マリアとグラバー [奥州街道日記]
大浦天主堂と2本のシュロの木(大浦天主堂(Wikipedia)より引用)
大浦天主堂は長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂で、日本最古の現存するキリスト教建築物だという。
大浦天主堂の前には、大きな2本のシュロの木が聳(そび)えたっている。
あるいはナツメヤシかも知れない。
このブログのサブテーマである「シュロの木」である。
ユダヤ人預言者モーセがエルサレムで神を祝うのにナツメヤシの枝で祝えと定めた木である。
それは紀元前13世紀のことだった。
起源ゼロ年はイエスキリスト生誕の年である。
イエスが十字架にかけられたときの年齢は33歳だといわれているが、諸説あるようだ。
死の数日後にイエスは復活する。
『それら福音書の記述は、キリストの処刑後第三日、すなわち日曜日の早朝、女たちが墓をたずねていくと、墓が空になっていたと述べるが、その後の記述はかならずしも相互に一致してはいない。
『キリストの復活』
18世紀・ポーランド伝統的教会は、この矛盾を復活のキリストが時間と空間を越えた存在(光栄の主)になっていたためであるとする。
またマリヤという名前の登場人物が別の2名であったとして合理的に理解できるという解釈もある。
一方、近代以降の啓蒙主義の合理主義の影響を受けた自由主義神学に立つ解釈では、この矛盾を、復活は歴史的事実ではなく信者の心のなかにキリストがとどまりその印象が強化されたことを意味しており、したがって復活の記述はこの信仰の表現として創造せられたためと考える。』(復活(Wikipedia)より)
カトリック教会では復活の日を「枝の主日(しゅじつ)」と称して、ナツメヤシの枝を飾ってイエスの再生を祝う。
日本の戦国時代に、パリで創始されたイエズス会はカトリック教徒がアジア南米などの新世界での布教を目指す先遣団として生まれた。
日本へやってきたザビエルは創始者のうちの一人である。
インドマラッカ地方で日本渡航の準備をしているとき、元薩摩藩士のヤジロウ他2名の日本人が聖書の翻訳を手伝っている。
そのとき、ナツメヤシは「シュロ」として和訳されたものと思われる。
日本のカトリック教会の庭によくシュロの木を植えているのを見かける。
私はカトリック教会の尼さんにシュロの枝の使い方を尋ねたことがある。
復活祭のときには花屋に行ってシュロの枝を買ってきて、私たち日本人が神棚に榊(さかき)を供えるようにしてシュロの枝をイエスに供えるという。
イエス生誕後に生まれた新約聖書では、シュロの枝で「イエスの復活を祝う」ということになっているようだ。
モーセは「神」を祝えといい、カトリックではイエス復活を祝うということだ。
シュロ(ナツメヤシ)にかかわる新約聖書の記述をまだ私は見たことがないので、そう書かれているかどうかはわからない。
旧約聖書には「ホサナー、ホサナー(万歳の意味か)」と神を称える民衆たちが手に手にナツメヤシの枝を持って叫んでいたという記述がある。
そのシュロの木が大浦天主堂の正面前に2本立っている。
今日(7月25日)のNHK大河ドラマ龍馬伝のカメラワークは大変面白かった。
それを仕掛けたのが原作者なのか、プロデューサーなのかは私にはわからない。
踏み絵で長崎奉行所でマリアを描いた和紙の絵を足で踏む長崎丸山の芸者お元の姿。
踏み絵は、その人物が禁制のキリシタンではないことの証明行為である。
その後お元はある教会へ行き、マリア像の前で涙ぐみつつマリア様に謝罪の言葉を述べる。
お元の顔が祈祷室の蝋燭の灯りにかすかに揺れる。
カメラはそのまま蝋燭を大きく写す。
やがてカメラを引いていくと、同じ蝋燭の灯りではあるが、そこはグラバー邸の応接室だった。
このことから逆に芸者お元が駆け込んだ教会はグラバー邸の隣にある大浦天主堂の地下であることが推察できた。
隠れキリシタンであるお元は、長崎奉行所へ送り込まれたスパイとして描かれている。
奉行所では攘夷志士たちの取り締まりに協力をしている。
薩摩の小松帯刀がグラバーにミニエー銃一万丁を発注しようとするが、サトウキビ(砂糖)と武器の交換比率が不満だとしてグラバーから取引を拒絶される。
砂糖相場の先行きに不安があるから、グラバーが交換比率に不満を述べたものだろう。
現代なら、リスクのあるデリバティブ取引の現場に相当するシーンだ。
その日のドラマが終了して、それから5分程度「現在の旧グラバー庭園」などの光景が紹介される。
最後に交通アクセスが表示された。
「旧グラバー邸 大浦天主堂下下車」と大きく表示されていた。
私は以前長崎ハウステンボスに行った帰りにグラバー邸を訪ねたことがある。
そしてそのまま東京へ帰った私であるが、グラバー邸は知っているが、大浦天主堂は知らないままである。
しかし、このアクセス案内によれば、大浦天主堂下のバス停(あるいは路面電車の停車場かも)のすぐ傍がグラバー邸であるということを示している。
別の資料を読むと、「グラバー庭園を散策していると、いつのまにか大浦天主堂の敷地内に入り込む」という記述があった。
つまり、カトリック教会、当時のイエズス会の長崎布教の拠点が、グラバー邸と一帯の敷地にあったということだ。
長崎滞在中の龍馬は、薩摩の西郷と長州の高杉晋作との橋渡しをすることを決心する。
その3人の間に、イエズス会の日本国支配の戦略が介在していなかったのであろうか。
介在していると仮定すれば、カトリック教徒が多かったであろうと思われる長崎商人の集団が、日本の幕府転覆、日本の民主化を狙って薩長連合を仕掛けた可能性があるかも知れない。
ことが成ってから、貿易の中心は横浜へと移っていった。
商人は利権を求めて当然横浜へと移動したであろう。
「薩長連合の仕掛けの意味」をよく理解していた坂本龍馬の存在は、幕府の大政奉還が成立した後では煙たいものになってしまったのではないだろうか。
知りすぎた土佐の商人坂本龍馬を消さねば、利権は土佐にごっそりと持っていかれるかもしれない。
龍馬が暗殺されてもなお、龍馬の小間使い役に過ぎなかった岩崎弥太郎が龍馬から遺産を引き継ぐ。
それが三菱財閥として大きく成長しているのだ。
もし、龍馬が生存していれば、もっと巨大な日本大財閥の登場となったことであろう。
長崎商人たち、後の横浜商人たちは、「それだけは何とか阻止した」ということではなかったか。
グラバーとその息子の物語もNHKBS特集で拝見した。
息子はトーマス・アルバート・グラバー(Tomas Albert Glover)という。
『英国人貿易商トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)と日本人ツルの間に2人姉弟の第2子、長男として1871年1月28日(明治3年12月8日)、長崎に生まれる。』(倉場富三郎(Wikipedia)より)
父へ当てた息子の手紙の内容を読むと、忠実な父の僕(しもべ)としてまじめにグラバー邸の財産管理をしていた様子がわかる。
おそらく息子も隣の大浦天主堂で洗礼を受けたであろう。
息子も水の合う長崎で商業を営むが、父ほどの才覚はなかったようだ。
やがて父も死に、長崎で老年期を迎えた富三郎に第2次世界大戦の災いが押し寄せてくる。
1945年8月9日午前11時2分、長崎市に原子爆弾が投下された。
爆心地から約5キロの大浦天主堂は焼失を免れたようだが、それでも大きな被害を受けたという。
原爆の直撃を受けたカトリック教会があった。
祈りに来ていた全員が死亡した浦上天主堂である。
『1895年(明治28年) 大聖堂の建設を始める。
これは、大浦天主堂にも負けない東洋一の聖堂を目指して建設されたもので、完成までに19年の年月を要した。
中略。
1945年(昭和20年) 8月9日、長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された。
投下当時、8月15日の聖母被昇天の大祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・西田三郎、助任司祭・玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡している。
後に浦上を訪れた俳人、水原秋桜子は、被爆した天主堂の惨状を見て「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」と詠んでいる。 』(浦上教会(Wikipedia)より)
74歳の倉場富三郎は、原爆投下から17日後に自殺している。
おそらく彼は敬虔なカトリック教徒の一人としてカトリック教徒が建国したアメリカ軍によって破壊された「悲しき聖廃墟」を見に行ったであろう。
倉場富三郎が戦後の日本人からの迫害を恐れて自殺したとは思えない。
長崎でハーフではあるが、同じ商人として人々と親しく付き合って暮らしてきた人物である。
長崎の人々の被爆の痛みは、倉場富三郎自身の心の痛みでもあったはずだ。
神の命令だとして日本人カトリック教徒たちを皆殺しするアメリカという国の「本当の狙い」に気づいたのではないか。
日本人カトリック信者倉場富三郎として彼の脳は激しく活動をしたであろう。
戦艦武蔵を建造する長崎三菱造船所の破壊が重要な軍事戦略であることも倉場富三郎は知っていたはずだ。
敵国の軍事基地への攻撃はどの国でも必要なことである。
教会で祈る日本人カトリック信者が爆心地の教会にいることもアメリカは承知のはずである。
広島にも爆心地最寄にカトリック教会があった。
そこは直接の被災は免れている。
但しそこの神父たちは運良く?当日は出かけていて教会付近にはいなかったようだ。
直接被爆はしていないと何かで読んだ。
広島のカトリックは「情報」を入手できていたのだろうか。
下記は原爆投下から5ヵ月後の浦上教会の鐘である。
浦上天主堂の鐘(1946年1月7日) (浦上教会(Wikipedia)より)
日本人のカトリック信者となると英米人の信者と扱いが異なるということを、原爆被災地を見て日英混血児の富三郎は確信し、そして失望したのではないだろうか。
『第二次世界大戦開始後、英国人の父と日本人の母との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられた。
終戦直後の1945年8月26日に自殺。遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻とともに埋葬されている。』(倉場富三郎(Wikipedia)より)
自殺の方法はわからないが、せめて英国人らしく拳銃自殺する方法を父から教えてもらっていたと思いたい。
大浦天主堂は長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂で、日本最古の現存するキリスト教建築物だという。
大浦天主堂の前には、大きな2本のシュロの木が聳(そび)えたっている。
あるいはナツメヤシかも知れない。
このブログのサブテーマである「シュロの木」である。
ユダヤ人預言者モーセがエルサレムで神を祝うのにナツメヤシの枝で祝えと定めた木である。
それは紀元前13世紀のことだった。
起源ゼロ年はイエスキリスト生誕の年である。
イエスが十字架にかけられたときの年齢は33歳だといわれているが、諸説あるようだ。
死の数日後にイエスは復活する。
『それら福音書の記述は、キリストの処刑後第三日、すなわち日曜日の早朝、女たちが墓をたずねていくと、墓が空になっていたと述べるが、その後の記述はかならずしも相互に一致してはいない。
『キリストの復活』
18世紀・ポーランド伝統的教会は、この矛盾を復活のキリストが時間と空間を越えた存在(光栄の主)になっていたためであるとする。
またマリヤという名前の登場人物が別の2名であったとして合理的に理解できるという解釈もある。
一方、近代以降の啓蒙主義の合理主義の影響を受けた自由主義神学に立つ解釈では、この矛盾を、復活は歴史的事実ではなく信者の心のなかにキリストがとどまりその印象が強化されたことを意味しており、したがって復活の記述はこの信仰の表現として創造せられたためと考える。』(復活(Wikipedia)より)
カトリック教会では復活の日を「枝の主日(しゅじつ)」と称して、ナツメヤシの枝を飾ってイエスの再生を祝う。
日本の戦国時代に、パリで創始されたイエズス会はカトリック教徒がアジア南米などの新世界での布教を目指す先遣団として生まれた。
日本へやってきたザビエルは創始者のうちの一人である。
インドマラッカ地方で日本渡航の準備をしているとき、元薩摩藩士のヤジロウ他2名の日本人が聖書の翻訳を手伝っている。
そのとき、ナツメヤシは「シュロ」として和訳されたものと思われる。
日本のカトリック教会の庭によくシュロの木を植えているのを見かける。
私はカトリック教会の尼さんにシュロの枝の使い方を尋ねたことがある。
復活祭のときには花屋に行ってシュロの枝を買ってきて、私たち日本人が神棚に榊(さかき)を供えるようにしてシュロの枝をイエスに供えるという。
イエス生誕後に生まれた新約聖書では、シュロの枝で「イエスの復活を祝う」ということになっているようだ。
モーセは「神」を祝えといい、カトリックではイエス復活を祝うということだ。
シュロ(ナツメヤシ)にかかわる新約聖書の記述をまだ私は見たことがないので、そう書かれているかどうかはわからない。
旧約聖書には「ホサナー、ホサナー(万歳の意味か)」と神を称える民衆たちが手に手にナツメヤシの枝を持って叫んでいたという記述がある。
そのシュロの木が大浦天主堂の正面前に2本立っている。
今日(7月25日)のNHK大河ドラマ龍馬伝のカメラワークは大変面白かった。
それを仕掛けたのが原作者なのか、プロデューサーなのかは私にはわからない。
踏み絵で長崎奉行所でマリアを描いた和紙の絵を足で踏む長崎丸山の芸者お元の姿。
踏み絵は、その人物が禁制のキリシタンではないことの証明行為である。
その後お元はある教会へ行き、マリア像の前で涙ぐみつつマリア様に謝罪の言葉を述べる。
お元の顔が祈祷室の蝋燭の灯りにかすかに揺れる。
カメラはそのまま蝋燭を大きく写す。
やがてカメラを引いていくと、同じ蝋燭の灯りではあるが、そこはグラバー邸の応接室だった。
このことから逆に芸者お元が駆け込んだ教会はグラバー邸の隣にある大浦天主堂の地下であることが推察できた。
隠れキリシタンであるお元は、長崎奉行所へ送り込まれたスパイとして描かれている。
奉行所では攘夷志士たちの取り締まりに協力をしている。
薩摩の小松帯刀がグラバーにミニエー銃一万丁を発注しようとするが、サトウキビ(砂糖)と武器の交換比率が不満だとしてグラバーから取引を拒絶される。
砂糖相場の先行きに不安があるから、グラバーが交換比率に不満を述べたものだろう。
現代なら、リスクのあるデリバティブ取引の現場に相当するシーンだ。
その日のドラマが終了して、それから5分程度「現在の旧グラバー庭園」などの光景が紹介される。
最後に交通アクセスが表示された。
「旧グラバー邸 大浦天主堂下下車」と大きく表示されていた。
私は以前長崎ハウステンボスに行った帰りにグラバー邸を訪ねたことがある。
そしてそのまま東京へ帰った私であるが、グラバー邸は知っているが、大浦天主堂は知らないままである。
しかし、このアクセス案内によれば、大浦天主堂下のバス停(あるいは路面電車の停車場かも)のすぐ傍がグラバー邸であるということを示している。
別の資料を読むと、「グラバー庭園を散策していると、いつのまにか大浦天主堂の敷地内に入り込む」という記述があった。
つまり、カトリック教会、当時のイエズス会の長崎布教の拠点が、グラバー邸と一帯の敷地にあったということだ。
長崎滞在中の龍馬は、薩摩の西郷と長州の高杉晋作との橋渡しをすることを決心する。
その3人の間に、イエズス会の日本国支配の戦略が介在していなかったのであろうか。
介在していると仮定すれば、カトリック教徒が多かったであろうと思われる長崎商人の集団が、日本の幕府転覆、日本の民主化を狙って薩長連合を仕掛けた可能性があるかも知れない。
ことが成ってから、貿易の中心は横浜へと移っていった。
商人は利権を求めて当然横浜へと移動したであろう。
「薩長連合の仕掛けの意味」をよく理解していた坂本龍馬の存在は、幕府の大政奉還が成立した後では煙たいものになってしまったのではないだろうか。
知りすぎた土佐の商人坂本龍馬を消さねば、利権は土佐にごっそりと持っていかれるかもしれない。
龍馬が暗殺されてもなお、龍馬の小間使い役に過ぎなかった岩崎弥太郎が龍馬から遺産を引き継ぐ。
それが三菱財閥として大きく成長しているのだ。
もし、龍馬が生存していれば、もっと巨大な日本大財閥の登場となったことであろう。
長崎商人たち、後の横浜商人たちは、「それだけは何とか阻止した」ということではなかったか。
グラバーとその息子の物語もNHKBS特集で拝見した。
息子はトーマス・アルバート・グラバー(Tomas Albert Glover)という。
『英国人貿易商トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)と日本人ツルの間に2人姉弟の第2子、長男として1871年1月28日(明治3年12月8日)、長崎に生まれる。』(倉場富三郎(Wikipedia)より)
父へ当てた息子の手紙の内容を読むと、忠実な父の僕(しもべ)としてまじめにグラバー邸の財産管理をしていた様子がわかる。
おそらく息子も隣の大浦天主堂で洗礼を受けたであろう。
息子も水の合う長崎で商業を営むが、父ほどの才覚はなかったようだ。
やがて父も死に、長崎で老年期を迎えた富三郎に第2次世界大戦の災いが押し寄せてくる。
1945年8月9日午前11時2分、長崎市に原子爆弾が投下された。
爆心地から約5キロの大浦天主堂は焼失を免れたようだが、それでも大きな被害を受けたという。
原爆の直撃を受けたカトリック教会があった。
祈りに来ていた全員が死亡した浦上天主堂である。
『1895年(明治28年) 大聖堂の建設を始める。
これは、大浦天主堂にも負けない東洋一の聖堂を目指して建設されたもので、完成までに19年の年月を要した。
中略。
1945年(昭和20年) 8月9日、長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された。
投下当時、8月15日の聖母被昇天の大祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・西田三郎、助任司祭・玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡している。
後に浦上を訪れた俳人、水原秋桜子は、被爆した天主堂の惨状を見て「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」と詠んでいる。 』(浦上教会(Wikipedia)より)
74歳の倉場富三郎は、原爆投下から17日後に自殺している。
おそらく彼は敬虔なカトリック教徒の一人としてカトリック教徒が建国したアメリカ軍によって破壊された「悲しき聖廃墟」を見に行ったであろう。
倉場富三郎が戦後の日本人からの迫害を恐れて自殺したとは思えない。
長崎でハーフではあるが、同じ商人として人々と親しく付き合って暮らしてきた人物である。
長崎の人々の被爆の痛みは、倉場富三郎自身の心の痛みでもあったはずだ。
神の命令だとして日本人カトリック教徒たちを皆殺しするアメリカという国の「本当の狙い」に気づいたのではないか。
日本人カトリック信者倉場富三郎として彼の脳は激しく活動をしたであろう。
戦艦武蔵を建造する長崎三菱造船所の破壊が重要な軍事戦略であることも倉場富三郎は知っていたはずだ。
敵国の軍事基地への攻撃はどの国でも必要なことである。
教会で祈る日本人カトリック信者が爆心地の教会にいることもアメリカは承知のはずである。
広島にも爆心地最寄にカトリック教会があった。
そこは直接の被災は免れている。
但しそこの神父たちは運良く?当日は出かけていて教会付近にはいなかったようだ。
直接被爆はしていないと何かで読んだ。
広島のカトリックは「情報」を入手できていたのだろうか。
下記は原爆投下から5ヵ月後の浦上教会の鐘である。
浦上天主堂の鐘(1946年1月7日) (浦上教会(Wikipedia)より)
日本人のカトリック信者となると英米人の信者と扱いが異なるということを、原爆被災地を見て日英混血児の富三郎は確信し、そして失望したのではないだろうか。
『第二次世界大戦開始後、英国人の父と日本人の母との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられた。
終戦直後の1945年8月26日に自殺。遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻とともに埋葬されている。』(倉場富三郎(Wikipedia)より)
自殺の方法はわからないが、せめて英国人らしく拳銃自殺する方法を父から教えてもらっていたと思いたい。
原爆を落とす日~奥州街道(4-177) [奥州街道日記]
TS393326国道4号線は上の山手を通る
TS393327「HOMAC」の看板
TS393328右に有壁駅
旧奥州街道を有壁宿へと歩いている。
後ろを振り返ると、先ほどまで歩いてきた国道4号線は上方の山手を通っていくようだ。
田んぼに「HOMAC」の看板が立っている、
何かの店の看板だろうが、計装エンジニアリングに携わってきた人間には懐かしいコントローラの商品名として記憶に残っているものだ。
社名変更に伴いすでにその商品名は残っていない。
右にJR有壁駅がある。
「芭蕉はアイヌ語の「シト」の意味を理解し、差別されていたアイヌの末裔たちの気持ちを理解していた可能性がある」と前の記事で述べた。。
かくいう私が、アイヌ人の差別される気持ちを果たして理解しているだろうか。
差別されたことが無い、もしくは少ない人間が、激しい差別に苦しむ人間を理解することは難しい。
非人として差別されていた芭蕉だからこそ、アイヌの悲哀を理解できていた可能性は高い。
私の父は広島の事後被爆者である。
投下1週間後に広島市内に入り、軍人の遺体回収処理に汗を流した。
仁科や湯川など原子力研究者たちは広島に投下されたのが原子爆弾だとわかっていた。
投下後に放射能が残留する危険性も知っていた。
しかし、軍部は市内への立ち入りを規制することをしなかった。
父たち若年兵たちは、放射能を帯びた埃が舞う真夏の廃墟でスコップを使って腐乱した遺体をすくいトラックへ積んだ。
みな裸になって汗をかいた。
その汗に放射能を含んだ埃もついたことだろう。
身近な人が放射能被爆を受けていたから、私は原爆被害者の気持ちがわかっているとこれまで思っていた。
同様に差別を受ける人の気持ちもわかると思っていた。
先日、つかこうへい氏が無くなった。
「いつか公平な世の中に」というキャッチフレーズからペンネームをつけたという。
つかこうへい氏は、この大和族の国で差別されてきた在日韓国人であった。
彼の著作の中では、映画だったか劇だったかで見た「蒲田行進曲」が気に入っていた。
ある報道でつかこうへい氏の著作に「広島に原爆を落とす日」というものがあることを知った。
日本人は常に「原爆を落とされた広島と長崎」という決まりきった日本語を使う。
「原爆を」と修飾されると、自動的に迫害された被害者意識が働き、その後に「落とされた」という受動的表現が続く。
しかし、日本人に差別され続けてきたつかこうへい氏の脳裏には、別の日本語が湧き上がるのである。
「広島に原爆を落とす日」となる。
その作品はまだ見たことはないから、内容がどういうものかはわからない。
しかし「表題」のオリジナル性を見ただけでも、十分衝撃的な作品だろうと思われる。
原爆という事実を、受動的に落とされる側に立つのではなく、能動的に原爆を落とす側の意識になるのだろう。
私は「広島に原爆を落とす日」という日本語文自体が存在することをうっかり忘れていた。
ことさほどに、差別される側の人間の心理を理解することは難しい。
日本列島の原住民であったアイヌ人を差別し迫害し続けてきた大和族たちは、アイヌ語は日本語と異なると主張していたようだ。
差別されるアイヌ側の心を読み取る力を持つ人が、アイヌ語こそ「原日本語」であると主張している。
私たち現代日本人たちは、アイヌ人の血を相当量受け継いできているはずである。
それは遺伝子分析すれば簡単にわかることである。
われわれは、アイヌ語こそ「原日本語」であるという声に耳を傾けるべきであろう。
全文を以下に抜粋する。
『うつせみ 1998年 10月17日
アイヌ語は琉球語とともに縄文時代の日本列島の言語、つまり縄文語を色濃く残し、人種的にもアイヌ人と琉球人は類似していて、日本語と日本人が弥生人の侵入で変わってしまう前の姿を留めている、という新説を私は信じてしまった。
琉球語もアイヌ語も朝鮮語も文法は日本語に極めて近い。
従来から琉球語は日本語の一方言と認められて来たが、アイヌ語については学界では次のように言われていた。
1.アイヌ語は日本語とかなり異なり単語の音韻対応は証明できない。
2.類似の単語も多いが、優勢文化の日本語からの借用語と思われる。
3.従って日本語と同様に親戚の見当たらない孤立語である。
以上の学説に敢然と反旗を翻したのが、ルポライタの片山龍峯氏で、「すずさわ書店 日本語とアイヌ語 351頁 1993年初版 \2400」という本にその主張が明快である。
言語学の専門家ではないが東京外語大のポルトガル語科出身とかで言語に土地勘があり、至極科学的に現地調査から学説を積み上げるスタイルの立派な本である。
まずアイヌ人と琉球人は同じ縄文人だという。
言われて見れば確かに典型的なアイヌ人から髭と刺青を取り去れば顔つきはそっくりだ。
日本全国に住んでいた縄文人とその文化が、弥生文化と共に侵入して支配階級に収まった弥生人の影響を受けない南北端に温存された構図は、欧州のケルト人がローマ人に押されて周辺地に残る関係に似ている。
片山氏の新規性は、単語家族(Word Family)という概念を持ち出したことである。
例えば日本語の「朝(あさ)」、「朝(あした)」、「明日(あした)」、「明後日(あさって)」などは全て1つの語幹から発展したファミリーで、これを単語家族という。
単独の単語同士を比較する限りアイヌ語と日本語は既に大きく隔たっていて音韻対応が付かない。
しかし単語家族を援用して比較すると、はっきり対応が付くというのである。
例えば「tama=玉」をアイヌ語ではnumと言って単語同士は似ても似つかない。
しかしアイヌ語の単語家族として、num=球、rum=頭、rup=頭、tum=どんぐり、topa=群、toma=球根、tom=粒、tomtom=つぶつぶ、などがあり、n - r - tは舌の位置がほとんど同じでしばしば交替するという発音学の常識を適用すると、tamaはnumに対応すると言えるという訳である。
他の例では、日本語の「開く」、「広し」、「広ぐ(ひろぐ)」という単語家族の語幹hirは古くはpirあるいはpitであったと考えると、アイヌ語の「pirasa=開く」が対応し、語源不明の日本語の「ぴたり」「ぴったり」は「全面的に広く」という意味で「広し」の一族と判るとのこと。
同様に「さっぱり」は「寒し」、「寂し」の一族で、「足りなくて良くない」の原意とのこと。
アイヌ語との関係で日本語も判ってくる。
またアイヌ語から雑誌名に使われた「ノンノ」は、幼児語でアイヌ語では「花」、日本語では「神様」、で一見対応しないが、双方の方言を調査すると、「母」「兄」「日・月」「医師」「明かり」などの広がりがあり、「良いもの」「尊いもの」という原意の共通単語だそうだ。
日本語の「青」という単語は今ではブルーのことだと誰もが思っているが、信号の「青」や「青物市場」から明らかなように緑を含む。
更に古代ではもっと広範囲の色を青と言ったそうで、今でも黄色を青という方言があるという。
アイヌ語の「aw=あの世」の原意を調べると、「中間の範囲」「隣」であることが判り、「青」は白と黒の間の広範囲の色を指したに違いないし、「合う」、「間」、などとも単語家族を作るという。
氏のもう一つの貢献は、アイヌ語の基本語彙の組み合わせで単語を作る構造の分析から、(借用語は構造分析出来ないから)多くのアイヌ語の単語が日本語からの借用語でなく固有単語であることを示した点である。
面白いのは縄文土器はなぜ縄模様かという点で、縄を張り巡らせれば悪霊が入らないという信仰が縄文文化にはあり、それがしめ縄に継承され、アイヌの衣装の袖口や裾の独特の模様も元来は縄模様だったという。
言わば門外漢の片山氏がこれだけの学説を組み立てる間、本職の言語学者は本当にアイヌ語を研究していたのだろうか?』
(「アイヌ語は原日本語」より)
http://club.pep.ne.jp/~shigmats.1/utusback/ainu.htm
『広島に原爆を落とす日』公式twitter には、広島原爆投下の8月6日から文化村で東京公演があると予告していた。
http://hiroshima2010.com/
2箇所で公演を行うという。
いずれかを見てみたいと思っている。
【東京公演】
2010年8月6日(金)~22日(日) Bunkamura シアターコクーン
【大阪公演】
2010年8月27日(金)~29日(日) 森ノ宮ピロティホール
TS393327「HOMAC」の看板
TS393328右に有壁駅
旧奥州街道を有壁宿へと歩いている。
後ろを振り返ると、先ほどまで歩いてきた国道4号線は上方の山手を通っていくようだ。
田んぼに「HOMAC」の看板が立っている、
何かの店の看板だろうが、計装エンジニアリングに携わってきた人間には懐かしいコントローラの商品名として記憶に残っているものだ。
社名変更に伴いすでにその商品名は残っていない。
右にJR有壁駅がある。
「芭蕉はアイヌ語の「シト」の意味を理解し、差別されていたアイヌの末裔たちの気持ちを理解していた可能性がある」と前の記事で述べた。。
かくいう私が、アイヌ人の差別される気持ちを果たして理解しているだろうか。
差別されたことが無い、もしくは少ない人間が、激しい差別に苦しむ人間を理解することは難しい。
非人として差別されていた芭蕉だからこそ、アイヌの悲哀を理解できていた可能性は高い。
私の父は広島の事後被爆者である。
投下1週間後に広島市内に入り、軍人の遺体回収処理に汗を流した。
仁科や湯川など原子力研究者たちは広島に投下されたのが原子爆弾だとわかっていた。
投下後に放射能が残留する危険性も知っていた。
しかし、軍部は市内への立ち入りを規制することをしなかった。
父たち若年兵たちは、放射能を帯びた埃が舞う真夏の廃墟でスコップを使って腐乱した遺体をすくいトラックへ積んだ。
みな裸になって汗をかいた。
その汗に放射能を含んだ埃もついたことだろう。
身近な人が放射能被爆を受けていたから、私は原爆被害者の気持ちがわかっているとこれまで思っていた。
同様に差別を受ける人の気持ちもわかると思っていた。
先日、つかこうへい氏が無くなった。
「いつか公平な世の中に」というキャッチフレーズからペンネームをつけたという。
つかこうへい氏は、この大和族の国で差別されてきた在日韓国人であった。
彼の著作の中では、映画だったか劇だったかで見た「蒲田行進曲」が気に入っていた。
ある報道でつかこうへい氏の著作に「広島に原爆を落とす日」というものがあることを知った。
日本人は常に「原爆を落とされた広島と長崎」という決まりきった日本語を使う。
「原爆を」と修飾されると、自動的に迫害された被害者意識が働き、その後に「落とされた」という受動的表現が続く。
しかし、日本人に差別され続けてきたつかこうへい氏の脳裏には、別の日本語が湧き上がるのである。
「広島に原爆を落とす日」となる。
その作品はまだ見たことはないから、内容がどういうものかはわからない。
しかし「表題」のオリジナル性を見ただけでも、十分衝撃的な作品だろうと思われる。
原爆という事実を、受動的に落とされる側に立つのではなく、能動的に原爆を落とす側の意識になるのだろう。
私は「広島に原爆を落とす日」という日本語文自体が存在することをうっかり忘れていた。
ことさほどに、差別される側の人間の心理を理解することは難しい。
日本列島の原住民であったアイヌ人を差別し迫害し続けてきた大和族たちは、アイヌ語は日本語と異なると主張していたようだ。
差別されるアイヌ側の心を読み取る力を持つ人が、アイヌ語こそ「原日本語」であると主張している。
私たち現代日本人たちは、アイヌ人の血を相当量受け継いできているはずである。
それは遺伝子分析すれば簡単にわかることである。
われわれは、アイヌ語こそ「原日本語」であるという声に耳を傾けるべきであろう。
全文を以下に抜粋する。
『うつせみ 1998年 10月17日
アイヌ語は琉球語とともに縄文時代の日本列島の言語、つまり縄文語を色濃く残し、人種的にもアイヌ人と琉球人は類似していて、日本語と日本人が弥生人の侵入で変わってしまう前の姿を留めている、という新説を私は信じてしまった。
琉球語もアイヌ語も朝鮮語も文法は日本語に極めて近い。
従来から琉球語は日本語の一方言と認められて来たが、アイヌ語については学界では次のように言われていた。
1.アイヌ語は日本語とかなり異なり単語の音韻対応は証明できない。
2.類似の単語も多いが、優勢文化の日本語からの借用語と思われる。
3.従って日本語と同様に親戚の見当たらない孤立語である。
以上の学説に敢然と反旗を翻したのが、ルポライタの片山龍峯氏で、「すずさわ書店 日本語とアイヌ語 351頁 1993年初版 \2400」という本にその主張が明快である。
言語学の専門家ではないが東京外語大のポルトガル語科出身とかで言語に土地勘があり、至極科学的に現地調査から学説を積み上げるスタイルの立派な本である。
まずアイヌ人と琉球人は同じ縄文人だという。
言われて見れば確かに典型的なアイヌ人から髭と刺青を取り去れば顔つきはそっくりだ。
日本全国に住んでいた縄文人とその文化が、弥生文化と共に侵入して支配階級に収まった弥生人の影響を受けない南北端に温存された構図は、欧州のケルト人がローマ人に押されて周辺地に残る関係に似ている。
片山氏の新規性は、単語家族(Word Family)という概念を持ち出したことである。
例えば日本語の「朝(あさ)」、「朝(あした)」、「明日(あした)」、「明後日(あさって)」などは全て1つの語幹から発展したファミリーで、これを単語家族という。
単独の単語同士を比較する限りアイヌ語と日本語は既に大きく隔たっていて音韻対応が付かない。
しかし単語家族を援用して比較すると、はっきり対応が付くというのである。
例えば「tama=玉」をアイヌ語ではnumと言って単語同士は似ても似つかない。
しかしアイヌ語の単語家族として、num=球、rum=頭、rup=頭、tum=どんぐり、topa=群、toma=球根、tom=粒、tomtom=つぶつぶ、などがあり、n - r - tは舌の位置がほとんど同じでしばしば交替するという発音学の常識を適用すると、tamaはnumに対応すると言えるという訳である。
他の例では、日本語の「開く」、「広し」、「広ぐ(ひろぐ)」という単語家族の語幹hirは古くはpirあるいはpitであったと考えると、アイヌ語の「pirasa=開く」が対応し、語源不明の日本語の「ぴたり」「ぴったり」は「全面的に広く」という意味で「広し」の一族と判るとのこと。
同様に「さっぱり」は「寒し」、「寂し」の一族で、「足りなくて良くない」の原意とのこと。
アイヌ語との関係で日本語も判ってくる。
またアイヌ語から雑誌名に使われた「ノンノ」は、幼児語でアイヌ語では「花」、日本語では「神様」、で一見対応しないが、双方の方言を調査すると、「母」「兄」「日・月」「医師」「明かり」などの広がりがあり、「良いもの」「尊いもの」という原意の共通単語だそうだ。
日本語の「青」という単語は今ではブルーのことだと誰もが思っているが、信号の「青」や「青物市場」から明らかなように緑を含む。
更に古代ではもっと広範囲の色を青と言ったそうで、今でも黄色を青という方言があるという。
アイヌ語の「aw=あの世」の原意を調べると、「中間の範囲」「隣」であることが判り、「青」は白と黒の間の広範囲の色を指したに違いないし、「合う」、「間」、などとも単語家族を作るという。
氏のもう一つの貢献は、アイヌ語の基本語彙の組み合わせで単語を作る構造の分析から、(借用語は構造分析出来ないから)多くのアイヌ語の単語が日本語からの借用語でなく固有単語であることを示した点である。
面白いのは縄文土器はなぜ縄模様かという点で、縄を張り巡らせれば悪霊が入らないという信仰が縄文文化にはあり、それがしめ縄に継承され、アイヌの衣装の袖口や裾の独特の模様も元来は縄模様だったという。
言わば門外漢の片山氏がこれだけの学説を組み立てる間、本職の言語学者は本当にアイヌ語を研究していたのだろうか?』
(「アイヌ語は原日本語」より)
http://club.pep.ne.jp/~shigmats.1/utusback/ainu.htm
『広島に原爆を落とす日』公式twitter には、広島原爆投下の8月6日から文化村で東京公演があると予告していた。
http://hiroshima2010.com/
2箇所で公演を行うという。
いずれかを見てみたいと思っている。
【東京公演】
2010年8月6日(金)~22日(日) Bunkamura シアターコクーン
【大阪公演】
2010年8月27日(金)~29日(日) 森ノ宮ピロティホール
馬のバリ~奥州街道(4-176) [奥州街道日記]
TS393323稲刈りを終えた田
TS393324東北新幹線
TS393325奥州街道踏切
有壁宿への旧道は鉄道の踏切を越える。
近くに東北新幹線のコンクリート橋脚が見える。
さきほど「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと」という芭蕉の句を引用して、奥州は馬の文化の地であることを示した。
私はここ10年ほどはこの句の「尿」を「バリ」と正しく読んでいたようだ。
司馬遼太郎の随筆「街道を往く」などからそう学んだのだと思う。
しかし、尿を「ばり」と読むことが確定したのは1997年11月に芭蕉自筆の「奥の細道」が発見されてからだという。
今からおよそ13年前のことで、案外新しい発見なのであった。
「たかが尿(シト)、されどバリ」であった。
以下に伊藤正氏の記事を引用させていただく。
『宮城県の鳴子温泉郷から北羽前街道(国道47号)を西に、山形県最上町に向かって進むと、奥の細道で名高い尿前(しとまえ)の関と封人の家の遺跡がある。
そして芭蕉の宿となった封人の家の遺跡には、後世のものではあるが、奥の細道からとった「蚤虱 馬の尿する 枕もと」の句碑があって、旅情を慰めてくれる。
この句は、あまりにも人口に膾炙されているのでいまさら多言を要しないが、句の発想は、前日に通った尿前(しとまえ)の関の地名に由来するのであろうとする見方が通説となっている。
そしてその理由は、尿前の関の「尿」という文字も、句碑に刻まれた「尿」の文字も、ともに「シト」と同音に読む慣習にしたがっていたからである。
なおそればかりではなく奥の細道には、松島や象潟や佐渡、あるいは最上川など、地名に関連する句が多いこともその慣習を助長させたのかもしれない。
まして紀行文の短い一節のこと、文字も読みも同じとすれば、先行する地名とあとにつづく句には深い関連があるとする文学論にはなるほどと納得せざるをえない。
ところで、もしこの二つの「尿」が、異なった読みであり、異なった意味であったとしたらどうなるであろうか。
地名と句の間の関係が、これまでの文学論のようにすらすらと成り立つであろうか。
近年このような疑問を誘発する新事実に遭遇した。
それは一昨年(1997)11月の芭蕉自筆の「奥の細道」の発見である。
図1は、その自筆本の影印の関連部分であるが、そこには同じ「尿」の字に、「シト」と「バリ」の異なった振り仮名が片仮名でつけられているのである。
したがって、封人の家で詠んだ句は「蚤虱 馬のバリする 枕もと」と読めというのが芭蕉の指示である。
それではこの「シト」と「バリ」の間にどのような言語学的な相違があるのだろうか。
いささか横道にそれるようだが尋ねないわけにはいかない。
このことについて、1603年、日本で布教活動をしていたイエズス会によって編纂された『日葡辞書』によると、当時、「尿」の文字を「シト」とも「バリ」とも読んで使用していたことが明らかである。
しかしながら「シト」は人間の小便、とくに子供の場合に多く用い、「バリ」は馬または動物の小便を指す言葉で、この両者の間に明確な区別があったようである。
また、同じ頃にこの地方に転封してきた佐竹氏の家臣梅津政景の元和4年(1618)の日記にも馬の小便として「バリ」の言葉が使用されている。
さらに、東北地方の方言としての「バリ」は、各家庭に農耕馬が飼育されていた近年までの日常語でもあった。
このように近世初期から現代に至るまで、馬の小便を表わす言葉として「バリ」が使用されてきたのである。
また農家で馬とともに育った人なら誰でも知っていることであるが夜半に聞く馬の「バリ」の音のすさまじさは今日の想像を越えるものがあった。
したがって、風雨のために三日の逗留を余儀なくされた芭蕉の心を捉えたものは、まさしく枕もとで聞く馬の強烈な「バリ」の音であったに相違ない。
したがって、この句は関所の地名とは別個に、独立した思考によって生まれたとするのが至当ではあるまいか。
その証拠に前文の書きだしがなくても、この句の生命には何の影響もないのである。
なお換言すれば、この句を「馬のバリする枕もと」と読むようにとの振り仮名は、芭蕉が残した遺言なのである。
それ故に、地名がこの句の母体であるとするこれまでの短絡的な思考や文学論は、自筆本の出現を機に再考されなければならないのではないか。』
(「尿 前(しとまえ) 二 論(伊 藤 正)』より抜粋)
http://www.geocities.jp/pppppppihyghhg/Web-Ani/akita-chimei/nenpoxx/nenpo14/sitomae.htm
これに続く議論で伊藤正氏は「尿前」(しとまえ)の語源はアイヌ語の「sittok・oma・nay =肘・ある・川 =肘のように曲がっている川」であることを類似の地名が存在する地域の川の光景の類似性から説明している。
「シト」は川や路の曲がり角を指すことばで、「オマイ」は「あるところ」という言葉だそうだ。
苫小牧(とまこまい)などについているのと同じ「おまい」と同じものが「曲がっている川」についたもののようだ。
大和族は武力で植民地支配を敷き、アイヌ族の地名の改造も行ったようだ。
「シト」という呼び名に「尿」の字を当てるところなどは、いかにも蝦夷(えみし)を見下した中華思想かぶれの大和族貴族たちの貧しい心を浮かび上がらせてくれる。
後には地名を和名に変えさせるということによって、アイヌ語の語源の存在をも消していったようだが、支配直後は地元の呼称に漢字をいい加減に当てて使用したのであろう。
こうやって、原住民の言語や地名は勝手に改ざんされていくのである。
アメリカンインディアンたちの文化が西洋人の入植者によって破壊されていった経過も似たようなものであっただろう。
「バリ」という音もアイヌ語由来ではないかという気がする。
『芭蕉が宿泊した「封人の家」とは、堺田の「封人の家(関守)」とあるから、「封人」は関所の管理責任者だったようだ。
農民を領地に囲い込んで租税を徴収するのを「柵封体制」というから、その「柵を封ずる人」という意味だろう。
『芭蕉は平泉を訪ねた後「尿前の関(しとまえのせき)」を越え、出羽の国に入ります。
“蚤虱 馬が尿する 枕元”の句で有名な堺田の「封人の家(関守)」に泊ったのは、旧暦5月15日(陽暦7月1日)のことです。
江戸を出立してから50日あまり経過していました。
結局封人の家には梅雨時の大雨にたたられ、仕方なく2泊します。
雨が上がりようやく出立した芭蕉主従は尾花沢に向かいますが、途中の山刀伐峠は土地の若者の案内でようやく越えたほどの、険しい山越えでした。』
(「観光情報-広域観光情報-堺田・封人の家~山寺~新庄」より)
http://www.mokkedano.net/kouiki/kouiki01.html
陽暦7月1日の句である。
風雨のために三日間封人の家屋に逗留を余儀なくされた芭蕉だが、早めの台風による足止めだったか、梅雨明け前の豪雨だった可能性もある。
芭蕉は二晩にわたり「馬のものすごい小便の音」、つまり東北の現地でいう「バリの音」を枕元で聞いていたのである。
眠りに着こうとするときの「バリ」の臭いと音は、蚤や虱で痒いからだには大変きつかったのではないだろうか。
寝付かれない芭蕉は、馬の尿(バリ)の音を聞きながら関所の名を考えたのではあるまいか。
その芭蕉が宿を借りた関守が管理していた関所の名前は「尿前」(しとまえ)である。
芭蕉は「尿」の字をこの地の「シト」という音に当てるのは大きな間違いだということを遠まわしに人々に伝えたかったのではないか。
おおっぴらに幕府の定めたことに逆らうことはできない時代である。
漢字の尿は大和族では「にょう」または「しと」と読むことは事実であるが、アイヌ族では馬の尿を「バリ」とよむ。
そしてアイヌ語の「シト」とは、曲がった川をあらわす美しい言葉なのである。
芭蕉直筆の奥の細道の句の「尿」の字の横に、芭蕉が「シト」と「バリ」の二通りの読み仮名を振ったのは、そういうことを後世に伝えたかったからではないだろうか。
芭蕉は伊勢国では非人(ひにん)として差別を受けていた。
殺人を犯したことで脱藩し、江戸で俳人として著名になる。
芭蕉は、差別される側の苦痛をよくわかる人だったのである。
大和族の侵略によってアイヌの文化も地名も言語も奪われていった。
芭蕉は、そういうアイヌの末裔たちの気持ちをよく理解していただろう。
TS393324東北新幹線
TS393325奥州街道踏切
有壁宿への旧道は鉄道の踏切を越える。
近くに東北新幹線のコンクリート橋脚が見える。
さきほど「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと」という芭蕉の句を引用して、奥州は馬の文化の地であることを示した。
私はここ10年ほどはこの句の「尿」を「バリ」と正しく読んでいたようだ。
司馬遼太郎の随筆「街道を往く」などからそう学んだのだと思う。
しかし、尿を「ばり」と読むことが確定したのは1997年11月に芭蕉自筆の「奥の細道」が発見されてからだという。
今からおよそ13年前のことで、案外新しい発見なのであった。
「たかが尿(シト)、されどバリ」であった。
以下に伊藤正氏の記事を引用させていただく。
『宮城県の鳴子温泉郷から北羽前街道(国道47号)を西に、山形県最上町に向かって進むと、奥の細道で名高い尿前(しとまえ)の関と封人の家の遺跡がある。
そして芭蕉の宿となった封人の家の遺跡には、後世のものではあるが、奥の細道からとった「蚤虱 馬の尿する 枕もと」の句碑があって、旅情を慰めてくれる。
この句は、あまりにも人口に膾炙されているのでいまさら多言を要しないが、句の発想は、前日に通った尿前(しとまえ)の関の地名に由来するのであろうとする見方が通説となっている。
そしてその理由は、尿前の関の「尿」という文字も、句碑に刻まれた「尿」の文字も、ともに「シト」と同音に読む慣習にしたがっていたからである。
なおそればかりではなく奥の細道には、松島や象潟や佐渡、あるいは最上川など、地名に関連する句が多いこともその慣習を助長させたのかもしれない。
まして紀行文の短い一節のこと、文字も読みも同じとすれば、先行する地名とあとにつづく句には深い関連があるとする文学論にはなるほどと納得せざるをえない。
ところで、もしこの二つの「尿」が、異なった読みであり、異なった意味であったとしたらどうなるであろうか。
地名と句の間の関係が、これまでの文学論のようにすらすらと成り立つであろうか。
近年このような疑問を誘発する新事実に遭遇した。
それは一昨年(1997)11月の芭蕉自筆の「奥の細道」の発見である。
図1は、その自筆本の影印の関連部分であるが、そこには同じ「尿」の字に、「シト」と「バリ」の異なった振り仮名が片仮名でつけられているのである。
したがって、封人の家で詠んだ句は「蚤虱 馬のバリする 枕もと」と読めというのが芭蕉の指示である。
それではこの「シト」と「バリ」の間にどのような言語学的な相違があるのだろうか。
いささか横道にそれるようだが尋ねないわけにはいかない。
このことについて、1603年、日本で布教活動をしていたイエズス会によって編纂された『日葡辞書』によると、当時、「尿」の文字を「シト」とも「バリ」とも読んで使用していたことが明らかである。
しかしながら「シト」は人間の小便、とくに子供の場合に多く用い、「バリ」は馬または動物の小便を指す言葉で、この両者の間に明確な区別があったようである。
また、同じ頃にこの地方に転封してきた佐竹氏の家臣梅津政景の元和4年(1618)の日記にも馬の小便として「バリ」の言葉が使用されている。
さらに、東北地方の方言としての「バリ」は、各家庭に農耕馬が飼育されていた近年までの日常語でもあった。
このように近世初期から現代に至るまで、馬の小便を表わす言葉として「バリ」が使用されてきたのである。
また農家で馬とともに育った人なら誰でも知っていることであるが夜半に聞く馬の「バリ」の音のすさまじさは今日の想像を越えるものがあった。
したがって、風雨のために三日の逗留を余儀なくされた芭蕉の心を捉えたものは、まさしく枕もとで聞く馬の強烈な「バリ」の音であったに相違ない。
したがって、この句は関所の地名とは別個に、独立した思考によって生まれたとするのが至当ではあるまいか。
その証拠に前文の書きだしがなくても、この句の生命には何の影響もないのである。
なお換言すれば、この句を「馬のバリする枕もと」と読むようにとの振り仮名は、芭蕉が残した遺言なのである。
それ故に、地名がこの句の母体であるとするこれまでの短絡的な思考や文学論は、自筆本の出現を機に再考されなければならないのではないか。』
(「尿 前(しとまえ) 二 論(伊 藤 正)』より抜粋)
http://www.geocities.jp/pppppppihyghhg/Web-Ani/akita-chimei/nenpoxx/nenpo14/sitomae.htm
これに続く議論で伊藤正氏は「尿前」(しとまえ)の語源はアイヌ語の「sittok・oma・nay =肘・ある・川 =肘のように曲がっている川」であることを類似の地名が存在する地域の川の光景の類似性から説明している。
「シト」は川や路の曲がり角を指すことばで、「オマイ」は「あるところ」という言葉だそうだ。
苫小牧(とまこまい)などについているのと同じ「おまい」と同じものが「曲がっている川」についたもののようだ。
大和族は武力で植民地支配を敷き、アイヌ族の地名の改造も行ったようだ。
「シト」という呼び名に「尿」の字を当てるところなどは、いかにも蝦夷(えみし)を見下した中華思想かぶれの大和族貴族たちの貧しい心を浮かび上がらせてくれる。
後には地名を和名に変えさせるということによって、アイヌ語の語源の存在をも消していったようだが、支配直後は地元の呼称に漢字をいい加減に当てて使用したのであろう。
こうやって、原住民の言語や地名は勝手に改ざんされていくのである。
アメリカンインディアンたちの文化が西洋人の入植者によって破壊されていった経過も似たようなものであっただろう。
「バリ」という音もアイヌ語由来ではないかという気がする。
『芭蕉が宿泊した「封人の家」とは、堺田の「封人の家(関守)」とあるから、「封人」は関所の管理責任者だったようだ。
農民を領地に囲い込んで租税を徴収するのを「柵封体制」というから、その「柵を封ずる人」という意味だろう。
『芭蕉は平泉を訪ねた後「尿前の関(しとまえのせき)」を越え、出羽の国に入ります。
“蚤虱 馬が尿する 枕元”の句で有名な堺田の「封人の家(関守)」に泊ったのは、旧暦5月15日(陽暦7月1日)のことです。
江戸を出立してから50日あまり経過していました。
結局封人の家には梅雨時の大雨にたたられ、仕方なく2泊します。
雨が上がりようやく出立した芭蕉主従は尾花沢に向かいますが、途中の山刀伐峠は土地の若者の案内でようやく越えたほどの、険しい山越えでした。』
(「観光情報-広域観光情報-堺田・封人の家~山寺~新庄」より)
http://www.mokkedano.net/kouiki/kouiki01.html
陽暦7月1日の句である。
風雨のために三日間封人の家屋に逗留を余儀なくされた芭蕉だが、早めの台風による足止めだったか、梅雨明け前の豪雨だった可能性もある。
芭蕉は二晩にわたり「馬のものすごい小便の音」、つまり東北の現地でいう「バリの音」を枕元で聞いていたのである。
眠りに着こうとするときの「バリ」の臭いと音は、蚤や虱で痒いからだには大変きつかったのではないだろうか。
寝付かれない芭蕉は、馬の尿(バリ)の音を聞きながら関所の名を考えたのではあるまいか。
その芭蕉が宿を借りた関守が管理していた関所の名前は「尿前」(しとまえ)である。
芭蕉は「尿」の字をこの地の「シト」という音に当てるのは大きな間違いだということを遠まわしに人々に伝えたかったのではないか。
おおっぴらに幕府の定めたことに逆らうことはできない時代である。
漢字の尿は大和族では「にょう」または「しと」と読むことは事実であるが、アイヌ族では馬の尿を「バリ」とよむ。
そしてアイヌ語の「シト」とは、曲がった川をあらわす美しい言葉なのである。
芭蕉直筆の奥の細道の句の「尿」の字の横に、芭蕉が「シト」と「バリ」の二通りの読み仮名を振ったのは、そういうことを後世に伝えたかったからではないだろうか。
芭蕉は伊勢国では非人(ひにん)として差別を受けていた。
殺人を犯したことで脱藩し、江戸で俳人として著名になる。
芭蕉は、差別される側の苦痛をよくわかる人だったのである。
大和族の侵略によってアイヌの文化も地名も言語も奪われていった。
芭蕉は、そういうアイヌの末裔たちの気持ちをよく理解していただろう。
有壁(ありかべ)へ~奥州街道(4-175) [奥州街道日記]
TS393320国道から右へ旧道に入る「有壁宿本陣へ」
TS393321防風林に抱かれた小集落
TS393322昔の面影を残す奥州街道の道筋
国道4号線から右へ別れて旧道に入る。
分岐に「有壁宿本陣へ」と標識があった。
旧道に入ると、防風林に抱かれた小集落が左手に見える。
厳しい寒さと北風から人々の生活を守る知恵なのだろう。
まっすぐ伸びた旧奥州街道の道筋は、昔の街道の面影を残している。
有壁宿へと進む。
TS393321防風林に抱かれた小集落
TS393322昔の面影を残す奥州街道の道筋
国道4号線から右へ別れて旧道に入る。
分岐に「有壁宿本陣へ」と標識があった。
旧道に入ると、防風林に抱かれた小集落が左手に見える。
厳しい寒さと北風から人々の生活を守る知恵なのだろう。
まっすぐ伸びた旧奥州街道の道筋は、昔の街道の面影を残している。
有壁宿へと進む。
キンナリか?~奥州街道(4-174) [奥州街道日記]
TS393315矢びつ温泉「瑞泉閣」の案内
TS393317満寿紗華が見送ってくれる
TS393318「和牛の里 金成」
街道に『矢びつ温泉「瑞泉閣」』の案内板がある。
27km先だという。
現代の道路の看板は、車向けの看板である。
街道を歩いている旅人には一向に参考にはならない。
江戸時代の看板が保存されているならば見てみたいものだ。
徒歩旅行者向けだから「あと少しだ、頑張ろう!」との気持ちを喚起させる面白いものが多かっただろう。
しかし、赤い満寿紗華(彼岸花)たちが歩く私を見送ってくれる。
車の旅行では一瞬で消え去る花たちだが、ゆっくりゆっくりと姿を変えながら私とすれ違う。
「和牛の里 金成(かんなり)」の看板が田んぼにたっていた。
馬の産地であり騎馬戦上手な蝦夷の地である奥州だが、和牛の里がぽつんとある。
牛の文化は日本列島の南から北上していったものだ。
「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと」は、芭蕉が山形の農家に宿を借りたときに読んだ句だ。
奥州地方では、農家は農耕馬を家屋内に飼っていた。
大きな家では家屋の北側に馬の部屋を作っていた。
芭蕉が寝床を借りた部屋が馬の部屋と隣り合っていたのであろう。
蚤も虱もいるし、ときどき馬が小便(ばり)をする音が枕元に聞こえてくる。
奥州は馬の文化なのである。
そのど真ん中に牛の文化の金成(かんなり)村がある。
北から南下してきた馬の文化と南から北上してきた牛の文化は関東付近でぶつかり混在したようだ。
金成は南から来た人々が住み着いた牛の文化を持つ村かも知れない。
金売り吉次が京都から白河以北へ移住したことと金成村の成立となんらかの関係があるのではないだろうか。
ひょっとして金成(かんなり)とは「金(きん)が産出される」という意味「きんなり」のことではないかと思った。
TS393317満寿紗華が見送ってくれる
TS393318「和牛の里 金成」
街道に『矢びつ温泉「瑞泉閣」』の案内板がある。
27km先だという。
現代の道路の看板は、車向けの看板である。
街道を歩いている旅人には一向に参考にはならない。
江戸時代の看板が保存されているならば見てみたいものだ。
徒歩旅行者向けだから「あと少しだ、頑張ろう!」との気持ちを喚起させる面白いものが多かっただろう。
しかし、赤い満寿紗華(彼岸花)たちが歩く私を見送ってくれる。
車の旅行では一瞬で消え去る花たちだが、ゆっくりゆっくりと姿を変えながら私とすれ違う。
「和牛の里 金成(かんなり)」の看板が田んぼにたっていた。
馬の産地であり騎馬戦上手な蝦夷の地である奥州だが、和牛の里がぽつんとある。
牛の文化は日本列島の南から北上していったものだ。
「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと」は、芭蕉が山形の農家に宿を借りたときに読んだ句だ。
奥州地方では、農家は農耕馬を家屋内に飼っていた。
大きな家では家屋の北側に馬の部屋を作っていた。
芭蕉が寝床を借りた部屋が馬の部屋と隣り合っていたのであろう。
蚤も虱もいるし、ときどき馬が小便(ばり)をする音が枕元に聞こえてくる。
奥州は馬の文化なのである。
そのど真ん中に牛の文化の金成(かんなり)村がある。
北から南下してきた馬の文化と南から北上してきた牛の文化は関東付近でぶつかり混在したようだ。
金成は南から来た人々が住み着いた牛の文化を持つ村かも知れない。
金売り吉次が京都から白河以北へ移住したことと金成村の成立となんらかの関係があるのではないだろうか。
ひょっとして金成(かんなり)とは「金(きん)が産出される」という意味「きんなり」のことではないかと思った。
一山越え~奥州街道(4-173) [奥州街道日記]
TS393312昨夜車のライトが登っていった坂
TS393313ススキの下に稲田
TS393314一山超えた
昨夜は車のライトが坂を連なって上るさまを闇の中に眺めながら、川原でテントを張ることに決めたのだった。
昨夜車のライトが登っていった坂を、今朝私は歩いて登っている。
眼下にススキの穂を通して稲田が見える。
道はやや平らになってきたので、一山越えたことがわかる。
しかし、一山では済まないのが街道である。
その先にまた小山が立ちはだかっている。
TS393313ススキの下に稲田
TS393314一山超えた
昨夜は車のライトが坂を連なって上るさまを闇の中に眺めながら、川原でテントを張ることに決めたのだった。
昨夜車のライトが登っていった坂を、今朝私は歩いて登っている。
眼下にススキの穂を通して稲田が見える。
道はやや平らになってきたので、一山越えたことがわかる。
しかし、一山では済まないのが街道である。
その先にまた小山が立ちはだかっている。
あぐりっこ金成~奥州街道(4-172) [奥州街道日記]
TS393309次は有壁宿だ(直売所の花壇にて)
TS393310「新鮮直送物産館 あぐりっこ金成」
TS393311緑の羽毛シュラフを干してある駐輪場
直売所には「新鮮直送物産館 あぐりっこ金成」と大きな看板が立っていた。
買ってきた団子とリンゴの朝食を終えてから、テントとシュラフを仕舞い、リュックに詰め込む。
昨夜の宿泊所の店じまいである。
午前10時40分に金成藤渡戸を出発した。
TS393310「新鮮直送物産館 あぐりっこ金成」
TS393311緑の羽毛シュラフを干してある駐輪場
直売所には「新鮮直送物産館 あぐりっこ金成」と大きな看板が立っていた。
買ってきた団子とリンゴの朝食を終えてから、テントとシュラフを仕舞い、リュックに詰め込む。
昨夜の宿泊所の店じまいである。
午前10時40分に金成藤渡戸を出発した。
ダンゴとリンゴ~奥州街道(4-171) [奥州街道日記]
TS393304川の南側に直売所があった
TS393307ダンゴとリンゴ
TS393308川向こうの濃い緑の岸辺にテントを張った(直売所から撮影)
直売所でペットボトルの水と食べ物を少々仕入れたい。
リュックがいっぱいなのでたくさんは買えない。
トマトも4個で一パックだが、街道歩きにとっては11個売りの方がありがたい。
みたらし団子とりんご2個入りパックを買った。
近くの電柱に張ってある住所名を見て、ここが「金成藤渡戸」であることを知る。
TS393307ダンゴとリンゴ
TS393308川向こうの濃い緑の岸辺にテントを張った(直売所から撮影)
直売所でペットボトルの水と食べ物を少々仕入れたい。
リュックがいっぱいなのでたくさんは買えない。
トマトも4個で一パックだが、街道歩きにとっては11個売りの方がありがたい。
みたらし団子とりんご2個入りパックを買った。
近くの電柱に張ってある住所名を見て、ここが「金成藤渡戸」であることを知る。
金成藤渡戸の直売所~奥州街道(4-170) [奥州街道日記]
TS393300駐輪場とテント
TS393299向かいは自動精米機があるだけ
TS393305稲田と川
第4幕3日目のテントはや屋根付の駐輪場の中だった。
昨夜8時ころにテントを設営してみると、平たいコンクリート床は意外に住みやすかった。
泡盛とチーズで晩酌をした。
「立っているものは親でも使え」と言う。
空き地に残されていた自転車置き場が、昨夜の徹夜歩行を止めてくれたことになる。
感謝、感謝だ。
23時に就寝した。
翌朝6時に起床した。
コーヒーを沸かして飲む。
黄金色になった視界に稲田が広がり、その中を川がうねりながら流れていた。
向かいに空き地が広がっているが、今は自動精米機が1台ボックスの中にあるだけだ。
昔は集会場か公民館など、地域の人が集まる場所だったのだろう。
今は駐輪場だけが残っていた。
川の向こう側に「直売所」の大きな看板が見える。
まだ朝早いのだが、駐車場にちらほら車が止まっている。
店の人が客に説明している様子がこちらからでも見えた。
あそこへ行けば、朝ごはんにありつけるだろう。
テントははずして駐輪場の鉄格子にかけて干したまま、直売所へと歩いていった。
TS393299向かいは自動精米機があるだけ
TS393305稲田と川
第4幕3日目のテントはや屋根付の駐輪場の中だった。
昨夜8時ころにテントを設営してみると、平たいコンクリート床は意外に住みやすかった。
泡盛とチーズで晩酌をした。
「立っているものは親でも使え」と言う。
空き地に残されていた自転車置き場が、昨夜の徹夜歩行を止めてくれたことになる。
感謝、感謝だ。
23時に就寝した。
翌朝6時に起床した。
コーヒーを沸かして飲む。
黄金色になった視界に稲田が広がり、その中を川がうねりながら流れていた。
向かいに空き地が広がっているが、今は自動精米機が1台ボックスの中にあるだけだ。
昔は集会場か公民館など、地域の人が集まる場所だったのだろう。
今は駐輪場だけが残っていた。
川の向こう側に「直売所」の大きな看板が見える。
まだ朝早いのだが、駐車場にちらほら車が止まっている。
店の人が客に説明している様子がこちらからでも見えた。
あそこへ行けば、朝ごはんにありつけるだろう。
テントははずして駐輪場の鉄格子にかけて干したまま、直売所へと歩いていった。