須恵器と陶器(すえき)~奥州街道(4-143) [奥州街道日記]

TS393190.jpgTS393190照明禅寺境内の板碑
TS393191.jpgTS393191変わった六地蔵の板碑
TS393194.jpgTS393194伊治(これはる)村と親子地蔵

伊治城跡から発掘されたものの中に、「土師器及び須恵器(圧倒的に多い)が発見された。」と先の説明板に書かれていた。

須恵器について調べていて、偶然陶(すえ)と語源が同じであることに気づいた。

陶器に詳しい人には常識であろうが、素人の私は知らなかった。

私は須恵器も陶晴隆もどちらも知っているが、両者が名前の語源でつながっていることに気づいていなかった。

『平安時代には「陶器」と書いて「すえもの」「すえうつわもの」と読まれていたが、それが古墳時代に遡るかはわからない。

陶器(とうき)と混乱を避けるため、現代の考古学用語としては須恵器が一般化している。』(須恵器(Wikipedia)より)

山口の大内義隆は重臣の陶晴隆に滅ぼされたが、陶(すえ)氏という姓は朝鮮半島から渡来した須恵器の「すえ」に由来しているのではないか。

陶氏の主君の大内氏も、朝鮮半島から渡来した多々良氏の末裔である。

『多々良姓大内氏概略
出自

日本の武家はいわゆる「源平藤橘」やその他の中央の貴族の末裔を称することが多いが、大内氏は百済の聖明王の第3王子である琳聖太子の後裔と称している。

琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたとする。

しかし琳聖太子の記録は古代にはなく、大内氏が琳聖太子後裔を名乗るのは14世紀以降とされる。

代々、周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出であること以外は不明である。

平安・鎌倉時代
平安時代後期の仁平2年(1152年)に発給された在庁下文に、多々良氏 3名が署名している。

これが多々良氏の初見であり、この頃すでに在庁官人として大きな勢力を持ち始めたと推定される。

平安時代末期の当主多々良盛房は周防で最有力の実力者となり、周防権介に任じられた。
その後盛房は大内介と名乗り、以降歴代の当主もこれを世襲した。

鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き、実質的な周防の支配者となった。
そして鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命されている。』(大内氏(Wikipedia)より)

吉田松陰が、幼いころに大内氏の末裔である玉木氏(古くは環(たまき)氏)によって徹底的に鍛えられたことは先にこの記事で書いた。

吉田松陰を倒幕の尖兵としようとしたのは、朝鮮渡来の長州に居残った公家衆たちであったのではないだろうか。
居残ったとは、大内義隆滅亡時に長州に来ていた多数の公家衆のことである。

ザビエルが山口で布教を開始し、西洋医学で不治の病を治してもいただろう。

長寿は貴族の永遠の夢である。
こぞって京都から山口へと移動してきていたのであろう。

当時の京都は応仁の乱以降、死体が市街に転がるような有様が続いていたようだ。

ザビエルは京都の三条大橋の上から京都御所の灯りを見て、この国の支配者があのような質素な建物に住んでいることに驚いている。



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