本陣の御成門~奥州街道(4-181) [奥州街道日記]

TS393341.jpgTS393341有壁宿本陣だった!
TS393342.jpgTS393342見事な本陣の屋波
TS393343.jpgTS393343本陣の御成門(おなりもん)
TS393345.jpgTS393345本陣の敷地内の様子

やはりあの大きな屋敷が旧有壁宿本陣屋敷だった。
道路沿いには本陣の建屋の屋根が波のように続いている。

道路からは見えないが、さっき横から見たときに奥には赤い瓦屋根の建物が敷地内に複数建っていた。

本陣の御成門には茅葺の屋根があり、その上に黒松の枝が張り出している、
大名が宿泊するときは、この門を籠(かご)に乗ったまま通って入ったのであろう。

門の傍に杉の板の上に墨書した説明板がある。

『史跡 重要文化財 旧有壁宿本陣

有壁の御本陣は奥州街道中有壁宿に設けられ、松前、八戸、盛岡一関の藩主が参勤交代の際と幕府並びに各藩重臣が通行の際に宿泊や休息したところである。

現在建造物は、延喜元年(1744)の改築にかかり、道路に面して二階建長屋があり、そのわきに御成門がたっている。

本屋は100坪程(330平方米余)の平屋で、私宅の部分と、本陣として藩公らが使用した諸室が含まれる。

御成門を入ると屋根入母屋造の車寄があり、式台のついた玄関構である。

奥に侍者の間、中屋敷、御次の間が続き、左に折れて上段の間(八畳敷)があり、この部屋の床は他の部屋より八寸(二四ミリ程)高い書院造りである。

明治9年7月3日、同14年8月16日、両度明治天皇が奥羽御巡幸の際に御小休所となった。

主要街道の貴重な遺構として昭和46年5月国の史跡に指定さる。

昭和51年10月 当主 佐藤鐵太郎誌す。』(抜粋終わり)

門は御成門と呼ぶそうだ。

敷地に入ると「屋根入母屋造の車寄があり、式台のついた玄関構である」とあるから、やはり大名は籠に乗ったまま御成門をくぐって中に入るのである。

貴人は庶民の前に顔や体を見せないのである。
身分社会の厳しい掟であろう。

万一大名が街道で姿を見せたりすれば、それが鼻を垂らした馬鹿殿さまだったら年貢を納めるのもあほらしくなるだろう。

だからお隠れになるのである。

中国では「徳を失った王様」ならば、殺して王者に成り代わってもよいとなっている。

易姓革命といって天がそれを承認する仕組みだ。
馬鹿殿様の一族は皆殺しにあう。

乗っ取った新しい王様がいい加減な男であっても構わない。
前の死んだ殿様が徳がなかったから殺されたと考えるから、勝った新しい殿様は「徳があるから勝った」と論理的に考えるようだ。

滅ぼしたほうが偉いということか。

日本ではそうはならない。

徳がなかろうが、馬鹿殿であろうが、洟垂れであろうが、殿様の子に生まれたら親父が死ねば殿様になれるのだ。
だから御成門の前で籠から降りたりしてはまずい。

案内板によれば、明治天皇は間をおかずに2度も有壁宿本陣にお泊りになっている。
「明治9年7月3日、同14年8月16日、両度明治天皇が奥羽御巡幸の際に御小休所となった。」と書いてある。

西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱「西南戦争」は、1877年(明治10年)であるから、その前の年に最初の巡幸をしている。
明治9年には何があったのだろうか。

『一方、近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布した。

この2つは帯刀・禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。

これが契機となり、同年10月24日に熊本県で「神風連の乱」、27日に福岡県で「秋月の乱」、28日に山口県で前原一誠による「萩の乱」が起こった。』(西南戦争(Wikipedia)より)

明治9年3月8日に廃刀令を発してから、奥羽巡幸に出発されたようだ。
侍はカンカンになって怒ることはわかっていたはずだ。

しばらく東北地方を回って東京周辺の侍のガス抜きが終わるまで旅をしようと思ったのだろうか。

蝦夷の国を限られた人数で旅することは当時はまだ危険が残っていただろうから、決して観光旅行などではない。

蝦夷と呼んで長い間蔑んでいた外国の土地を明治維新革命によって天皇の土地にしたのであるから、その検地の意味と人民へ威圧する意図も含まれていたであろう。

東京新政府にとっては背後の奥州が不穏になっては全国統治の余裕もなくなる。
薄氷を踏む思いで明治天皇はここ有壁宿に泊まったのである、

そこへ九州、山口で立て続けに反政府分子による反乱がおきた。

やむ終えず奥羽巡幸は途中で打ち切られたのであろう。

そして翌年刀と禄を奪われた薩摩の武士たちに担がれて、元近衛の大将であり陸軍大将だった西郷隆盛が天皇に対して戦争を始めた。
易姓革命のことを西郷は知っていたのだろうか。

天皇が2度目に有壁を訪れたのが明治14年である。

西郷の反乱は、明治新政府に対して「天皇による奥羽制圧旅行」(御巡幸)再開を4年近く思いとどまらせるだけの大きなショックを与えたのである。

旧街道の風情~奥州街道(4-180) [奥州街道日記]

TS393337.jpgTS393337昔の街道の風情
TS393338.jpgTS393338大きな屋敷
TS393339.jpgTS393339大きな屋敷の前に黒松(本陣か?)

木造の家屋には江戸時代の名残が見える。
旧街道の光景である。

やがて大きな屋敷が見えてきた。
その屋敷の道路向かいに黒松が一本立っていた。

あれが旧有壁本陣屋敷ではないだろうか。

醸造所~奥州街道(4-179) [奥州街道日記]

TS393334.jpgTS393334有壁駅から旧街道を見る(遠くを左右に横切る道が旧街道)
TS393335.jpgTS393335宮城県道187号線
TS393336.jpgTS393336酒屋のレンガ煙突

有壁駅を出て、その先にある旧奥州街道に戻る。
雨は小降りになっていた。

旧街道は現在は県道187号線という。

左手にビールや酒の1ダースケースが並ぶ。
その先に赤いレンガ造りの細い煙突が見える、
酒の醸造所である。

屋敷も大きく、奥行きも深い。
江戸時代もこうして酒を造っていたのであろう。


有壁駅~奥州街道(4-178) [奥州街道日記]

TS393329.jpgTS393329JR有壁駅
TS393330.jpgTS393330トイレがある
TS393332.jpgTS393332無人駅
TS393333.jpgTS393333待合室と私のリュック

小雨が降ってきた。
右に曲がってすぐのところに駅がある。

宮城県栗原市金成有壁上原前である。
ここも金成(かんなり)地区である。

東日本旅客鉄道(JR東日本)の東北本線の有壁駅である
待合室で小休止することにした。

「乗車証明書発行機により乗車証明書を持参の上乗車ください。」と案内板がある。
小さな待合室はあるが、無人駅である。

待合室にリュックを置いたまま、外にあるトイレへ向かう。

朝のお通じの時間にぴったり合ったようだ。

私がしばらくトイレに消えている間、有壁駅は置き去りにされたリュックだけの無人駅に戻っていた。
その光景を見たものはいない。


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