TOKEI&HOSEKI~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]
TS393444夕暮れ前の一関宿
TS393445懐かしいローソンの看板
TS393446大町銀座のTOKEI&HOSEKI店
ローマで支倉常長らと語らうルイス・ソテロ(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)
夕暮れ前の一関宿を歩いている。
整備された商店街だが、歩く人影はまばらだ。
大町銀座「TOKEI&HOSEKI」店の看板が目立つ。
英語ではない。
英語なら、「Watch &Juerry」である。
つまり英語圏の人間に知らせるための看板ではない。
戦国時代に、イエズス会が日本布教のために同行したのは火薬と鉄砲商人たちである。
彼らは主にポルトガル人である。
のち江戸時代にポルトガルはスペインに併合され、日本国での布教にスペイン人宣教師が多く関わってくる。
仙台の伊達政宗はカトリック教徒である支倉常長をメキシコや欧州へ派遣したが、支倉を支えた宣教師はスペイン人ソテロだった。
『ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574年~1624年)はエスパーニャ・セビリア生まれのフランシスコ会宣教師である。』(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)
ローマ字で時計や宝石を売っている店であることを示す必要があったのは、ここ一関の商売の相手がポルトガルやスペインの商人たちであることを物語っている。
その長い伝統が現在の商店街の看板に残っている。
「大航海時代にヨーロッパ勢力は、世界各地に植民地をつくっていた。
植民地活動で先行していたのはカトリックのエスパーニャ、ポルトガルであり、太平洋地域に於いてエスパーニャはフィリピンを植民地としてマニラ・ガレオンなどで多くの利益を上げ、ポルトガルはマカオを拠点にしていた。
一方、植民地活動で遅れをとっていたプロテスタントのイギリス、オランダも、遅れを取り戻すべく積極的な活動をしており、徳川家康は、オランダの商船リーフデ号で豊後国(現大分県)に漂着したイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦安針)を外交顧問としていた。
こうした状況のなか、慶長14年(1609年)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴが上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、慶長16年(1611年)には答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがエスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて来日した。
しかし徳川家康は、エスパーニャ側の要求であるカトリックの布教を許せば、それをてこにして植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかった。
そして、伊達政宗は仙台領内において、セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船サン・フアン・バウティスタ号を建造した。
伊達政宗はルイス・ソテロを外交使節の正使に、家臣・支倉常長を副使に任命し、ソテロや常長を中心とする一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)、エスパーニャ(スペイン)、およびローマへ派遣した。
使節の主目的は仙台藩とスペインの通商交渉であったと言われる。』(「慶長遣欧使節(Wikipedia)」より)
徳川家康は布教を強制するカトリックに対して脅威を抱いていた。
だからプロテスタントのオランダと長崎で独占貿易を行ったのである。
日本の歴史の選択には、世界における宗教の選択が大きく関わっているのだが、日本の教科書ではそのことを殆どすべて省略して教えている。
この看板が「Watch &Juerry」に架け替えられたときには、一関がプロテスタントの支配地域になったことを示すのであろう。
TS393445懐かしいローソンの看板
TS393446大町銀座のTOKEI&HOSEKI店
ローマで支倉常長らと語らうルイス・ソテロ(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)
夕暮れ前の一関宿を歩いている。
整備された商店街だが、歩く人影はまばらだ。
大町銀座「TOKEI&HOSEKI」店の看板が目立つ。
英語ではない。
英語なら、「Watch &Juerry」である。
つまり英語圏の人間に知らせるための看板ではない。
戦国時代に、イエズス会が日本布教のために同行したのは火薬と鉄砲商人たちである。
彼らは主にポルトガル人である。
のち江戸時代にポルトガルはスペインに併合され、日本国での布教にスペイン人宣教師が多く関わってくる。
仙台の伊達政宗はカトリック教徒である支倉常長をメキシコや欧州へ派遣したが、支倉を支えた宣教師はスペイン人ソテロだった。
『ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574年~1624年)はエスパーニャ・セビリア生まれのフランシスコ会宣教師である。』(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)
ローマ字で時計や宝石を売っている店であることを示す必要があったのは、ここ一関の商売の相手がポルトガルやスペインの商人たちであることを物語っている。
その長い伝統が現在の商店街の看板に残っている。
「大航海時代にヨーロッパ勢力は、世界各地に植民地をつくっていた。
植民地活動で先行していたのはカトリックのエスパーニャ、ポルトガルであり、太平洋地域に於いてエスパーニャはフィリピンを植民地としてマニラ・ガレオンなどで多くの利益を上げ、ポルトガルはマカオを拠点にしていた。
一方、植民地活動で遅れをとっていたプロテスタントのイギリス、オランダも、遅れを取り戻すべく積極的な活動をしており、徳川家康は、オランダの商船リーフデ号で豊後国(現大分県)に漂着したイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦安針)を外交顧問としていた。
こうした状況のなか、慶長14年(1609年)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴが上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、慶長16年(1611年)には答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがエスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて来日した。
しかし徳川家康は、エスパーニャ側の要求であるカトリックの布教を許せば、それをてこにして植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかった。
そして、伊達政宗は仙台領内において、セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船サン・フアン・バウティスタ号を建造した。
伊達政宗はルイス・ソテロを外交使節の正使に、家臣・支倉常長を副使に任命し、ソテロや常長を中心とする一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)、エスパーニャ(スペイン)、およびローマへ派遣した。
使節の主目的は仙台藩とスペインの通商交渉であったと言われる。』(「慶長遣欧使節(Wikipedia)」より)
徳川家康は布教を強制するカトリックに対して脅威を抱いていた。
だからプロテスタントのオランダと長崎で独占貿易を行ったのである。
日本の歴史の選択には、世界における宗教の選択が大きく関わっているのだが、日本の教科書ではそのことを殆どすべて省略して教えている。
この看板が「Watch &Juerry」に架け替えられたときには、一関がプロテスタントの支配地域になったことを示すのであろう。
2010-08-15 12:50
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