰せずに、今なお独自の信仰様式を継承している者達が、長崎県などに現在でも存在する。

これを学術的に「カクレキリシタン」(すべてカナ表記)もしくは「離れキリシタン」と呼ぶ。

近現代において、自分たちの信仰がカトリックからかけ離れた俗信となった事実が認識されて以降も、カトリックに復帰することは自分たちの父・祖父などから代々受け継いだ「カクレ」の信仰を否定することになる、という葛藤もあるといわれる。

近年、過疎や高齢化によって「カクレキリシタン」の数は次第に減少している(1981年(昭和56年):推定3万人)。

最近まで伝承が継続されてきた地域として、長崎県の平戸島や五島列島などの地域が挙げられる。

五島列島奈留島(五島市奈留町)の火葬場の裏には現在も聖母マリアの姿をした墓がいくつも置かれている。

現在も信仰を継承している地域としては、長崎県の生月島(平戸市生月町)が挙げられる。
また、長崎市外海地区(旧西彼杵郡外海町)には隠れキリシタンの“神社”枯松神社があり、現在も例祭が行われている。

なお、カクレキリシタンが未だカトリックに復帰しない理由については、信仰がキリスト教とかけ離れたというよりも、キリスト教徒ですらなくなってしまったという場合も多い。

元来はカムフラージュであった仏教や神道の思想が本当の信仰になってしまい、キリスト教の信仰が完全に廃れてしまい、ただキリスト教起源の行事だけを、単なる「地域独特の伝統」として継承しているに過ぎないというものである。』
(隠れキリシタン(Wikipedia)より)

神格化したものへの日本人特有の「信仰の形」というものが、想像以上に強いものであることを知った。

南米やインドでカトリック宣教師が布教に成功したような具合にはいかなかった。
特異な国「ニッポン」を改めて再認識した。

だから、大林寺に顕彰碑を建立したという理由だけで、千葉十七が寺の檀家でありカクレキリシタンではないと言い切ることはできない。

曹洞宗寺院の檀家であって、かつ「カクレキシリタン」であった可能性も否定できない。

仏教徒が境内に建立する石碑ならば、表に碑文がかかれていようがそれは墓であり、弔いのための石である。
通常、その下には遺骨や遺髪などを納めるものである。

勝手な想像ではあるが、果たして安重根の遺墨以外に千葉十七が旧旅順監獄から栗原村へ持ち帰った品物はなかったのだろうか。

ここは奈良時代には蝦夷のアザマロの住んでいた「コレハル村」(現在のクリハラ市)である。
白河以南の大和族の考え方だけですべての推理が通用する地域ではない。
2千年もの長い間、大和族から人種差別を強制させられ続けた地域なのである。

韓国も帝国陸軍、つまり大和族の軍隊から同じような差別を受けていたのである。

「被差別」とう観点で見て、なおかつカトリック信仰という視点を重ねると、「大和」に対する東北と韓国の精神性は近いものがある。

キリシタンが碑文を立てる場合の理由は私にはわからない。
神への報告であろうか。

ましてや日本化してしまった昭和のカクレキリシタンだった場合、その理由はなおさらわからない。
仏教的な意味合いが強くなるのではないだろうか。

弔う、霊を慰めるという目的であろう。
ならば遺骨や遺髪をおろそかには扱わないはずだ。

沢辺市役所前の休憩を終え夕方の奥州街道を歩いていくと、すぐに国道4号線と合流した。
旧道は消えている。

国道沿いに歩いていると、「金成正教会まで1.3km」という標識が出できた。

ちょっと驚いた。

1.3kmなら大林寺とは同じ生活圏内にキリスト教会があったのである。

なぜ驚いたかというと、千葉十七がもともとカクレキリシタンだったのではないかという「淡い疑念」を私は持っていたからだ。
あるいは、監獄で牧師を目指していた安・トマス・重根と5ヶ月間の親交の中でキリスト教信仰を持つに至った可能性さえ考えた。

私たちが想像する以上に、カトリック教徒の国境を越えた連携は強い。

安・トマス・重根の収監を事前に予想していたとしたら、あらかじめ日本人信者を旅順監獄の看守に送り込むことだってできないことではない。

表向きは大罪人だからサクラメントを禁じると韓国カトリック教会は暗殺事件直後に公表しているが、内々は安の「心の拠り所」を用意しておいた可能性もある。

そいいう証拠があるという意味ではなく、可能性としては考えられるという意味だ。

ただ金成正教会は、キリスト教ではあるがカトリックではなく、正教会である。


『日本正教会の創立者ニコライが切支丹(キリシタン)禁制の幕末の文久元年(1861)に箱館(函館)のロシア領事館司祭に就任し来日しました。

この年の3年前の安政五年(1859)に日本は米・蘭・露・英・仏と通商条約を結び、条約には在留地内において外国人が自国の宗教を信仰し、教会を建てることも自由でした。

当時外国に開港していた箱館には外国人と交流して洋学を学ぼうとするものが沢山集まっており、その中の一人に坂本龍馬の従弟で神官の沢辺琢磨がいました。

この沢辺琢磨という人物はニコライと三日間の法論宗談の末、ハリスト教の宗門教義に心服し知人である酒井篤礼と共に明治元年、禁教令を冒して日本で最初の受洗者となりました。

明治新政府が切支丹弾圧を強化しはじめると、酒井は妻を実家に潜伏させ医業の傍ら伝道を行いました。

以来、検挙・投獄・出獄を繰り返して不況に奔走していましたが明治十四年、46歳で盛岡で客死しました。

信徒の中には学習グループを作り洋学の影響を受け自由民権運動の思想家として成長するものが数多くいました。

この金成ハリストス正教会は慶応4年(1868)この地に来た酒井篤礼が明治8年に仮会堂を建てたのが始まりといわれています。

現聖堂は篤礼の死後、川股松太郎の尽力によって昭和9年(1934)松太郎翁の自宅の敷地に建立されました。

建物は鐘楼の高さ17m、面積125㎡のビザンチン式教会です。
その美しさは河北新報社の「みやぎ新観光名所100選」にも選定されています。

・今野権三郎・沢来太郎や後に労働運動の先駆者である鈴木文治らがいます。

1980年(昭和55年)に集会所として境内にイアコフ会館が建てられ、2000年(平成12年)には全面的修復されているそうです。
また12月にはライトアップが行われ冬の夜に照らされた姿は、とても幻想的で冬の風物詩となっています。

鐘楼を含めた高さは17mになるそうです 聖堂は厳粛で神聖な雰囲気に満ちています。』
(「金成ハリスト正教会」より抜粋)
http://miyagitabi.com/kurihara/kannarikyoukai/

明治8年に仮会堂がこの地に建てられている。
伊藤が暗殺されたのは明治42年であるから、千葉十七が金成教会の信者だった可能性は十分あるといえる。
千葉十七が金成地区で育ったとすれば、その同時代に教会が存在しており布教活動が行われていたということだ。

金成正教会設立には、坂本龍馬の意思が仲介しているようだ。

「坂本龍馬の従弟で神官の沢辺琢磨」という人物は金成地区へ入り込んでから宗論を起こしている。

本当の従兄弟だったかどうか?

幕末の侍は偽名を沢山使っていたからだ。

「沢辺琢磨」という名前からしてとても臭う。
龍馬臭さである。

つまり、人を小馬鹿にしたようなユーモアを感じる。

私はさっき「沢辺」市役所前で休憩していて安重根顕彰碑の案内板を発見したのである。
その地名を使ったのだろう。

「琢磨」は文字通り切磋琢磨しようという意思である。
信者たちや海援隊の仲間、人間をみな平等に見ようという龍馬の発想から生まれた言葉であろう。

「そうじゃあなあ。おまんは沢辺村へ行って仲間を増やすようにせんといけんから、沢辺琢磨ちゅう名でどうじゃ?」

こういう按配で出来上がった「従兄弟」だったのであろう。

「この教会にて洗礼を受けたもの」の筆頭に「自由民権運動の思想家の千葉卓三郎」という信者の名が書かれている。

千葉卓三郎と千葉十七の関係はまだわからない。

安重根は今日的問題 [奥州街道日記]

TS393276.jpgTS393276夕方の奥州街道

「伊藤博文暗殺犯安重根処刑100年、追悼ではなく顕彰一色の韓国」という記事の要旨を抜粋する。
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/0204ff8d4f12ec7f542e551708b1080d

2010年03月27日付けの記事である。
つまり今年の春の「まさに今日的問題」として扱われている。

『陸軍本部に「安重根将軍室」設置 (中央日報)3月26日

陸軍が安重根(アン・ジュングン)義士殉国100年を翌日に控えた25日、忠清南道(チュンチョンナムド)鶏竜台(ケリョンデ)陸軍本部に『安重根将軍室』を設置した。

陸軍の関係者は『国民的英雄として尊敬されている安重根義士を‘軍人精神の師表’‘軍人の表象’とするために安重根将軍室を設けた』と述べた。
陸軍本部内の将軍室開館は、2005年に設置された韓国戦争(1950-53)の英雄ペク・ソンヨプ将軍室に継いで2度目となる。

韓民求(ハン・ミング)陸軍参謀総長は安重根将軍室を開館した背景について
『安義士は殉国の前、「大韓義軍参謀中将(将軍級)として敵将を射殺したため戦争捕虜として扱ってほしい」と日帝に要求した。
安義士は自ら将軍だと主張した』と説明した。

安義士が所属した大韓義軍は、高宗(コジョン)皇帝から直接支援金を受けて日帝の侵略に対抗した軍事組織。
1910年6月21日には『13道義軍』として再発足し、抗日独立闘争の中心になった。

◇報勲処の立場は=国家報勲処は安重根義士を『将軍』と呼ぶのに反対する立場だ。

金揚(キム・ヤン)報勲処長は『数十年に1人が出てくるかどうかという義士を毎年60人ずつ輩出される将軍として呼ぶのは不適切だ』とし『今まで義士と呼んできた人物を将軍と呼べばむしろ降格させることになる』と述べた。

報勲処の関係者は『安義士が正式に軍隊に属したこともないので将軍と呼ぶのはふさわしくない。
歴史的な義挙をした人物なので今後も‘義士’と呼ぶことにした』と説明した。 』(前述記事より抜粋)

韓国国内でも、安重根をどのような英雄として祭るのか、意見がさまざまにあるようだ。

同じ記事で安重根の遺骨がまだ発見されていないことを嘆いていた。

『「愛国の魂、平和のたいまつに」 安重根義士殉国100年、全国で追悼式 (東亜日報 )

安重根(アン・ジュングン)義士殉国100年を追悼する行事が、26日に全国各地や海外で行われた。

鄭首相は追悼の辞で、『まだ安義士の遺骨を発掘できずにいることは、残念で恥ずかしいことだ。
安義士の遺骨奉還をはじめ、烈士の高い意志を継承するために最大限努力する』と述べた。

李明博(イ・ミョンバク)大統領は同日、大統領府で開かれた拡大秘書官会議で、『(安義士に)申し訳ないと思うのは、「私が死んだ後に私の骨をハルビン公園のそばに埋めて、国権が回復したら故国に移してほしい」と遺言を残したが、今までその意志を果たせずにいることだ。

遅くなったが、日本だけでなく中国とも協力して、遺骨を迎えられる可能なすべての方法を模索する』と明らかにした。 』(前述記事より抜粋)

また、世界にいる韓国人カトリック教徒たちは、安重根の義挙は「信仰の延長線上にある」としている。

『ソウル明洞(ミョンドン)聖堂では同日午後、ソウル大教区長の鄭鎮奭(チョン・ジンソク)枢機卿の執典で、安義士追悼ミサが行われた。
鄭枢機卿は講論を通じて、「安義士が義挙後に真っ先にしたことが祈祷であり、刑務所でも10分間、祈りを捧げて堂々と刑場に歩いていった。

あの方は、自分の行動が天主教の信仰と教理に外れていないと確信していた。

あの方の独立闘争と義挙は、信仰の延長線上にある」と述べた。

同日、ソウル広場で中央追悼式が開かれた時間に、安重根義士記念事業会などは、安義士の墟墓がある孝昌(ヒョチャン)公園で追悼祭を行った。
培花(ペファ)女子高校など、ソウル市内の約10の学校では、1万人余りの学生が献詩の朗読と手形を押すイベントに参加した。

京畿道安城市(キョンギド・アンソンシ)の美里川(ミリネ)聖地内のシルバータウン・有無相通マウルでは、安義士の銅像の除幕式が開かれ、坡州(パジュ)出版都市では、安義士の幼名をとった応七(ウンチル)橋を渡るイベントが行われた。

米ニューヨークでも、白凡金九(キム・グ)先生記念事業会、光復会、興士団ニューヨーク支会の共同主催で、500人が参加して追悼式や遺墨展示会などが開かれた。』(前述記事より抜粋)

そして、岡田克也外相は今年2月の訪韓時に韓国外交通商省より安重根の遺骨探しへの日本の協力を要請されている。、

『安重根の遺骨探し、韓国大統領「最善尽くす」

【ソウル=箱田哲也、旅順(中国大連市)=西村大輔】
26日で処刑から100年を迎えた朝鮮独立運動家、安重根(アン・ジュングン)の遺骨の発掘に向け、韓国政府は今後、日中両政府への協力要請を一層強化する方針だ。

李明博(イ・ミョンバク)大統領は同日、遺骨発掘に『大統領として最善を尽くす』と意欲をみせた。

韓国では今も、初代韓国統監の伊藤博文を暗殺した安重根を『義士』と呼ぶのが一般的だ。

安重根が刑執行まで東洋人の団結を呼びかけた『東洋平和論』にも改めて光があたっている。
ただ、国家の英雄の遺骨がどこにあるかは不明のままだ。

韓国政府は2008年に調査団を派遣し、中国・大連市旅順口区の旧旅順監獄周辺で大規模な発掘調査をしたほか、北朝鮮も調査団を派遣したことがあるが見つからなかった。

旧旅順監獄には26日、韓国の国会議員や学者らが訪れ、安重根が処刑された当時の死刑台が復元されている『安重根義士就義地』で追悼式典を開催。
式典後は遺骨が埋まっている可能性があるとみられる監獄周辺の住宅開発地や古い墓地などを視察した。

韓国国内では『日本に埋葬地を示す記録がある可能性が高い』との見方が広がっており、韓国外交通商省の金英善(キム・ヨンソン)・報道官は25日、岡田克也外相が2月に訪韓した際、柳明桓(ユ・ミョンファン)・外交通商相から協力を要請したことを明らかにした。

日本側は、これまでに該当する資料は見つかっていないと回答してきた。

旅順での追悼式に参加した韓国国会議員の朴振(パク・チン)氏は朝日新聞の取材に『(遺骨に関する)資料があるなら、日本は韓国に返還するべきだ。遺骨を探し出すために韓中日が共同して発掘することを強く要求していく』と話した。』(前述記事より抜粋)

この記事には親日派の良心的な解釈も並べて記載されていた。

「安重根の歴史評価」は韓国国内でもまだ揺れているということだった。
おおむね、赤穂浪士のような朱子学思想から見れば最高の徳とされる「義士」としての評価は定まっているようだが、それ以上の英雄と見るかどうかで分かれている。

日本国内ではおおむね総理大臣暗殺犯としての印象だけであり、彼の行為が後の日韓併合を加速したとかしなかったといいう議論は一部の歴史家あるいは歴史に関係ある日本人の間の議論のように思われる。

遺墨「一日不讀書口中生荊棘」の意味 [奥州街道日記]

安重根(Wikipedia)..jpg 安重根(安重根(Wikipedia)より))

「安重根(Wikipedia)」の記事には、彼の辞世の句とも言える漢文がさらりとこう書かれていた。

『"一日不讀書口中生荊棘" 安重根が獄中で書いた遺墨の一つ。』

これが赤穂藩藩主・浅野長矩の句であれば、辞世の句に込められた思いを解説するだけでページを消化することだろう。
罪人である安重根の言葉の意味にまったく触れないようにしているということに「奇異」な雰囲気を感じてしまう。

消化不良のまま街道を旅するわけにもいかない。

「一日不讀書口中生荊棘」の大切な意味を解説しているサイトを探してみた。


『第三回韓日基督教共助会修練会が4月の1日から3日間、ソウルのイエス教長老会女伝道会館を会場に開催された。

わたしは、閉会の翌日の午後、日本福音ルーテル挙母教会の明比輝代彦牧師と共に、安重根記念館を訪れた。

近くの公園には韓国の春を告げるレンギョウの黄色い花が咲き誇るかのように咲いており、桜も満開であった。
桜の花を静かに楽しむ人々は大勢いたが、日本のような酔客を見ることばない。

ソウルタワーの近くにその記念館はある。

安重根は、1909年10月26日、ハルビン駅で伊藤博文を殺害した人物である。

韓国では、今なお多くの人々が、祖国の独立と東洋平和のために命を捧げた彼を義士と呼び、 記念館に足を運んでいる。

処刑されるまで半年しかなかったが、彼の遺墨は二〇〇余点に及ぶと言われている。

その中に「一日不讀書口中生荊棘」というものがある。文字どおり、「一日でも書を読まざれば口の中に刺が生じる」という意味を持つ。

どれだけ社会的な活動をしていようとも、読書を怠ってはならないという思いが表れている。

彼は、19歳の時、フランス人の神父から洗礼を受け、伝道に力を尽くした時期もある。

キリスト者にとって書と言えば、聖書である。

この書を一日読まなければ口の中に刺が生じるという思いを果 たしてわたしたちは持っているだろうか。以下略。』
(「一日不讀書口中生荊棘(2002年6月) 大島 純男 」より)
http://www.kyojokai.com/zasshi/kan0206.html

この記事で安重根の言いたかった「書」とは聖書であると看破した大島純男氏とは誰であろうか。

『大島純男牧師説教バックナンバー』というサイトがああった。
http://www.mb.ccnw.ne.jp/minamiyama/sekkyou/2005nendo_sekkyou.html

春日井教会の大島純男牧師である。

『安義士は30歳だった1909年10月26日、中国ハルビン駅で68歳の大物政客、伊藤を射殺した。 そしてちょうど100年前の1910年3月26日午前10時、旅順監獄で処刑され、殉国した。
安重根義士の狙撃から100年、すなわち1世紀が過ぎた。』

(「伊藤博文暗殺犯安重根処刑100年、追悼ではなく顕彰一色の韓国」より)
2010年03月27日
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/0204ff8d4f12ec7f542e551708b1080d

ちょうど百年前の暗殺事件だった。
犯行時には30歳になっていたという。

大島純男牧師は『(安重根は)19歳の時、フランス人の神父から洗礼を受け、伝道に力を尽くした時期もある。 』と書いている。

つまり、およそ11年間の間、 安重根はカトリックの強い信仰のもとに、抗日活動に身を投じていったことがわかる。


トマスと呼ばれたかった安重根~奥州街道(4-163) [奥州街道日記]

TS393275.jpgTS393275源氏蛍煎餅前で休息(再掲)
TS393275a.jpgTS393275a同上拡大(赤い花の先に記念碑の看板)
安重根(Wikipedia)..jpg写真下 安重根(安重根(Wikipedia)より)「断指同盟」の誓いの際に左手薬指を切断している。

沢辺市役所の前の道路向いの縁石に腰掛けて涼んでいる。
ズボンの裾を捲(まく)し上げて涼を取った。

街道歩き3日目の痺(しび)れた足首に、街道を渡る風が涼しさを届けてくれた。

左手を見ると、「源氏蛍煎餅」の看板が見える。

「源氏蛍煎餅」の文字の右下には真っ赤な花が咲いている。
その花の先に「○○記念碑」と矢印に距離を表示した白い標識板が見える。

そこは、沢辺郵便局の前だった。

足の疲労を考えるとその記念碑のところまで歩いて行くつもりはないのだが、誰の記念碑かと気にかかり立ち上がって近づいてみた。

「安重根記念碑」と書いてある。

「安重根記念碑(大林寺)2.8km」と書いて、その下にハングル文字が並べてある。

はて、誰だったか?
ちょっと寄り道できるような距離ではないので、そこへ行って確かめる訳にもいかない。

『伊藤博文暗殺(未遂?)犯人ではなかったか?
携帯では調べる気にならない。

東北の在日朝鮮人か韓国人であろう。
帰宅して調べよう。
この近くに車で来るときは是非安重根記念碑を訪ねたい。

16時50分、沢辺市役所発』

携帯投稿したときのリアルタイム記事に私はそう書いていた。

ネットで調べてみた。

「安重根(Wikipedia)」の記事の中に、『宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺に安重根の顕彰碑が建立されている。』と書いてあった。

遺体を埋めた墓があるということではなさそうだ。
顕彰するほどの偉大な活躍があったのである。

活躍の事跡とそれに対する各国の微妙な反応の違いをWikipedia記事より抜粋する。

『黄海道の道都・海州の両班の家に生まれる。

東学党に反対していた安は追われてカトリック教会のパリ外国宣教会のジョゼフ・ウィレム(Nicolas Joseph Marie Wilhelm, 빌렘, 韓国名: 洪錫九)[4]司祭に匿われ、洗礼を受け[5]キリスト教に改宗した(洗礼名は「トマス」)[6]。

教育関係の仕事を経た後、1907年の高宗の強制退位と軍隊解散、それに伴う義兵闘争の高まりのなかで危機感を募らせウラジオストクへ亡命、そこで「大韓義軍」を組織し、抗日闘争活動に身を投じる。

彼は死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、妻への最後の手紙では、自分の息子が聖職者になるように尋ねたりもしている[7]。

伊藤博文暗殺 [編集]
1909年10月26日、伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン(哈爾浜)に赴いた。
午前9時、哈爾浜駅に到着し、車内でココツェフの挨拶を受けた後、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に、群衆を装って近づいた安重根の放った銃弾3発が命中、伊藤は約30分後に死亡した。

安重根はその場でロシア官憲に逮捕され、2日間拘留された後、日本の司法当局に引き渡された。

留置中に伊藤の死亡を知った際、安は暗殺成功を神に感謝して十字を切り「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。
私は自分の人生を我が祖国に捧げました。
これは気高き愛国者としての行動です」と述べたという[7]。

大韓帝国のカトリック教会の司教からは大罪を犯した安重根にサクラメントを施してはならないという命令が出されたにもかかわらず、懇意であった洪司祭は彼のもとを訪れ支えとなった。

彼も収監中は官吏に対し自分を洗礼名で呼ぶよう主張したといわれる。 

抗日闘争に際しての彼の決意の堅さを表すエピソードとして、同志とともに薬指を切り、その血で国旗に大韓独立の文字を書き染めた「断指同盟」の逸話も伝わる(cf.写真の左薬指)。

最期 [編集]

"一日不讀書口中生荊棘" 安重根が獄中で書いた遺墨の一つ。

1910年2月14日、安重根は旅順の関東都督府地方院で死刑判決を受けた[8]が、彼は判決そのものが不当であると憤慨した[7]。

裁判を統轄した判事は、死刑執行までに少なくとも判決後2、3か月の猶予が与えられるとしていたが、日本政府中央は事件の重大性から死刑の速やかな執行を命じた。

安は上訴を行い、担当検察官であった溝渕孝雄へ自らの随筆「東洋平和論」を書き終えるために必要な時間の猶予と、死刑の時に身に纏う白い絹の衣装を一組与えてくれるよう願い出た。

彼の所業を義挙として共感を示していた溝渕も二つ目の望みを叶えはしたが、その処刑の後、しばらくして自ら検察官の職を辞することとなった。

安はまた自分が軍人扱いの「捕虜」として銃殺刑に処せられることを望んだが、犯罪者として絞首刑に処せられることとなった。

死刑執行の当日、安重根は世話になった日本人看守の千葉十七に、「先日あなたから頼まれた一筆を書きましょう」と告げ、「為国献身軍人本分」と書いて、署名し薬指を切断した左手の墨形を刻印した。

そして彼は、「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったという。

1910年3月26日、安は旅順刑務所内にて処刑された。
伊藤が絶命してからちょうど5か月後であった。

安重根の死から更に5か月後の1910年8月22日、日韓併合により大韓帝国は滅亡した。

後世の評価
安重根への評価は、日本の朝鮮支配に対する立場などを反映し、各国によって大きく異なっている。

韓国
大韓民国において安重根は、抗日闘争の英雄と評価され、「義士」と称される。
ソウル特別市には安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が1970年に建設されている[9]。

彼の功績を称えて、韓国海軍では、2008年に完成した孫元一級潜水艦3番艦の艦名に「安重根」を用いている[10]。

また伊藤博文暗殺から100年にあたる2009年10月26日にはハルビンで記念式典が開催された[11]。
また、伊藤の暗殺という事実だけでなく、彼の唱えた「東洋平和論」や教育啓蒙活動など彼の思想を照明する動きも活発になっている。

北朝鮮
朝鮮民主主義人民共和国においては、安重根の救国の意志は認めるものの、その手段としての「暗殺」は評価しない。

「併合に対して消極的であった伊藤博文を暗殺の対象に選んだ」ため[要出典]である。
教科書では金日成の反面教師のように扱われる。

参考:映画『安重根 伊藤博文を撃つ』1979年 北朝鮮
北朝鮮がこのようなスタンスを取っているのは、安重根が両班という、すなわち社会主義における階級闘争よって糾弾されるべき立場の人間(ブルジョワジー)であるためとされる。

2009年10月24日付けの週刊誌『統一新報』では「歳月が流れても祖国と民族のために捧げた愛国者の人生は、民族の記憶の中に永遠に残ることになる」としながら「卓越した指導者にめぐり会えず個人テロに頼らざるを得ず、ついには命を投げ打っても独立の念願を果たせなかった民族の風雲児」であるとした[12]。

日本
安重根は日本の「維新の元勲」を殺害した暗殺者であるが、その暗殺に意味を付加しうるかどうかは様々な評価が存在する。

テロリスト説
韓国の日本の保護国としての現状維持を志向し、日韓併合に慎重な立場であった伊藤博文の死は、逆にそれを加速させた[7]として、安重根を「先の見えないテロリストである」と評する説[13]。
ただし同説には、伊藤が日韓併合に反対していたのか、伊藤の死と日本による大韓帝国の併合がどのような関係があるのかなど不明瞭なところも多い。

義士説
韓国支配の象徴的存在であった伊藤の暗殺は、民族の独立を願う志士の純粋な行動として、幕末の勤皇志士につながるところがあり、安重根の裁判を担当した日本の検事から「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆の声があがるほどであった。
これは、立場が違っても、相手を忠義の志と見れば、一定の敬意を払う考えによるものである。

人身御供説
伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、伊藤に命中した弾丸はカービン銃のものと証言しているのに、安重根が所持していたのは拳銃である。
弾丸は伊藤の右上方から左下方へ向けて当たったと証言していることなどから、伊藤に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説がある。

この説においては安重根は事件の真相を闇に葬るための人身御供とされる。

中華人民共和国 [編集]
伊藤博文暗殺の現場となったハルビン市のある中華人民共和国には少数民族として朝鮮族が居住しているほか、韓国人も外国人として在留している[14]。

中国では安重根は「日本の首相経験者を暗殺した人物」として高い知名度を持っている[14]。

しかし中国政府は、安重根の評価は反日勢力を刺激し、国内の社会不安を増大させるとして、積極的な評価は行っていない[14]。

2006年には、韓国人によってハルビン市に4.5mの安重根の銅像が建設されたが、「外国人の銅像建設は許可しない」として当局により撤去させられている。

伊藤暗殺から100年にあたる2009年10月26日には同市で記念式典が開かれることになったが、ハルビン駅近くの中央大街公園広場での開催は許可せず、朝鮮民族民芸博物館での開催となった。

また旅順市の戦争陳列博物館で安重根の特別展が開かれたが、「国際抗日烈士展示館」と安重根の名前は出さない曖昧なものにさせ、慰霊や記念式典は認めなかった。』

(安重根(Wikipedia)より)

石田光成発「家康の叔父さん殺害命令」 [奥州街道日記]

源太郎史観(続々)である。

関が原の前の出来事である。

小山評定(会議)は、これからの戦争で「家康につくか、秀吉につくか」、上杉征伐に従軍した大名たちに家康が覚悟を求めるものだった。

秀吉恩顧の家臣で秀吉とも血縁がある福島正則が最初に家康につくといった。
ここまでは、事前に家康が説得して仕掛けたシナリオだった。

山内一豊が「城を空けて全員で家康の味方をする」と発言し、「われもわれも」と皆がついて来た。
このとき関ヶ原の勝負がついたと井沢元彦氏はいう。

これは家康の用意した仕掛けではなかったために、家康自身もおおいに驚いたという。

実は一豊のその発言は、評定場にいく途中に同行した20歳代の若い武将堀尾忠氏(ただうじ)からこっそり聞いた覚悟をパクったものだ。

海音寺潮五郎はそのことをこう言う。
「一世一代の(一豊の)ズルがあたりにあたった。」
「これを狡猾と言ってはなるまい。先を越されるのが阿呆なのだ。いいプランやアイデアはめったに口外してはならないのだ。」(逆説の日本史12より)

小山(おやま)に従軍していた堀尾忠氏の父吉晴(隠居していて大阪に残る)が山内一豊(五十代半ば)の同僚だった。
友人の息子の覚悟のほどを聞いて、それをパクったのだ。

いつの世にもそういう輩(やから)はいる。
特許出願していればよかったアイデアだった。

井沢氏は堀尾忠氏側が後世作り出した「つくり話」だという仮説も検討している。

もしこれが作り話ならば、成功して土佐の大大名になった山内一豊にとって不利になるようなものに山内家がしないだろう。

もし堀尾忠氏側が何かの手柄でのちに出世しお家を持続できていて立場が逆だったら、そういうつくり話を作ることの意味があるだろうが、実は江戸時代になって堀尾家は断絶している。
評定所であの発言を忠氏が最初に言ったとすれば、手柄第一と家康に認められ、後日お家断絶の危機に際して幕府側のお目こぼしだってあっただろう。(と井沢氏は言っている。)

江戸時代の新井白石(はくせき)も、この話を「事実」と理解していたようだ。

秀吉につくか家康につくか、これからの戦は天下分け目の戦いとなる。

どちらにつくかで、自分のみならず家族や家臣たちの生死が決まるのである。

山内一豊も一晩悩んだことだろう。

一豊は気持ちを整理できないままに朝を迎えたのだ。
忠氏はかなり前から覚悟は固まっていたはずだ。
少なくともあとで述べる事件、つまり父吉晴が負傷しながらも光成の放った刺客を殺した事件の顛末を聞いたときに、忠氏は家康につくことを決めたのではないだろうか。

堀尾吉晴と山内一豊は戦国時代をともに戦ってきた同僚だった。

しかし、上杉征伐では堀尾吉晴は大阪に残り、息子若い忠氏を従軍させていた。

親子が両軍に分かれることで、どちらが勝っても血統は維持できるという手法は多くの戦国大名たちが使った手である。
堀尾吉晴にそういう思いが腹中にあったかどうか、一豊は探りを入れたかったのかも知れない。

もし、そういう思いで吉晴が息子の出陣を見送っていたのであれば、息子に万が一があったときは真っ先に家康公に御味方すると言えと父は教えていたであろう。

若者がいざというとき家族のことも配慮しつつ意思を決定することは難しい。
父親は自分を含め家族を家康の人質にしてもかまわないから、自藩のすべての兵を家康側に賭けよと教えていたのである。

小山評定の場へ向かう途中でも、まだ一豊の意思は固まっていなかった。

「どうしたらいいものかなあ」と、、騎馬で向かう途中で一豊は忠氏に尋ねた。

父から教えられた秘策だったが、忠氏は迷わず父の同僚に打ち明けた。

おそらく一豊は、吉晴が決断力のしっかりした人物だということを知っていたのであろう。
忠氏の決断には父吉晴の決断が含まれているはずだ。

「一世一代の(一豊の)ズルがあたりにあたった。」
「これを狡猾と言ってはなるまい。先を越されるのが阿呆なのだ。いいプランやアイデアはめったに口外してはならないのだ。」(海音寺潮五郎)

ここでポイントになる人物「堀尾吉晴」を見てみよう。

『堀尾 吉晴(よしはる)は安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。
豊臣政権三中老の一人。
出雲松江藩の初代藩主。

父は、尾張国上四郡の守護代・織田信安に仕えた堀尾泰晴の嫡男。
通称は茂助(もすけ)。官位は従四位下、帯刀先生(たてわきせんじょう)。
正室は津田氏の娘。子は堀尾忠氏、堀尾氏泰(堀尾宗十郎の父と目される)と娘2人。 』(堀尾吉晴(wikipedia)より)。

堀尾家は出雲方だった。
どうやらこの国の歴史では、出雲方はいつの時代も損な役割を負わされているようだ。

堀尾家は「守護代・織田信安に仕えた」家系だが織田信安とはだれだろう?

『信長とはその(織田信安の)父信秀の時代においては縁戚関係を結んだこともあって比較的友好関係にあり、幼少の信長とは猿楽などを楽しんだ仲であったという。
しかし、信秀の死後、犬山城主の織田信清(信長の従弟)と所領問題で争い、そのこじれから信長とも疎遠となった。』(織田信安(Wikipedia)より)

つまり堀尾吉晴は信長、秀吉、家康という戦国の名将たちに付き従ってきた武将である。
時代の趨勢を見る目に間違いはなかったのである。

しかし息子が小山評定で発言する前に、山内一豊にその腹案をみなの前で披露されてしまった。
後から同じ発言をした堀尾氏に対して家康が特別に感謝することはなかった。

一豊の発言に刺激を受けて、他大名は「われもわれも」と従ったのである。
これによって一豊の石高は4倍増しになっている。

吉晴がなぜ大阪に残っていたのか、ということが気になる。

堀尾吉晴(Wikipedia)を見てみよう。

『慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に接近し、老齢を理由に慶長4年(1599年)10月、家督を次男の忠氏に譲って隠居した。

その際、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。

本戦直前の7月、三河刈谷城主・水野忠重、美濃国加賀井城主・加賀井重望らと三河国池鯉鮒(愛知県知立市)において宴会中、重望が忠重を殺害した。
吉晴も槍傷を負ったが、重望を討った。

このため9月の本戦には参加できなかったが、代わって出陣した忠氏が戦功を賞され出雲富田24万石に加増移封された。

なお、吉晴は密かに近江、北国の情勢を家康に報せていたともされている。 』(堀尾吉晴(Wikipedia)より)

三河刈谷城主が美濃国加賀井城主に殺される現場に吉晴は居合わせていた。
吉晴は傷を負いながらも加賀井重望を討ち取っている。

吉晴は猛者であろう。

この事件よりも以前に、吉晴は家康につくと決めていたはずだ。
秀吉の死の後で、次は家康と決めていたのではないか。

三河といえば家康のお膝元である。
三河刈谷城で思い出すのは、トヨタ看板システムやジャストインタイムの発明者である大野耐一氏(元トヨタ副社長、故人)である。
大野家は代々刈谷藩の家老職を務めていた。

幕末には耐一氏の祖父は勤皇方に走った。

また三河は浄土真宗派の信者が多い。
三河一向一揆の地でもある。

トヨタを見ればわかるように、三河の人々が一致団結したときのパワーはすごいものがある。
それを家康の留守中に光成は混乱させようとしたのであろう。

関が原の戦いの前に三河刈谷城主と美濃国加賀井城主が殺し合いをしたのは、秀吉側につくか家康側につくかの諜報戦略の結果だろう。

息子は父が家康側について三河刈谷城主の敵討ちをその現場でやったこと、そこで負傷したことなどをしっかり聞いていたはずだ。

人が苦労して固めた決意を、当日の朝あっさり盗んだ一豊とはとんでもない奴であると同時に情報戦略では優れた諜報能力を持っていた人物でもある。

なにやら秀吉方の大物武将であった吉晴である。その息子の心中に大変な思い、覚悟が潜んでいるはずだと読んだのかもしれない。

この小山評定での顛末を知って、私は山内一豊は男らしくないという印象を持った。

内助の功で有名な山内一豊だが、だんなは意外と気が小さかったのかも知れない。
ならば妻がしっかりせねば・・ともなろう。

もし「いざというときには堀尾家の覚悟を聞いておくように」と妻が夫にアドバイスしていたとすれば、それは内助の功としては完璧であるのだが、そういう話はあまり聞こえない。

土佐24万石の大名になってからも、一豊の政治手腕はとても小さいのもに見える。

長宗我部家の家臣を郷士と定めて差別政策を採った。

多くの戦国大名は敵の遺臣を自分の家臣に登用して自藩の体制を固める手法をとっていた。
滅ぼした甲斐武田の遺臣を、桑名井伊藩に抱えさせた家康はその代表である。

しかし、土佐に移った一豊は内向きに固まったように見える。
所詮、軍事にも政治にもさほどの能力はない男だったのだろう。

内向きでかつ差別主義というところに、「女性特有のアドバイス」が生きていたのかも知れない。
内助の功の災いでもあろう。

その程度の男が、なぜ土佐藩主にまで出世したのか?

海音寺潮五郎は 「一世一代の(一豊の)ズルがあたりにあたった。」 と言い当てた。

今度は、堀尾吉晴に殺された加賀井重望の立場を見てみよう。

『はじめ織田信長に仕え、その没後は次男の織田信雄に仕えて天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは父と共に織田方として戦い、武功を挙げた。

しかし加賀井城は豊臣軍によって落とされ、父は秀吉に仕えることを潔しとせずに隠棲したが、重望は秀吉に使番として召しだされ、1万石を与えられた。

中略。
武勇に優れ、加賀井城が豊臣の大軍に包囲されたときも徹底抗戦を貫いた。

戦後、秀吉はその武勇を賞して、大名に取り立てたという逸話がある。

関ヶ原直前の不審な行動の背景には、西軍首脳の一人である石田三成から東軍の事情を探り、あるいは要人を暗殺する密命を帯びていたためともされている
(忠重は徳川家康の叔父で、吉晴は東軍の有力武将の一人である)。

ただし、この説は徳川実記のみに記されている。 』(加賀井重望(Wikipedia)より)

加賀井重望の父は織田方であることを貫いたが、子の重望は秀吉方についた。

秀吉は小牧・長久手で敵方として活躍した加賀井重望を取り立てた。
この辺りの作戦は秀吉らしいが、実は信長が『能力最優先』で人材登用をしていたことの「猿真似」である。

加賀井重望は、石田三成から要人暗殺の密命を帯びていたという説を私は信じたい。

「東国に出陣中の家康のお膝元を荒らす」というゲリラ作戦である。

殺された水野忠重は徳川家康の叔父であるから、家康は東国の旅先で親戚殺害の報告を聞いたことだろう。

家康に精神的圧力を加える事が石田光成の狙いだったようだ。
水野の三河刈谷城下にある知立宿は東海道の宿場町でもある。

東西情報ルートの要衝を押さえて、家康と西国大名との通信を遮断し盗聴する狙いもあっただろう。

山内一豊が堀尾忠氏のアイデアをパクッて大出世したという話題だった。

忠氏の父吉晴は家康の叔父水野忠重の敵討ちを果たしたから家康の味方であった。
その子は当然小山評定で家康方に着くということは明らかであっただろう。

明らかなことをどうして一豊はわざわざ忠氏に聞いたのだろうか。

家康に味方をするといっても、やり方にはさまざまな方法がある。
半分腰を引いて御味方するという態度もあるだろう。

吉晴が息子の忠氏に指示した「家康支援方法の中身」を一豊は知りたかったのであろう。
そしてそれをまんまと「自分のオリジナルな覚悟」として利用した。

天正13年(1585年)のころ、田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに、堀尾吉晴は豊臣秀次付の宿老に任命されていた。
そして近江国佐和山(滋賀県彦根市周辺)に4万石を与えられていたという。

佐波山は近江出身の石田光成のお膝元ではないか。

忠氏が果たして秀吉の恩や光成との関係を裏切れるのか?

父親の吉晴は水野忠重の敵を討つことで堀尾家が「家康方である」ことを刀で証明した。

しかし、息子が家康方につくかどうかまだわからない。
つまり吉晴自身は家康方であることは自明になったが、子孫存続のために息子忠氏を秀吉方に置くという可能性もあったのである。

吉晴と同じ宿老仲間だった一豊は、吉晴の考え方を息子を通じて聞いたのでる。
つまり堀尾親子は一枚岩になって家康に味方するということだ。

吉晴が息子に授けた策は、「城を明け渡し家族を家康に人質として預け、全軍で関が原へ駆けつける」というとても過激な決断だった。

福島正則の家康支援の発言のあとで、誰よりも早く「城を捨てて掛川藩全員で家康についていく」と発言した一豊は、家康を大変驚かしたのである。

家康以上に驚いたのは、堀尾忠氏自身であっただろう。

NHKアナウンサーだった堀尾氏は、堀尾吉晴の家系であると主張しているようだが、堀尾家末裔はそれを認めていないという。

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