吉田松陰の歴史教育 [奥州街道日記]

逆説の日本史12巻(井沢元彦著)のp134には次のように書いていた。

頼山陽の日本外史を使って松陰は松下村塾で歴史を弟子たちに教えた。

弟子たちは明治の偉勲となったものも多かった。

「われわれは毛利の家臣だ。
だから関ヶ原から始めよう。

君ならどうする?」
(要旨のみ要約抜粋した)

松陰が関ヶ原の復讐を目標としていたことがわかる。

家康に毛利のお人よしの輝元はまんまと騙されたのである。

徳川打倒のみが松陰の歴史の教訓だった。

松下村塾の一番弟子であり、かつ松陰の妹婿の久坂玄瑞(げんずい)が攘夷の詔勅を受けてから迷わず光明寺から漕ぎ出して外国船に大砲を撃つ過激さは、徳川打倒の精神のなせる技だった。

やや慎重さを持っている上級武士の生まれである高杉晋作を松陰は歯痒く思っていたようだが、晋作は松陰の死後、久坂を上回るほどの過激な志士となっていった。

そして歴史は幕府による長州征伐から、関ヶ原で敗軍となった薩摩長州連合軍による返り討ちとなり、徳川幕府は倒れた。
もし松陰か久坂が生きていたら、徳川家は滅亡させられていただろう。
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