一関の観光案内~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]
TS393450 「錦町水天宮通り」の標識
TS393451 赤い実
TS393452 「地主町通り」「蔵のひろば」
案内標識が歩道に出ている。
標識にはこう書かれていた。
「錦町水天宮通り」
「蔵のひろば」
「浦しま公園」
「一関文化センター」
そして楓の葉色に良く似た木に、赤い実が沢山なっていた。
もう一つの標識はこういうものもあった。
「地主町通り」
「大町通り」
「地主町通り」や「蔵のひろば」には財力を誇る庄屋や商家が並んでいたのろう。
TS393451 赤い実
TS393452 「地主町通り」「蔵のひろば」
案内標識が歩道に出ている。
標識にはこう書かれていた。
「錦町水天宮通り」
「蔵のひろば」
「浦しま公園」
「一関文化センター」
そして楓の葉色に良く似た木に、赤い実が沢山なっていた。
もう一つの標識はこういうものもあった。
「地主町通り」
「大町通り」
「地主町通り」や「蔵のひろば」には財力を誇る庄屋や商家が並んでいたのろう。
楓とカトリック~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]
TS393447 楓並木
平泉へはこの先を左へ
TS393449 左折して平泉へ向かう
北日本銀行の辺りから商店街の両側に楓の木が並んでいた。
私は楓の並木を見て、カトリック教徒の存在を感じている。
私だけはそう感じるのかも知れない。
しかし、カトリック教徒には明らかな意味が伝わっているはずだ。
楓の木で師弟の契りを結んだ長州人がいる。
吉田松陰と高杉晋作である。
楓の木が両者に深く関係していることは、その墓所を訪ねればわかる。
世田谷の松蔭の墓の左手には大きな楓の木がある。
晋作の墓は下関の東行庵の裏山にあるが、そこは紅葉谷という。
楓で山全体が包まれている。
楓の並木を歩きながら、おそらくこの左手に一関カトリック教会があるのだろうと推測した。
あいにく訪ねる予定はないが、足が丈夫であったならば訪ねるべき場所だと思う。
秋田の涙のマリアの庭園の隣にある『子羊の庭園」を歩けば、これとおなじ光景がある。
秋田のその楓並木が行き着いた先には、小さな小屋が道をふさぐように建っている。
中に入ると見上げるほどの高い位置にイエス・キリストの磔像が掲げられていた。
腕や足に打たれた釘穴から流れ落ちる赤い血は、まさに楓の葉の色であった。
スペイン宣教師ソテロは伊達政宗の保護を受けて東北布教で実りを上げたが、家康のカトリック嫌い(プロテスタント好き)のために最後は火あぶりの刑で死んでいる。
支倉常長をローマへ引率したころが、ソテロの人生の頂上だったのだろう。
『仙台藩主・伊達政宗との知遇を得、東北地方にも布教を行った。
1613年(慶長18年)、布教が禁止され捕らえられるが伊達政宗の助命嘆願によって赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとともにヌエバ・エスパーニャを経てヨーロッパに渡る。
エスパーニャ王、ローマ教皇パウルス5世に謁見し日本での宣教の援助を求めるが目的を達せず1617年、エスパーニャを発ちヌエバ・エスパーニャ経由でフィリピンに入り、マニラで日本に渡る機会を待って1622年(元和8年)、長崎に密入国したが捕らえられる。
この際も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、1624年(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教した。』(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)
商店街の外れに近づくと、「平泉へはこの先を左へ」と示す交通標識が現れる。
左折して、義経の第二の故郷、平泉へと向かう。
平泉へはこの先を左へ
TS393449 左折して平泉へ向かう
北日本銀行の辺りから商店街の両側に楓の木が並んでいた。
私は楓の並木を見て、カトリック教徒の存在を感じている。
私だけはそう感じるのかも知れない。
しかし、カトリック教徒には明らかな意味が伝わっているはずだ。
楓の木で師弟の契りを結んだ長州人がいる。
吉田松陰と高杉晋作である。
楓の木が両者に深く関係していることは、その墓所を訪ねればわかる。
世田谷の松蔭の墓の左手には大きな楓の木がある。
晋作の墓は下関の東行庵の裏山にあるが、そこは紅葉谷という。
楓で山全体が包まれている。
楓の並木を歩きながら、おそらくこの左手に一関カトリック教会があるのだろうと推測した。
あいにく訪ねる予定はないが、足が丈夫であったならば訪ねるべき場所だと思う。
秋田の涙のマリアの庭園の隣にある『子羊の庭園」を歩けば、これとおなじ光景がある。
秋田のその楓並木が行き着いた先には、小さな小屋が道をふさぐように建っている。
中に入ると見上げるほどの高い位置にイエス・キリストの磔像が掲げられていた。
腕や足に打たれた釘穴から流れ落ちる赤い血は、まさに楓の葉の色であった。
スペイン宣教師ソテロは伊達政宗の保護を受けて東北布教で実りを上げたが、家康のカトリック嫌い(プロテスタント好き)のために最後は火あぶりの刑で死んでいる。
支倉常長をローマへ引率したころが、ソテロの人生の頂上だったのだろう。
『仙台藩主・伊達政宗との知遇を得、東北地方にも布教を行った。
1613年(慶長18年)、布教が禁止され捕らえられるが伊達政宗の助命嘆願によって赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとともにヌエバ・エスパーニャを経てヨーロッパに渡る。
エスパーニャ王、ローマ教皇パウルス5世に謁見し日本での宣教の援助を求めるが目的を達せず1617年、エスパーニャを発ちヌエバ・エスパーニャ経由でフィリピンに入り、マニラで日本に渡る機会を待って1622年(元和8年)、長崎に密入国したが捕らえられる。
この際も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、1624年(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教した。』(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)
商店街の外れに近づくと、「平泉へはこの先を左へ」と示す交通標識が現れる。
左折して、義経の第二の故郷、平泉へと向かう。
グラバーの息子の死 [つれづれ日記]
今(2010年8月15日敗戦記念日の午後1時前)、10チャンネル(テレビ朝日)で黒鉄ひろしがその死を一言語った。
「長崎原爆を見たグラバーの息子は、その1週間後に首をくくって死んだ。」
グラバーの息子とは日系2世の倉場富三郎のことである。
私はこのブログで「マリアとグラバー」という題でそれについて触れていた。
そこでグラバーの子の自殺は拳銃自殺であって欲しいと私は書いた。
再掲する。
『74歳の倉場富三郎は、原爆投下から17日後に自殺している。
おそらく彼は敬虔なカトリック教徒の一人としてカトリック教徒が建国したアメリカ軍によって破壊された「悲しき聖廃墟」を見に行ったであろう。
倉場富三郎が戦後の日本人からの迫害を恐れて自殺したとは思えない。
長崎でハーフではあるが、同じ商人として人々と親しく付き合って暮らしてきた人物である。
長崎の人々の被爆の痛みは、倉場富三郎自身の心の痛みでもあったはずだ。
神の命令だとして日本人カトリック教徒たちを皆殺しするアメリカという国の「本当の狙い」に気づいたのではないか。
日本人カトリック信者倉場富三郎として彼の脳は激しく活動をしたであろう。
戦艦武蔵を建造する長崎三菱造船所の破壊が重要な軍事戦略であることも倉場富三郎は知っていたはずだ。
敵国の軍事基地への攻撃はどの国でも必要なことである。
教会で祈る日本人カトリック信者が爆心地の教会にいることもアメリカは承知のはずである。
広島にも爆心地最寄にカトリック教会があった。
そこは直接の被災は免れている。
但しそこの神父たちは運良く?当日は出かけていて教会付近にはいなかったようだ。
直接被爆はしていないと何かで読んだ。
広島のカトリックは「情報」を入手できていたのだろうか。
日本人のカトリック信者となると英米人の信者と扱いが異なるということを、原爆被災地を見て日英混血児の富三郎は確信し、そして失望したのではないだろうか。
『第二次世界大戦開始後、英国人の父と日本人の母との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられた。
終戦直後の1945年8月26日に自殺。遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻とともに埋葬されている。』(倉場富三郎(Wikipedia)より)
自殺の方法はわからないが、せめて英国人らしく拳銃自殺する方法を父から教えてもらっていたと思いたい。
下記は原爆投下から5ヵ月後の浦上教会の鐘である。』(以上、拙著ブログより再掲)
拳銃自殺をグラバーの息子に期待したのは、彼の父が銃砲の取引商人だったからだ。
当然拳銃は持っていたはずだ。
なぜ日本人的な湿り気の多い首吊りなど選んだのだろうか。
彼は長崎の原爆被害を見て「異常体験」を脳に起こしているはずだ。
その瞬間に彼は完全な日本人として死にたいと思ったのかも知れない。
母は日本人である。
父への尊敬の念が一気に崩壊したのではないだろうか。
もし遺書が残されていれば、その死に方の意味も解けるだろう。
広島への原爆投下の前日、淵田美津雄中佐に広島から岩国への移動を命じる連絡が入った。
彼は真珠湾攻撃爆撃隊長であった。
戦後はアメリカでキリスト教伝道者として活躍し、アメリカ人からは「真珠湾の英雄」として称えられている。
なぜ真珠湾を攻撃した日本人淵田がアメリカの英雄になるのか?
宣戦布告前の爆撃は卑怯な行為である。
そのジャップの卑怯さのために、アメリカの世論は戦争突入に向かって一致団結できたのである。
オバマ大統領が医療保険制度改革法案を通すために国民や議員を説得してもなかなか過半数の見通しを得ることができなかったように、いろいろな意見のあるアメリカ全土を一本化するには、真珠湾攻撃はなくてはならない事件だった。
世論操作のためにアメリカ自身が演出したドラマであった側面がある。
主演が淵田中佐なのである。
長崎原爆投下前夜までに、カトリック教であったと思われる倉場富三郎にも避難せよとの秘密の連絡が入ったはずである。
なぜそう断定できるかというと、広島にいた日本人の淵田にも同じ情報が入っているからだ。
倉場富三郎のいた場所は造船所からはやや離れていたので、被爆を運良く免れている。
しかし、なぜ倉場富三郎は日本人淵田中佐と同じように長崎を脱出しなかったのだろうか。
諫早や天草へ避難する選択があったはずだし、その手引きもあったことだろう。
74歳の高齢であったから、「死ぬなら長崎で」と覚悟を決めたのかも知れない。
それでも死ねずに生き残ってしまった。
しかもアメリカの原爆により、浦上天主堂で朝のミサをあげていた日本人カトリック信者は焼かれ吹き飛ばされた。
浦上天主堂は爆心地にあったから、信者の女や子供も、その内臓も脳も一瞬で灰になり、爆風で粉々に飛ばされてしまった。
遺骨さえ破片となって飛び散るから残らない。
それを見て、倉場富三郎はもはや生きる望みを失ったのだろう。
彼が銃殺ではなく、日本人的な首吊り自殺を選んだ理由はわからないが、なくなった日本人の信者たちのことを思うたびに日本人に帰ろうと思ったのではないかと思われる。
「長崎原爆を見たグラバーの息子は、その1週間後に首をくくって死んだ。」
グラバーの息子とは日系2世の倉場富三郎のことである。
私はこのブログで「マリアとグラバー」という題でそれについて触れていた。
そこでグラバーの子の自殺は拳銃自殺であって欲しいと私は書いた。
再掲する。
『74歳の倉場富三郎は、原爆投下から17日後に自殺している。
おそらく彼は敬虔なカトリック教徒の一人としてカトリック教徒が建国したアメリカ軍によって破壊された「悲しき聖廃墟」を見に行ったであろう。
倉場富三郎が戦後の日本人からの迫害を恐れて自殺したとは思えない。
長崎でハーフではあるが、同じ商人として人々と親しく付き合って暮らしてきた人物である。
長崎の人々の被爆の痛みは、倉場富三郎自身の心の痛みでもあったはずだ。
神の命令だとして日本人カトリック教徒たちを皆殺しするアメリカという国の「本当の狙い」に気づいたのではないか。
日本人カトリック信者倉場富三郎として彼の脳は激しく活動をしたであろう。
戦艦武蔵を建造する長崎三菱造船所の破壊が重要な軍事戦略であることも倉場富三郎は知っていたはずだ。
敵国の軍事基地への攻撃はどの国でも必要なことである。
教会で祈る日本人カトリック信者が爆心地の教会にいることもアメリカは承知のはずである。
広島にも爆心地最寄にカトリック教会があった。
そこは直接の被災は免れている。
但しそこの神父たちは運良く?当日は出かけていて教会付近にはいなかったようだ。
直接被爆はしていないと何かで読んだ。
広島のカトリックは「情報」を入手できていたのだろうか。
日本人のカトリック信者となると英米人の信者と扱いが異なるということを、原爆被災地を見て日英混血児の富三郎は確信し、そして失望したのではないだろうか。
『第二次世界大戦開始後、英国人の父と日本人の母との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられた。
終戦直後の1945年8月26日に自殺。遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻とともに埋葬されている。』(倉場富三郎(Wikipedia)より)
自殺の方法はわからないが、せめて英国人らしく拳銃自殺する方法を父から教えてもらっていたと思いたい。
下記は原爆投下から5ヵ月後の浦上教会の鐘である。』(以上、拙著ブログより再掲)
拳銃自殺をグラバーの息子に期待したのは、彼の父が銃砲の取引商人だったからだ。
当然拳銃は持っていたはずだ。
なぜ日本人的な湿り気の多い首吊りなど選んだのだろうか。
彼は長崎の原爆被害を見て「異常体験」を脳に起こしているはずだ。
その瞬間に彼は完全な日本人として死にたいと思ったのかも知れない。
母は日本人である。
父への尊敬の念が一気に崩壊したのではないだろうか。
もし遺書が残されていれば、その死に方の意味も解けるだろう。
広島への原爆投下の前日、淵田美津雄中佐に広島から岩国への移動を命じる連絡が入った。
彼は真珠湾攻撃爆撃隊長であった。
戦後はアメリカでキリスト教伝道者として活躍し、アメリカ人からは「真珠湾の英雄」として称えられている。
なぜ真珠湾を攻撃した日本人淵田がアメリカの英雄になるのか?
宣戦布告前の爆撃は卑怯な行為である。
そのジャップの卑怯さのために、アメリカの世論は戦争突入に向かって一致団結できたのである。
オバマ大統領が医療保険制度改革法案を通すために国民や議員を説得してもなかなか過半数の見通しを得ることができなかったように、いろいろな意見のあるアメリカ全土を一本化するには、真珠湾攻撃はなくてはならない事件だった。
世論操作のためにアメリカ自身が演出したドラマであった側面がある。
主演が淵田中佐なのである。
長崎原爆投下前夜までに、カトリック教であったと思われる倉場富三郎にも避難せよとの秘密の連絡が入ったはずである。
なぜそう断定できるかというと、広島にいた日本人の淵田にも同じ情報が入っているからだ。
倉場富三郎のいた場所は造船所からはやや離れていたので、被爆を運良く免れている。
しかし、なぜ倉場富三郎は日本人淵田中佐と同じように長崎を脱出しなかったのだろうか。
諫早や天草へ避難する選択があったはずだし、その手引きもあったことだろう。
74歳の高齢であったから、「死ぬなら長崎で」と覚悟を決めたのかも知れない。
それでも死ねずに生き残ってしまった。
しかもアメリカの原爆により、浦上天主堂で朝のミサをあげていた日本人カトリック信者は焼かれ吹き飛ばされた。
浦上天主堂は爆心地にあったから、信者の女や子供も、その内臓も脳も一瞬で灰になり、爆風で粉々に飛ばされてしまった。
遺骨さえ破片となって飛び散るから残らない。
それを見て、倉場富三郎はもはや生きる望みを失ったのだろう。
彼が銃殺ではなく、日本人的な首吊り自殺を選んだ理由はわからないが、なくなった日本人の信者たちのことを思うたびに日本人に帰ろうと思ったのではないかと思われる。
TOKEI&HOSEKI~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]
TS393444夕暮れ前の一関宿
TS393445懐かしいローソンの看板
TS393446大町銀座のTOKEI&HOSEKI店
ローマで支倉常長らと語らうルイス・ソテロ(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)
夕暮れ前の一関宿を歩いている。
整備された商店街だが、歩く人影はまばらだ。
大町銀座「TOKEI&HOSEKI」店の看板が目立つ。
英語ではない。
英語なら、「Watch &Juerry」である。
つまり英語圏の人間に知らせるための看板ではない。
戦国時代に、イエズス会が日本布教のために同行したのは火薬と鉄砲商人たちである。
彼らは主にポルトガル人である。
のち江戸時代にポルトガルはスペインに併合され、日本国での布教にスペイン人宣教師が多く関わってくる。
仙台の伊達政宗はカトリック教徒である支倉常長をメキシコや欧州へ派遣したが、支倉を支えた宣教師はスペイン人ソテロだった。
『ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574年~1624年)はエスパーニャ・セビリア生まれのフランシスコ会宣教師である。』(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)
ローマ字で時計や宝石を売っている店であることを示す必要があったのは、ここ一関の商売の相手がポルトガルやスペインの商人たちであることを物語っている。
その長い伝統が現在の商店街の看板に残っている。
「大航海時代にヨーロッパ勢力は、世界各地に植民地をつくっていた。
植民地活動で先行していたのはカトリックのエスパーニャ、ポルトガルであり、太平洋地域に於いてエスパーニャはフィリピンを植民地としてマニラ・ガレオンなどで多くの利益を上げ、ポルトガルはマカオを拠点にしていた。
一方、植民地活動で遅れをとっていたプロテスタントのイギリス、オランダも、遅れを取り戻すべく積極的な活動をしており、徳川家康は、オランダの商船リーフデ号で豊後国(現大分県)に漂着したイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦安針)を外交顧問としていた。
こうした状況のなか、慶長14年(1609年)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴが上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、慶長16年(1611年)には答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがエスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて来日した。
しかし徳川家康は、エスパーニャ側の要求であるカトリックの布教を許せば、それをてこにして植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかった。
そして、伊達政宗は仙台領内において、セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船サン・フアン・バウティスタ号を建造した。
伊達政宗はルイス・ソテロを外交使節の正使に、家臣・支倉常長を副使に任命し、ソテロや常長を中心とする一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)、エスパーニャ(スペイン)、およびローマへ派遣した。
使節の主目的は仙台藩とスペインの通商交渉であったと言われる。』(「慶長遣欧使節(Wikipedia)」より)
徳川家康は布教を強制するカトリックに対して脅威を抱いていた。
だからプロテスタントのオランダと長崎で独占貿易を行ったのである。
日本の歴史の選択には、世界における宗教の選択が大きく関わっているのだが、日本の教科書ではそのことを殆どすべて省略して教えている。
この看板が「Watch &Juerry」に架け替えられたときには、一関がプロテスタントの支配地域になったことを示すのであろう。
TS393445懐かしいローソンの看板
TS393446大町銀座のTOKEI&HOSEKI店
ローマで支倉常長らと語らうルイス・ソテロ(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)
夕暮れ前の一関宿を歩いている。
整備された商店街だが、歩く人影はまばらだ。
大町銀座「TOKEI&HOSEKI」店の看板が目立つ。
英語ではない。
英語なら、「Watch &Juerry」である。
つまり英語圏の人間に知らせるための看板ではない。
戦国時代に、イエズス会が日本布教のために同行したのは火薬と鉄砲商人たちである。
彼らは主にポルトガル人である。
のち江戸時代にポルトガルはスペインに併合され、日本国での布教にスペイン人宣教師が多く関わってくる。
仙台の伊達政宗はカトリック教徒である支倉常長をメキシコや欧州へ派遣したが、支倉を支えた宣教師はスペイン人ソテロだった。
『ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574年~1624年)はエスパーニャ・セビリア生まれのフランシスコ会宣教師である。』(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)
ローマ字で時計や宝石を売っている店であることを示す必要があったのは、ここ一関の商売の相手がポルトガルやスペインの商人たちであることを物語っている。
その長い伝統が現在の商店街の看板に残っている。
「大航海時代にヨーロッパ勢力は、世界各地に植民地をつくっていた。
植民地活動で先行していたのはカトリックのエスパーニャ、ポルトガルであり、太平洋地域に於いてエスパーニャはフィリピンを植民地としてマニラ・ガレオンなどで多くの利益を上げ、ポルトガルはマカオを拠点にしていた。
一方、植民地活動で遅れをとっていたプロテスタントのイギリス、オランダも、遅れを取り戻すべく積極的な活動をしており、徳川家康は、オランダの商船リーフデ号で豊後国(現大分県)に漂着したイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦安針)を外交顧問としていた。
こうした状況のなか、慶長14年(1609年)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴが上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、慶長16年(1611年)には答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがエスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて来日した。
しかし徳川家康は、エスパーニャ側の要求であるカトリックの布教を許せば、それをてこにして植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかった。
そして、伊達政宗は仙台領内において、セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船サン・フアン・バウティスタ号を建造した。
伊達政宗はルイス・ソテロを外交使節の正使に、家臣・支倉常長を副使に任命し、ソテロや常長を中心とする一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)、エスパーニャ(スペイン)、およびローマへ派遣した。
使節の主目的は仙台藩とスペインの通商交渉であったと言われる。』(「慶長遣欧使節(Wikipedia)」より)
徳川家康は布教を強制するカトリックに対して脅威を抱いていた。
だからプロテスタントのオランダと長崎で独占貿易を行ったのである。
日本の歴史の選択には、世界における宗教の選択が大きく関わっているのだが、日本の教科書ではそのことを殆どすべて省略して教えている。
この看板が「Watch &Juerry」に架け替えられたときには、一関がプロテスタントの支配地域になったことを示すのであろう。
一関宿~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]
TS393440 八幡宮の鳥居
TS393442 一関駅前
TS393443 一関駅
八幡宮の鳥居が左手に見える。
一関八幡神社であろう。
「一関駅前」の標識が見えてきた。
右手を見ると、遠くの駅舎が見える。
さきほど京都妙心寺のことを考えていたから、その流れでこの大きな宿場にもカトリック教会があるのではないかと思った。
調べると一関から約500北を左に曲がったところに教会があることがわかった。
明治時代になっても、切支丹へのさまざまな抑圧は続いていたはずであるが、ここは明治35年の設立だから、意外と早い。
江戸時代からカクレキリシタンたちが住んでいた可能性があるだろう。
NHK大河ドラマの龍馬伝に出てくる長崎丸山芸者お元さんのような日本女性が宿場の旅籠で働いていたのかもしれない。
『一関教会は1902年(明治35年)にパリ外国宣教会の司祭により小教区が設立された。
1948年(昭和23年)進駐軍より譲り受けたカマボコ型兵舎を改造して聖堂とした。
1949年(昭和24年)12月ドミニコ会からスイス・ベトレヘム外国宣教会の司牧へ変わり、1952年(昭和27年)、新しい聖堂が完成し現在も大切に使用されている。
1975年(昭和50年)ベトレヘム外国宣
教会から、教区邦人司祭に移行し現在に至っている。
現在の主任司祭は佐藤守也師。聖堂内にはスイス・ルツェルン市アンセルモ・ローネル氏より寄贈のあった美しいマリア像が設置されている。
また教会の窓にはカルペンティール神父(ドミニコ会)制作の十字架の道行きのステンドグラスが設置されている。』
(「カトリック一関教会 聖寵の聖母」より)
http://www.sendai.catholic.jp/c%20ichinoseki.htm
パリ外国宣教会とは、戦国時代に設立されたイエズス会のことではないだろうか。
カトリック教会の元になる活動が江戸時代に一関であったとすれば、ペドロ岐部も一関を訪れているはずだ。
日が暮れなずむ一関市街を通過し、今夜の寝床を探さなければならない。
だから一関教会へも寄れないが、夕方に見学する仕組みもないだろう。
TS393442 一関駅前
TS393443 一関駅
八幡宮の鳥居が左手に見える。
一関八幡神社であろう。
「一関駅前」の標識が見えてきた。
右手を見ると、遠くの駅舎が見える。
さきほど京都妙心寺のことを考えていたから、その流れでこの大きな宿場にもカトリック教会があるのではないかと思った。
調べると一関から約500北を左に曲がったところに教会があることがわかった。
明治時代になっても、切支丹へのさまざまな抑圧は続いていたはずであるが、ここは明治35年の設立だから、意外と早い。
江戸時代からカクレキリシタンたちが住んでいた可能性があるだろう。
NHK大河ドラマの龍馬伝に出てくる長崎丸山芸者お元さんのような日本女性が宿場の旅籠で働いていたのかもしれない。
『一関教会は1902年(明治35年)にパリ外国宣教会の司祭により小教区が設立された。
1948年(昭和23年)進駐軍より譲り受けたカマボコ型兵舎を改造して聖堂とした。
1949年(昭和24年)12月ドミニコ会からスイス・ベトレヘム外国宣教会の司牧へ変わり、1952年(昭和27年)、新しい聖堂が完成し現在も大切に使用されている。
1975年(昭和50年)ベトレヘム外国宣
教会から、教区邦人司祭に移行し現在に至っている。
現在の主任司祭は佐藤守也師。聖堂内にはスイス・ルツェルン市アンセルモ・ローネル氏より寄贈のあった美しいマリア像が設置されている。
また教会の窓にはカルペンティール神父(ドミニコ会)制作の十字架の道行きのステンドグラスが設置されている。』
(「カトリック一関教会 聖寵の聖母」より)
http://www.sendai.catholic.jp/c%20ichinoseki.htm
パリ外国宣教会とは、戦国時代に設立されたイエズス会のことではないだろうか。
カトリック教会の元になる活動が江戸時代に一関であったとすれば、ペドロ岐部も一関を訪れているはずだ。
日が暮れなずむ一関市街を通過し、今夜の寝床を探さなければならない。
だから一関教会へも寄れないが、夕方に見学する仕組みもないだろう。