グラバーの息子の死 [つれづれ日記]

今(2010年8月15日敗戦記念日の午後1時前)、10チャンネル(テレビ朝日)で黒鉄ひろしがその死を一言語った。

「長崎原爆を見たグラバーの息子は、その1週間後に首をくくって死んだ。」

グラバーの息子とは日系2世の倉場富三郎のことである。

私はこのブログで「マリアとグラバー」という題でそれについて触れていた。
そこでグラバーの子の自殺は拳銃自殺であって欲しいと私は書いた。

再掲する。

『74歳の倉場富三郎は、原爆投下から17日後に自殺している。
おそらく彼は敬虔なカトリック教徒の一人としてカトリック教徒が建国したアメリカ軍によって破壊された「悲しき聖廃墟」を見に行ったであろう。

倉場富三郎が戦後の日本人からの迫害を恐れて自殺したとは思えない。
長崎でハーフではあるが、同じ商人として人々と親しく付き合って暮らしてきた人物である。

長崎の人々の被爆の痛みは、倉場富三郎自身の心の痛みでもあったはずだ。

神の命令だとして日本人カトリック教徒たちを皆殺しするアメリカという国の「本当の狙い」に気づいたのではないか。

日本人カトリック信者倉場富三郎として彼の脳は激しく活動をしたであろう。

戦艦武蔵を建造する長崎三菱造船所の破壊が重要な軍事戦略であることも倉場富三郎は知っていたはずだ。
敵国の軍事基地への攻撃はどの国でも必要なことである。

教会で祈る日本人カトリック信者が爆心地の教会にいることもアメリカは承知のはずである。

広島にも爆心地最寄にカトリック教会があった。
そこは直接の被災は免れている。

但しそこの神父たちは運良く?当日は出かけていて教会付近にはいなかったようだ。
直接被爆はしていないと何かで読んだ。

広島のカトリックは「情報」を入手できていたのだろうか。

日本人のカトリック信者となると英米人の信者と扱いが異なるということを、原爆被災地を見て日英混血児の富三郎は確信し、そして失望したのではないだろうか。

『第二次世界大戦開始後、英国人の父と日本人の母との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられた。

終戦直後の1945年8月26日に自殺。遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻とともに埋葬されている。』(倉場富三郎(Wikipedia)より)

自殺の方法はわからないが、せめて英国人らしく拳銃自殺する方法を父から教えてもらっていたと思いたい。

下記は原爆投下から5ヵ月後の浦上教会の鐘である。』(以上、拙著ブログより再掲)


拳銃自殺をグラバーの息子に期待したのは、彼の父が銃砲の取引商人だったからだ。
当然拳銃は持っていたはずだ。

なぜ日本人的な湿り気の多い首吊りなど選んだのだろうか。

彼は長崎の原爆被害を見て「異常体験」を脳に起こしているはずだ。

その瞬間に彼は完全な日本人として死にたいと思ったのかも知れない。
母は日本人である。

父への尊敬の念が一気に崩壊したのではないだろうか。

もし遺書が残されていれば、その死に方の意味も解けるだろう。

広島への原爆投下の前日、淵田美津雄中佐に広島から岩国への移動を命じる連絡が入った。

彼は真珠湾攻撃爆撃隊長であった。
戦後はアメリカでキリスト教伝道者として活躍し、アメリカ人からは「真珠湾の英雄」として称えられている。

なぜ真珠湾を攻撃した日本人淵田がアメリカの英雄になるのか?

宣戦布告前の爆撃は卑怯な行為である。
そのジャップの卑怯さのために、アメリカの世論は戦争突入に向かって一致団結できたのである。

オバマ大統領が医療保険制度改革法案を通すために国民や議員を説得してもなかなか過半数の見通しを得ることができなかったように、いろいろな意見のあるアメリカ全土を一本化するには、真珠湾攻撃はなくてはならない事件だった。

世論操作のためにアメリカ自身が演出したドラマであった側面がある。
主演が淵田中佐なのである。

長崎原爆投下前夜までに、カトリック教であったと思われる倉場富三郎にも避難せよとの秘密の連絡が入ったはずである。
なぜそう断定できるかというと、広島にいた日本人の淵田にも同じ情報が入っているからだ。

倉場富三郎のいた場所は造船所からはやや離れていたので、被爆を運良く免れている。
しかし、なぜ倉場富三郎は日本人淵田中佐と同じように長崎を脱出しなかったのだろうか。

諫早や天草へ避難する選択があったはずだし、その手引きもあったことだろう。

74歳の高齢であったから、「死ぬなら長崎で」と覚悟を決めたのかも知れない。
それでも死ねずに生き残ってしまった。

しかもアメリカの原爆により、浦上天主堂で朝のミサをあげていた日本人カトリック信者は焼かれ吹き飛ばされた。
浦上天主堂は爆心地にあったから、信者の女や子供も、その内臓も脳も一瞬で灰になり、爆風で粉々に飛ばされてしまった。
遺骨さえ破片となって飛び散るから残らない。

それを見て、倉場富三郎はもはや生きる望みを失ったのだろう。

彼が銃殺ではなく、日本人的な首吊り自殺を選んだ理由はわからないが、なくなった日本人の信者たちのことを思うたびに日本人に帰ろうと思ったのではないかと思われる。
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