つくもの神々~奥州街道(4-164) [奥州街道日記]

TS393278.jpgTS393278金成町津久毛
TS393279.jpgTS393279つくもの神々が住む稲田
TS393280.jpgTS393280陸橋を渡り旧道へ

沢辺氏役所前で「安重根記念碑」の案内板を見たときは「たかが安重根」という認識だった。

調べてみると実に多くの事実が出てきて「されど安重根」という気分になっている。

国道4号線から左手に旧道が分かれている。

陸橋を渡って旧道へと向かう。

陸橋の上から金成津久毛(つくも)の豊かな稲田が見渡せる。

「つくも」という音は「九十九」という漢字にも当てられることがある。

『九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。

したがって、その分布は紀伊路・中辺路の沿道に限られる。
中略。

なお、「九十九王子」の読み方には、「きゅうじゅうきゅうおうじ」(主に大阪地方)、「つくもおうじ」といった読み方もあるが、熊野地方で一般的なのは「くじゅうくおうじ」であり、本記事もそれに従っている。』
(九十九王子(Wikipedia)より)

私には「つくも」の音は「いずも」を連想させてくれるように感じる。
調べてみると大和朝廷成立以前の出雲に「つくも(九十九)の神々」がいることがわかった。

「古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家” 著者: 武光誠」より一部抜粋する。
http://books.google.co.jp/

『さらに、出雲では「出雲国風土記」にみえない山川の神々が祀られていた。
「出雲国風土記」に、天武2年(673)に語猪麿(かたりのいまろ)の娘がサメに殺された話がある。

このとき猪麿は、
「天神(あまつかみ)千五百万はしら、地神(くにつかみ)千五百万はしら、ならびに当国にしずまります三百九十九社、また海若(わたつみ)たち」に娘の仇を討ってくれるように祈ったとある。』(抜粋終わり)

神は天と地と海とこの国にいるということだ。

この国とは出雲の国である。

九十九(つくも)とは、「神々が沢山いる」という意味であろう。

その後出雲国は大和朝廷の支配下に組み込まれた。
八百万(やおよろず)の神々という言い方がされるようになる。

出雲国にいたのは、1500万+1500万+399+1=3000万400の神々だった。
大和朝廷政権になってからは、神々は800万にリストラされているようだ。

さびしい思いをしていた神々が出雲地方には沢山いたことだろう。

神在月(かみありづき)を1年に一回だけ出雲に許したのは、寂しさを紛らわすためだったのかもしれない。

その月は大和朝廷側は「神無月(かんなづき)」となる。

『旧暦十月は、全国の神々が出雲に集まり不在になることから”神無月“と呼ばれる。

その理由はよく分からないが、北は下北半島から南は鹿児島県の戸からトカラ列島に至る地域で、十月には神様が出雲へ集まるという伝承が残されているのである。

従って出雲では十月は神在月となる。

この間、朝山神社(出雲市)、神魂神社(松江市)、出雲大社(大社町)、佐太神社(鹿島町)、万九千神社(斐川町)、多賀神社(松江市)などでは、全国から集まった八百万の神を送迎するため、神在祭と呼ばれる様々な神事をとりおこなう。

その始まりは、旧暦十月十日の夜七時。
神々はいずれも海から来るため、出雲大社では”国譲りの聖地“稲佐の浜に斎揚を特設し、多くの信者や神宮が神々の依代(神々の現われる場所・もの)となる榊の大枝を立てて出迎える。そして、出雲大社本殿の両脇にある十九社に入る。

この神事を神迎祭という。その後、十九社に宿を取った神々は、神在祭の七日間を過ごす。

この期間を出雲の人たちは”お忌みさん“と呼び、歌舞音曲を慎むばかりか、大声を出したり、社殿の近くで話をしたりすることを遠慮するのが習わしだった。

神社の周辺は、たくさんの神々が集う神聖な場所だから、その清浄さを汚すことがあってはならないというわけだ。

こうして行なわれた出雲大社の神在祭は、十月十七日の一回日の「神等去出祭」の神事と、十月二十六日の二回目の「神等去出祭」の神事をもって終わりを告げる。』
(「出雲神話の世界」より)
http://www.tokusen.info/kankou/bunka/sinwa/

「この期間を出雲の人たちは”お忌みさん“と呼ぶ」という下りには死者を弔う雰囲気が漂う。

大和朝廷軍によって殺された豪族たち(=神々)の慰霊祭の意味があるのではないだろうか。

殺された神々の霊まで大和朝廷に連れ去られたということを暗示している。

しかし、年に一度だけ里帰りさせるという約束だけは今でも守っている。

安重根は熱心な読書家?? [奥州街道日記]

安重根の遺墨「一日不讀書 口中生荊棘」の意味を解説した記事があった。

『死刑が分かっていても安重根は獄中でたくさん本を読み、そして、乞われてたくさんの書をかいたそうです。

この語を韓国語で解説した文が韓国のサイトにありました。
일일부독서 구중생형극(一日不讀書 口中生荊棘)
하루 책을 읽지 않으면 입 속에 가시가 돋친다는 뜻으로 하루라도 독서를 하지 아니하면 수양이 되지 않아 좋지 않은 말을 하게 된다는 말.

一日本を読まなければ口の中にとげができるという意味で、一日でも読書をしなければ修養にならず良くないことを言うようになるという言葉。

안의사의 독창성이 돋보이는 명구로 실천운동에 참여하면서도 학문을 게을리해서는 안된다는 경구라 할 수 있다.
安義士の独創性が引き立つ名句で、実践運動に参加しながらも学問を怠ってはいけないという警句だと言える。』
(「隣の国の言葉にこがれて」より)
http://syoujiten.exblog.jp/2042408/

この説明では一日も聖書を読むことを辞めてはいけないという重要な「意味」が欠落していることになる。

熱心なキリスト者による政治テロリストあるいは義士というニュアンスは完全に消えてしまっている。

日韓併合を早めさせた安重根の行動 [奥州街道日記]

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ryouhann「碁を打つ両班の男性(1904年) 」(両班(Wikipedia)より引用)


NHKスペシャルのプロジェクトJAPANシリーズ「日本と朝鮮半島 第1回 韓国併合への道 伊藤博文とアン・ジュングン」という番組で井沢元彦氏の事件評価が紹介されていたという。

残念ながら私は見逃していた。

いま井沢元彦氏の書いた「逆説の日本史」(小学館文庫)シリーズの12巻まで読み進んできたところである。
私の歴史観を大きく変えてくれるこの本の愛読者になっている。

その井沢氏の安重根評価は、逆説の日本史のところどころで読んだ記憶があるので大体の想像はできる。

それを調べた人がいるので、その記事を抜粋してみる。

『以前読んだ「やっかいな隣人 韓国」呉善花・井沢元彦著(祥伝社)でも同じことを言っていたと思っていたのでwebで探してみた。(引用元)

<井沢元彦:朝鮮が独立できたのは、日本の伊藤博文のおかげだ。

しかし、伊藤博文は、韓国人暗殺者・安重根に暗殺された。
その安重根が、英雄になった。

韓国では安重根は〔日韓〕併合を阻止するために伊藤博文を殺したと信じている。

しかし、伊藤が暗殺されてから併合の気運は高まった。>[『やっかいな隣人 韓国』呉善花・井沢元彦著(祥伝社)]

<呉善花:伊藤博文は、韓国を日本に併合することには反対でした。
日本の保護下に置いて力をつけさせ、それから独立させるのがよいと考えていたのです。

一方、日本の軍部にはこれに反対する意見が強くあった。

保護国化でいくのがよいのか、併合したほうがよいのか。

二つの考え方が日本にあって、保護国化論者の中心が伊藤博文だったのです。
安重根はそういう状勢の中で伊藤博文を暗殺しました。

あまりにも見当違いの行動だと言わざるを得ない。

〔韓国の〕教科書はそういうことを隠して、安重根が伊藤博文を殺したのは、伊藤が日本を併合しようとしたからだと仕向けている。>[前掲載書]』

(「伊藤博文と安重根」より)
http://toast.exblog.jp/m2010-04-01/

井沢氏は逆説の日本史の中で、歴史を間違ってみることを常に厳しく戒めている。
日本のみならず、韓国の歴史家や韓国国民へも同じことを主張している。

中国に長い間隷属していた朝鮮は、中華思想、つまり中国以外は文化的に劣る僻地の国だと見下げる思想に取り付かれていた。

そういう視点で外国との間の外交問題や事件を眺めると、大事な事実を読み間違うことになると。

日本人にも手厳しいが、その姿勢は隣国の友人たちと接しても変わらない。

「嘘」をあたかも歴史的事実であるかのように政府や国民が主張することの危険性を訴えているのである。

嘘で固めた平和などいずれ崩壊するということを歴史は教えてくれているからだ。

そういう井沢史観で安重根の伊藤博文暗殺事件を理解すると上記のような意見になる。

当然抗日思想で固まった韓国人からの一方的な批判を予想してか、韓国人らしき人物呉善花氏による事件の見方も添えている。

井沢氏の主張はこうである。

安重根は日韓併合を阻止するために伊藤博文を殺したと信じられているが、事実はまったく逆である。
安重根が伊藤博文を殺したために、日本国内では日韓併合を推進する派閥の意見が強くなってしまい日韓併合を実現させてしまった。

私には本当のことはわからないが、今愛読している作家の意見はすんなりと腹の中に入ってしまう。

井沢氏に私が洗脳されてしまっているからなのか、あるいは井沢氏の主張に論理的整然性を認めてしまうのか、私にはわからない。

もし、日本のどこか、ひょっとしてクリハラ村に安重根の遺骨が慰霊されていると仮定すれば、そうであれば安は当時の日本国家(日本帝国)のために命を捧げたものだという解釈が成り立つだろう。


100年が経過した現在でもなお、韓国のほとんどの人が必死になって安重根の遺骨を捜している。
韓国大統領も必死に探している。

『安はまた自分が軍人扱いの「捕虜」として銃殺刑に処せられることを望んだが、犯罪者として絞首刑に処せられることとなった。

死刑執行の当日、安重根は世話になった日本人看守の千葉十七に、「先日あなたから頼まれた一筆を書きましょう」と告げ、「為国献身軍人本分」と書いて、署名し薬指を切断した左手の墨形を刻印した。

そして彼は、「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったという。

1910年3月26日、安は旅順刑務所内にて処刑された。
伊藤が絶命してからちょうど5か月後であった。

安重根の死から更に5か月後の1910年8月22日、日韓併合により大韓帝国は滅亡した。』(安重根(Wikipedia)より)

安は軍人として「日本の捕虜」となること、それにより銃殺刑となることを希望していた。
当時の日本側はその希望は認めなかった。

大罪人として絞首刑に処した。

また、安は「東洋の平和と韓日の友好」を願っていた。
当時の日本政府や陸軍首脳の夢も、形の上では安の夢と同じものを公言していただろう。

昭和の時代に「五族協和」や「王道楽土」「八紘一宇」などの標語に表されるアジア統合思想である。
看守の千葉十七に頼まれて書いた遺墨は、200あるうちでももっとも最後に書いた書であろう。

しかもそれに断指した薬指の傷口の痕(あと)を刻印して渡している。
安が日本人に渡した「一種の遺言」といってもいいかもしれない。

その遺墨は「為国献身軍人本分」である。

安がキリスト教徒であることの思いなどは微塵も表現していない。
千葉十七がキリシタンだったかどうかはわからない。

千葉十七が育った金成村にロシア正教会が当時あったことは事実である。

「国のために身を捧げることは軍人としての当然の役割である。」という意味の言葉をなぜ日本人千葉氏に向かって書いたのか?
これが重要な点であろう。

これは、断指の痕(あと)を墨書に刻印するほど真剣な安の意思表現なのである。

「国」が韓国自身を指すのであれば、こんな言葉を聞いて千葉十七が感動するはずもない。
安は当時の日本国総理大臣を射殺した韓国人なのである。

では、安のいう「国」が「日韓併合後の国」を指すとすれば、どうだろうか。
なるべく早く日韓を併合してもらい、広大なアジア全体を支配する世の中に早くしてもらいたいと願っていることだろう。

それは欧米列強による植民地政策に対する「アジア独立のためのその合同防衛」を意味する。

その場合の安の言う「国」とは、千葉十七が重い描く「国」と姿が重なるはずだ。

「為国献身軍人本分」は、同志の千葉十七に向かって「同志として当然のことをしたまでです。」というニュアンスになるだろう。
そうであれば、千葉十七は自分たちの身代わりとなって安が政治テロを実行したのだと感動したことだろう。

千葉十七のその後の行動を見れば、安のいう国が韓国のことではないことは明らかであろう。
そんな顕彰碑の存在を過激な思想の日本人たちが許すはずはない。

栗原村に顕彰碑文とともに石碑が実在していることは、村の一部の人々、とりわけ権力中枢にいた人々には安が行ったことへの暖かい理解が存在していたことを客観的に物語っている。

キリスト教信者として神のご意思に沿って行ったテロという場合も、金成教会のある栗原村では顕彰されることだろう。
安が信心深いキリスト者であったことは間違いないが、千葉十七がキリスト者であったか、あるいは旅順監獄で信者となったのかは不明である。

その可能性も十分あると思っている。
日本でもっとも早い時期にロシア正教会が誕生した金成地区の人間が、たまたま旅順監獄に勤務していて、たまたま安の管理を担当したといういくつもの偶然を認めがたいからである。
偶然の重なることがあることは認めるが、国家非常に関わる重要な問題に偶然が重なることにやや奇異な思いを抱いている。

安は黄海道都・海州の両班(りょうはん)の家に生まれている。
大韓民国では「ヤンバン」と読み、朝鮮民主主義人民共和国では「リャンバン」と読む。

文武両班という意味があるようだ。
李氏朝鮮時代のキャリア組エリート官僚である。

『兩班は、高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った身分階級のこと。
士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。

なお、朝鮮半島の身分制度は韓国併合後に廃止された。

李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常人)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。
現在の韓国においても李氏朝鮮の両班のように志操の高い精神構造を両班精神、両班意識などと呼んだりする。

しかし、高麗時代に両班が作られた時は身分階級ではなく官僚制度を指す言葉だった。

時代が下るにつれ両班の数は増加し、李氏朝鮮末期には自称を含め朝鮮半島の人々の相当多数が戸籍上両班となっていた。
現在の韓国人の大多数が両班の血を引くと自称しているが、族譜を見れば大体分かる。』(両班(Wikipedia)より)


日本でも我が家は貴族の藤原氏の末裔であるとか、源氏の末裔であると詐称する人は多い。
明治時代の朝鮮半島に、どれほどわが屋は昔「両班」だったと自称する人々がいたのだろうか。

遺伝子が極めて近い日韓民族であるから、詐称する人は多かっただろう。

安も「両班」の家に生まれたという。

それが事実だとすれば、伊藤博文の暗殺、その後に起きた日韓併合によって朝鮮半島の身分制度は廃止された。
安は自らの過去の栄光をも消したことになる。

金成正教会を建立した酒井篤礼 [奥州街道日記]

『酒井篤礼、川股篤礼(1835年~1882年)は現在の宮城県栗原市出身の医師である。
まだキリスト教禁制下の1868(明治元)年、沢辺らとともにニコライより聖洗機密を受けて、日本ハリストス正教会初の信者(ハリスチャニン=クリスチャン)となった。

聖名(洗礼名)はイオアン(ヨハネ)。

のちに妻と子も洗礼を受けた。

翌年、郷里の金成で布教をしていて捕縛を受け、2年間を獄舎で送る。

1875年、函館正教会にて沢辺とともにカムチャツカのパウェル大主教より按手礼(神品機密)を受け、輔祭(沢辺は司祭)に日本人として初めて叙聖され、後には司祭に叙聖された。

再び金成に戻り、仮会堂を建て布教活動を続けるも迫害を受け、仮会堂を破壊されるなどの辛酸を嘗めるが、生涯を医業とハリストス正教の伝道に捧げた。
1882(明治14)年3月、46歳で盛岡市にて永眠。』(酒井篤礼(Wikipedia)より)

酒井ヨハネ篤礼は、ここ栗原市出身の医師だった。

なぜ酒井はロシア正教に入信したのだろうか。
それは函館で四民平等の社会を見たからである。

龍馬の従兄弟の沢辺琢磨は函館でアイヌ人と日本人と一緒の席に座られせていた。
その光景はコレハル村のアザマロの末裔たちが、奈良味代以来あこがれていたものであったはずだ。

ここ栗原村は、奈良時代にはコレハル村であった。
蝦夷のリーダーアザマロは大和朝廷に殺された。

長い差別の歴史から抜け出すためにもロシア正教会の指導を受ける必然があったのである。

酒井は代々蝦夷一族の幹部の家系の出身ではないかと思った。

脱藩逃亡したとはいえ、従兄弟の沢辺琢磨が坂本龍馬とまったく音信がなかったとは思えない。

函館での四民平等の社会の姿を書いて送ったことだろう。

坂本龍馬には四民平等、ルソーの民約論の思想的影響があるといわれている。

明治革命が成功し、坂本龍馬が政権中心に座った場合、身分社会が崩壊し武士の利権が失われることに危機感を抱いた大名や重臣たちが攘夷派の中にもいたのではないだろうか。

朝廷や薩摩を坂本龍馬暗殺の下手人にあげる説は、龍馬の説く平等性への恐れから生まれたものであろう。

前島密とプロテスタント系キリスト教の接点 [奥州街道日記]

nikoraido.jpg琢磨が関わったニコライ堂(ニコライ堂(Wikipedia)より)
maejimahisoka.jpg前島密(「前島密(Wikipedia)より)

沢辺琢磨と酒井篤礼は、明治元年に禁教令を冒して日本で最初のロシア正教会の受洗者となった。

千葉十七のいた栗原村(金成)にある金成ハリスト正教会は、酒井篤礼が建てたものである。
信者の増加とともに最初の日本人信者である沢辺琢磨と酒井篤礼の役割は大きくなっていく。

『司祭として
やがて教勢が伸び、日本人神品(聖職者)の必要性が高まってくる。

ニコライは明治8年(1875年)7月に東京で第1回の公会議を招集し、その中で司祭の選立が討議された。

出席議員による選挙で琢磨と酒井、他2名が選ばれたが酒井ら3名は推薦を固辞した。

話し合いの結果、琢磨を司祭候補に、酒井を輔祭候補とすることに決定した。

そして、同年の末に函館の聖堂にてこの日のために来日した東シベリアのパウェル主教の按手によって琢磨は日本人初の司祭に叙聖された(酒井も輔祭に叙聖された)。

わざわざカムチャツカからパウェル主教を招請したのは、当時ニコライはまだ掌院(司祭の位の一つ)であって、主教ではなく、神品機密執行の権能がなかったためである。

はれて司祭となった琢磨は任地や各地の教会で聖体礼儀を司祷し、また洗礼機密を授けて多くのハリスチャニンを育てた。

後に長司祭(ロシア正教会の正式な位階である長司祭(archpriest)とは異なり、主教区内において主教の権限で授与される称号。
今日では「管長」という訳語があてられている)に昇叙された。』(沢辺琢磨(Wikipedia)より)

琢磨の運命は前島密によってコントロールされていたように見える。

多少重複するが、函館に琢磨が渡った経緯を紹介する記事を見つけたので抜粋する。

『信仰に生きる沢辺琢磨

沢辺琢磨に関する最も新しい道内の文献は55年6月に発行された『随想・はこだて散歩』(NHK函館放送局編、みやま書房刊)である。

これはラジオ放送のシリーズ企画であり、53年2月放送の「函館の歴史とギリシャ正教」の中で、函館ハリストス正教会司祭の厨川勇さんが話された内容の一部に登場している。

本稿では、函館側から見た沢辺像ではなく汎日本的を立場から沢辺琢磨をとりあげてみたい。
あわせて厨川司祭が不明とされておられる部分についての解明も試みてみよう。

琢磨は旧名を山本数馬という。
高知県土佐郡潮江村(現高知市)で天保6年に生まれている。
父山本代七の弟は八平と言い、のち歳谷屋坂本へ養子に入って竜馬という傑物を生むことになる。

数馬の母は、武市半平太の妻女富子夫人の叔母に当たる人。

数馬と竜馬は同じ年齢で文句なしのイトコ同士だが、半乎太とは義理の間柄であった。

3人ともに剣の天才である。

安政2年(1855)、数馬は江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵道場へ。たちまち「カラス天狗」の異名をとる。
翌年、竜馬と半平太も江戸へ。

竜馬はこのとき千葉周作の弟定吉が開いていた楠町の千葉道場へ入門している。

安政4年夏、山本数馬は同門の田那村作八と酒を飲んで歩き金時計2個を拾う。
これを田那村の教唆によって、飲み代に代えようとする。

浅草の時計商へ持って行き、現金化しようとするが、すでに手がまわっていて、氏名を聞かれる。
そのとき「拙者は土州藩の山本格馬」であると嘘をついた。

しかし金時計泥棒は土佐の山本ということになってしまう。
江戸放逐、悪ければ切腹もあり得る。

そこで藩の名誉を守るために武市半平太と坂本竜馬は、数馬を逃がすことにした。

これが彼らの永遠の別れとなる。

数馬は事件発生から10日目の8月14日、行方不明になった。

彼はその足で仙台、会津などをまわり新潟へやってくる。
所在なく港で船を眺めているとき、数馬に声をかけるものがあった。

「箱館は文明開化の街です。いま日本で新しいことを学ぶなら箱館しかない。
それに四民平等の街とも聞いています」

どうです行きませんか、と琢磨に声をかけたのは、のち日本の郵便事業の開祖となる前島密である。

このあと数馬の行動は判らないが、安政5年春、再び数馬の名が歴史に現われる。

箱館の丸仙旅館で強盗退治をしたのである。

これに感謝した宿の主が、箱館神明社境内に堀立小屋の道場を作り、数馬に進呈する。

この宮司が沢辺悌之助と言い、後継ぎがいない所から養子話になり、ついに山本数馬は沢辺琢馬として生まれ変わることになる。

神官としての琢磨も型破りであった。

安政の大獄が起きるや、大鳥居に「義援金募集」の貼り紙をし、窮民救済にのり出している。

当時アイヌはシャモの家へ上ることを禁じられていたが、彼らをどんどん座敷へ上げ、一緒に酒を汲み交わしたともいう。

しかし一方で、彼は徹底した摸夷論者であった。

ギリシャ正教の布教に来ていたニコライを、いつかは斬りすててやろうと機会をうかがっている。

以下は昭和11年10月、日本ハリストス正教総務局発行の『大主教ニコライ師事蹟』から引用する。

「…大刀、結髪、頗る殺気を帯び、ニコライ師を訪い、その室に入るやいきなり怒号して、汝は切支丹の邪宗を伝えて、わが国を窺うものであろうかと当たるべからざる勢いであった。
ニコライ師平然として、しからば貴下は、わが伝える宗門の教義を知らるるかと反問した。しらんと武士は答えた」

ここに武士として描かれているのが沢辺琢磨である。

2日目も琢磨は撲りこみをかけた。
ニコライは話す。

3日目の昼すぎ、琢嵐はニコライの話すことを筆記するようになる。

こうして琢磨は、ギリシャ正教の教義に感化されて行く。
慶応元年(1865)のことであった。

この前の年、富士屋卯之吉に手引きをさせて新島襄を密出国させたのも琢磨のシナリオである。

明治8年春、琢磨は司祭になった。

そうして、日本での伝道には東京に本部を置かなければいけないとニコライ師に説く。
土地の手配や宮大工などの人集めにかけ回り、神田駿河台に威観ニコライ堂が聳えたったのは、明治24年2月のことであった。

以下略。』(「2人の土佐人について」より)
http://www.geocities.jp/alfa323japan/jiyuu.html

新潟港で浪人侍の琢磨に「函館へいかないか」と声をかけた人物は、前島密(ひそか)である。
なにやら港湾の日雇い労働者募集活動のような光景である。

前島は幕臣だったようだが、キリスト者であるかどうかは私は知らない。
学術用語にいう「カクレキリシタン」であれば、その証拠は残していないだろうから永遠にわからない。

しかし、キリスト教の宣教師から英語を学んでいるから、キリスト者との人脈は持っていたはずだ。

『ウィリアムズ、C.M.主教は、日本聖公会初代の主教で、安政6年(1859)6月末、長崎に渡来した宣教師である。
英学教育を通して日本人に接触を試みるなど積極的な教育&伝道を行った。

当時の生徒に前島密、大隈重信らがいる。』(「泉 園子」より)
http://www5e.biglobe.ne.jp/~BCM27946/izumisonoko.html

前島密は1835年2月の生まれだから、英語を習い始めた安政6年(1859)6月のころの前島は、満24歳の青年だった。
多感な青年が日本聖公会初代主教の教えに敏感に反応したことは十分考えられるが、洗礼を受けたかどうかはわからない。

英語を宣教師から習ったことだけは事実である。

歴史上著名な人物である前島の「Wikipedia記事」は恐ろしく事務処理的で簡素な記述になっている。

『天保6年(1835年) - 越後国頸城郡下池部村(現在の新潟県上越市大字下池部)に豪農、上野助右衛門の二男としてうまれる。房五郎と名づけられる。
弘化4年(1847年) - 江戸に出て医学を修め、蘭学・英語を学ぶ。
安政5年(1858年) - 航海術を学ぶため函館へ赴く。名を巻退蔵と改める。
安政6年(1859年) - 武田斐三郎の諸術調所に入る。
慶応元年(1865年) - 薩摩藩の洋学校(開成所)の蘭学講師となる。
慶応2年(1866年) - 幕臣前島家の養子となり、家督を継いで前島来輔と名乗る。漢字御廃止之議を将軍徳川慶喜に提出。 越後国頸城郡下池部村の豪農、上野助右衛門の二男としてうまれている。』(前島密(Wikipedia)より)

この郵便事業の創始者に関する不可思議なWiikipedia記事の様相は、現在でもなお不可思議な動きを見せる郵政事業の政治的な怪しさと連動しているようで面白い。

青年前島は、安政5年(1858年) に 航海術を学ぶために函館へ赴き、そこで日本聖公会初代の主教ウィリアムズ、C.M.から英語を学んだのである。

Wikipedia記事にはこのように「ときどき意図的に事実を秘匿しようとして簡潔記載する癖」がある。

先ほどの安重根の記事でも、辞世の句ともいえる次の遺墨の解説が極めて不親切であった。
私は先の記事にこう書いた。

『「安重根(Wikipedia)」の記事には、彼の辞世の句とも言える漢文がさらりとこう書かれていた。

『"一日不讀書口中生荊棘" 安重根が獄中で書いた遺墨の一つ。』』

このいい加減さというか、情報操作の痕跡を発見した私は、この遺墨の意味の調査に熱を上げた。
それはこれまで数件の記事に書いたものだった。

結果的に安重根は19歳で洗礼を受けた類まれなほど熱心なキリスト教徒だということがこの遺墨からわかった。
わかる人にはわかるように書いてあったのだ。

安重根の獄中の読書の対象が聖書であることを知っている人にとっては、この漢詩の意味は説明するまでもないほど明瞭なものであったのだ。
しかし、一般庶民は何のことやらわからないような説明で終わっていた。

前島密の来歴を語るはずのWikipedia記事を見て、そのときと同じようなアドレナリンが私の体内に沸いてきた。
意図的な情報加工や隠ぺい工作を感じると、殊更(ことさら)に調査意欲が掻き立てられる。

情報があふれアクセスが容易になった現代社会では、このような「意図的な情報隠蔽」は情報戦略の失敗となるであろう。

前島が函館で親密になった日本聖公会初代主教の属する「日本聖公会」とは一体なんだろうか。
同じキリスト教ではあるが、ロシアの正教会とは異なるものである。

『聖公会(せいこうかい、Anglicanism, Anglican Church)は、イングランド国教会 (Church of England) の国教派から始まる、監督制を認めるキリスト教の教派。

いくつかの国では監督派教会 (Episcopal Church) として知られるが、これはスコットランドがほぼ長老派になったときにそこの国教派がそう呼ばれ(Scottish Episcopal Church)、またアメリカ独立戦争のときに国教派との関係が断たれて聖職按手などをスコットランドの国教派との協力で行なったので米国聖公会がそう呼ばれるようになったからであり、実際は聖公会の他にもルター派やメソジストなどの監督制の教会が存在する。

スコットランドでそのように呼ばれるようになった所以は、清教徒革命のときに国教会派側と対立した長老派と組合派に対するものと思われる。

聖公会には、典礼の形式を重んじるハイ・チャーチ (High church)系、福音的なロウ・チャーチ (Low church) 系、中道をゆく教会などがあるといわれるが、これは正式の教会組織ではなくて、いずれも同じ主教の監督下で運営されていて、もともと聖公会はプロテスタントの多くの宗派を生み出した母体で、さまざまな考えの人々を許容・包含している。

教条として1563年に制定された英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)を認めている。(聖公会の日本での組織である日本聖公会においては、批准されていない。)

聖公会系の教会は、大英帝国の植民地の拡張に伴い、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ等で信者を増やしていった。現在ではイギリス国外における信者の人数が、国内の信者の人数を上回っており、その大部分はアフリカとアメリカの黒人で占められる。国外における著名な高位聖職者としては、南アフリカのデズモンド・ツツ大主教が挙げられる。国外の各組織は、アングリカン・コミュニオン参照。

古カトリック派・マラバル教会などと完全相互聖餐関係にある。

世界の聖公会の主教が10年ごとに集まり、意見を交換する会議は、ランベス会議として知られている。』

難しいことがたくさん書いてあるが、どうやらプロテスタント系のキリスト教であるようだ。

イングランドではカトリックとプロテスタントは長い間互いに殺しあっていた仲である。

坂本龍馬が長州藩向けの武器や軍艦を薩摩藩名義で調達した英国人商人グラバーは、カトリック教会の隣に住んでいた。
長崎はカトリックが支配していたのであろう。

しかし、函館はロシア正教会とプロテスタント系の日本聖公会が縄張りにしていたようだ。

薩長と幕府の対立は、それらに軍事支援をしていた国々同士の対立でもあった。

薩長は英国の支援を受け、幕府はフランスの支援を受けていた。

長崎は幕府直轄ではあるが、実質的には隣の薩摩藩(英国支援)の勢力下にある。
函館は幕府(フランス支援)の勢力下にある。

どうやら宗教は軍事戦略と一体で結びついているようである。
「日本でそうなっていないのは織田信長のおかげである」と井沢元彦氏は説いている。

日本でも延暦寺、高野山、大阪の石山本願寺の一向宗(真宗)など強大な僧兵軍団を抱える宗教大名のような存在を信長は次々に壊していった。
宗教と政治・軍事を切り離し、信仰だけを許すことにしたのである。

しかし、世界史にはまだ信長のような救世主は生まれていなかった。
相変わらず政治・軍事と宗教は表裏一体となって海外侵略を行っていた。

後に幕臣になった前島密が、函館の日本聖公会の宣教師から英語を学んだのは当然の結果ということになろう。

カトリックの大浦天主堂とグラバー園は敷地に境がないように見えるそうだ。
ほとんど一体となって立地している。

旅行者の楽しげなブログ記事を抜粋する。

『大浦天主堂とグラバー園って隣り合ってるんですね。
まぁ、長崎自体が小さな街なので観光スポットもコンパクトにまとまっていますね。

その脇にあったんだけど「ボウリング日本発祥の地」らしいです。
しかしこの石碑…「ボーリング」を「ボウリング」に書き直している(笑) ボーリングだと地質調査だからねぇ。
でも、東京の「レインボーブリッジ」は「レインボウ」じゃなくて「レインボー」なんよね。納得いかないけど…。

大浦天主堂
結局、長崎は「中国」と「オランダ」の切り口があるわけですが、それが混在しているわけでもなくてある程度の棲み分けがされているようです。

大浦天主堂 は教会だけあって特にこれという物はないです。
京都や奈良の寺や神社を考えると教会というのは純粋に人が集まるための場所だなと思わせます。

調べてみるとこの教会はカトリック系の教会らしいです。
カトリックであろうとプロテスタントであろうと基本的には「寄り合い所」としての意味合いが強いようです。

しかし、車いすの人はキツい場所ですね。キツいというか不可能に近いかも。

長崎と言えば「オランダ」ですがオランダはプロテスタントなのに、この教会ってフランス系のカトリックなんだなぁ…と思って調べると1863年着工で1864年竣工で、ちょうど明治時代になる数年前です。

つまり江戸幕府が不安定になってオランダも世界的には凋落しており、他の米英仏などの海運国が東洋の派遣を狙って進出したのではないでしょうか。
意外に新しいもので驚きです。

グラバー園
大浦天主堂とグラバー園ってかなりシームレスになっていて入場料を払わなければ行った人もどこからがグラバー園なのかわからないのではないのでしょうか。』(「大浦天主堂とグラバー園」より)
http://takacello.net/blog/2008/0420/4297/

グラバーと親しく商談を交わしたとしても、坂本龍馬がカトリック教徒になったという話は聞いたことがない。
しかし、坂本龍馬についてはフリーメイソン説がある。(フリーメイソン(Wikipedia)記事に書いてある。)

そのフリーメイソンの英仏組織が明治元年に断絶している。
日本維新革命が成立したことが、その後の欧州のアジア政策に大きく影響を及ぼしたのではないだろうか。

外交的には、明治維新戦争は、英国の勝利、フランスの敗北で終わった。

『今日においてなお歴史的評価が難しいのは、イギリスの次にグランド・ロッジが成立したフランスのメーソンリーであろう。

世界史の展開に深く、しかも劇的に関わったという点では、フランスのメーソンたちは、本家イギリスのメーソンをしのぐ。オルレアン公フィリップ、ヴォルテール、ミラボー、ロベスピエール、ラファイエット、モンテスキュー、ディドロ等々、フランス革命の名だたる立役者がフリーメーソンであったことはまぎれもない史実である。

ここで注意を要するのは、1771年(73年という説もある)にフランス・グランド・ロッジから独立する形で創設されたグラントリアン(大東社)である。

日本において公刊されているフリーメーソンリーの研究書は、ほとんどがこのグラントリアンと、イギリスに誕生した「正統」フリーメーソンリーとを並列するか、あるいは曖昧に混同して記述している。

しかし、イギリス系はすでに述べてきたように、教会と王権の支配を相対化したものの、「至高存在」と王政を否定しはしなかった。

それに対し、グラントリアンは実際、急進的な啓蒙主義の影響を受けて、「至高存在」に対する尊崇を排し、無神論的な政治結社になっていく。明らかに両者は、ある時期から別種の思想を報じる別種の団体となっていったのである。

もっとも、英米系と大陸系メーソンリーが混同されがちなのは、仕方がないところもある。

本家のイギリス系メーソンリーが、グラントリアンに対する承認を取り消し、絶縁を宣告したのは、フランス革命勃発から約80年後の1868年のことである。

イギリスとフランスのフリーメーソンが断絶した1868年というのは、明治元年のことです。』
(「白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがい」より)
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/f573ab5d8abeda4a65c225a0510816f2

フリーメイソンは仏教徒でもイスラム教徒でも信仰を持つものなら誰でも入会できる。
しかし私のような「無神論者」は入会できない。

「信じる」という脳のメカニズムが働く人間であれば、その線で「いずれ使える」ということのようだ。
坂本家は確か仏教であって、日蓮宗ではなかったかと思う。

龍馬の生家は、才谷屋の系譜を引く坂本家であった。
商人は日蓮宗を重んじていたからだ。

仏教を信じて入れば、龍馬がフリーメイソンに入会する資格はある。

『武士道とは死ぬこととみつけたり、というだろう。
ごちゃごちゃいってないで、とにかく坐れ、坐って肝(きも)を練れ。

禅宗の気風が武士にあってたんだ。

商人や職人はどんつくどんつくで景気のいい日蓮宗が合っているし、年貢を取り立てられるばかりの農民には、この世は苦しくても、来世は浄土に生まれかわることができるという念仏宗が救いになったんだ』

(「武士は禅宗が多い…農民は浄土宗…商人や職人は日蓮宗」より)
http://blogs.dion.ne.jp/miyanoharanotes/archives/7297651.html

龍馬がフリーメイソンだったかどうかはわからないが、武器購入の手段、つまり嘘も方便として入会した可能性はあるだろう。

会員相互の約束(おそらく世界支配であろう)を守らなかったから竜馬は消されたという可能性も浮かんでくる。

龍馬の実の従兄弟の琢磨は函館で宣教師になった。
琢磨は友人の医師酒井篤礼らを誘ってロシア人宣教師ニコライの指導によって洗礼を受けて、後に日本人宣教師となっていく。

ここ栗原市金成の正教会は、その酒井篤礼が慶応4年(1868)にこの地にやって来たことが始まりであり、明治8年に仮会堂を建てたのが教会の始まりである。

その正教会の近くにある曹洞宗大林寺境内に、熱心なキリスト者として伊藤博文を暗殺した安重根の顕彰碑が建っている。

奥州街道は大いなる歴史の動きをそっと教えてくれる。


最後に前島密の晩年の事跡を紹介しておく。

長野県伊那市坂下にある教会にある扁額のことが紹介されている。

『伊那坂下教会は、伊那市における最初のプロテスタント教会として1884年(明治17年)6月24日に 「伊那美以教会」の名称で10名の信徒によって誕生しました。

中略。

右の写真は、私たちの教会堂の 集会室に掲げられている扁額です が、この書は、わが国における郵便制度の創設者であり、初代の逓 信大臣でもあった、1円切手の肖 像画でお馴染みの前島密氏が、聖書の一節を揮毫されたものです。

教会に残る記録では、明治20年のクリスマス頃に当教会に来ら れて書いていただいたとの事です。』(「日本キリスト教団伊那坂下教会のサイト」より)
http://www.inasakashita-church.com/staticpage50/

前島は、明治19年(1886年)に東京専門学校(現早稲田大学)校長に就任している。
逓信次官になったのは明治21年(1888年) 11月であるから、この伊那坂下教会を訪ねたときは大学の校長だったはずだ。
そして明治21年に官営の電話交換制度を実施している。

聖書の一節を揮毫した扁額の写真がサイトにあるが字が読みとれないが以下に抜き出してみる。


『在上則
栄婦於
神在地
則和平
人沐思
澤○(不明)』

私にはさっぱり意味がわからない。
検索してみたたが、ネットでは解説している記事は見当たらなかった。

知られていない漢文(漢詩)なのであろうか。


実在していた「沢辺琢磨」 [奥州街道日記]

sawabetakuma.jpg坂本龍馬の従兄弟「沢辺琢磨」(沢辺琢磨(Wikipedia)より引用)

先の記事で私はこう書いてしまった。

『(坂本龍馬と沢辺琢磨は)本当の従兄弟だったかどうか?

幕末の侍は偽名を沢山使っていたからだ。

「沢辺琢磨」という名前からしてとても臭う。
龍馬臭さである。

つまり、人を小馬鹿にしたようなユーモアを感じる。

私はさっき「沢辺」市役所前で休憩していて安重根顕彰碑の案内板を発見したのである。
その地名を使ったのだろう。』

書いてしまったものは消せない。

この勝手な思い込みが気になり調べてみると、琢磨は旧姓山本数馬という龍馬の実の従兄弟だった。

父方において龍馬と血がつながっている人物である。

または母方は武市瑞山(半平太)の妻と血でつながっている。
義理の関係になるが武智半平太とも従兄弟の関係になる。

沢辺というここの地名自体が琢磨に由来している可能性さえある。

長くなるが、「パウロ沢辺」の生涯を抜粋する。

『沢辺 琢磨(さわべ たくま、天保5年1月5日(1834年2月13日)~大正2年(1913年)6月25日)は日本ハリストス正教会初の正教徒(ハリスチャニン=クリスチャン)にして最初の日本人司祭である。

聖名(洗礼名)はパウェル(パウロ)。
沢辺姓を名乗る前は山本琢磨。
(*幼名は山本数馬)

生涯 出生から函館まで
天保6年(1835年)、土佐国土佐郡潮江村(現在の高知市)に土佐藩の郷士である山本代七の長男として生まれる。
幼名数馬。

代七の弟・八平は同じ土佐郷士の坂本家に婿養子として入り坂本直足と改名、次男に坂本龍馬をもうけており龍馬とは血縁及び実質上の従兄弟同士である。
また琢磨の母は武市瑞山(半平太)の妻である富子の叔母であった。

武術に優れ江戸に出て三大道場の一つといわれた鏡心明智流の桃井道場でその腕を一層磨き、師範代を務めるまでになる。

ところがある晩、酒を飲んでの帰り道に拾った金時計を酔った勢いで一緒にいた友人と共謀し時計屋に売ってしまい直ちにそれが不法なものであることが発覚して窮地に追い込まれる。

訴追を逃れるために龍馬や半平太の助けを得て江戸を脱出。
東北各地を流れ回った末、新潟にたどり着いたところで出会った前島密に箱館(現・函館市)に行くことを勧められ渡道し函館に落ち着く。

函館・正教の洗礼
函館では持ち前の剣術の腕が功をなし、それがきっかけとなって道場を開くと町の名士たちとも親交を持つようになる。

そんな中で知り合った箱館神明宮(現・山上大神宮)宮司の沢辺悌之助に請われて娘の婿養子となり、以後、沢辺姓を名乗る。

函館時代の琢磨について、新島七五三太(新島襄)が米国へ密航するときの手助けをしたというエピソードが伝わっている。

当時、既に開港していた函館にはロシア帝国の領事館があり附属聖堂の管轄司祭として来日していたロシア正教会のニコライ神父(イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン、後の亜使徒聖ニコライ大主教)は日本宣教の機会を窺いつつ日本の古典文学や歴史を研究していた。

領事館員の中に子弟に日本の武術を学ばせたいという者がいてその指南役となり領事館に出入りするようになった琢磨もニコライを知ることとなったが、攘夷論者だった琢磨はニコライの日本研究に対して日本侵略に向けた情報収集との疑念を抱きニコライをロシアから遣わされた密偵だと思うようになった。

そして殺害をも辞さぬ覚悟でもって大刀を腰に帯びニコライを訪問、来日や日本研究の意図を詰問した。

対するニコライは琢磨の問いに理路整然と答えるとともに、琢磨に対してハリストス正教の教えを知っているかと質問した。

知らぬと答えた琢磨に「ハリストス正教が如何なるものかを知ってから正邪を判断するのでも遅くはなかろう」と諭した。

確かにそれも一理あると考えた琢磨は以後ニコライの下へ日参して教えを学んでいくうちに心服し、後に友人の医師酒井篤礼らをも誘って教理を学んだ。

そして、ついにはまだキリスト教禁制下の慶応4年4月2日(1868年4月24日)、酒井や浦野太蔵とともに秘密裡にニコライより聖洗機密(洗礼)を受け日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)となった。

聖名(洗礼名)は初代教会時代にキリスト教を迫害中、劇的な回心を経験して伝道者となりキリスト教の世界宗教化への道を開いた後に致命した聖使徒パウェル(パウロ)を与えられた。

受洗後も琢磨はしばらくの間、神明社宮司の座に留まっていた。

祭祀の時には祝詞を漢語訳聖書の聖句に置き換えてカムフラージュをしたりもしていたが、やがてハリストス正教に改宗したことを公言し神明社を去る。

禁教下において神道の祭司職が邪教へ改宗したということもあって、琢磨一家に対する迫害は非常に厳しく生活は困窮を極めた。

さらには精神的に参ってしまった妻が自宅に放火をするという事件も起きた。

その後、琢磨は妻子を残して函館を一時脱出し布教しながら東北地方を南下するが途中で捕縛・投獄され、後に釈放されて函館に戻った。
以後の伝道中、仙台にて再び捕縛されるが明治政府によって禁教が解かれると自由の身となり以前にも増して伝道に力を入れた。

司祭として
やがて教勢が伸び、日本人神品(聖職者)の必要性が高まってくる。

ニコライは明治8年(1875年)7月に東京で第1回の公会議を招集し、その中で司祭の選立が討議された。

出席議員による選挙で琢磨と酒井、他2名が選ばれたが酒井ら3名は推薦を固辞した。

話し合いの結果、琢磨を司祭候補に、酒井を輔祭候補とすることに決定した。
そして、同年の末に函館の聖堂にてこの日のために来日した東シベリアのパウェル主教の按手によって琢磨は日本人初の司祭に叙聖された(酒井も輔祭に叙聖された)。

わざわざカムチャツカからパウェル主教を招請したのは、当時ニコライはまだ掌院(司祭の位の一つ)であって、主教ではなく、神品機密執行の権能がなかったためである。

はれて司祭となった琢磨は任地や各地の教会で聖体礼儀を司祷し、また洗礼機密を授けて多くのハリスチャニンを育てた。
後に長司祭(ロシア正教会の正式な位階である長司祭(archpriest)とは異なり、主教区内において主教の権限で授与される称号。
今日では「管長」という訳語があてられている)に昇叙された。

東京復活大聖堂(通称:ニコライ堂)建設に当たっては師のニコライと対立したこともあった。
ニコライ堂建設にあたってニコライと対立したのは、ニコライ堂を建設する資金を困窮する神品・伝教者の生活費に回すべきだとしたためであった。

ニコライと沢辺の関係は一時緊張したものの、後に和解。

1884年3月に起工した後、沢辺は建築中の現場で、宮城(皇居)を見下ろす事に建設を妨害しようとする右翼への対応をした[2]。

建設中途の1889年頃からは尖塔が宮城を見下ろす形になり不敬であるとの言説が流布するという反響があったが[3]、右翼による妨害もその一環であった[2]。

正教によって温和な精神にはなっているが、青壮年時代の武道の精神が容貌に表れた琢磨の姿が建設現場に現れると、右翼はいつの間にか姿を消していたと伝えられている[2]。

一貫して神に奉献する道を歩み、福音宣教に生涯を捧げた。
明治45年(1912年)にニコライ大主教が永眠すると琢磨は師の後を追うように翌大正2年(1913年)6月25日、東京にあった四谷洗礼教会にて長男で司祭のアレキセイ・沢辺悌太郎神父に看取られながら永眠。78歳。

最後の言葉は「聖堂…」であったと沢辺悌太郎により伝えられている(「遺体を聖堂に運べ」という意味であったと悌太郎は解釈した)[4]。

埋葬式はニコライ堂にてセルギイ(チホーミロフ)府主教司祷で盛大に挙行。
青山霊園に埋葬される。』(沢辺琢磨(Wikipedia)より)

カトリックとは異なるキリスト教会派のハリストス正教会について以下に示す。

『日本ハリストス正教会(せいきょうかい)は、キリスト教の教会。

自治独立が認められている正教会所属教会のひとつである。

ハリストスは「キリスト」の意(こうした独自の表記・翻訳については後述する)。英語表記は"Orthodox Church in Japan"である(略号はOCJ)[2]。

通称・略称として日本正教会とも呼ばれる。

1970年以前、自治正教会となっていなかったころにも、日本の正教会は日本人正教徒およびロシア人正教徒から「日本正教会」と呼ばれていた[3]。

正教会は一カ国に一つの教会組織を置くことが原則だが(日本正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉しているわけでは無く、同じ信仰を有している[4]。

正教会の教義や、全正教会に共通する特徴については「正教会」を参照

19世紀後半(明治時代)に、ロシア正教会の修道司祭聖ニコライ(のち初代日本大主教)によって正教の教えがもたらされ、これがその後の日本ハリストス正教会の設立につながった。

聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)、函館の復活聖堂、豊橋の聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は、国の重要文化財。


中略。

だがニコライが個人的な信頼を日本政府内で得ていようと、そして日本正教会が日本政府と協力してロシア人捕虜のケアを行おうと、反露的な機運は日本正教会にも向けられていった。

日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂とその関連施設も暴徒に襲撃されるところであり、あわや火をかけられるところであった。
この時は戒厳令の下に出動した近衛兵の護衛により教会の各施設も難を逃れた。

こうした逆境にもかかわらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあってカトリック教会に次ぐ規模であった。

明治最後の年、1912年に大主教ニコライは永眠、76歳であった。

この時、明治天皇から恩賜の花輪が与えられた。

外国人宣教師の葬儀に際して時の天皇から花輪が与えられるのは異例のことであった。』(日本ハリストス正教会(Wikipedia)より)

「近衛兵の護衛により教会の各施設も難を逃れた」とある。

近衛兵とは天皇の親衛隊である。
藤原家のうち、五摂家だけが摂関政治に関与できるとされるが、その中に近衛家が含まれる。

つまり、明治天皇自ら兵隊を出して正教会を防衛したということだ。

明治維新が一体どういう革命であったのかを暗示しているように私には思われる。

また、坂本龍馬の従兄弟が日本最初のハリストス正教会の日本人司祭であったことも象徴的な出来事である。

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