入市被爆人体実験の疑い2例 [奥州街道日記]

8月9日は長崎の原爆慰霊祭だった。
広島の三菱重工が三日前に原爆(当時は新型爆弾と言った)にやられたのだから、軍部や財閥は長崎の三菱重工が次に狙われていることを予感していたはずだ。

長崎が被爆する前で、かつ広島被爆後に長崎から脱出した要人をリストアップしてみれば事前に危険を察知できていた人物が浮かびあがるだろう。

広島では原爆投下の前夜、急遽ある将校が広島から岩国へ移動している。
当然翌日彼は被爆を免れている。

その将校とは真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官、淵田美津雄である。
日本の英雄中の英雄である。

日本の宣戦布告の通達遅延というお粗末な出来事により真珠湾攻撃は宣戦布告前に行われるはめに陥っていた。
これによりアメリカの世論は一斉に戦争突入で固まったのである。

その意味において、アメリカに戦勝をもたらした英雄の一人でもある。
宣戦布告の遅延はアメリカ情報部の作戦がちだった。
日本ははめられたのである。
その英雄は広島原爆の前日に広島を離れている。

『昭和20年(1945年)8月5日、会議で訪れていた広島を離れ、広島市への原子爆弾投下から間一髪で逃れた。
広島が核攻撃された翌日には海軍調査団として入市、残留放射能により二次被爆するが奇跡的に放射線障害の症状は出なかったという。
終戦時は海軍大佐。

敗戦後は第二復員省(元・海軍省)史実調査部、GHQ歴史科嘱託として戦中資料の整理研究を行った。
淵田の南雲忠一、山本五十六への評価は辛辣である。

昭和24年(1949年)、キリスト教に入信し,日本基督教団堺教会で受洗。

1953年12月に『真珠湾からゴルゴダへ、わたしはこうしてキリスト者になった』を出版し、「祖国日本の救われんためにわれら何をなすべきか? 汝、イエス・キリストを信ぜよ!」と訴える。

以降昭和41年(1966年)に引退するまで日米各地で伝道活動に従事した。
戦後8年目に米国に渡り、滞米10か月、旅程4マイル、200回の伝道講演。
アメリカでは「真珠湾攻撃の英雄」として迎えられることが多かったという。昭和42年(1967年)、郷里に隠棲。』

戦後にアメリカで「真珠湾攻撃の英雄」になった人物は広島から間一髪逃れている。
入市被爆はしていたようだ。

広島被爆から長崎被爆までの間に、長崎市を脱出した要人をリストアップしてもらいたいと思っている。

彼等の肩書を並べてみれば「何か」がわかるはずだ。
いずれもアメリカにとって大事な人物たちである可能性が高いだろう。

終戦前から陸軍情報部は、降伏後にアメリカに渡す目的で被爆直後の被爆者の診察データを整理し報告書を作成していたという。
昨日8月10日ののNHK総合の番組(長崎ヒバクシャに関するもの)をみてそれを知り、私は大変驚いた。
降伏受諾をする前のことである。
戦争中にすでに保身のためにヒバクシャの体を利用しているのである。

被爆者の苦痛ことなどまったく眼中にない人間の姿である。

番組で、 90歳代と思われる老いたの証言者(元将校)は、「石井731部隊のことなどもあったから」と述べていた。

石井731部隊のことは以前述べた。
中国大陸(満州国)で生きた中国人を大量に使って毒ガス殺人実験をした薬学研究部隊である。

彼等は戦争中なのに、降伏後にアメリカに渡すための原爆被害調査資料を作っていたのだ。
「石井731部隊のことなどもあったから」と言う証言はそのことを指している。
大量毒殺実験による銃殺刑は明らかであった。
それから逃げるためにアメリカが喜ぶ資料を戦争中にもかかわらずせっせと作っている。

中国では健康な中国人の体と命を利用した。
今度は苦しむ被爆者の体を使う。

重要なプレゼントがなければ石井731部隊の幹部は人道に反する行為により銃殺刑になることは確実である。

NHKのナレーターは「毒殺や被爆者データをアメリカに渡したのは国益に叶うから」と言ったが、冗談じゃあない、
正気の発言ではない。
現代でさえNHKが権威に阿(おもね)る姿勢を見せるのはいただけない。

アメリカはヒバクシャデータを入手して国益が潤ったのは事実だ。

しかし、なくなった中国人や広島・長崎のヒバクシャたちのためにはなんら役立てていない。
日本人もヒバクシャ調査データを何も利用できていない。

ただ石井731部隊の面々の命が救われ、戦後の薬剤製造ビジネスで彼らが資産を築けただけである。

アメリカは国益だが、日本は私的利益に貢献しただけである。
本来国益を論ずるならば、中国人毒殺データやヒバクシャ調査データは世界中の人々に公開し、利益は遺族や被害者に配布されるべきである。

特攻隊の若者たちに向けて熱く語った日本人将校たちの正義の言葉は、一体自分自身に向けては封印したのか。

人間がこうもいぎたなくなれるのか?

或はそれは日本人だけに備わる悪魔の性質なのか?

毒ガスデータは国際法違反だから、当然日本の財産にはできない。
ならば世界に公開すべきだった。

それでは戦争裁判の主導者アメリカの心証がよくならない。こっそりアメリカだけに無料で提供し、銃殺刑を免れている。しかも生き延びて厚生省や薬メーカーの重役に収まっている。いまは子供や孫たちが立派な家に住み、石井731部隊の利権を承継しているはずだ。

日本人の銃殺刑受刑者を救命し、私服を肥やすために資料は売られたのである。

「日米双方の国益に叶う」などという世迷言を公共放送を使って言うとは、世の中が少しおかしい方向に動きつつあるのではないか。

エイズ事件を起こし、それをひた隠し、そしてアメリカの薬剤メーカーをかばい、被害者は無視する。

あれはエイズ問題だけに関する体質ではない。
戦後の薬事行政全体に染み付いたものだ。

苦しむ被爆者に対して人体実験をし、そのデータをアメリカに渡した。
被爆者自身も他の日本人もそのデータの存在すら半世紀にわたって知らなかった。
被爆者にデータの利用目的も教えずに、無断で体にアドレナリンを注射し、その反応を観察したという。

これは、人間のすることではない。

「原爆投下後に兵士にアドレナリンを打てば、被爆していても奮い立って戦うか?」とい質問への回答になったのである。
被爆者は興奮状態には戻らなかった。

アドレナリンで高ぶらないということは、交感神経に異常をきたしているということだ。
人間の内臓は交感神経と副交換神経のバランスで安定を保っている。

アドレナリンに反応をしないということは、内蔵がいたるところで不調を起こしていることの証明になる。

現在の日本の薬事行政と薬剤メーカが石井731部隊の生き残りによって支配されてきたということを考えておくべきだ。
敗戦によって少しも変更をされていない領域なのである。

だから抗がん剤の治験には国民は用心すべきだ。

アメリカ開発の新薬を患者にうち、効くか効かないかを試してアメリカに報告する習慣が、今も持続している可能性があるからだ。

薬剤システムは戦後一度も反省したり修正されたりしていないのである。

苦しむ被爆者にアドレナリンを注射することも平気な連中であった。

今はその利権を継いでいる子や孫たちがやっているが、基本的思想張なんら変更されていない。
変更するきっかけも綺麗に消滅させてしまっている。

中国人が毒ガスでのたうちまわろうが、がん患者が抗がん剤でのたうちまわろうが、アメリカへの報告にこそ貨幣価値があると過去の成功体験に従って考えるはずだ。
アメリカ人は合理的な考え方だから、効果がある限り彼らを利用するだろう。

石井731部隊は、その意味でまだ現在も生きている。

原爆投下後に広島や長崎に入って残留放射能を浴びた人を入市被爆者と言う。
私は事後被爆者と言っていた。

番組の中では山口医専の若い研究者も原爆投下直後に広島に入いり入市被爆者になっていたことを紹介していた。

原爆の直撃を受けた被爆者に関する新聞記事をその医学生は山口に帰ってから読み、自分の体にも彼らと同じ出血斑が出てきたことなど、自分が放射能被爆を受けていることに気付く。当時の放射線医学の大家である都築教授が、山口の入市被爆した医学生を訪ねてきて、これから日記を書くように指示している。
なぜ都築教授は医学生の入市被爆の事実を知ったのかは番組の説明からは不明であった。

その医学生は日本語で毎日の自分の症状を記録し、まとまったものを都築教授に渡している。

そしてそれは英訳されてアメリカに渡されていたのだった。

アメリカ公文書が50年を経過して、極秘資料も公開されたことで入市被爆医学生の日記の存在がはじめて日本人にわかった。
都築教授以外の日本人にわかったというべきか。

NHKの番組では、高齢になっているが今も生存しているその元医学生を訪ねている。
そして英訳された日記を元医学生に見せた。

すでに病気を患っていてベッドに寝たきりの元医学生は、老眼鏡を額に掛けて寝たまま英訳日記を懐かしくみていた。
しかし、彼自身も日記が英訳されてアメリカに渡っていたことは知らなかった。

若き医学生は、「入市被爆の人体実験」のために被爆地広島に送り込まれた疑いさえ残る。
番組ではそこまで疑いを見せていなかった。

石井731部隊の戦中、戦後の思考方法を援用すれば、十分考えられることである。

戦争中でさえ広島被爆者の被害状況をアメリカに渡す目的で作成していた連中である。
その目的は戦犯訴追を逃れ自分が生き延びるためだ。
彼等は完璧なエゴイズムの固まりである。

日本人を使った人体実験を躊躇するような人たちではないから、入市被爆実験の疑いは色濃く残る。

入市被爆の詳細な医学データを採取するには、医学知識のある人間を入市被爆させるのがベストである。

米国の軍事研究者にとっては、原爆を使用した場合のソ連侵略などにおいては自国軍兵士の運用作戦などに大変重要なデータとなる。
当然、日本人の軍事医学研究者は彼らのニーズを十分容易に理解できる。

自国の兵士を原爆投下後に被爆地に投入したらどうなるか?
喉から手が出るほどアメリカの軍事医学研究者が欲しかったデータだ。

しかし医学生自身も、その他の日本人も、その英訳された日記の存在や活用方法を半世紀に渡って知らなかった。

一方で、石井731部隊は助命され、戦後に幸せな生活を堪能しているはずだ。
彼らが戦後どこにいて何をしていたのか、国は調査して国民に知らしめる義務がある。

彼らが活躍している現場は、国民にとってきわめて危険な世界である可能性があるからだ。

陸軍二等兵だった二十歳の私の父は、原爆投下の一週間後に広島に入市被爆していた。
今気づいたことだが、これも人体実験だった可能性が高い。

兵士たちは国民の救助は禁止されていた。
兵士の遺体収容だけが目的だったと父は言っていた。

だから水を欲しがる被爆者たちに何もできなかった自分を父は生涯責めつづけた。

兵士の遺体回収作業が原爆投下の一週間後というのはやはりおかしい。
真夏に一週間も放置すれば腐敗してしまう。
ウジムシだらけになる。

父がいたのは海田の海軍基地だ。
私は広島市に4年間住んでいたが、海田から広島市内までは車で一時間もかからない。
すぐに被爆した兵隊を救助に行けた場所に父はいたのである。

1週間も待機させた理由は何だったのか。
腐乱しきった遺体を、まるで廃棄物回収のようにスコップですくってトラックに泥まみれに積み上げて持ち帰ることに何の意味があるのだろうか。

兵士たちが上半身裸になって、汗まみれになって残留放射能を浴びながら1日中働くことに「意味」があったのではないか!

父は回天魚雷の特攻隊員の予備駒だった。
魚雷は海軍所属だが中身の人間は陸軍提供なのだ。

陸軍は農家の次男坊以下が多かったから、いくらでも補充できる。
これに対して海軍は資産家の出身が多かった。

人間が人間として扱われないのが戦争である。

75歳の父が執刀ミスで九州の国立がんセンターで死んだとき、執刀医が執拗に父の肝臓がんの臓器提供を願った。
肝臓の八割ががん化しており、こげ茶色に硬化していた。

母は内臓の医学研究に提供してもよいと医師に言わされたが、側にいた私(長男)が提供を拒絶した。

もうこれ以上父を痛め付けたくなかったからだ。

「葬儀屋に遺体を渡す前に処置がある。30分ほどしてから渡す。」といいながら、医師は悔しそうな顔で私たち遺族の前から消えた。
父の体を洗い、体の穴に綿でも詰めるのだろうとそのときは思った。

しかし一時間しても遺体が帰って来ない。

「おかしい」と感じた私は父の遺体がある病室のドアを開けた。

「あのう、処置はまだでしょうか?」

部屋には入口に白いカーテンが引かれ、部屋の中の三分の一ほどが見えた。

看護婦の白い服の背中の向こうに父の2本の毛脛と足だけが見えた。
そこで医師が何をしているかは私には見えない。

「入るんじゃあないっ!」

いきなり執刀医の鋭い怒鳴り声が私に飛びついて来た。

叱られるようなことをした覚えは、私の側にはない。

あるとすれば、執刀医の方に私を叱る理由があったはずだ。

徹夜して疲れていた私はそれ以上抗(あらが)う気力もなく、その場を離れた。

血管縫合ミスにより脳血栓を誘発し父を死なせた執刀医だったが、その元気過ぎる叱声だけが記憶に残った。

あのとき「何をしていやがるんだ!」と言って病室に踏み込めばよかった。

おそらく父の肝臓は遺族に無断で取り出されホルマリンに浸けてアメリカの軍事医学研究所に運ばれたのだろう。

石井731部隊の精神はいまもなお医学界に引き継がれているようだ。

自宅に帰った父の遺体の死装束を脱がしてそれを確かめるだけの勇気と気力は私には残っていなかった。
父の遺体を自宅の座敷で眺めつつ、浴衣の下の、胸骨のその下には丸めた大きな綿の固まりが入れてあるのだろうと想像した。

母も妹もこのことは知らない。
私だけが見た石井731部隊が現在に残した「陰影」である。

石井731部隊の生き残りは、多くは厚生省官僚や薬剤メーカーの重役になっていると言う。
今は彼等の子や孫が利権や資産を継いでいるはずだ。

薬害エイズ事件に彼等や子孫が多く絡んでいることは想像に難くない。
そんなことにはへっちゃらな人々である。

想像するにも恐ろしいことだが、父の手術ミスさえ意図的なものだった可能性があると思うようになった。

「私が血管縫合をミスしました」と堂々と言ってわるびれるでもなく、自信タップリに見せてくれた父の血管のX線写真は、縫合部が瓢箪のようにくびれていた。

手術前に父から電話で聞いていた執刀医は、父の友人の息子の外科医だということだった。

しかし父が脳死になってから、帰京して私が母に聞くと、執刀医は我々の別の知らない名前の医師だった。

父は知り合いの息子が外科医長だったから、てっきり彼が執刀するものと安心し切っていた。
私にも事前の電話で嬉しそうにそういっていた。

蓋を開けてみると、知らない医師が下手くそな血管縫合で殺していたことになる。

父自身は全身麻酔されていて医師が違うことは知らないままだ。

家族もてっきり父の友人の子の外科医がミスしたものと思っていたが、後手術ミスの説明を聞いた相手は別人だった。

素人の私でも、あれほどくびれた血管縫合はしないと思うほど細く血管を糸で絞っていたのだ。

執刀医は、40歳代後半にも見える働き盛りの外科医だった。
インターンのような未熟さはまったく感じられない外科医だった。

私の医師不振はますます高まっていくばかりである。

一関へ~奥州街道(4-198) [奥州街道日記]

TS393413.jpgTS393413峠(第二有壁)を越えた
TS393415.jpgTS393415右手後ろの山から国道へ下りてくる山道
TS393416.jpgTS393416一関への旧街道は左へ(県道260号線)

ようやく峠(第二有壁)を越えたようだ。
ここからは緩やかな下り坂になる。

私の右手後方の山から国道へと下りてくる山道がある。
ひょっとしたら私が第二有壁を越えてここへ出てくるはずだったのではないだろうか。

一関への旧街道は国道4号線から分かれて左へ逸れる。
県道260号線である。

昨夜の昼間に追い越していったお兄さんは昨日のうちに一関へ行くと言っていた。
夕暮れの中を第二有壁を越えたのだろうか。
それとも最初から国道4号線を歩いていったのだろうか。

人様のことながら、1日30KMもあるく人の安否が気になった。
私はせいぜい1日20KMか24KMである。

第二有壁の横~奥州街道(4-197) [奥州街道日記]

TS393410.jpgTS393410奥州一関の標識が出てきた
TS393411.jpgTS393411右手が第二有壁方面
TS393412.jpgTS393412市民バスグリーン観光「大沢田」バス停

国道4号線に「奥州一関」の標識が出てきた。
昼前から有壁宿の北側の山をうろうろと歩き、結局元に戻ってきた。
ようやく次の宿場を約束してくれる案内に出会った幸福感は歩いている私にしかわからないだろう。

国道の緩やかな坂を上っている。
自動車用に設計されているので、おかげで峠も緩やかに越えることができる。
歩道の両側に切り立った山が見える。
右手の鬱蒼とした森の中に「第二有壁」があるのだろう。

本来なら今頃岩壁をよじ登っていたはずなのだが、あきらめるしかない。

市民バスグリーン観光「大沢田」バス停を通過した。

あれが第二有壁の入口か~奥州街道(4-196) [奥州街道日記]

TS393407.jpgTS393407ようやく国道4号線に合流
TS393408.jpgTS393408稲田が尽きる前方の突当りが昼食休憩した場所
TS393409.jpgTS393409この道が双六分岐で左折したときの道

ようやく国道4号線に合流した。
車が沢山走っている。
人間が行き先を信じて行きかう場所に出会うと、現在でさえほっとする。
群れに戻ったという安心感がある。

歩道を歩いている人間は私ひとりだけではあるが、それでも進む方向をともにしているという安心感が湧く。

高架の国道を歩いていると、右手に稲田が見えてきた。
一度見たような光景であるが、この光景を先ほど反対側から眺めていたのだ。

稲田が尽きる前方の突当りが、先ほどみたらしダンゴを食べて昼食休憩した場所だった。

「山中の双六(すごろく)~奥州街道(4-194)」のところで「奥州街道 有壁方面」と書いた「赤い文字標識」のことを述べた。
そこを右へ曲がったために、私は双六(すごろく)ゲームのごとく「元の有壁宿」へと戻ってしまった。

あそこで左折していれば、この国道4号線にやってきたのである。

この車のわだちがついた小道が、先ほどの双六分岐で左折した場合の道である。

おそらくこの道の途中に「第二有壁」へと向かう旧街道が北へ分かれているのだろう。

歩道を歩く私の右手前方、下の写真で言えば左端の森影が第二有壁の始まりなのだろう。

確かに「有壁」の名前にふさわしい深い森である。
越えることが困難に思われるような山の壁が立ちはだかっていることだろう。

おそらく生涯二度と「第二有壁」を歩いて登ることはないだろう。
完全な自由を手にしたならば、ひょっとして第二有壁に挑戦するかもしれないが、そのときに私に壁を越えるだけの体力が残っているかどうかわからない。

元気なときでしか街道歩きに挑戦はできない。


TS393395マイクロウエーブの塔
TS393396林道は下り始める
TS393398どこかで見た光景??(古道の入口)

林道の坂を上っていくと、やがてマイクロウエーブの塔が立つ峠らしき場所へ着いた。
そこから右へ旋回しながら、林道は下り坂になっていく。

あまりに道路の旋回が大きいなと思いつつも、坂を下っていった。

しばらく降りてくると、右手に見たことのある光景が広がった。

国道へ~奥州街道(4-195) [奥州街道日記]

TS393404.jpgTS393404(金成?)市立萩野小学校
TS393405.jpgTS393405あの橋を左折すればJR有壁駅
TS393406.jpgTS393406高架橋が国道4号線

第二有壁へ行く途中で林道に迷い込み、再び有壁宿へと戻されてしまった。
体力的に再挑戦は無理と判断し、やむなく国道4号線へと向かっている。

萩野小学校前を通過して、有壁駅前に出る。

その先に見える高架橋が国道4号線である。
国道に合流すれば、間違いなく一関宿へ連れて行ってくれるはずだ。

旧街道ではこのように道に迷うことはよくある。
常に国道が自分のどちら側をどのくらいの距離に走っているかを認識している必要がある。

最後は国道の歩道を歩くことで街道歩きを次の宿場へと繋ぐことが可能となる。

旧道で道に迷って国道へ出る道もわからない場合は、そこで街道歩きは途絶えてしまうだろう。

400~500℃で六価クロムの生成は極大化する [六価クロムと健康への影響]

ある論文で読みました。
表面処理の廃液処理後のスラッジ(汚泥)処理の実験です。
スラッジを焼成して固めてブロックなどにしようとしていたのか不明ですが、常温から大気雰囲気中で加熱処理するときのデータです。

温度が400~500℃の付近でスラッジに含まれているクロム酸化物や金属クロムが酸化して猛毒の六価クロムに変化するということです。

極大化するということは、その付近で大量に発生したという意味だと思います。

クロム含有鋼鉄などを溶解処理したりする場合、表面にスラグが発生します。

それを別の容器(スラグパン)に受け入れて、自然冷却する場合、大気中雰囲気だと上記温度を通過することになります。

そこへ風での吹きつければ表面に発生した六価クロムの粉塵が大気中に舞い上がることになります。

軽度の場合は炎症を起こし、ひどくなると発ガンしますので、微細粉塵であるといっても健康上は注意する必要があるでしょう。

できれば窒素などの不活性雰囲気中で冷却することが望ましいでしょう。

被爆直後のヒバクシャたち [奥州街道日記]

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E7%88%86%E8%80%85
ここにヒバクシャの写真が掲載しているが、これはプロパガンダであると思うべきだろう。
この程度で被爆の被害が済んだという誤解を与える写真である。

見るに耐えないのが実際のヒバクシャの姿なのである。

私はこの時期になると、父から聞いた被爆一週間後の広島の話を記事に書いている。

8月8日(日)の24時からNHK総合テレビで放映された「ヒバクシャからの手紙」という番組を見た。

ヒバクシャが語る言葉は重い。

被爆直後、二時間後に広島市内に入った人の話があった。

全身火傷のヒバクシャたちは私が表現しているように両手を前に伸ばし、手の甲を上にして、指先を下に向けていた。
その光景を描いた絵が紹介されていたからわかった。

父が見たのは一週間後、この方が見たのは二時間後なのである。

父の見た光景と大きく違うことが書かれていた。

被爆直後の人々は衣服も肌も焼かれているが、腕の皮が焼け爛れて殆ど剥がれ落ちており、それを引きずって歩いていたという。
腕に流れる血は赤く描かれている。

この残酷さを世界の人々はまだ知らない。
日本人の私ですらこの番組を見るまでは知らなかった。
原爆資料館をじっくり見ても、ここまでリアルな残酷さを知ることはできない。

5万人が直撃を受けたのである。

ヒバクシャたちは大勢並んで川へ、本川といったように記憶しているが、川へ向かって歩いていったという。
それぞれはどこに向かうのかわかっていないで、前の人についてぞろぞろ歩いているだけである。

河川敷の階段を下りて次々と川の中へ入っていく。

その光景を描いた絵がある。

ちょうど私たちが地下鉄で通勤するとき、階段の下から階段を下りてくる群集を見上げるようなシーンである。

頭が沢山すし詰め状態になって階段を下りてくる。

先頭は次々と水の中に入っていき、そして沈んでいく。

それを見たその人は「そっちへいっちゃあいけない。死んでいまう!」と声をかけたという。

それでも人々は川へ入っていったという。

被爆して二時間後のこの悲惨さを世界中の人々は知らなければならない。


疎開していた女学生が被爆を聞いて五時間後に広島にいるお父さんを発見した。
全身火傷をして触ってあげることもできない。
指先さえ火傷で膨れている。

頭にはボールの大きさの穴が開いていたという。

お母さんは亡くなっているようだ。

一人でお父さんを看病したが、数日も経たないうちに手先や足先に膿ができて蛆虫(うじむし)が団子状に集まっている。

娘さんは割り箸で蛆虫を取ってあげることぐらいしかできなかった。

原爆を正当化するアメリカ人は、まずこういう事実を知ってもらいたい。
その上で正当化するならば、それは人間ではない。

二日目に広島市内に入った兵隊が川を流れる死体や重傷者を見た。
生きている一人の女性が助けてと小さく声を上げたので、兵隊は彼女の片腕をつかんで引き上げようとした。

すると腕の肉がずるりと抜けて白い骨がむき出しになった。

女性はその兵隊を見つめたまま川の水の中へと消えていったという。

最初に紹介した娘さんのお父さんは1ヵ月後に亡くなった。
ときには錯乱して「敵機来週だ」などと叫ぶこともあったという。

亡くなるちょっと前にお父さんが正気になったそうだ。

寂しいから手を握って欲しいと娘さんにお願いした。
娘さんは火傷の上からそっとお父さんの手を握り締めた。

お父さんは「ああこれで寂しくなくなった。」と笑顔を見せたそうだ。

まもなく息を引き取った。

全身火傷の体に誰も触れずに一月寝て過ごしたのだろう。
娘さんの蛆虫取りの割り箸の感触しか受けていなかったのである。

表皮は焼けてはがれているような火傷の肌に人の手が触れれば痛いはずだ。
しかし、お父さんは痛さよりも娘さんと触れ合うことによる慰みの方を大きく感じたのである。

NHK総合テレビのこの企画は素晴らしいと思った。
ヒバクシャは高齢化しており、彼らの生の声を形にして世界に知らせることが大事である。

私たちがヒバクシャからの手紙を読み胸に響くものは大きい。
しかし、私たちが原爆を所有しているのではない。

原爆を所有している国の国民は広島・長崎のヒバクシャの声を知らない。

英仏独露中の各国語に翻訳して国連を通じて世界へ配布すべきであると思った。

私は数年前、自国の安全保障のためには日本も核武装すべしと思ったことがあった。
しかし、被爆直後のヒバクシャの声を聞いてからそれが愚かな考えだと気づいた。

世界の人々にできるだけ早く被爆直後の姿を伝える必要がある。

吉良側は吉良邸内に180人程いた [つれづれ日記]

Wikipedia記事によれば、寺坂吉右衛門は大石の許可を得て浅野家ゆかりの家に一部始終を報告にいったとされている。
しかし、私はそれを信じられない。

またその根拠となる資料にも出会っていない。
複数の浪士が寺坂の脱走の正当性を説明したことはあったようである。

もし大石の命令で脱走しているならば、業務報告を終えたら即刻切腹したはずだ。
浪士たちの切腹の知らせを当然寺坂も受け取っているはずだからだ。

幕府は後に出頭した寺坂に「時効である」として放免している。
それが事実としても、時効にかかるほどの間逃亡していたのであろう。

忠臣らしからぬ姑息な行動であるといえよう。
やはり大きな力の支配下にあって寺坂は動いていたのであろう。

大石は脱走すら気づかなかったのではないだろうか。
主君の仇を討った以上、何をどう報告する必要があるのか。
ないはずだ。

詳細を知りたい者がいるとすれば、それは忠臣蔵のシナリオライターである。
松浦候はにっくき吉良の最後の姿をありありと想像したかったであろう。

寺坂スパイ説はまだ消えていない。

討ち入りの日に吉良邸内にいた武士が本気で戦えば、赤穂浪士の半分は死んだであろう。

当日吉良屋敷内にいた人数は180人だと桑名藩所伝覚書にある。
そのうち死ぬまで戦ったのは14名である。
負傷して横たわったり物陰に逃げ込んだものが28名いる。

ほとんどまじめに戦闘を行っていないのである。

『吉良家の家臣数は諸説あってはっきりしていません。

討ち入り後の幕府の検死役の書に「中間小物共89人」と書かれ、桑名藩所伝覚書では「上杉弾正(上杉弾正大弼綱憲)から吉良左平(吉良左兵衛義周)様への御付人の儀侍分の者40人程、雑兵180人程参り居り申し候よし」と記されています。

吉良上野介義央の石高は4200石ですので、慶安2年(1649)の軍役規定によると

4000石は79人
5000石は103人

ですので、高家の石高にもよりますが吉良家の場合、通常100人程度の家臣(中間、小者も含む)はいたと思われます。

なお、討ち入り当時の吉良家の家臣数は先に回答している方と同様ですが、戦死者の内訳も判っていますので紹介しておきます。

・戦死者17名の内訳
士分 14名
茶坊主 2名(鈴木松竹、牧野春斎。ともに十代の少年とみられています。非戦闘員ですが、武器をとって応戦したため、討ち死にしたと言われています)
中間 1名(門番)

・負傷者 28名
この負傷者の中に、吉良義央の嫡子・吉良義周がいます。

・生存者 101名
この生存者である足軽ら101名は門の脇にある長屋にいましたが、浪士方に扉を鎹(かすがい)で打ち付けられてしまい、閉じ込められていましたので戦闘に参加できませんでした。

・逃亡者 4名
この中で上杉邸に急報した、吉良義周の家来も含まれていると思います。』(「赤穂浪士の、吉良邸討ち入りのとき、吉良の家臣はいたのですか?」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1227877137

茶坊主2名のうちの一名は長屋から飛び出してきたものである。
早朝まだ暗かったので、てっきり浪士たちは武士が切りかかかってきたものとみなして、ばっさりと斬り捨てたのである。

「茶坊主が武器をとって応戦したため、討ち死にした」と上には書かれているが、うち一名は少なくとも逃げようとして殺されている。

坊主の力で蹴破ることができる長屋の戸である。

「浪士方に扉を鎹(かすがい)で打ち付けられてしまい、閉じ込められていましたので戦闘に参加できませんでした。」というのは、命乞いのための言い訳に過ぎない。

山鹿流陣太鼓の音を聞いた上杉家家臣たちは身動きができなくなってしまったのである。

兵法を知っている武士ゆえに上杉家の家法に縛られたのであろう。

おそらく上杉家からの援軍が吉良屋敷に到着し、藩主の命令を受けたならば、赤穂藩との戦争に参加したことであろう。

上杉家の援軍を足止めした老中稲葉某の役割がいかに大きかったかわかる。

『江戸藩邸は文政年間当時、外桜田御堀通り(現在の法務省敷地内)に上屋敷、麻布に中屋敷、芝白金に下屋敷があった。
また京都藩邸は柳馬場通三条下る西側に構えていた。

麻布藩邸は上杉綱憲により新築された。』(米沢藩(Wikipedia)より)

当時は「生類憐れみの令」により早馬は禁止されていたそうだが、霞ヶ関からであれば走れば30分もあれば本所へ駆けつけられるのではないだろうか。

討ち入りは午前3時過ぎである。
豆腐屋が知って駆けつけたのが4時ころだとすれば、取って返して5時までには本所に着いていただろう。
まだ赤穂浪士たちは両国橋付近にいたはずだ。

四十七士を皆殺しすることは可能だったのである。

スパイは墓を複数作り足跡をくらます [つれづれ日記]

松の廊下事件の際に大石良重がいなかった理由はわかった。
すでに亡くなっていたからだ。

浅野長矩の勅使饗応役を世話したのは確かに大石良重だったが、それは一回目のお役目のときであった。
それは無事に勤め上げている。

『(浅野長矩は)(天和3年2月6日(1683年3月4日)には、霊元天皇の勅使として江戸に下向予定の花山院定誠(正二位内大臣)・千種有能(正二位権大納言)の両名の饗応役を拝命し、3月に両名が下向してくるとその饗応にあたった。

このとき高家吉良義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野は勅使饗応役を無事務め上げている。

なおこの際に院使饗応役を勤めたのは菰野藩主土方雄豊であった。雄豊の娘はのちに長矩の弟浅野長広と結婚している。

この役目の折に浅野家と土方家のあいだで縁談話が持ち上がったと考えられる。
勅使饗応役のお役目が終わった直後の5月に阿久里と正式に結婚。

またこの結婚と前後する5月18日には家老大石良重(大石良雄の大叔父。また浅野家の親族でもある。詳しくは各項目参照のこと)が江戸で死去している。

大石良重は若くして筆頭家老になった大石良雄の後見人をつとめ、また幼少の藩主浅野長矩を補佐し、二人に代わって赤穂藩政を実質的に執ってきた老臣である。

しかしこれによって長矩に藩政の実権が移ったとは考えにくい。

長矩は依然数え年で17歳(満15歳)であり、国許の大石内蔵助もすでに筆頭家老の肩書は与えられていたとはいえ、数え年で25歳にすぎない。

したがって藩の実権は大石良重に次ぐ老臣大野知房(末席家老)に自然に移っていったと考えられる。』(浅野長矩(Wikipedia)より)

江戸詰めの赤穂藩家老として老人大石良重は主君の世話を勤めきっている。

二回目の勅使饗応役のときに、浅野は吉良を切りつけた。
お世話役は老臣大野知房(末席家老)に変わっていたのであろう。

先の記事「実在した山鹿流陣太鼓」のところで「梶川与怱兵衛筆記」を紹介したが、事件の際の松の廊下の登場人物には浅野家の大野知房の名はなかった。

家臣は別の間で待機していて、事件の騒ぎに気づかなかったのだろうか。


『大野 知房(おおの ともふさ、生没年不詳)は播州赤穂藩浅野家の末席家老650石。
『忠臣蔵』における不忠臣の代表格。

一方で優秀な経済官僚であったといわれる。
通称は九郎兵衛(くろべえ)。

大野知房は藩財政の運営と塩田開発に手腕を発揮して家老に取り立てられた。

元禄赤穂事件時にはかなりの高齢だったと見られる。

赤穂藩番頭の伊藤五右衛門(450石)は弟といわれる(一説に甥)。

元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩の吉良義央への江戸城での刃傷により、浅野長矩は切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。

筆頭家老大石良雄とともに大野は赤穂城での評定を主宰。

大野は開城恭順を主張し、籠城を主張する大石派の藩士と対立した。

また、分配金の配分では大石は微禄の者に手厚く配分すべきとしたのに対して、大野は石高に応じて配分すべきと主張している。
結局、大石の意見どおりに配分され、大野は藩内で孤立を深めた。

特に大野は、足軽頭原元辰と札座奉行岡島常樹の兄弟と対立した。

大野の原兄弟への憎悪はかなり深かったようで、三次藩士・久保田源大夫に向けて出した書状のなかで原を「無理非道の者」などと罵倒している。

また大野は、岡島の部下の小役人達が改易の混乱に乗じて金銀を奪って逃亡する事件をとらえて、岡島も一味に違いないと吹聴したといわれる。

これに激怒した岡島は、4月12日に大野邸に乗り込んだが、大野は会おうとはせず、やむをえず岡島は大野の弟の伊藤五右衛門邸へ行き、伝言を頼んで帰った。

しかしその日の夜、大野は子息の大野群右衛門とともに家財を置いたまま船で逐電する。

よほど慌てていたと見え、幼い孫娘を屋敷に置いたままにしたうえ、女駕籠にて逃げたことが堀部武庸筆記に記されている。

その後の大野については諸説あるが、元禄16年(1703年)4月に伊藤東涯が並河天民へおくった書簡に九郎兵衛と伊藤五右衛門の事が書かれている。

伊藤東涯と大野兄弟は親族関係なのであろうか。

ともかくそれによると「伴閑精」と称して、京都の仁和寺の辺りに住んでいたという。

元禄16年(1703年)4月6日に衰死して東山の黒谷に葬られたことも書かれている。
これは伊藤五右衛門が埋葬してくれた日夏長兵衛へ対して送った4月17日付けの礼状にも記述があるという。

また群馬県安中市の松岸寺にある林遊謙なる者の墓があり、これが大野であるという伝承もあるが、この墓碑には「慈望遊議居士 寛延四年九月二十四日」と書かれている。

これに従えば、大野は赤穂城開城時から50年以上も生きたことになり、疑わしい。

山形県の板谷峠にも大野のものと伝わる石碑がある。

ここには大石良雄が討ち入りに失敗した時のための「第二陣」を大野知房が率いてこの板谷峠に潜伏し、大石らの討ち入りが成功したのを聞いて歓喜し、その場で自害したという伝説が残るのだが、伝説の域を出ていない。

更に、山梨県甲府市の能成寺にも大野が隠れ住んでいたという伝承があり、墓石には「幽玄院真岩猶夢居士」と刻まれている。

大野は人々から不忠臣として扱われ、長く庶民から憎まれ続けた。

大野邸跡に残る柳の木は不忠柳と呼ばれている。

また歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』でも大野は悪役「斧九太夫」として登場する。』(大野知房(Wikipedia))

大野知房(九郎兵衛)の墓は全国各地にある。
京都東山、群馬安中市、山形県板谷峠、山梨県甲府市と幅広い。

一般に素性や経歴を消す目的で墓を複数作ることは、スパイの定石である。

大野の素性や足跡が後の時代に知れては困るという理由があったのだろう。

忠臣ではない赤穂藩元家老となれば、墓も暴かれていたずらされるという不安も遺族にあったのかもしれないが、遺族が墓を複数置いてかく乱するということは考えにくい。あらされるのが怖いなら、墓を作らねばよいだけだ。
寺が位牌と遺骨を預かってくれる。

あちこちに墓を設けるのは、財力と政治力がある人物の画策によるものだ。

大野九郎兵衛ともいうから、歌舞伎原作者は「斧九太夫」とあだ名したのであろう。

『斧九太夫【おの くだゆう】…仮名手本キャラ。大野九郎兵衛がモデル。

大石(大星)とたもとをわけたあと、敵方吉良のスパイとなり、祇園で遊びほうける大石に討ち入りの意思があるかないかを探りにのこのこやって来る。

殿の命日なのに大石にタコの刺身を食べさせたり、刀を抜いて錆をコソ見したり。

老齢ながら縁の下に隠れるなどして諜報活動を続けた結果、密書の盗み見に成功するが、最終的に潜んでるところを大石に引っ張りだされ、「てめえよくも命日にタコなんぞ食わせやがったなこの野郎!」といままでとぼけてた大石に逆上され、寺坂吉右衛門(寺岡平右衛門)に河原で始末される。』(斧九太夫(Kusupedia)より)

歌舞伎原作者は大野九郎兵衛を幕府側のスパイだと設定している。
スパイであった可能性は高いが、朝廷側のスパイだった可能性も残る。

歌舞伎では寺坂吉右衛門に大野は殺されている。
実は四十七士の一人である寺坂吉右衛門にもスパイのにおいがする。

私は本所松坂町吉良屋敷から泉岳寺まで赤穂浪士と同じ道を辿って歩いたことがある。

新橋を通過して品川へ出るまでの間のどこかで寺坂吉右衛門は行軍から逃亡している。

右へ走れば大名屋敷が並ぶ街区である。

どこかに飛び込んで、討ち入りの詳細を語ったはずだ。
つまり討ち入り前から討ち入りの様子を詳細に報告する役目を寺坂は負っていたのである。

逃亡に当たって、複数の浪士たちが寺坂の逃亡をかばっている様子がある。

大石が容認していたかどうかは不明である。

少なくとも寺坂が泉岳寺に行く前に逃亡し切腹を免れるということについて、四十七士の中に了解していたものが複数いたのは確かだろう。

今泉岳寺に行くと、四十七の墓の中にちゃんと寺坂吉右衛門の墓もある。
どこかの寺の小使いか何かをして80歳くらいになるまで長生きして、それから遺骨が泉岳寺へとやってきたのだろう。

泉岳寺以外にも、この寺坂吉右衛門の墓は全国にいくつかあるのだ。

寺坂もスパイであった可能性がある。

寺坂は討ち入りの詳細を黒幕と近松門左衛門に報告したのではないか?
原作者は事前に書いておいたシナリオと実際の討ち入りの齟齬を修正することができるからだ。

歌舞伎にあるように、大野の口封じのために寺坂が殺害した可能性もあり得る。
その場合は、浅野を刃傷事件へ落とす役割の大野と、シナリオの完成責務を負う寺坂の姿が浮かんでくる。

松の廊下の事件を回避させるべき役目を負っていた末席家老の大野九郎兵衛は江戸城で何をしていたのか。
浅野の勅使饗応役を無事に済ませるべく働いていたのであろうか。

一回目の勅使饗応役は大石良重の努力で無事に乗り切っている。
浅野は二回目の体験である。

大野さえしっかりしていれば、無難に勤め上げていてもおかしくはない。
スパイだとすると大野は「逆に動いた」のではないかという疑いを捨てきれない。


縄の工場~奥州街道(4-194) [奥州街道日記]

TS393399.jpgTS393399再び有壁宿を逆走する
TS393400.jpgTS393400水路
TS393402.jpgTS393402水路の紅葉
TS393401.jpgTS393401縄の製造所

悔しい思いをしながら有壁宿へと戻る。
どうせ国道に戻るなら別の道を歩こうと思い水路に沿って歩いた。

水際に赤く色づいたきれいな紅葉が並んでいた。

そのすぐそばで機械の音が聞こえる。

カチャンカチャンと規則的な音がする。

屋内を覗くと、縄を巻いた製品が並んでいた。

縄を編む工場だった。
生まれて初めて見た縄の製造所だった。

同じ道を歩けば同じ光景しか見えないが、一本北側の路地を歩くことで新しい発見がある。

転んでもただでは起きないとはこういうことだろう。

紅葉見物で目の保養をし、縄の工場で社会見学をした。

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