天気吉一ノ関ヲ立~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393464.jpgTS393464 墨絵の中の芭蕉翁
TS393463.jpgTS393463 奥の細道曽良旅日記抄
TS393466.jpgTS393466 奥の細道の地図板

二夜庵跡の少し手前のところに、街道左手に立派なシュロの木が3本あった。
そのことは既に書いた。
そこは「ふみしろ」というのは呉服屋であった。

呉服屋からそう遠くないところに磐井川が流れ、その橋のたもと(手前)が二夜庵跡である。
家の前に説明板がおいてある。

『芭蕉奥州路
最北の宿
芭蕉二夜庵 跡

俳聖・松尾芭蕉が弟子、曽良を伴い奥の細道行脚(あんぎゃ)の旅で一関を訪れたのは元禄二年(1689)5月12日、雨の夕暮れだった。

翌13日は平泉に遊趣し、高館、衣川、中尊寺などを巡り一関に帰る。
金森家は芭蕉翁が二宿したことから二夜庵と呼ばれるようになった。

14日はここを立ち、尿前ノ関を越えて日本海の出羽の国に入った。
詩歌俳諧の聖典『おくのほそ道』の頂点にあたる平泉の著述が、ここに宿することで編まれたことを想うと二夜庵の存在は大きい。

再建 平成11年3月 社団法人 一関青年会議所』(抜粋終り)

また石碑に「奥の細道曽良旅日記抄」が書いてあった。

『奥の細道曽良旅日記抄
元禄二年五月
十二日雲 戸今を立 安久津雨
強降ル 馬ニ乗 一リ加 
澤 三リ 皆山坂也 一
ノ関黄昏ニ着 合羽モト
ヲル也 宿ス

十三日天気明 巳ノ刻ヨリ平泉
へ赴 一リ山ノ目 高館
衣川 中尊寺 光堂 秀
平やしき等を見ル 申ノ上刻帰る 主 水風呂敷
ヲシテ待 宿ス

十四日天気吉一ノ関ヲ立』(抜粋終り、「刻(こく)」の字は当用漢字に換えて記載した)

二夜庵跡~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393460.jpgTS393460夕暮れの」一関宿
TS393461.jpgTS393461この先が武家住宅のようだ
TS393465.jpgTS393465松尾芭蕉「二夜庵跡」

夕暮れの一関宿の写真には案内標識が写っている。

「旧沼田家武家住宅」は左方向だと示している。
中街通りも左にある。

一関わが街ガイドに「旧沼田家武家住宅」の説明があったので抜粋する。

『江戸時代後期に一関藩家老職を勤めた沼田家の住宅です。
創建は18世紀の初頭から中頃と推定され、約三百年の歴史を有していて、付近を流れる磐井川のたび重なる水害にも倒壊することなく今日に至りました。

一関市教育委員会文化振興課 
休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始
公開時間
9:00~16:00(4月~10月)
10:00~15:00(11月~3月)
入館料 無料
住所 一関市田村町2-18
交通 JR一ノ関駅より徒歩5分 』
(「旧沼田家武家住宅」より)
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,4321,111,77,html

沼田家は、一関城主田村氏の家老だった。

『沼田家は一関藩家老を勤めた家柄です。
城主である田村家の陣屋に程近く、外堀内部に配置されている事から「内家中」と呼ばれ、一般の足軽や商人達と区別されていました。

外掘にあたる磐井川は度々叛乱し、特に昭和21・22年に襲ったカザリン・アイオン台風は城下町の風情が残る町並みを一掃し、一関が近代的な町になるある意味で起点となりました。

その中で、旧沼田家住宅は幕末に建てられた当時の原型を留めていて、当時の一関藩上級武士の生活を知る上で貴重な存在となっています。

一関藩は三万石と言われていますが実石では二万三千石程度だったと言われ、財政面では常に逼迫した状態にあり、家老職を務めた住宅であっても破風付な玄関など華美な装飾がなく極めて質素な形態を取っています。

又、間取り的には同じ岩手県で伊達領の要害が置かれた金ケ崎の武家屋敷で見られるような座敷が道路側でなく奥に配置されているのが特徴的です。

道路側に座敷を配置するといのは、藩主(城主)が道路を通った時逸早く出る事が出来る事や、外部の侵入者に対して有利とも言われていますが、逆に土間や玄関が手前にある事は利便性に長け実用的だったとも考えられます。

一関藩では学力に力を入れ、多くの学者を輩出していますので、より合理的に考える藩風があったのかも知れません。』
「一関市・観光・歴史・名所 」より)
http://www.iwatabi.net/morioka/itinoseki/buke.html

武家住宅への路地をのぞいてみるだけに留め、私は街道を先へ進むことにする。

もう日が暮れかけているから、今夜のテント宿泊地を探さねばならない。

街道に古風であるが新しい木造住宅があった。
家の前に墨絵を書いた石の板が置いてある。

普通の住宅ではないなと感じたので、10mほど後戻ってみると、そこには「漂白の詩人 松尾芭蕉「二夜庵跡」」と書いてあった。
ここに芭蕉が宿泊したのである。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。