「自由」とは何か? [奥州街道日記]

自由について考えている。
定時に退社するとき、私と同じビルから二十歳半ばの若い女性がいつも出てくる。

彼女の右手には白い杖が握られている。
目が不自由なのだ。
彼女を見る度に私は「自由」とは何かを考えてしまう。

夕方、定時に退社するときに必ず出会うのだから彼女は会社勤めなのだろう。
外資系のIT企業名が同じビルのテナント名としてあるから、そこで働いているのかも知れない。

白い杖の手に持つ部分は赤い色をしている。
それが塗料なのか赤いテーブを巻いているのかは私にはわからない。
真剣にそれを見たわけではないからだ。

しかし、彼女がときどきわずかな歩道のタイルの段差に杖の先を突っかけてはちょっと速度を落とすので、杖の先の構造に向けて私は目をやった。

杖の先端は長さ30mmほどの樹脂製の部品が付けてある。
白い杖の先に小さなクリーム色の部品が埋め込まれている感じだ。

地面を擦(こす)りながら歩くので、もともとは丸かっただろう樹脂の先は片減りしており、今はややゴツゴツしているようだ。

回転するコロが先端についていれば数mm程度の凹凸は乗り越えられるのではないかと思った。
しかし、そのアイデアを彼女に伝えるでもなく、他人である私は今日も黙って彼女の横を追い越していった。

追い越しながらも私の目は歩道の段差とそれに当たって跳ねている杖の先端を凝視しているのだが、彼女はそういうことは知らない。
彼女を帰り道追い越すときに、毎度のことであるが「自由とは一体なんだろう?」という言葉が私の脳裏を横切る。

なぜ「自由」という言葉が脳裏に浮かんできるのだろうか。

私には二人の娘がいる。
両方とも働いている。
しかも白い杖の彼女と同世代だ。

目の不自由な人が毎日頑張って働いているのだから、娘たちも贅沢言わずに頑張りなさいと、いうような教訓めいた思いが少し浮かんだことは事実だ。

しかし、あの「自由」という言葉は、そういう浅い意味の問いかけではない。
私の人生に重くのしかかってくるような問いなのである。

彼女を見たときに私の胸に突き刺さる「自由」という言葉は、娘たちや他の人への教訓として 浮かんで来ているのではない。
白い杖の若い女性の姿は、直接私自身に向けて「自由」とは何かを問い掛けているのだ。

彼女の「不自由さ」が、そのまま私にそれ考えさせている。

目が不自由な彼女。
そして目が自由な私。

それが「自由」ということの一つの姿である。

何でも見たいものを私は見ることができる。
見たくないものには目を背ければよい。

しかし、白い杖の彼女には目を背ける「自由」さえない。

「自由」とは、私の意志に従い行動できるということだ。
人生の終盤近くに立って、果たして私は「私の意志に従い行動した」ことがあっただろうか?
そう自分で考えてみたいのだろうか。

目の不自由な彼女とすれ違うとき、必ず「自由」の文字が浮かんでくる。

私は、もの心ついた三歳くらいからこの方自分だけの意志に従い行動したことなど一度もなかったように思われる。
ただこの五年間だけは、長い連休が取れるときは日本橋から出発する五街道を一人でシュラフとテントを担いで歩いた。
この行動だけは完全に自由な意思決定によるものだった。

街道を歩いている間は、「私の意志に従い行動した」ことは間違いない。
完全なる私の自由のもとに計画をし、そして実行した。

おかげで五街道を、繋ぎながらだが全て通しで歩き通すことができた。
確かにあれは「自由」だった。

それを許してくれたカミさんや子供たちに感謝しなければならない。
つまり私の完全なる自由とはカミさんや子供たちの犠牲の上で得たものだ。

ならば、家を捨て世間を捨てる出家人ならその行動は「自由」なのか?

いや、寺や宗派には守るべき戒律がある。
寺の規則や僧侶の先輩後輩の関係もある。
坊主も自由とは言えまい。

翌日有楽町線で麹町へ移動の途中、人身事故で地下鉄が止まった。
仕方がないから構内にあるスタバでコーヒーを飲もうとした。

料金を支払う私のすぐ左手の窓側に大きな犬が「ハアハア」息を吐き長い舌を出して暑さに耐えている。

地下鉄構内になぜ犬が?

その犬の側で、若い女性が立ったまま窓辺のスタンドでコーヒーを飲んでいた。
盲導犬だったのだ。

その人も20歳代と思われる若い女性だった。
彼女の目の周囲の様子で目から、目が見えない人だとすぐわかった。

昨夕に白い杖の女性を見たことが契機になって「自由」の意味を考えていて、今度は別の目が不自由な女性にあった。

意外に目が不自由な人々が都内を「自由」に歩いていることに驚いている。

目が見えない人が意外に自由に外出している。
逆に、目が自由に見える私の方がかえって休日に部屋の中でゴロゴロしているのかも知れない。

自由とは与えられるものではなく、努力して勝ち取るものである。

歩きたいと言う思いが強い人は、歩く自由を手に入れるのである。
失った視力を返せと願っても、それは叶わない。
しかし、目が見えない人でも、歩きたいと強く思う人は、殆ど自由に歩き回れる。

五街道を歩いてみて、私はそれと同じことを学んだ。

私に街道歩きを辞めさせようとする理由はここに書き切れないほど沢山生じてくる。
足に豆が出来て歩けない。
小遣いがなくて新幹線が使えない。
大型台風が接近しているから危険だ。

全ての理由を私は無視してきた。

足に豆が出来て痛くなったら「無無痛(むむつう) 亦無無痛(やくむむつう)」などと般若心経の替え歌?を唱えながら、痛みは「無」であると脳に教え込み歩き続けた。

正しい文句は「般若心経( Wikipedia)」に詳しく載っているが、私が活用したフレーズは下記の部分だけである。
『無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。』

独学で理解すればこうなろうか。

『灯りがないということもない。(つまり無明などない。)
また(亦)、無明が尽きるということもない。

さらには(乃至)、老いて死ぬることも無いし、また(亦)、老いや死が尽きるということもない。』

一切は無である。
明るいというのも無いし、また暗いというのも無い。
そう錯覚しているだけだ。

老いることや死ぬことも錯覚であるだけで、実はない。
生きていることすら「無」なのだから。

時間軸を100年先に延ばせば、私は土になっているはずだ。
そういう小さな立場の私が生きているとか、老いるとか、死ぬとか、明るいとか、暗いとか騒いでいるだけのことなのだ。

悠久の宇宙の姿から見れば、私ひとりの体なんて無いのに等しい。
瞬間的に存在し、あとの長い時間はずーと「無」の状態のままなのである。
それはほぼ無いに等しい。

私は勝手にこのように理解している。

それを一休和尚はこういった。

「空中 しばし 我あり」

「しばし」しか人間は存在していないのだから、痛いの、明るいの、暗いの、老いるの、死ぬのと無駄なことはするな。
大事なことはほんのちょっとでも生きていることをお釈迦様に感謝しなさいということだろう。

だから足の豆の痛みも同様に「無いに等しい」ものだ。
私の脳神経が「ただ痛いと錯覚しているだけ」なのだから、痛みのせいで街道歩きをやめることなど意味のないことだ。

そう考えて痛みを無視して歩いていると、不思議に足のほうが丈夫に変化していった。

今では10日間連続で歩いても、足の痛みで歩きをやめることは絶対ない。
私の足で10日間歩く距離はざっと250kmである。

それが街道歩きを始めた5年前では、わずか3日目でたびたび街道歩きを中断していた。

つまり、現在は「痛みが無くなる」ということさえも無くなったのである。

それでも足の前ができるときは、ちゃんと豆の手当はしている。
それだけでは激痛を乗り越えられないということだ。

そこで自己洗脳を工夫したのである。

痛みだけではなく、他の原因で街道歩きを中止しようと思うこともたくさんあった。

次の出発点まで移動する場合に小遣いが足りないときは、若者たちに混じって格安の深夜高速パスを多用した。
お金がないから街道歩きができないと考えないから、なんとしてでも出発点へ移動しようと努力したのである。

大型台風のど真ん中でテントを張って一晩中堪えたこともある。
中仙道妻籠宿でのことだった。

真田雪村たちの篭城作戦に手間取った徳川秀忠は、妻籠宿に到着したときに関が原の戦いが終わったという知らせを受け取った。
秀忠が父家康の激怒の姿が浮かんだだろう妻籠宿で、私は強烈な台風の攻撃を受けた。

このとき家康は徳川本軍を子の秀忠に与えて、自分はどちらかというと外部の雇用した兵隊を率いていた。
家康は東海道を秀忠は中山道を通って関が原へと向かったのだ。
6万を超える軍隊が一本の街道を歩けば、不意打ちにあう可能性がある。
二手に分けるとともに、三男秀忠を次の征夷大将軍にすべく手柄を与えようとの父親の思いは馬鹿息子に踏みにじられた。

その妻籠宿に秀忠軍とは逆の方向から私が着いたのは、日がとっぷり暮れた夜8時だった。
すでに雨風は強くなってきていた。
予報では風速35mを超える強風が吹くと告げていた。

そこで私はテントは夜のうちに飛ばされるものと覚悟した。
公園の草むらでやや小高いところにテントを張った。
いずれ公園も水浸しになるはずだ。
少しでも高い位置に張っておくことで、体が水にぬれるのを防ごうとした。

リュックの中身を出さずに、しかもカッパを着たままシュラフに潜り込んだ。
もしテントが吹き飛ばされたときに、そのままリュックを担いで逃げ出せるためにそうしたのである。
そういう非常事態ではテントやシュラフは捨てるしかない。

これも備えあれば憂いなしのやり方の一つである。

なぜそうまでしたのか?

ただ街道を歩き続けたいからだ。

そういう工夫を重ねることによって、私は五街道すべてを通しで歩くことができた。
つまり「歩く自由」は人から与えられたものではなく、私自身の強い意志によって勝ち取ったのである。

あるとき奥州街道歩きの出発の前日、大型台風の接近は確実と天気予報が知らせていた。

会社の同僚は登山に行くかどうか迷っていた。
彼は私に聞いてきた。

「近づいていますよねえ。どうしますか?」

彼は2000メートル級の登山の計画で、私はほぼ平地の奥州街道歩きだ。
聞くのは逆ではないか?

彼の方が遥かにリスクの高いレジャーを企画している。
街道歩きをやるか辞めるかと私に聞いて、それが彼に役立つ話ではない。

もし私が街道歩きを辞めるなら、彼も2000メートル級登山を辞めようと考えたのかも知れない。
それは質問する相手を間違えたというべきだろう。

こういうところは日本人的な非合理性が働くのだろう。

欧米人なら自分自身で判断するか、 自分よりキャリアが上の登山家に尋ねるはずだ。
私にもそういう日本人的な性向がまだ残ってはいるが、日本人は大体訳もなく雷同を好む。

私は彼に答えてあげた。

「私は、槍が降って来ても辞めないよ。」

それから彼が台風の中を山に登ったかどうかを知らないし、聞いてもいない。

自分のリスクは自分できちんと判断すべきだ。
それこそ私たちには無限の自由度が与えられているのだから。

ここまで書いて来て、目の見えない彼女たちが無意識に私に投げかけてくれた問いの答えに「はた」と気付いた。

「自由」は無限であって、そして自らの意思で勝ち取るべきものであると。

歩きたいと言う思いが強い人は、歩く自由を手に入れるのである。
同じように、働きたいと思う人は、働く自由を手に入れるのである。

自由とはそういうものなのだ。


それから数日後のことだった。

その日は定時で退社出来ずに3~4分遅れでビルを出た。

昨日より日陰の気温は低いなあと感じながら大暑の日の歩道を歩いて地下鉄駅への階段へと降りた。

自動改札を通り、聞き慣れた「ピッ」と言うRFIDの読み取り音を耳の後ろに聞きながら改札を通過した。

通過した後ですぐ前方に立ち止まっている若い女性の背中にあやうく当たりそうになった。

あとで気づいたが、その女性は手に白い杖を持っていた。
立ち止まって定期入れを腰に下げた鞄の中に仕舞うところだった。

改札機から下りの階段までは約10メートルの距離である。
危険な階段を降りる前に、彼女は身支度を整えていたのである。

私は今日少し遅れて退社したから、同じビルから出たあの白い杖の娘さんがこの目の前にいる女性なのだと気づいた。

地下鉄構内で彼女を見たのは珍しかったので、すぐにそれとは気づかなかったのだ。

良く考えてみると、白い杖のこの娘さんが勝ち得た自由とはなかなか大変なものである。

水平歩行だけでも歩道の凹凸に杖が突っ掛かる。
自動改札を皆と並んで通過しなければならない。
下り階段に差し掛かるその前には、杖を小脇に挟みながら定期入れを鞄に仕舞わねばならないのだ。

そこへ白い杖が死角に入るためだが、後ろから私のようなデリカシーの欠けた「自分のことしか考えないおじさん」がぶつかりそうになってやって来る。

「自由に歩きたい」、たったそれだけのことを実現するために、白い杖の彼女はどれほどの努力をしなければならないのだろうか。

いままでそういうことを「思いやる心」が私には欠けていたようだ。

しかし意外とご本人はそれらの一連の努力を大変だと思っていないのかも知れない。

それはご本人に聞いてみなければわからないことであるけれど。
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