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秋の気配~奥州街道(4-140) [奥州街道日記]

TS393182.jpgTS393182稲穂の兵馬俑が遠くに見える
TS393180.jpgTS393180秋の気配
TS393183.jpgTS393183実り

稲田の中には、すでに稲刈りを終えた印の「稲穂の兵馬俑」が見える。

すっかり野原はススキで秋の気配に満ちている。

栗の実もすくすくと育っている。

まもなく実りの秋がやってくる。

稲田と休耕田~奥州街道(4-140) [奥州街道日記]

TS393177.jpgTS393177分岐
TS393178.jpgTS393178休耕田
TS393179.jpgTS393179高地のようだ

街道は三叉路分岐に当たった。
地図を見て一関の方向へ向かう。

稲田の中には休耕田も見える。

空が近いので高地を歩いているようである。

懐かしい初対面の風景~奥州街道(4-140) [奥州街道日記]

TS393174.jpgTS393174懐かしい雰囲気の旧街道
TS393175.jpgTS393175赤目の生垣
TS393176.jpgTS393176坂を登る

旧街道に入っていく。
初めて歩く街道であるのに、こういう風景にはなぜか懐かしさを感じる。

私の遺伝子の中にかつて歩いたことのある記憶が残っているだろう。

もっとも先祖が街道を歩いて遺伝子に記憶を刻んだのは奈良時代かも知れないし、江戸時代かも知れない。

緩やかな坂を登っていく。

寺院と私の相性~奥州街道(4-139) [奥州街道日記]

TS393172.jpgTS393172能持寺(再掲)
TS393173.jpgTS393173その境内

能持寺の境内に入って日陰で涼む。
落ち着ける場所はないので、駐車場のアスファルトの上で休んだ。

私の正面には板碑と地蔵が並んでいる。


能持寺(のうじじ)について調べてみた。

『宮城県栗原市にある寺院。
秋田県能代市にある寺院。
埼玉県越谷市にある寺院。 - 能持寺 (越谷市) 』
(能持寺(Wikipedia)より)

3つしかなく、そのうちのひとつが栗原市にあるこの寺である。

越谷にある能持寺は、ここと同じ奥州街道沿いであると言えよう。

『能持寺(のうじじ)
所在地 埼玉県越谷市
山号 是経山
宗旨 日蓮正宗

能持寺(のうじじ)は、埼玉県越谷市に所在する日蓮正宗の寺院。山号は是経山(ぜきょうさん)。』
(能持寺 (越谷市)(Wikipedia)より)

越谷の同名の寺が日蓮正宗であるから、やはりここの寺も日蓮宗寺院のようである。

私の母方祖父は曹洞宗寺院の僧侶だったので、幼い頃より度々遊びにいっていた。
だから街道沿いで出会った曹洞宗寺院では、私は落ち着くことができるようだ。

今までの人生の中で一番落ち着いていられたのは、京都の臨済宗大本山 南禅寺の門前であった。
学生時代にそこを訪ね、夏の昼下がりに門の広い敷居の上で昼寝をしてしまった。

そこはいつもは多くの観光客が通る門であるが、なぜか夏休みのある日の午後だけは人通りがなかった。
盆休みだったのだろうか。

ちょっとの時間だと思うが、私は南禅寺の門の敷居の上で仮眠を取っていたのだった。

九州大分の田舎にある実家に通ってくる生臭坊主に出会うまでは、臨済宗にはとてもよい印象を持っていた。
なんでも金々と老いた母から巻き上げるさもしいその生臭坊主が臨済宗であると知ってから、そのイメージは崩れてしまった。

日蓮宗寺院の境内で感じることは、私自身が疎外されている感じである。

境内にはくつろげる空間はまず見かけない。

シンプルであり、質素であるから、ふらっと訪ねた私のような風来坊の身を置く場所がまったくない。
つまり『落ち着けない』空間にいると感じるのである。

ここ能持寺境内もアスファルト駐車場以外に何も見えない。

本堂の方へは近寄り難いものを感じてしまう。

それよりも、境内に侵入して休息している大きなリュックを背負った不審者である私が罪悪感を感じてしまうのである。
どこかから私の姿を眺めている目を体で感じているのだが、景色にそういうものがあるわけではない。

監視カメラがあったり、望遠鏡で見られているということがあるのではない。

ただ、私の動物としての肉体の五感が、「落ち着きのなさ」を自然に感じているのである。

私の単なる思い込みに過ぎないのだろうl。

汗が引いたのを潮時に、私は日陰になったアスファルトから立ち上がり、境内を去ることにした。


コレハル村にあるシュロ~奥州街道(4-138) [奥州街道日記]

TS393163.jpgTS393163築館留場の民家のシュロの木
TS393169.jpgTS393169街道の面影
TS393171.jpgTS393171人影のない街道
TS393172.jpgTS393172「好珠山 能持寺」

栗原市の築館の街道筋にはシュロの木が見える。
それはアザマロの時代からあったものか、それとも北上してきた大和族が植えたものか。

私はシュロで神を祝うのは古代ユダヤ人の信仰習慣であると思っている。

ユダヤ教の聖典である旧約聖書にはナツメヤシの枝で神を祝えとモーセの教えが書かれているそうだ。

ザビエルの依頼で薩摩のヤジロウが和訳した際に、ナツメヤシをシュロと訳したようである。

ヤジロウはザビエルを日本へ連れてくるために平戸の松浦氏が派遣した倭寇の末裔であろうと推測している。

鉄砲と火薬を扱うポルトガル商人とイエズス会宣教師をセットで日本へ送り込んだのは、松浦水軍であったと推理している。

歴史の上では種子島時堯(ときたか)であるとされているが、日本支配を試みるには島主では小さすぎる。
もっと壮大な日本国支配の構想を持って実施されたプロジェクトであったはずだ。

最近読んだ井沢元彦著「逆説の日本史9」に種子島時堯は鉄砲2丁(3丁説もある)入手後に、紀州根来(ねごろ)の杉之坊こと「津田堅物」と堺の貿易商橘屋又三郎に譲っている。
また種子島時堯は、島の中央寺院日蓮宗慈恩寺を庇護しており、慈恩寺の本山は法華宗本門流の大本山本能寺(京都)であるという。

ザビエルとともに上陸した鉄砲と火薬は、法華宗(日蓮宗)の寺と深い縁をもって全国に拡大しているのである。

本能寺の床下には火薬の原料である硝石が保管されていたというから、本能寺の燃え方は尋常ではなかったはずである。
大爆発を繰り返していた可能性さえある。

ドラマでは火の中で幸若舞を舞う信長を描いているが、現実には目覚めることすら出来なかった可能性があるだろう。

伊治(これはる)村の砦麻呂(あざまろ)は大和族と戦った蝦夷の豪族である。
その住まいであった伊治(これはる)村が今の栗原市である。

その築館宿を通過している。
古街道の面影が道には残されている。
夏の午後だから、人影の見えない街道風景である。

「好珠山 能持寺」境内で休憩することにした。

能持寺は何宗なのだろうか。

直感ではあるが、日蓮宗のような気がする。

あまつかみ~奥州街道(4-137) [奥州街道日記]

TS393164.jpgTS393164一関まで23km
TS393166.jpgTS393166曇りで栗駒山は見えない
TS393167.jpgTS393167「天神宮」の鳥居
TS393168.jpgTS393168あの森が天神宮

一関まであと23kmである。
一日25kmを目標に歩いているから、明日はつくだろう。

今朝築館インターで私を追い抜いた若いおじさんは、本日中に一関に着くと言った。
立ち止まることもなく歩きながらそう言って去っていった。

ああいう元気な人はきっと今夕までに一関宿に着いているのだろう。

私は気ままな街道旅である。
足が痛くなればそこで休み寝る。

それがどこであってもテントを張って寝れるという能力を身に着けている。
だから私は今日中に到着すべき目標を持っていない。

日が暮れたら寝るだけである。

空は曇りだから、交通標識に出てきた栗駒山は見えない。

「天神宮」と書いた赤い大きな鳥居がある。

「天満宮」ならよく見るが「天神宮」という表記は珍しい。
博多に住んでいたときには、天神という繁華街によく遊びにいった。
隣の中州が夜の歓楽街で、天神は昼のお買い物や映画館、大相撲九州場所などの楽しさがある町だった。

鳥居を通り過ぎて、左手奥に見えるあの「森」が天神宮のようである。

「天神さん」とは何か?

『天神(てんじん、あまつかみ)

天の神 [編集]
天にいる神(天空神)のこと。
これにはいくつかの種類がある。

・天津神(あまつかみ)。
日本で天皇や古代の有力豪族の祖先とされる神々。⇔地祇(国津神)。

・天神信仰の対象としての菅原道真のこと。
または、菅原道真を祀る神社(天満宮)のこと。

・天部(Skt:Deva, Devatā)の別訳。

インド由来のバラモン教や地域の民間信仰から仏教に取り込まれ護法善神となった梵天や帝釈天などの天上界の神々。
・天帝。
中国思想での天の神。
万物を主宰する最高神としての帝(みかど)。
また道教では地上の人々の行為を監視し、その善悪の裁きを下す神。

あるいは老子を神格化した老君を天神と同一視する。 』
(天神(Wikipedia)より)

博多の天神は中国思想での天の神であろう。
博多には唐人町(とうじんちょう)という地名の町がある。

中国からの帰化人「唐人」が住むチャイナタウンが昔からあったのである。

奥州薬師瑠璃光如来のそばにあるこの天神宮は、古代の奥州有力豪族の祖先神かも知れない。

天神は語源は「天の神、天津神」であったが、一般には「菅原道真の神号」と考えられている。

もし、天神が古代の豪族祖先神であったとすれば、出雲大国主命が暗殺され(表向きは国を譲ったとされる)、アマテラス族の国家支配が確立した時点で、各地に天神があったはずである。

不遇の末怨念を抱いて死んだ菅原道真を天満宮として祭ったのは怨霊鎮護のためだと言われる。(井沢元彦著『逆説の日本史」の主張を参考)

そのときに、全国の祖先神を菅原道真神に統一していったのかも知れない。

各地に古代日本人の祖先が祭られているということはアマテラス族から見れば面白くない「事実」であったはずだ。

事実をどう消していくかということも国家支配の重要な政(まつりごと)であっただろう。

祖先がたったの一人で、それは天から降りてきたという「天孫降臨」神話は、日本だけでなく東南アジア、中国、朝鮮半島など東アジアに共通する古代信仰の姿である。

そう言うことで、東アジアの古代の人々は素直に指導者に従ったということである。

漁猟・伐採を禁じた留場~奥州街道(4-136) [奥州街道日記]

TS393158.jpgTS393158築館キリスト教会の十字架
TS393161.jpgTS393161築館町「留場」信号
TS393162.jpgTS393162河川敷の畑

駐車場の日陰で休息した。

座ったまま見上げると、「彰光堂印舗」という看板の上に十字架がある。
印鑑と十字架の組み合わせは変である。

よく見ると印鑑屋の家屋の向こう側に教会の建物があって、十字架だけが印鑑屋の上に見えているのだった。

電柱に「築館キリスト教会」と書いてある。

「留場」に川が流れている。
宮城県栗原市築館の「留場」である。

河川輸送で船を留めた場所だろうか。

「とめば(kotobank デジタル大辞泉 )」によれば、
http://kotobank.jp/word/%E7%95%99%E5%A0%B4

『1 江戸時代、一般人の漁猟・伐採を禁じた所。→御留場(おとめば)
2 江戸時代の歌舞伎劇場で、花道の揚げ幕の奥、西の木戸口の脇にあった場内取り締まりの若者の詰め所。また、その若者。

御留場とは
「 一般の狩猟を禁止する場所。江戸時代、将軍の狩猟場をいう。」』

江戸時代の将軍の狩猟場だったようだ。

河川敷は完全に有効利用されており、すべて畑になっている。

テントを張る隙間もない。

隣は薬師神社~奥州街道(4-135) [奥州街道日記]

TS393151.jpgTS393151薬師神社
TS393152.jpgTS393152「奥州杉薬師如来」の看板
TS393157.jpgTS393157築館宿の古い家屋

薬師霊場(双林寺)をでてすぐ近くに薬師神社がある。
その看板に「奥州杉薬師如来」と書いている。

昔はこの一体が薬師瑠璃光如来の山だったのだろう。
寺と神社を分割したのは明治維新革命のときからである。

聖徳太子が「篤く仏法を敬え」と言ってから、この国では神と仏は同じものという和合精神があった。

この国に古代からある「和をもって尊しとなす」考え方だろう。

明治維新は、この国にある意味で「一神教」の精神を導入したこととも言えよう。

日本の風俗は、確かに明治以降大きく変貌を遂げている。
独立した島国文化が、欧米の文化圏にしっかりと組み込まれた感がある。

名高い「奥州杉」を見たいところだが、観光めぐりばかりしているわけにはいかない。

いつもの通り街道筋で歩きながらの片手参拝とし先へ進む。

築館宿に古い民家があった。

何とか頑張って自分の力だけで「残っている」という印象である。
自治体がこういう古くてよいものを保存する活動を広めてほしいものだ。

東京や大阪などの大都市では消滅した建築物なのである。
江戸以前には東京や大阪にもあったはずの建物である。

屋根の鬼瓦と家紋らしい文様が壁にしっかりと残っている。


瑠璃光と松陰~奥州街道(4-134) [奥州街道日記]

TS393147.jpg TS393147 双林寺の座禅堂と曼珠沙華(マンジュシャゲ)

吉田松陰は東北旅行の帰り道、奥州街道を南下した。
もし彼がここ瑠璃殿に立ち寄ったならば、きっと大内義隆のことを思ったに違いない。

薬師霊場の本堂は瑠璃光(るりこう)殿(でん)(あるいは瑠璃殿)と呼ばれている。

「三省堂 大辞林」によれば、「瑠璃光浄土」とは、 『薬師如来の仏国土。東方浄瑠璃世界。』のことであるという。

浄瑠璃という言葉は瑠璃光浄土から来ていたのか!
「東方浄瑠璃」とは、「薬師如来のいる世界。」のことである。

「光」は世界をさすのであろう。
つまり瑠璃光は「薬師のいる世界」となろう。

薬師がいれば病気にはならない。
つまり不老長寿の夢の国であろうか。

今は瑠璃殿は曹洞宗寺院の境内にある。
だから境内には座禅堂があった。
そのお堂の斜面いっぱいに真紅の曼珠沙華が咲いていた。

『ヒガンバナ(彼岸花、学名:Lycoris radiata)は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草。
クロンキスト体系ではユリ科。
リコリス、曼珠沙華(マンジュシャゲ、またはマンジュシャカ サンスクリット語 manjusaka の音写)とも呼ばれる。
学名の種小名 radiata は「放射状」の意味。』(ヒガンバナ(Wikipedia)より)

あまり知られていないが「綺麗な花」には毒があるという通り、彼岸花には毒がある。

『有毒性
全草有毒で、特に鱗茎にアルカロイド(リコリン)を多く含む有毒植物。誤食した場合は吐き気や下痢、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死にいたる。

水田の畦(あぜ)や墓地に多く見られるが、これは前者の場合ネズミ、モグラ、虫など田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避ける(忌避)ように、後者の場合は虫除け及び土葬後、死体が動物によって掘り荒されるのを防ぐため[1]、人手によって植えられたためである。

ただしモグラは肉食のため、ヒガンバナに無縁という見解もあるが、エサのミミズがヒガンバナを嫌って土中に住まない。
そのためにこの草の近くにはモグラが来ないともいう。』(同上)

孝謙天皇が寵愛したのは弓削(ゆげ)道鏡だった。

『生涯独身女帝の男僧への「寵愛」』と書くと、週刊誌の見出しのようになるが、実はそういうことではなかったようだ。

あくまで道鏡の政治能力、国家鎮護の力がすぐれていることを孝謙天皇は買ったのである。

藤原氏が歴代の天皇の側女に藤原家の女性を送り込み、生まれた子を天皇とし藤原氏が外祖父として政治実権を振るう時代に決別しようとしたのである。

つまり、孝謙天皇は律令政治を元の正しい姿に戻したいと願っていたのである。
藤原氏の政治は国家の私物化であり、その結果、国民の生活は疲弊していくのである。

孝謙天皇の病の快癒を祈ってこの薬師霊場を建立したのは、道鏡ではなかったのか?

そう思って調べてみたが直接道鏡とここ奥州薬師霊場との関係を語るものは見出せなかった。

「道鏡ゆかりの地」というサイトにはこの薬師霊場(現在の曹洞宗双林寺)のことは載っていなかった。
http://www18.ocn.ne.jp/~doukyou/shiryou/yukarinoti/yukari.html

称徳天皇(孝謙天皇)に流罪に処せられた道鏡は、それが藤原氏によるたくらみのせいであることは見抜いていたことだろう。

朝廷からの命令で島流しになっている以上、病に伏した孝謙天皇のご回復を祈ることはできなかっただろう。

私は道鏡による病気平癒の祈祷が、都から遠く離れた奥州でひっそりと行われていたと考えたい。

病気を治してくれる「薬師如来」とはどういう仏様であろうか。

『薬師瑠璃光如来・大医王佛などと言い梵語名Bhaioajya‐guru-vaidurya-prabha(バイシャジャ・グル・ブアイドーリャ・プラバ)の意訳である、瑠璃光浄土のguru即ち教主と医者集団のグルとに解釈される。

薬師如来の脇侍として日光菩薩・月光菩薩が随い、さらに十二神将が守護する構成となる、
十二と言う数字は薬師如来のたてた誓願の数に由来するとされる(新薬師寺・東寺 等)、但し薬師如来の脇侍であるが「薬王薬上菩薩経」には二菩薩が脇侍として説かれている、
特に東寺の場合は不空訳の「薬師如来念誦儀軌」に忠実に造像されている。

薬師如来に関する代表的な経典に玄奘訳の「薬師瑠璃光如来本願功徳経」所謂「薬師経」と義浄訳(注9)の「薬師瑠璃光七佛本願功徳経」すなわち「七仏薬師経」等がある、

阿弥陀如来の四八と同様に菩薩時代に本誓(ほんぜい)すなわち十二の誓願をたてる事により如来となった。

その他薬師如来関連の漢訳経典は「灌頂経第十二抜除過罪生死得度経」・7世紀頃に達磨笈多(ぐつだ)訳の「薬師如来本願経」・8世紀義浄訳「薬師瑠璃光七仏本願経」の等がある、

近年5世紀頃と推定される梵語の写本も発見された、

また密教と関連付けされる経典に「薬師七仏供養儀軌如意王経」「薬師瑠璃光如来消災除難念誦儀軌」が言われている。

薬師如来の供養法として続命法が行われており薬師如来を信仰する衆生を十二神将が守護すると言われている、

最澄に薬師信仰に篤かった事から台密に於いては阿閦如来と同尊とする思考も見られるが無理が考えられる。

インドに於ける古代信仰に長寿・投薬を司る神々の信仰から派生したとされる、

また初期仏教に於いて仏陀を医王と呼称されたとの言われる、供養の代表とも言える四事供養(注3)に「湯薬」がありインドに於いても信仰は確認されている。

薬師如来の特徴は大乗仏教を更にデフルメした如来であり、深遠な哲学の探究は無く物的欲望を満たす仏である

、即ちご利益が直接的・具体的であると言うことである、

十二の大願を取り上げてみると・光明普照(浄瑠璃浄土で仏に成れる)・除病安楽(病を治す)・安立大乗(解脱に導く)・諸根具足(障害者を治す)・苦悩解脱(悩みを取り除く)・飽食安楽・美衣満足・施無尽仏・安心正見など至れり尽せりで他の如来のような精神的・哲学的なご利益などでは無く非常に実利的かつ菩薩的なご利益である、

また神仏融合の先駆け的如来でもある。』(「薬師如来」より) 
http://www10.ocn.ne.jp/~mk123456/yakun.htm

山口県に曹洞宗保寧山「瑠璃光寺 (るりこうじ)」という寺があり、五重の塔で有名である。

『この兵乱(著者注:陶晴賢の反乱)で、弘世以来二百余年のこの小京都は火のなかでほろんだ。
いまは大内文化の遺構というのは、ほとんどない。
わずかにいまからゆく瑠璃光寺の五重塔ぐらいのものであろうか。
中略。

応永の乱で討伐された大内義弘(1356~99年)の霊を祀るために弟の大内盛見(もりはる)が嘉吉2年(1442年)に建立した。』(「瑠璃光寺 山口」より)
http://www1.odn.ne.jp/~vivace/rurikoji/rurikoji.htm

大内氏最盛期の頃、京都の朝廷は荒れ果てていた。

鹿児島に上陸したザビエルは、当時の最大都市山口へと布教に向かったのである。

その頃の名残を山口の瑠璃光寺は持つという。

同じサイトには、大内氏とザビエルの関係を詳しく解説していた。
長くなるがこのブログの本質的なテーマである吉田松陰につながるので抜粋する。

『フランシスコ・デ・サビエルと山口

フランシスコ・デ・サビエル(Francisco de Xavier:1506~1552)はナバラ王国サビエル城で生まれた。

天文10年(1541年)、イエズス会宣教師としてキリスト教布教のために出発、途中インドのゴアを経て日本に到着したのは天文18年(1549年)8月15日のことである。

サビエルは日本人は礼儀正しく知識欲も旺盛な人種としてかねてより高く評価しており、イスラム教やユダヤ教の流布していない新天地で神の国の樹立を目指したのであった。

鹿児島到着後、日本での布教の許可を得るために京へのぼることを意図していたサビエル一行は、天文19年(1550年)10月、日本語を理解できるようになったフェルナンデス修道士と鹿児島で受洗したベルナルドを伴って鹿児島を出立し、都へと向かった。


瑠璃光寺
大内氏と大内文化
雪舟と周防
フランシスコ デ サビエル

山口を訪れたのは天文19年(1550年)11月のことである。
ヨーロッパ人宣教師の目に当時の日本は、神聖ローマ帝国を頂点とするヨーロッパと類似している様相を呈していると移ったようである。

京の都には日本を統一する天皇がいるが中央政府には求心力が無く、力ある地方大名が地域を分割して統治し、その勢力圏を拡大するために絶えざる戦いを繰り返している・・・
全くヨーロッパと同じではないかと宣教師達は判断し、島津氏を薩摩の王、大友氏を豊後の王、大内義隆を山口の王と見なした。


豪華な築山御殿を中心に武家屋敷、町人・商人の家並みが整然と並ぶ「西の京」山口には一万世帯が居住していたと伝えられる。

しかし山口には既に頽廃の兆しが濃く、政治・軍事から手をひいた義隆は詩歌・管弦・快楽に溺れ、一般にも道徳の乱れが顕著で、サビエルや随行者達を唖然とさせた。

サビエルが訪れた頃の山口をルイス・フロイスは次のように述べている。

・・・数日にわたる困難な旅行を終えて、彼らは、周防国の主都で、きわめて人口の多い、富貴な町山口に着いた。その町の王は大内殿といって、当時日本の最も有力な王であり、その侍臣や御殿の豪華さや経費はすべての他の殿にまさるものがあり、その放恣(ほうし)な振舞いと奔放な邪欲とに耽っているうえに、彼は自然に反するかの恥ずべき罪にも身をやつしていた。・・・
ルイス・フロイス「日本史」

到着した山口の様子はサビエルの書簡から推し量ることも出来る。

・・・ファン・フェルナンデス、(鹿児島で信者になったベルナルド)と私とは日本(で最強)の領主(大内義隆)がいる山口と呼ばれる地に行きました。
この町には1万人以上の人びとが住み、家はすべて木造です。
この町では武士やそれ以外の人々多数が私たちの説教する教えがどんな内容のものか、知りたがっていました。
・・・・・中略・・・・・

このようにして私たちが家いえに(招かれたり)街頭に立って説教して宣教する幾日かが過ぎた後、その町に住んでいる山口の領主は、私たちを招くように命令され、種々さまざまなことをお尋ねになりました。

どこから来たのか、どのようなわけで日本に来たのか、などと尋ねられました。

私たちは神の教えを説くために日本に派遣されたもので、神を礼拝し、全人類の救い主なるイエズス・キリストを信じなければ誰も救われる術はないと答えました。

領主は神の教えを説明するように命じられましたので、私達は(信仰箇条の)説明書の大部分を読みました。
読んでいたのは1時間以上にも及びましたが、そのあいだ、領主はきわめて注意深く聞いておられました。

その後私達は(御前を退出し)領主は私達を見送って下さいました。

私達はこの町に幾日も逗留して、街頭や家の中で説教しました。・・・・

「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」より
( )内は注

道徳の乱れを正すために山口に立ち寄ったサビエル一行が家々に招かれて、教えを説いた様子が書かれている。

当時山口には多くの文人墨客が訪れ、こうした人々を家に招いてもてなし、話を聞くことが流行であったようである。
サビエル一行を畏敬をもって招いたのは大内家の重臣、内藤興盛と嫡子・隆春で、内藤氏の斡旋によってサビエルは大内義隆に謁見することができた。

謁見の様子は上記サビエルの書簡では義隆が一行を受け入れたように書かれているが、同行のフェルナンデス修道士の記述によれば、彼らが日本人の偶像崇拝、日本人の悪習、男色の罪等を非難すると、大内義隆は激昂し、彼らに立ち去るように命じたとある。

1ヶ月あまり山口での布教を続けた一行は12月、京へ向かって旅立ったが、戦乱の京で貧しいみなりで、しかも天皇への献上品を持たない一行は省みられることなく、11日間の滞在の後、再び京を離れ、平戸へ戻った。

平戸にはサビエル到着前にポルトガル船が来航し、サビエル宛にマラッカからインド総督からの手紙や献上品が届いていた。サビエルはこれらを携え、山口での布教を目指して再度、山口へ向かった。

今回のサビエルはインド総督使節として絹の服をまとい、インド総督とゴアの司教からの親書、珍しい献上品の数々を携えて大内義隆に謁見したので、義隆は返礼として廃寺となっていた大道寺を彼らに与えて布教を許可した。旧大道寺付近には現在「ザビエル公園」がある。

又、亀山公園のザビエル聖堂のステンドグラスにはサビエルの一生が描かれており、その内の1枚はサビエルが大内義隆に謁見している図である。

サビエルが義隆に差し出した献上品は望遠鏡、火縄銃、装飾時計、ガラス製品、オルゴール等、義隆が目にしたことがない品々ばかりであったという。

サビエルの書簡は次のように続く。

・・・神の聖教えを述べ伝えるためには、ミヤコは平和でないことがわかりましたので、ふたたび山口に戻り、持ってきたインド総督と司教の親書と、親善のしるしとして持参した贈り物を、山口候に捧げました。

この領主は贈り物や親書を受けてたいそう喜ばれました。
領主は私達に(返礼として)たくさんの物を差し出し、金や銀をいっぱい下賜されようとしましたけれど、私達は何も受け取ろうとしませんでした。

それで、もし(領主が)私達に何か贈り物をしたいとお思いならば、領内で神の教えを説教する許可、信者になりたいと望む物たちが信者となる許可を与えていただくこと以外に何も望まないと申し上げました。

領主は大きな愛情をもって私達にこの許可を与えてくださり、領内で神の教えを説くことは領主の喜びとするところであり、信者になりたいと望む者には信者になる許可を与えると書き、領主の名を記して街頭に布令を出すことを命じられました。
・・・・・「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」より

こうして山口での布教活動が始められ、2ヶ月間に500名の信者を得ることができたと伝えられる。
この時の信者の中に元琵琶法師であったロレンソがいる。

天文20年(1551年)8月、ポルトガル船が豊後に入港したとの便りに、サビエルは9月半ばに山口を離れ豊後に向かい、豊後で領主・大友義鎮に丁重に迎えられた。
山口には代わりにトルレス神父が派遣された。

この間、山口では陶晴賢(すえはるかた)の反乱が起こり、大内義隆は自刃した。

トルレス神父とフェルナンデス修道士は内藤興盛の屋敷にかくまわれ難をのがれた。
サビエルは山口に戻ることなく、11月、2年3ヶ月の滞日を終え、日本を去った。
サビエルの後、トルレスが日本布教長として山口を根拠地として布教が続けられた。

大内義隆自刃後、陶晴賢は豊後の大友義鎮の弟で大内義興の甥・義長を領主とした。』(同上より引用)

大内義隆自刃後に大内家の人々がどうなったのかかかれていない。

一部子孫は逃亡し山口の2箇所に分かれて潜んで暮らしたという。
その片方が萩の玉木家である。

大内氏の子孫は環(たまき)家を名乗り、長い月日の経過をへて玉木家となった。

その家に養子に迎えられたのが吉田松陰の叔父、文之進だった。

玉木文之進は松陰を激しいスパルタで国家軍事を考える軍師として育てた。
その松陰が明治維新の長州藩の原動力となる青年たちを育てたのである。

ザビエルが山口で洗礼を授けた大内氏の家族や重臣たちとその家族、彼らは山口に潜伏したのである。

信仰を果たして捨てていたのだろうか。

救世主の教えとはそれほど簡単に捨てられるものではないだろう。

ザビエルの教えは山口の2箇所で百数十年間にわたっていき続けて、幕末に爆発したのではないだろうか。

奥州の薬師霊場、瑠璃殿にて、山口の瑠璃光寺を思っている。


読者の皆さんはお気づきであろうか。

大内氏、吉田松陰、ザビエル、平戸、平戸藩主松浦(まつら)氏、という歴史上の重要な点は、細いながらもしっかりと一本の線でつながっているのである。

その糸は、幕末においてザビエル上最初の陸地「薩摩」へと結んでいき、明治維新革命を起こすことになる。


女帝孝謙天皇~奥州街道(4-134) [奥州街道日記]

TS393143.jpgTS393143小さなお堂
TS393144.jpgTS393144なんだか古代民族の懐かしさを感じる建築構造
TS393145.jpgTS393145祠には「鐘」、孝謙天皇の健康を祈ったのだろうか


先の記事で紹介した「薬師霊場の御由来」に、「天平宝字四年(奈良時代西暦760年)に第四十六代孝謙天皇が開創された勅願霊場であります。」とあった。

その由来にあった孝謙天皇とは、さまざまな歴史的な議論を持つ女帝である。

『天平宝字4年(760年)、光明皇太后が死去。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになるが、それを批判した淳仁天皇と対立する。天平宝字6年(762年)に孝謙上皇は平城京に帰還し、5月23日(6月23日)に法華寺に別居、その10日後、尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した。
中略。

称徳天皇
光明皇太后の後見を無くした仲麻呂は天平宝字8年(764年)9月に挙兵(藤原仲麻呂の乱)するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用した。

また下級官人である吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。
天平神護元年(765年)には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた。

神護景雲3年(769年)、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡の託宣を報じた。これを確かめるべく、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡に送られたが、この託宣は虚偽であると復命した。

これに怒った道鏡は清麻呂を因幡員外介として左遷し、さらに称徳天皇は清麻呂を除名し大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。
その後、道鏡の故郷である河内国に由義宮を造営した。

しかし翌年、称徳天皇は河内の由義宮に行幸し同地を西京とする旨を宣したのち、病臥、100日余で崩御した。

このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。
病気回復を願う祈祷が行われたとの史料がないことから、医療行為を施されず見殺しにされたとの主張(祈祷は現代では迷信だが、当時は立派な医療行為のひとつであり、当時の人間の主観としては祈祷を行わなかった事は、医療行為をせず見殺しをしたに等しい/井沢元彦の主張・逆説の日本史)や、さらに踏み込んで暗殺説もある。

称徳天皇は皇位継承者であったことから生涯独身を余儀なくされ、子をなすこともなかった。

また、それまでの権力闘争の結果、兄弟もなく、父聖武天皇にも兄弟がなく、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁天皇)が即位した。

また、道鏡は失脚して下野国に配流され、彼女が禁じた墾田私有は再開された。』(孝謙天皇(Wikipedia)より)

藤原仲麻呂との確執、僧道鏡を皇帝にしようとしたこと、天武系最後の天皇であること、オクリナに「徳」の文字を持つ天皇(怨霊鎮魂の語)などである。

オクリナに徳を持つ人物は暗殺されて恨みを抱いて死んでいった可能性がある。
だから「徳」をおくるのである。

祟徳上皇、聖徳太子も同じ意味を持つオクリナ(死後の呼び名)である。

彼女が禁じた墾田私有が死後再開されたが、これが律令政治(土地はすべて国有)を崩壊させ、武士の軍事力を増強し、後に武家政権を作ることへとつながる。


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