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歩行禁止!?~奥州街道(4-218) [奥州街道日記]

TS393521.jpgTS393521東北自動車道の左傍を通る旧街道
TS393522.jpgTS393522どんどん下がっていく
TS393523.jpgTS393523ついには東北自動車道の下をくぐる

旧街道を歩いていくと、通行止めの看板に出くわした。

「東北自動車道
これより先は、高速自動車国道のため、歩行者・自転車・125cc以下のバイク等は通行できません。」と書いてある。

私はリュックを背負った二本の脛をパタリと止めた。

よく見ると、私が歩いている旧道のことではなく、その右上を走っている自動車道に関する警告板だった。

ほっとして再び歩き始める。
旧道は緩やかに坂を下って自動車道の下側へと潜り込むようである。

とうとう自動車道の真下を横切る隋道に導かれてしまった。

ちょうど東北自動車道の真下を直角に横切ることになる。

暗いトンネルの中へ入る。

(お知らせ)当方の事情からこの続き、北上、盛岡方面への街道歩き日記は1月下旬から再掲載することに致します。よろしくご了解ください。

その間、山口県萩市で見聞してきた吉田松陰に関する記事などを掲載していきます。奥州街道は必ず津軽三厩宿まで歩き通しますので、再開をお待ち下さい。

見なかった温泉郷~奥州街道(4-217) [奥州街道日記]

TS393518.jpgTS393518「またのお越しをお待ちしています。一関温泉郷」
TS393519.jpgTS393519分岐を左へ歩く
TS393520.jpgTS393520旧街道の雰囲気が出てきた

「またのお越しをお待ちしています。一関温泉郷」と書いた看板を見たが、温泉らしきものには出会っていない。
街道筋から少し奥に入るのだろう。

温泉街があればすぐにでも飛び込みたいところであるが、知らないままに一関から遠ざかることになる。

歩行者にわかり易い温泉郷への案内板は私が歩いた街道にはなかったようだ。
平泉中尊寺方面へ街道を逸れたことが災いしたのかも知れない。

衣川と安倍氏~奥州街道(4-216) [奥州街道日記]

TS393514.jpgTS393514右は白鳥村遺跡と読める(国道とクロスする)
TS393516.jpgTS393516防風林と家屋
TS393517.jpgTS393517右に行けば「けいび渓、幽玄洞、束稲山」

安倍貞任(あべさだとう)は衣川で源氏に敗れた。
蝦夷のリーダ格であったようだ。

『永承6年(1051年)に、安倍氏と京都の朝廷から派遣されていた陸奥守藤原登任との争いに端を発して、以降12年間にわたって続いた前九年の役において、東北各地に善戦する。

登任の後任として源頼義が翌永承7年(1052年)に赴任すると、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦が行われ、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなったが、天喜4年(1056年)に、阿久利川において藤原光貞の営舎が襲撃される阿久利川事件が起こると、頼義は事件の張本人と断定された貞任の身柄を要求し、父の頼時がこれを拒絶して再び開戦となる。

天喜5年(1057年)に父の頼時が戦死すると、その跡を継ぎ、11月には河崎柵に拠って黄海の戦いで頼義勢に大勝している。
以後、衣川以南にも進出して、勢威を振るったが、康平5年(1062年)、国府側が清原氏と結ぶと劣勢となり、9月には厨川柵の戦いで敗れて討たれた。

深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。

その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた(この故事に倣い、後年源頼朝によって藤原泰衡の首も同様の措置がされた。平泉の中尊寺に現存する泰衡の首には、釘の跡が残っている)。

背丈は六尺を越え、胸囲は七尺四寸という容貌魁偉な色白の風体であった(『陸奥話記』による記述)。
衣川柵の戦いにおいては、源義家と和歌の問答歌をしたとされる逸話も知られる。

津軽地方の豪族・安東氏(のち秋田氏)は貞任の子、高星の後裔を称した。』
(安倍貞任(Wikipedia)より)

最近誕生し、すぐに去っていった安倍元総理大臣はその末裔だと何かの記事で読んだことがある。

「背丈は六尺を越え、胸囲は七尺四寸という容貌魁偉な色白の風体」は元総理代人の形容にも通じよう。
その表現は、ウクライナ付近のロシア人の形容にも似ていると思う。

探してみると似たような記述が見つかった。

『◆ 安倍晋三官房長官の父・晋太郎と話をしたことがある。
私が岩手県の出身だといったら「安倍家のルーツも岩手県」と応じてきた。
山口県と岩手県が、どう結びつくのか、
晋太郎は「安倍宗任の末裔なんだよ」と言っていた。

◆ それは、そのまま忘れていたが、宮守村の村会議長だった阿部文右衛門さんと四方山話をしていたら「安倍晋太郎は東北の王者だった安倍一族の末裔だ」という。そして、ほどなくして裏付けとなる資料を送っていただいた。石至下史談会の「原姓安倍氏 豊間根家の栞」がそれだ。

◆ そこには「前九年役の敗北」の項に次の記述がある。
安倍宗任、正任は朝廷軍に降り、肥前国松浦(まつら)また伊予国桑村に流罪、宗任は後、宗像郡大島で生涯を閉じ、地元安昌院に眠る。(天仁元年 1108)。七十七歳であったという。
宗任の末裔は今は亡き自由民主党幹事長の要職にあった安倍晋太郎氏で又、子息の晋三氏は父の跡を継ぎて、衆院議員の要職に奔走されている、とあった。平成十一年の記述である。

◆ 裏付けをとるために「姓氏家系大辞典」三巻で陸奥の安倍氏を調べてみた。そこには「肥筑の安倍氏」の項目に、鎮西要略に「奥州夷安倍貞任の弟宗任、則任俘となり、宗任は松浦に配され、則任は筑後に配せらる。宗任の子孫松浦党を称す」と載せたり。宗任の配所は小鹿嶋なりと伝ふるも詳かならず、とあった。

◆ さらに「筑前の安倍氏」の項目には、筑前国宗像郡大嶋に安倍宗任の墓と称
るものあり。伝えて云う。「宗任伊予国に配流せられ、後本嶋に流され、終に此の地にて死せり。その子三人、長子は松浦に行き、松浦党の祖となり、次男は薩摩に行き、三男此の嶋に留り嶋三郎季任と云い、その子孫今に此の嶋に残れり」旧志略に見ゆ、とあった。旧志略の方が鎮西要略よりも詳しい。しかしいずれも配流された蝦夷の頭目という扱いになっている。』
(「安倍宗任と安倍晋三(古沢 襄)」より抜粋)
http://www.kajika.net/furusawa/20060709-2.htm

この記事を詳細に読んで行くと、九州の水軍松浦党とも関係してくるから相当面白い世界が広がってくる。

安倍晋三氏は現在の山口県選出衆議院議員であるから、山口と奥州との間に歴史の上での深い縁を感じてしまう。

奥州と長州のご縁といえば、明治維新政府が編成した奥州討伐軍の、とりわけ長州藩出身の「奥羽鎮撫総督府下参謀」選出の「謎」を思い出す。

『その後(世良修蔵)は薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎に代えて(彼らは就任を固辞した)、薩摩の大山格之助と共に新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀となり、戊辰戦争においては同年3月会津藩征伐の為に総督九条道孝以下570名と共に派遣された。

仙台藩・米沢藩らによる会津救済嘆願があったが、あくまで武力討伐せよという強硬姿勢を貫いたことから、次第に仙台藩士らから穏便な会津処置の障害と見られるようになった。

さらに福島城下の金沢屋に宿泊した世良が当時新庄にいた下参謀・大山宛てに閏4月19日に記した密書(「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」と書かれていた)を、送付の依頼を受けた福島藩士を通じて入手した仙台藩士は世良の暗殺実行を決意(閏4月14日には仙台藩家老但木土佐らの承認を受けていた)。

閏4月20日未明、仙台藩士瀬上主膳・姉歯武之進、福島藩士鈴木六太郎、目明かし浅草屋宇一郎ら十余名に襲われる。

2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日阿武隈川河原で斬首された。

世良の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まる事になる。』(世良修蔵(Wikipedia)より)

長州の品川弥二郎は足軽出身であるが、しかし奥州征伐直前のこの当時では既に大物政治家となっていたはずだ。
その大物品川が固辞するだけの理由があった役職なのである。

その奥羽鎮撫総督府下参謀の重職に、鳥羽・伏見の戦いで長州庶民軍である第二中隊(第二奇兵隊)や第六中隊(遊撃隊)の指揮車程度の人物だった世良を推挙し就任させたのである。

それは木戸の仕掛けのようである。

木戸も品川も松下村塾の生徒で、吉田松陰の薫陶を受けた人物である。

『天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門の長男として生まれた。

安政5年(1857年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政7年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、イギリス公使館焼き討ちなどを実行している。

元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。

慶応元年(1865年)、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。

戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。』
(品川弥二郎(Wikipedia)より)

品川が奥羽鎮撫総督府下参謀役を辞去し、木戸の推挙で世良が就任し、その世良は奥州で惨殺され、その結果奥州同盟は混乱を来していく。

木戸の世良推挙が、奥州で敢えて戦争が起きるように仕組んだ「罠」のように私には見える。

世良修蔵は悲劇の死を遂げたが、木戸孝允による世良選定ロジックは大いなる歴史の謎である。

暗殺劇の発生を予見しながら、敢えてそうなるべき人物を奥州へと派遣した。
私にはそのように映る。

その後の奥州の大混乱は、会津藩壊滅という悲劇をラストシーンに迎えることになってしまう。

会津藩を完全破壊するために、木戸は世良を送り込んだのであろうか。
世良は捨て石に過ぎなかったのではないか。

明治になってしばらく年が経過したあと、木戸は世良の首と胴が埋められている場所を訪ね慰霊し、新たに墓を設けている。

そこでの木戸は、暗殺された世良に謝罪するような様子を見せていたことが、地元の関係者の証言などからうかがえる。

あるとき司馬遼太郎氏が山口県で講演を行ったことを書いた記事を読んだ。

世良修蔵が如何にできの悪い人物だったか、司馬遼太郎の歴史小説ではそう表現していたようだし、講演でもその筋書きには触れざるを得なかったのだろう。

その座談会の場に、実は世良修蔵の親族が参加していた。

主催者が司馬遼太郎氏にその旨紹介すると、司馬遼太郎氏は気まずそうな笑いを浮かべたという。

司馬遼太郎氏の「歴史小説」、つまり「創作された嘘の歴史物語」に登場する世良修蔵の姿は、実際の世良その人とはかなり掛け離れた虚像であったのではないか。

事実を踏まえた著作であるなら、世良の親族と邂逅したとしても、バツの悪い笑顔を見せる必要などさらさらないはずである。

事実と大いに異なる誇張表現をしたことについて、親族に対して済まなさを感じ照れ笑いをしたのではないだろうか。

その場の詳しい状況を知らないために確かなことは言えないが、坂本龍馬を始め理想的な日本人青年像を描くことにおいて一流の作家となった司馬遼太郎氏にしては、その実力や功績に似つかわしくない態度を世良の親族に示したものだ。

私はその記事を読んだときにそう思った。

衣川(ころもがわ)~奥州街道(4-215) [奥州街道日記]

TS393510.jpgTS393510衣川橋バス停(東京から451km)
TS393511.jpgTS393511花巻は直進
TS393512.jpgTS393512小雨の街道

花巻は直進、衣川は左折である。
私は国道4号線を進み、花巻を目指す。

左に2kmいくと「長者ヶ原廃寺跡」があると表示が出ている。
「廃寺」だけでも跡地であるは、その「跡」があるということのようだ。

「廃寺跡」なのだから、今は何も残っていないのであろうか。

衣川は古戦場である。

『前九年の役で、義家が活躍しはじめる。この時期辺境の砦は「柵」と呼ばれたが、義家は次々と破った。

ある時「衣川柵」(岩手県・平泉町附近)も落した。
その衣川に安倍貞任がいた。

敗走する貞任を、義家が馬で追った。

追いながら「衣のたて(館)はほころびにけり」と歌の下の句を貞任に投げつけた。

と貞任は振り返り、にっこり笑い「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を返してきた。

義家は唖然・感動した。
無知で卑しいとされる辺境の武人が、都の人間以上に「雅心」をもっていたとは。

義家は、この時追跡をやめたという。
いわゆる「名場面」は義家と貞任の歌問答として知られる。』(抜粋終わり)

(「衣川の戦いにおける源義家と安倍貞任との和歌による歌問答についてその内容、歌などを詳しく教えてください。」(Hatena::Question)より)
http://q.hatena.ne.jp/1175822631


同じサイトにいくつかの別の回答もあり、その中に「源義家の裏切り」という微妙な表現が登場している。

『義家が衣川の館(たち)と衣類の縦糸をかけて「衣のたちはほころびにけり」と詠んだところ、貞任は裏切りを知っていたため、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と詠み返した。と言われています。

貞任の歌の解釈は、衣を何年も着ていると糸がほつれて、組織も何年か経つと統率が乱れてと解釈されます。』(同上)

「裏切り」という行為は、元々仲間、同胞であったものが敵側に寝返ることを指すのではないだろうか。

すると源義家と安倍貞任は、元々同族であったという仮説が成り立つ。

両者ともに日本原住民であったのか、或いは両者ともにアジア大陸からの渡来人だったのか?

私はこれまで蝦夷の立場に立って奥州街道の風景を眺めてきた。
それは渡来民族と思われる大和族による原住日本人『蝦夷』排除への反感を伴っている。

平均的日本人の血の10%程度は中近東由来の混血があるそうだ。
私の体には原始日本人の血と渡来人の血が混じっていることだろう。
なのに、奥州街道を歩くと、どうしてもアイヌの味方になろうとする自分がいる。
判官贔屓(はんがんびいき)であろうか。

最近のテレビ番組で市川海老蔵の事件に関連する報道を眺めていて、こういう解説が流れて来た。
海老蔵氏がそうだという。

「酒を飲んで顔が赤くなるのは弥生人」

私も酒を飲むと顔が赤くなる。

工場売り出し中~奥州街道(4-214) [奥州街道日記]

TS393506.jpgTS393506国道4号線を歩く
TS393507.jpgTS393507テント泊できそうな河原
TS393509.jpgTS393509売り物件「丸大ハムの工場」(2009年10月時点)

広い国道の歩道を歩いている。
川を越えた。
今は早朝であるが、もし夕方ならばぎりぎり「テントを張りたいと思う河原」である。
「ぎりぎり」とは、本当はもっと柔らかい芝生の公園で張りたいのだが、日が暮れてきたのであればここなら何とか草むらで張れそうだという場所という意味である。

川を渡ってしばらく歩くと、右手に丸大ハムの看板が見えてきた。

食肉加工工場跡のようであるが、人気がない。
よく見ると赤い文字の看板に「売物件」と書いてある。

「……」

いろいろ考えてしまうシーンである。
これも、少子高齢化社会ということなのだろうか。

食べる量も減っていく。


赤堂と赤頭~奥州街道(4-213) [奥州街道日記]

TS393501.jpgTS393501赤堂稲荷大明神
TS393502.jpgTS393502急な階段
TS393504.jpgTS393504赤堂稲荷の階段に座って朝日を拝む
TS393503.jpgTS393503果物屋で買ったリンゴで朝食
Oda_Akagashira.jpg熊本県八代市の松井文庫所蔵品『百鬼夜行絵巻』より「赤がしら」(赤頭(Wikipedia)より引用)

まだほの暗い早朝の国道4号線沿いに、赤堂稲荷大明神の鳥居が見えた。
中尊寺前バス停から100mも歩いていない近い場所にあるから、古代は中尊寺と同じ地域に位置していたものであろう。

赤堂は「あかどう」と読むのだろうか。
赤胴鈴之助は、剣道武具の胴部が赤かったから赤胴なのである。
ならばこの赤堂とは、本堂の色が赤いのだろうか。

「音読み」なら「せきどう」または「しゃくどう」となる。

私が「あかどう」と聞いて思い出すのは、アテルイとともに奈良の坂の上に住んでいた渡来人の田村麻呂に成敗された赤頭(あかあたま)のことである。

頭(髪の毛)が赤いならば、赤い頭、赤頭(あかとう)になる。

音読みの連想により、私は蝦夷の赤頭を想像している。
「あかどう」→「あかとう」→「赤頭」である。

赤頭は、アテルイ(悪路王)とともに大和朝廷と戦った一族である。

『悪路王の首像。
悪路王には赤頭とともに村々をあらしまわったため、田村麻呂に征伐されたとの伝承がある。
アテルイの化身とも言われる。
茨城県鹿島神宮蔵。』
(「アテルイをたずねて~水沢」より)
http://www61.tok2.com/home2/adachikg/mizusawa.htm

「赤堂」が「赤頭」かどうかは不明であるが、蝦夷の「赤頭」については全国に伝説が残っている。

アイヌのアテルイとともに田村麻呂に征伐された赤頭(あかあたま)であるが、ひょっとしたらアジア大陸からやってきた「赤毛の渡来人」である可能性がある。

『赤頭(あかあたま)は、鳥取県に伝わる怪談、及びその怪談に登場する人物の名。

その昔、鳥取県西伯郡の名和村に赤頭という名の力自慢の男がいた。
その怪力たるや、米俵を12俵まとめて運ぶほどだった。

あるときに観音堂で赤頭がひと休みしていたところ、4歳か5歳程度の男の子が現れ、観音堂の柱目掛け、素手で五寸釘を刺した。

その力もさるものながら、今後は素手で釘を抜き取ったかと思うと、やがて釘を刺す、抜くを繰り返して遊び始めた。

しかも、よく見ると素手どころか、使っているのは指1本のみだった。

赤頭は「子供に負けるか」とばかりに自分も釘を刺すが、怪力自慢の彼でも、両手で釘を刺すのがやっとで、抜き去るのは到底無理だった。
男の子はその情けない様子を笑いつつ、どこかへと去っていった。

やがて赤頭の死後、村の若者たちの何人かは、彼にあやかって力を授かろうと彼の墓に集まるようになった。

ところが夜になると、墓のもとにいる者たちの背中に大変な重みが伝わり、とても我慢ができなくなった。

その様子はまるで、目に見えない重石のようなものが背中に乗せられ、何者かがそれを背中に押しつけてきたようだったという。

備考
熊本県八代市の松井文庫所蔵品『百鬼夜行絵巻』より「赤がしら」近年の書籍では、赤頭が出会った男の子が「赤頭」という名の妖怪とされているものもある。
なお、人を驚かすだけで傷つけたりはしないとされることもある。

また、鳥取の怪談の赤頭との関連性は不明だが、土佐国吾川郡生賀瀬(現・いの町)では赤頭(あかがしら)という妖怪の話がある。
赤い髪が太陽のように輝き、あまりに眩しくて二目と見られないほどという。二本足の妖怪で歩くが、その足元は笹やカヤなど草むらに隠れてよく見えず、人に危害を加えることもないという。

江戸時代の妖怪絵巻『百鬼夜行絵巻』にも「赤がしら」という、燃えるような赤い髪を持つ妖怪画が描かれている。
これも鳥取や土佐の赤頭との関連性は不明だが、赤い髪という特徴が土佐の赤頭と似ているとの指摘もある。』
(赤頭(Wikipedia)より)

ファンタジー小説、荻原規子著『薄紅天女』(うすべにてんにょ)を参考に蝦夷の生活を表現してものがある。

『「田を作らず、衣を織らず、鹿を食う。晦でもなく、明でもなく、山谷で遊ぶ。時々、人々の村里に来往して千万の人と牛を殺す。馬を走らせ、刀を弄ぶのは、まるで雷光のようだ」と。

田を作る、ということは「牛を使って田を作ること」、「晦でもなく、明でもなく」とは、夜昼を分かたずともという意味。
だから、朝廷から見れば野蛮に見えたのでしょうか。
蝦夷とは。『薄紅天女』の時代では、古の東北の地を駆け回る、自由な人々だったのでした。』(【蝦夷とは何か】より)
http://homepage2.nifty.com/sourouguu/ogiwara/usubeni/emishi.htm

鳥取では「あかあたま」だが、熊本県八代や土佐国吾川郡生賀瀬では「あかがしら」と読むようだ。

先日ロシア映画を見ていたら、主人公が鳴り響く電話の受話器を持ち上げたシーンに偶然出食わした。

「ンダ、ンダー」と言っていた。

東北の電話口での「もしもし」は、「んだんだ」ではないのだろうか。
そう、ふと思った。
九州生まれの私にはよくわからないことである。

土佐国吾川郡生賀瀬(現・いの町)では赤頭(あかがしら)という妖怪の話がある。
土佐の赤頭(あかがしら)は、赤い髪が太陽のように輝き、あまりに眩しくて二目と見られないという。

ロシアにも赤毛の人は多いはずだ。
「赤い頭」の人である。

開山は円仁、中興は清衡~奥州街道(4-212) [奥州街道日記]

TS393498.jpgTS393498中尊寺前の光景(手前にリュック)
TS393499.jpgTS393499旧奥州街道よりも西側の国道4号線
TS393500.jpgTS393500東京より450km地点、水沢まで17km

中尊寺の門前を通る道路は旧奥州街道ではない。
旧奥州街道はもっと東側の平泉市街地を通過している。
昨夜日が暮れてから旧街道筋から離れて国道4号線の歩道を歩いてきたのである。

私が特に意図もしないのに、自然と中尊寺門前の芝生に邂逅できたことがとても不思議な気持ちである。

私の母方の祖父が九州の曹洞宗禅寺中興の祖であり、開山した円仁も曹洞宗大慈寺で育ったというから、そのご縁でお導きして頂いたのかも知れないなどと勝手に想像している。

中興といえば、この中尊寺も奥州藤原氏によって開山後数百年を経て再興されているという。

『途中略。

その後、12世紀のはじめに、奥州藤原氏の初代清衡によって大規模な堂塔の建設・整備が行われました。
寺堂の規模は、鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、「寺塔の数が40以上、禅坊(僧房、僧の宿舎)が300以上」であったといいます。

清衡の中尊寺建立の目的は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年合戦・後三年合戦という)で亡くなった人々の霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。

清衡は『中尊寺建立供養願文』の中で、中尊寺は「諸仏摩頂の場」である、と述べています。

この場(エリア)に居さえすればいい。
この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに「あぁ、おまえさんよく来た、よく来た」と頭を撫でていただくことができる。
諸仏の功徳を直に受けることができる〈まほろば〉なのだ、という意味です。』
(「関山中尊寺」より)
http://www.chusonji.or.jp/guide/about/index.html

「まほろば」という言葉はリゾートホテルやマンションの名前として何度か耳にしたことがあるが、仏教世界の桃源郷のような意味があったことを知った。

蝦夷として差別されてきた奥州藤原氏には、「功徳を受けることに於いてはなんらの差別もない」という立場を取ったのであろう。
差別をされたことがあるからこそ、差別の無意味さを熟知していたとも言える。

交通標識には『東京より450km、水沢まで17km』と出てきた。
日本橋から三条大橋まで歩く距離で495kmだという。

東海道なら終点間近となる。
奥州街道では「まだ道半ば」という気分である。

17km先の水沢(市)といえば、あのアテルイが活躍していた地名である。
とうとう蝦夷族の族長アテルイの棲息地に近づいてきた。

彼こそ「生粋の原始日本人の象徴的モデル」ではないかと思う。
この国の「元の地主」なのであり、私たち日本人の「血のルーツ」なのだ。

『「エミシ」、それは奈良時代~平安時代、都にあった人々が東北地方に住んでいた人々をさげすんで呼んだ名前である。

当時の高僧空海でさえ、エミシは人間ではなく獣か鬼の類であると書き残している。

しかし実際は、大地を耕し花を愛で鳥を友とする、都の人々となんら変わらない人間だったのである。
朝廷による理不尽な支配に耐えかね、立ち上がった胆沢のエミシ。
そのリーダーがアテルイであった。

それから1200年後、水沢の地でアテルイのすがたを求めた。』
(「アテルイをたずねて~水沢」より)
http://www61.tok2.com/home2/adachikg/mizusawa.htm

このサイトには茨城県鹿島神宮蔵になる「悪路王の首像」の写真が掲載されている。田村麻呂に征伐された悪路王はアテルイの化身と言われるそうだが、アテルイ「その人」であったと思われる。
怨霊信仰に染まった大和族が霊を鎮めるために悪人面の面を拵えたものであろうが、根も葉もないものでもないとすれば、アテルイの面影を偲ぶ遺品のようにも見えてくる。

反権力者は、悪者扱いされるのは歴史の常である。
現代のノーベル平和賞受賞者さえ、牢獄に繋がれている。

空海は渡来人佐伯氏の末裔と言われ、本名を佐伯真魚という。
佐伯氏は製鉄技術に長けていたと思われる。
鉄器のこの国への導入は、灌漑用水、開墾の生産性を著しく向上させたはずである。

『佐伯直(さえきのあたい)は古代日本の氏族で、佐伯連の下、伴造として諸国の佐伯部を率いた。
中略。

地方豪族の佐伯直氏
古墳時代の中頃(5-6世紀)に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に設定された佐伯部(詳細は佐伯部を参照)の中、上記播磨を除いた各地の佐伯部を伴造として率い、また、各国の国造にも任ぜられた。

因みに、空海は讃岐の佐伯直氏出であり、安芸国の佐伯直氏は後に厳島神社の神主家となった。』(佐伯直(Wikipedia)より)

空海は讃岐の灌漑事業を行い、お遍路ツアービジネスの創設した商売上手である。

また、バイリンガルどころかトリリンガル(3ヶ国語)以上の言語能力を有していたようだ。

『最初空海は唐に20年いるつもりでした。
密教修行のためにはこのくらいの期間は必要だと思ったのでしょう。
長安青竜寺の恵果に師事します。恵果は空海の優秀さに驚嘆し、「お前こそ私の法を習得するべき人物だ」と言います。

そして早く日本に帰って密教を宣布しなさいと勧められ、2年で帰国します。
中国語はおろかサンスクリット語(梵語)まで取得して帰ったそうです。
恵果の勧めは多分本当だったと思います。

あるいは空海自身が密教の理論と実習をほぼ一瞬にして理解し、もうこれ以上中国で学ぶものはないと悟り、その旨恵果に言ったのかも知れません。

才能のある人の場合、一瞬にして膨大な学問の体系全般を悟得する事はありえます。
潜在的な可能性まで含めてです。

こうして空海は灌頂を受け、恵果の知るすべてを習得して帰国しました。
恵果はそれまで唐に入ってきたインド密教の二つの流れ、善無畏と金剛智の教えを総合して保持していました。
その後中国では仏教は衰退します。
インドでも同様です。

ですから空海はインド密教の直伝者になります。
換言すれば仏教における密教理論は空海において総合される事になります。

806年帰国。
数年は九州にいます。
すぐに都に入れなかった事情があります。
平城天皇は弟の伊予親王母子を反逆の罪で殺されました。

伊予親王の師が空海の叔父である阿刀大足(あとりのおおたり)でした。
空海は罪人の親戚になり、遠慮しなければなりません。

やがて平城天皇は退位され、嵯峨天皇の御代になります。
そして薬子の変で平城天皇の影響力は完全になくなります。

809年空海は上京します。
彼の携えてきた密教とその呪法は朝野で歓迎され、空海は嵯峨朝の文化ヒ-ロ-になります。

なによりも空海は広い教養の持ち主でした。
仏教内典は言うに及ばず、仏教以外の外典、つまり歴史や詩文にも造形が深く、加えて日本史を代表する能筆です。嵯峨天皇とはぴったりうまが合いました。

また空海は最澄と違い、南都の仏教に対して融和的に対処しました。
ごたごたは起こしません。
理論仏教である天台宗に比べて、実践優位の真言密教の融通無碍なところでしょう。以下略』(『「嵯峨天皇」補遺--最澄と空海』より)
http://blog.goo.ne.jp/masatoshi-nakamoto/e/d2ab65909b09df6b3d624b987f671d01

ここに登場する阿刀氏は空海の母方の出自ですが、天皇家との付き合いも深い立派な家柄だったようです。

空海の父母方の祖先たちは、どうやら当時の海外先進知識を習得していた帰化人だったように私には見えます。

一方、アテルイとその一族は間違いなくこの国で生まれた人間(純粋な日本人)と言えるでしょう。
もっとも、当時の東北(蝦夷)地方は「日本」と呼ばれていなかったので、生粋の蝦夷人というべきだろうが。

円仁という僧~奥州街道(4-211) [奥州街道日記]

TS393493.jpgTS393493南部鉄瓶専門店「せきひら」の前の自動販売機
TS393494.jpgTS393494関山中尊(寺)の石柱
TS393495.jpgTS393495テント泊地(リュックのある所)
450px-Yunogo2000.jpg写真 円仁(Wikipedia)より引用

午前4時、けたたましい音楽とともに携帯電話のアラームベルが鳴り響いた。
すぐに起床しテントを畳み、リュックの中に仕舞う。
その位置から周囲を見渡し、写真撮影した。

昨夜の暗闇の中で、旅館街だとばかり思っていた日本家屋の並びは2階建ての木造家屋からなる「みやげもの店」だった。
灯りしか見えなかったが、自動販売機も見える。

背中の方を振り返ると、「関山中尊○」の石柱がある。
中尊寺の山号は「関山」であるから、中尊寺の門前である。

平泉観光の目玉の場所にテントを張った私は、確かに「不審者」だった。
暗がりではそれはちょっとわからないような気がしていたが、実はぼんやりとはわかっていたことだった。

わからないフリをして図々しくテントを張っていたのである。
急な夕立、背に腹は換えられぬ。

この寺の開山は、慈覚大師、即ち円仁である。
長くなるが、中尊寺開山僧の人生を辿っておこう。

『円仁(えんにん、延暦13年(794年)~貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。
入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
下野国の生まれで出自は壬生氏。

円仁の人物像
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。
兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。

大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。

15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。
奈良仏教との反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。

最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

中略。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。
浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。

『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。
志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。

円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧の為日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。

そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険をおかして不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。

天台山に居た最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。
日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。
唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。

海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人達に不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもない様だ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。
再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅人社会の助け
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。
春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。

五台山巡礼
840年、五台山を巡礼する。
標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。

五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。
五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。

法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。
また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。
その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。

また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。
長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難
当時の長安の情勢は、唐の衰退等も相まって騒然としていた。
治安も悪化。不審火も相次いでいた。
その長安の街を夜半に発ったが、(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)夜にも関わらず、多くの長安住人の送別を受けた。

送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人達が主であった。
餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。
歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。

楚州の新羅人約語(通訳のこと)・劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトリリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。
円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。

朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。
新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。
博多津に到着し、鴻臚館に入った。(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いる様に太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条。54歳)

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。
巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。
慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされる。
浅草の浅草寺はそのひとつ。
このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。』(円仁(Wikipedia)より)

五台山巡礼のために1270kmを歩いた円仁には驚く。
四国お遍路は1周すれば約1500kmだそうだから、それに比べれば驚くにはあたらないが、750kmほどの奥州街道をふうふう言いながら歩いている私にとっては、円仁が歩いた1270kmは「驚くべき距離」である。

更に、そのあと長安まで約1100kmを53日間かけて(おそらく)歩いている。
1日20kmの旅程は、今の私の街道歩きと同じペースとなる。
大変ゆっくりした旅と言える。
しかし巡礼記には、「円仁は一日約40kmを徒歩で移動していた」と書いてあるそうだ。
毎日フルマラソンとは、修行を通り越して「苦行」である。
847年頃の円仁の帰国の様子を見る限り、日本人と新羅人がほぼ一体となって国際ビジネスに関与している様子がうかがわれる。

円仁は下野の国の生まれである。

東山道下野国(しもつけのくに)は、今の栃木県とほぼ同じであるが、群馬県桐生市の桐生川以東を含む。

大慈寺という名の寺はわが国にいくつか存在するが、円仁のいた大慈寺とは、岩手県遠野市にある曹洞宗の寺院のことであろうと思っていた。
しかし、調べてみると円仁は栃木県下都賀郡岩舟町小野寺にある「小野寺山大慈寺」で修行したという。

「慈覚大師円仁修行寺 小野寺山大慈寺」とそのサイトに書いてある。
小野小町様もゆかりがある寺だという。

『大慈寺(小野寺山 転法輪院 大慈寺)は聖武天皇の天平9年(737年)、行基菩薩によって開山建立されたと伝えられています。
別名を小野寺とも、大雄山鎮国千部道場ともいいます。
開祖行基の後は、二祖道忠様、三祖広智様と法が伝えられます。

最高に勢力があったときには、広い敷地に七堂伽藍を備え修行僧が何千人もいたといわれています。

伝教大師最澄様がおいでになり、天台宗の東国発展の基礎を築かれたお寺であります。
その折、全国六か所に建てようとされた相輪塔の一つを境内地に建立されました。

さらに、円仁様(後の慈覚大師)が9才から15才までの6年間にわたって修行を積んだ寺、四代住職になった寺でもあります。

この円仁様は、世界の三大旅行記と評価されている『入唐求法巡礼行記』を書いた僧侶として世界的に知られています。

六歌仙の一人、小野小町様も当大慈寺と関係があります。
この小野寺の地に、小野小町様が晩年を過ごしたという伝説が残されています。

また、一遍上人が訪れたとも言われています。
さらに小野寺家の祖、小野寺禅師太郎様の父、義寛様とのかかわりも深い寺院でもあります。

しかしそのような古い歴史も、天正年間の兵火(諏訪ヶ岳の戦)により焼失してしまいました。
また再建後の弘化二年にも不審火により全焼しました。

その後復興され、現在では、嘉永年間に再建された大師堂、全国6ヶ所の1つといわれる相輪塔、行基菩薩御作の薬師如来が祀られていた薬師堂、慈覚大師の座禅修行の場であった奥の院など当時の面影を彷彿させるものがあります。

また境内近辺より、「大慈寺」という銘の入った古瓦が出土し、確実に古代大慈寺の存在を証明してくれています。以下略。』
(「大慈寺概要」より)
http://www.cc9.ne.jp/~daijiji/~daijiji.gaiyou.html

この時代、修行僧が何千人もいたということは、即ち武装した僧侶兵の集団を意味しており、東北地方統治のための進駐軍の臭いがする。

知恵第一者の円仁と数千人の僧兵、当時の「知」と「力」とが栃木県下都賀郡岩舟町小野寺に集結していた。

『円仁様は9才より大慈寺で修業をはじめ、15才のときに比叡山に登り最澄様の弟子となります。

そして43才の時、天台宗の密教を完成しようという希望に燃えて唐へとわたります。
この旅の模様を円仁様自身が書き残した『入唐求法巡礼行記』は、日本人最初の本格的旅行記であり、その価値はマルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄奘の『大唐西域記』とともに、世界の三大旅行記の一つに数えられています。

己れの出世欲のかけらもなく、ただ人々の魂を救うため、日本に仏教の火をともすため、命懸けで仏の真の道を求め続けた円仁様の信仰の生涯は、1200年後の今も私たちの心に、深い感動を与えつづけ、受け継がれているのです。

円仁誕生物語
いまからおよそ1200年前、794年(延暦13)11月15日、下野国都賀郡の上空(今の岩舟町にある三鴨山麓とも壬生町の壬生寺寺内とも言われています)に、不思議な紫色の雲がかかりました。
大慈寺の僧、広智様がその雲の下を訪ねてみると、大慈寺の檀家、壬生家に男の子が誕生したところでした。

これはきっとめでたいしるしに違いないと思った広智様は、この子はきっとすぐれた人になる、この子が大きくなったら是非私の寺に連れてきてくれないか、と頼んで帰りました。

そしてその言葉のとおりに、利発な子供に育った少年は、9才の時に大慈寺の広智様のもとで修業に入ったのです。
この少年こそ、後の慈覚大師円仁様なのでした。

大慈寺から比叡山へ
円仁様は、並居る小僧さんたちの中でも特に優秀だった上に、努力も人一倍される方でした。

15才になった円仁様は、ある日不思議な夢を見ます。
まだ見たこともないはずの僧侶が、自分の目の前に立って微笑んでいるのです。
夢の中で見えない人の声を聞きます。

「このお方は比叡山にいらっしゃる最澄様です」と。
この夢をきっかけに、円仁様は比叡山へ登り最澄様の弟子となることを願うようになるのです。

才能の開花
最澄様の弟子となった円仁様は、次第に頭角を現し、最後には最澄様の代理に講義をされるまでになりました。
そして最澄様がなくなる直前には、最澄様より一心三観の妙義を伝授されるのです。

最澄様の死後、円仁様は比叡山で6年の修行をされた後、日本各地を訪れて布教に、救済にと粉骨砕身されます。
特に東北地方への布教は特筆すべきものでありました。
その後、病を得られて比叡山の横川で療養されますが、奇跡的に快復されます。

中略。

そして円仁61才のとき、比叡山の延暦寺三代天台座主に迎えられました。
それから71才で熱病にかかり亡くなるまでの10年間、最澄様の理想を受け継ぎ、比叡山の発展につくしたのです。

亡くなって2年後の、866年(貞観8)7月4日、朝廷より「法印大和尚」の位とともに「慈覚大師」の賜号が師である最澄様の伝教大師とともに贈られました。

これは、日本で最初の大師号という栄誉です。以下略。』
(「慈覚大師円仁より」)
http://www.cc9.ne.jp/~daijiji/~daijiji.ennin.html

円仁は「大師さま」であり、そして多くの寺をこの国に創った。
その寺の一つである中尊寺の門前でテント泊できた私は、大変なご縁をいただいたことになる。

深夜の警察官職務質問~奥州街道(4-210) [奥州街道日記]

TS393490.jpgTS393490完全に日が暮れた街道
TS393491.jpgTS393491街道の電光掲示板(盛岡87km、北上39km、奥州市20km)
TS393492.jpgTS393492雨の中芝生らしきゾーン発見!

完全に日が暮れてしまった。
テント予定地はまだ見出せていない。

さきほど不安な気持ちなど生じないと言ったが、やはり人のいない街道を一人で歩きながら、宿もない状態では心細くなる。

強がりは、お日様が当たっているときだけ通用するものらしい。

街道の道路交通標識に奥州市20kmの表示が出てきた。
先ほどのは「直進 平泉」と出ていたが、ここでは「平泉」の表示が消えている。
つまり、この暗がりの街道は既に平泉市に入っている可能性が高いと言えよう。

奥州市は、平泉から見れば生活圏内にある北の町になるということだ。

とある旅館街に差し掛かったとき、その前にあるバス停の向こうに広く手入れされた芝生エリアが広がっているのが見えた。
バス停は観光バスが10台ほども止まれるくらい大きなロータリーを有していた。観光ターミナルバス停なのだろうか。
今は人っ子一人いない。

そのバス停付近だけが照明で明るいから、その辺りが芝生エリアであることが確認できた。

時計を見ると、午後8時30分である。
そろそろここの芝生でテントを張ろうかと、半分気持ちが固まりかけていた。
歩行速度を落として、どの芝生の傾斜地にテントを張ろうかと物色を始めたときだった。
誰もいないはずの白熱灯に照らされたバス停の奥に人影が動くのが見えた。

バス停のまん前の旅館のご主人らしき中年紳士が、外の自動販売機にジュースを買いに来たようだが、ちらっと私のリュック姿に目をやり、やがて何もなかったかのように旅館の中へ消えて行った。

そのことはそれで終わった。
そのはずだったのだが、ひょっとして私はその後その旅館の中の人々の話題の主になっていた可能性がある。

そう思われる出来事が、そのずっと後に起きることになる。

旅館のおじさんにちらっと姿を見られたことから、私のテント設営気力は急速に失われていった。

人に見られなかったらテントを張るが、わずか一人にちらりと見られただけでテント設営を中止する。

実にその程度の、希薄な意志決定なのであった。
やはり人気(ひとけ)のある場所ではテントを張りづらいと内心では気にしているのである。

かといって、誰もいない山の中では獣怖さになかなかテントを張れない自分がいるのである。

一体私は人が嫌いなのか? それとも人が恋しいのか?

街道歩きで100泊もテント泊を体験した私だが、いまだにこうして人目を気にしつつテントを張るという事実がある。

素人の人がいきなり街道歩きでテント泊を躊躇することも当たり前であるし、「当然の迷い」なのである。

大いに迷うことを楽しもうではないか。

街道歩きとは「大いに迷うこと」なのである。
そういう意味では「人生」と同じである。

ぶつぶつ文句を言いながら、おろしかけたリュックを再び背負って、きれいに整備された芝生ゾーンから離れて、街道を先へと進んだ。

10分ほど歩いていると、急にパラパラと雨脚の強い雨が降ってきた。

「夏の夜の夕立」である。

私は突然の雨によって、テントを張る場所を即座に決めた。
決めざるを得なかった。

「さっきあきらめた、あのバス停の芝生へ行く!」

決断は速かった。
すぐさまユーターンして足早に街道を戻っていく。
先ほどの芝生エリアの中で一番こんもりと高くなった付近にテントを広げ、中へともぐりこんだ。
高い方が水溜りが出来にくいのである。

決心が速かったこともあって、殆ど服は濡れることなく済んだ。

服を着たままシュラフの中に潜り込んで寝た。
寝入ったあとで何かあったときには、急いでテントを仕舞いリュックを背負って退却できるよう、リュックの中身はできるだけ外に出さないままにしておいた。

テントの雨音がザーザー聞こえる。
雨音が段々遠くなる。
……。
私はやがて深い眠りについた。

2時間ほど寝入ったころである。
午後11時過ぎであった。

私は仰向けにシュラフの中で寝ていた。
私の足の脛の部分を拳骨で軽くこつんこつんと叩く感触で目が覚めた。

テントの入り口から頭部を遠く置いて寝ていたので、テント入り口の布を開けて手を突っ込んできた人物(或いは獣か?)が最初に遭遇したのは私の脛であった。

五街道を歩き通したあの「二本の脛」である。

もし頭を入り口においていれば、最初に頭を食われるはずだ。
足なら失っても生きてはいける。

そんな考えから、私は頭をテントの奥へ置いて寝るようになっていた。

「もしもし、ここはテントを張れる場所ではありません! 早く移動してください。」

暗がりの中から聞こえるその声は、獣ではなく人間である。
寝ぼけ眼(まなこ)のまま腹筋で上体だけ持ち上げてテントの入り口方面を見てみた。

懐中電灯のまぶしい「白い光の大きな球」だけが光って見えるだけだ。
それ以外は真っ暗である。

ヒッチコックのサスペンス映画に、暗がりで突然懐中電灯を照射されたときの人間の恐怖心を表現したシーンがあるが、あれによく似ている。

「警察のものです。いつからここで寝ているのですか? ご近所の方から不審者が中尊寺の門のまん前でテントを張っていると通告があり、巡回にきました。」

「ああ…、あの旅館の親父か、その女房が警察署に通告したのだな。」

まだ寝ぼけている頭のままで、私はそういうことを考えていた。

「奥州街道を東京から歩いて来ているのですが、さきほど雨が急に降って来たので応急的にテントを張ったものです。早朝4時までには撤収する予定です。」

私は上体を起こし、まぶしくて相手の顔は見えないけれど、わずかに認識できた警察帽の庇(ひさし)に向かって、きっぱりとそう言った。

「そうですか。わかりました! では、お気をつけて行ってらっしゃい。失礼します。」

声からすると彼は若い警察官である。
彼の敬礼する右手の指先だけが、真っ白い照明の球の左上に見えた。
依然として彼の顔は見えないままである。

テントの入り口の布がパラリと閉められ、警官は去っていった。
パトカーのドアがバタンと閉まり車が去る音がする。
ドアの音が一回だけだったから、あの警察官は単独でこの不審者の寝るテントを訪問したのである。

私は目覚まし時計に4時のアラームをセットし、かの警官との約束通り早朝4時に撤収する約束を守ろうと思った。

彼に会うまではそんな思いは毛頭なかった。
朝日がまぶしくなるまでゆっくりと手入れされた芝生の上で寝るつもりだった。

しかし、寝ぼけ眼のままであるとは言え、若き警察官と約束を交わしたのである。
その約束は守らねばならない。

彼もその約束を確認して、街道歩きの小生に敬意を表して敬礼をしてくれたのだった。

約束を交わすときに、お互いの真心というものがある。
約束は守られねばならない。

再び心地よい眠りについた。

そうかここら辺りは平泉だったねえ。
門前か。
ここは中尊寺だったのか。
……。

照井堰~奥州街道(4-209) [奥州街道日記]

TS393488.jpgTS393488史跡標柱「照井堰改修の先覚者・柏原清左衛門末裔屋敷跡」
TS393489.jpgTS393489中里公民館「蠶祖神」(柏原清左衛門末裔屋敷跡が公民館)

陽もとっぷり暮れた街道筋に、立派な屋敷があったが、景色はよく見えない。
中里公民館前の門の入り口に、史跡標柱「照井堰改修の先覚者・柏原清左衛門末裔屋敷跡」と書いた白い木柱が目立っている。

柏原清左衛門という人物の末裔の屋敷であるが、照井堰改修という治水工事で貢献した人物のようである。

二宮金次郎の薫陶を受けた人であろうか。

『柏原文書その2
 =平泉高舘の霜月田屋敷御百姓柏原清左衛門北堰開鑿完成万治元年より3~4年要す=

 北照井堰完成までは、五串村・達谷村・平泉村・高舘村・中尊寺村の五邑は用水不足が激しく、不作の年が連綿と続き離村する者後を絶たずと云うほどであった。(近世日本農村経済史論より)

そのため生活は困難を極め5人組帳前書きは着る物や嗜好品、米食の制限、身分等細かく規制されていた時代であった。

その時柏原清左衛門は私財を投じ磐井川の水を笹辺良で照井堰から分水し、穴堰にて太田川に合水する計画を立て、現在の猿鼻隧道580間を開鑿したのであった。

その中間には35間毎に斜坑を掘り、年々の泥上げ等の用心坑としたので計6箇所設置されている。
その他に8箇所の隧道があり、その計はおよそ880間に及ぶと云う。
太田川に合水された用水は下流髢石で日向堰に、さらに下萱で西風堰に分水されている。
 髢石で分水された日向堰は毛越寺の裏を流れ、中尊寺坂下より衣川に注ぐ。またもう一つの下萱より分水された西風堰は平泉村高田に達し上照井堰と合流する。

 さらに文久3年柏原清左衛門の後裔新十郎が私財を投じ五串穴堰48間の堀接を行う。

同年秋、花館の穴堰が崩壊したので更に千葉半右衛門と共に私財を投じて44間の堀更を完工した。』(【忘れては成らぬこと..】より抜粋)
http://www.terui1170.com/aisatu(wasurenai).html


注)万治年間とは?
万治(まんじ)は、日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1660年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。(Wikipediaより抜粋)

二宮尊徳(金次郎)は1787年9月4日の誕生であるから、柏原清左衛門の方が百年以上も昔の大先輩であった。

以上は、江戸後期にあった照井堰改修の美談であるが、そもそも「照井堰」とは誰がいつ作ったものだろうか。

実は、源義経の時代の「照井さんが施工した堰」なのである。
この国の「二宮金次郎」は、源平の時代から存在していたことになる。
源氏物語を作り、照井堰を施工する日本民族とは一体どこからやってきたのであろうか。
1000年も前に、この国土に治水技術、水工土木技術を有していたのである。

その人物とは、藤原秀衡の家臣照井太郎高春である。

『一関市は栗駒岳に水源をもち東流する磐井川は北上川に合流するまでの流域です。

江戸時代には、仙台藩の支藩である田村三万石大江堰流域に成立し、照井堰流域の仙台本藩蔵入地とともに穀倉地帯として栄え明治維新を迎えます。

この地域の用水は、磐井川から取水する照井堰と大江堰に依存しており、平泉町および一関市の穀倉地帯を潅漑しています。

取水口は厳美渓五串(イツクシ)の滝を2.8㎞ほどさかのぼった小河原に大〆切頭首工にあります。

伝承では藤原秀衡の家臣照井太郎高春が用水路の開削に着手し、その子孫高安が萩荘荘司大江氏と結んで造り上げたと言います(西磐井大肝入大槻久右衛門書上)。

また藤原氏滅亡で主を失った照井氏は秋田に逃れ、数代を経て照井隆春・隆定は、先祖の地で身をたてるために平泉に向かい、隆定は千手院に引き取られ、隆定の孫掃部左衛門は先祖の偉業を知り、承応元年(1652)に堰を改修するために工事に乗りだしました。

しかし工事人足の支払いに藩のお救い米50石を流用し、このことが咎められ太田川に架かる橋のたもとで死刑に処せられたと伝えられています。

ともあれ「照井堰」「大江堰」の名称はこれらの伝承をもとにしていると思われます。』(「照井堰・大江堰」より抜粋)
http://www42.tok2.com/home/kaidoumiyagi/terui.htmll.htm

奥州藤原氏は、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った一族で、天慶の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫を称する豪族である。

照井太郎高春の主人である藤原秀衡は奥州藤原氏第3代当主であり、源氏の御曹司義経を匿って養育した人物である。

先祖の藤原秀郷は、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名な俵藤太である。
田原藤太とも書き、読みは「たわらのとうだ」或いは「たわらのとうた」)である。

奥州街道を歩いていると、何度も遭遇する謎の古代人である。
どうやら炭焼きや金鉱堀、製鉄業などを得意としていたエキゾチックジャパンな俵藤太から、奥州藤原氏は治水や水理測量などの知識や技能を承継していたように思われる。

俵藤太がエジプトから日本へ移住してきたのであれば、技術の流れは納得できるが、突然平安時代に縄文人が発明したと言われても納得いかないものである。

私たち日本人は、そのルーツである俵藤太の足跡に迫る必要があるが、遺伝子分析はきっとそれを可能とするであろう。

奥州藤原氏の遺骨や遺髪は大切に保管されねばならないだろう。

前の記事で私は主祭神の名から蚕を連想していたことを書いた。

『本来は高木の神格化されたものを指し、「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、「創造」を神格化した神であるというが、高木神(タカギノカミ)、それは「無から糸を算出する蚕の化身」のことではないだろうか。

ふと、そんなことを思った。』(抜粋終わり)

公民館の前でのこと、日が暮れてしまってよく文字が読めないが、「○祖神」と書いた大きな石碑が立っていた。(写真TS393489参照)

近づいてよく見れば、「蠶祖神」と刻んでいる。

「蠶」の字は「蚕」の古い字体だそうだ。
この地が養蚕業が盛んな地域だったということだ。

あとで別の街道ブログ記事で調べてみると、この大きな「蠶祖神」の石碑には「通商産業大臣椎名悦三郎」の名前が刻んであるそうだ。

日本の通産省と奥州藤原氏の養蚕業と、一体どういう関係にあるのだろうか。

日本国誕生秘話に含まれる「蚕の話」を抜粋する。

『カイコを巡る伝説  日本
日本にカイコから糸を紡ぐ技術は、稲作などと相前後して伝わってきたと言われているが、古来においては様々な言い伝えがあり、日本神話が収められている『古事記』や『日本書紀』の中にもいくつかが収められている。

『古事記』上巻にて高天原を追放されたスサノオ(須佐之男命)が、食物神であるオオゲツヒメ(大気都比売神)に食物を求めたところ、オオゲツヒメは、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して差し出した。

しかし、スサノオがその様子を覗き見て汚した食物を差し出したと思って、オオゲツヒメを殺してしまった。

すると、オオゲツヒメの屍体から様々な食物の種などが生じた。

頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生まれたという。

『日本書紀』神産みの第十一の一書にてツクヨミ(月夜見尊)がアマテラス(天照大神)の命令で葦原中国にいるウケモチ(保食神)という神を訪問したところ、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。

ツクヨミは口から吐き出したものを食べさせられたと怒り、ウケモチを斬ってしまった。

これを知ったアマテラスがウケモチの所にアメノクマヒト(天熊人)を遣わすと、ウケモチは既に死んでいた。

ウケモチの屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。
アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ってアマテラスに献上した。

また、日本書紀における神産みの第二の一書にて火の神カグツチ(軻遇突智)を生んだために体を焼かれたイザナミ(伊弉冉)が亡くなる直前に生んだ土の神ハニヤマヒメ(埴山媛)は後にカグツチと結ばれてワクムスビ(稚産霊)を生むが、出産の際にワクムスビの頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀が生まれたという説話がある。

これらの神話はいずれも食物起源神話と関連している事から戦前の民俗学者である高木敏雄は、これは後世においてシナ(中国)の俗説に倣って改竄したものであり、植物から作られた幣帛を用いる日本の神道には関わりの無い事であり、削除しても良い位だと激しく非難している。

だが仮にこの説を採るとしても、『古事記』・『日本書紀』が編纂された7世紀の段階で養蚕が既に当時の日本国家にとって重要な産業になっているという事実までを否定する事は出来ないと言えよう。

なお、蚕は『古事記』下巻の仁徳天皇記に再び登場し、韓人(百済からの帰化人)奴理能美(ぬりのみ)が飼育していた「一度は這う虫になり、一度は鼓になり、一度は飛ぶ鳥になる奇しい虫」(蚕)を皇后磐之媛命に献上する逸話が語られる。

三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に奏の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。忌宮神社では毎年3月28日に、蚕種祭が行われ、昭和56年(1981年)から毎年、生糸つむぎと機織りの実演が披露されている。』
(「カイコ」(Wikipedia)より抜粋)

『7世紀の段階で養蚕が既に当時の日本国家にとって重要な産業になっている』ことは、古代の常識だったようである。

日本人の末裔である私たちは、あまりそのことを知らないようである。

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