楓とカトリック~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393447.jpgTS393447 楓並木
TS393448.jpg 平泉へはこの先を左へ
TS393449.jpgTS393449  左折して平泉へ向かう

北日本銀行の辺りから商店街の両側に楓の木が並んでいた。

私は楓の並木を見て、カトリック教徒の存在を感じている。
私だけはそう感じるのかも知れない。

しかし、カトリック教徒には明らかな意味が伝わっているはずだ。

楓の木で師弟の契りを結んだ長州人がいる。

吉田松陰と高杉晋作である。

楓の木が両者に深く関係していることは、その墓所を訪ねればわかる。
世田谷の松蔭の墓の左手には大きな楓の木がある。
晋作の墓は下関の東行庵の裏山にあるが、そこは紅葉谷という。
楓で山全体が包まれている。

楓の並木を歩きながら、おそらくこの左手に一関カトリック教会があるのだろうと推測した。
あいにく訪ねる予定はないが、足が丈夫であったならば訪ねるべき場所だと思う。

秋田の涙のマリアの庭園の隣にある『子羊の庭園」を歩けば、これとおなじ光景がある。
秋田のその楓並木が行き着いた先には、小さな小屋が道をふさぐように建っている。

中に入ると見上げるほどの高い位置にイエス・キリストの磔像が掲げられていた。

腕や足に打たれた釘穴から流れ落ちる赤い血は、まさに楓の葉の色であった。

スペイン宣教師ソテロは伊達政宗の保護を受けて東北布教で実りを上げたが、家康のカトリック嫌い(プロテスタント好き)のために最後は火あぶりの刑で死んでいる。
支倉常長をローマへ引率したころが、ソテロの人生の頂上だったのだろう。

『仙台藩主・伊達政宗との知遇を得、東北地方にも布教を行った。

1613年(慶長18年)、布教が禁止され捕らえられるが伊達政宗の助命嘆願によって赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとともにヌエバ・エスパーニャを経てヨーロッパに渡る。

エスパーニャ王、ローマ教皇パウルス5世に謁見し日本での宣教の援助を求めるが目的を達せず1617年、エスパーニャを発ちヌエバ・エスパーニャ経由でフィリピンに入り、マニラで日本に渡る機会を待って1622年(元和8年)、長崎に密入国したが捕らえられる。

この際も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、1624年(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教した。』(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)

商店街の外れに近づくと、「平泉へはこの先を左へ」と示す交通標識が現れる。
左折して、義経の第二の故郷、平泉へと向かう。

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