広島は原子爆弾でやられて大変らしい。(翌日新橋駅にて) [つれづれ日記]

「高見順敗戦日記」というサイトから昭和20年8月7日の新橋駅前の会話を抜粋する。
この日残留放射能のある広島市内に十万人前後の人々が火傷に苦しみ、父や母や子供を捜してさまよい歩いていた。

『(8月7日)
新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。
「大変な話・・・聞いた?」と義兄はいう。
「大変な話?」
あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないところへと彼は私を引っ張っていって、「原子爆弾の話・・・」
「・・・!」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし・・・」
「もう戦争はおしまいだ」
原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾がついに出現したというのだ。・・・衝撃は強烈だった。
私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。
対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。』
(抜粋終わり)
「高見順敗戦日記」
http://www.k4.dion.ne.jp/~skipio/21essay2/takami-jun-haisen-diary.htm

では、当時日本でもっとも原子物理学に詳しい学者は何をしていたのか?

『同年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍によって広島市に「新型爆弾」が投下されると、8月8日に政府調査団の一員として現地の被害を調査し、レントゲンフィルムが感光していることなどから原子爆弾であると断定、政府に報告した。こ
れが日本のポツダム宣言受諾への一因となった。
引き続き8月14日には8月9日に2発目の原爆が投下された長崎でも現地調査を実施し、原爆であることを確認している。
また、「終戦の日」8月15日のラジオ放送において原子爆弾の解説をおこなっている。』(仁科芳雄(Wikipedia)より)

8月10日に原爆調査団の京都の会議に出席しているから、仁科博士は8日に広島に入り、その日9日か10日には京都に行っていることになる。

トルーマンが世界に向けて原爆を広島に投下したと発表したのは7日午前0時過ぎである。
高見順が義兄から原爆だよとささやかれたのも7日の昼である。

仁科氏は結局残留放射能を最小限しか浴びていないことになる。
長崎に調査に入ったのは14日で、翌日15日にラジオ放送で原子爆弾の解説をおこなっているから、おそらく1日か2日で長崎を脱出していることになる。

広島現地調査の時点、つまり8月8日に調査団は広島の爆弾は原爆だとほぼ断定している。
ならば、翌9日に長崎に新型爆弾が投下されたときに、取るものも取り合えず長崎へ行くべきだったのではないか。
長崎も原爆であり、その直後の状況が観察できるのである。
しかも残留放射能がもっとも大きいのである。

なぜ14日まで、9日を含めて6日後に長崎へ入ったのだろうか。
彼の豊富な知識を持ってすれば、原爆投下から6日間置く意味は深いのだろうが、広島・長崎市民は残留放射能の中に放置されたままだったのだ。

仁科氏が政府の許しを得て国民に広島のは原爆だったと説明したのは8月15日のことである。
科学者の良心はそのとき一体どうだったのだろうか、仁科博士の日記を見てみたいと思った。

私の父は原爆投下の1週間後に広島市内に入り、腐乱した兵士の遺体の回収作業に従事している。
75歳のときに肝臓がんでなくなった。
肝臓の80%が硬化しており、こげ茶色に変色していた。

仁科さんがどれほど戦前戦中に原爆に詳しい人物だったのか?
同上記事より見てみよう。

『ヨーロッパ留学
1920年に理化学研究所の研究員補となると翌1921年には2年間のヨーロッパ留学が決まり、4月5日に神戸港を出て日本郵船の北野丸でマルセイユに渡った。

最初にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所に滞在し、翌1922年11月にゲッティンゲン大学に移った。
ここでは「物理学は十分に成熟していて新たに取り組むべき問題はもはやない」と家族への手紙に書き、科学技術の底上げのために帰国後は玩具を本格的に研究する事を考え、ラジコンなどに興味を示した。

11月12日に母・津禰が亡くなり、これが留学期間の延長を後押しする要因の一つとなった。

ニールス・ボーアの講演を聴いて物理学の新しい分野の研究に興味を持ち、1923年4月にコペンハーゲン大学のボーアの研究室に移った。ここでは研究員として5年半過ごし、1928年にはオスカル・クラインとともにコンプトン散乱の有効断面積を計算してクライン=仁科の公式を導いている。
同年10月にコペンハーゲンを出港し12月25日に横浜港に到着、7年半ぶりに帰国した。

帰国後の動向
帰国後は招待してくれる大学がなく、理研の長岡半太郎研究室に所属し、1929年にはヴェルナー・ハイゼンベルク、ポール・ディラックを日本に招いている。

1931年7月に理研で仁科研究室を立ち上げ、当時国内では例のなかった量子論、原子核、X線などの研究を行なった。

翌年に中性子が発見されるとX線の代わりに宇宙線を研究対象に加えた。
1937年4月には小型のサイクロトロン(核粒子加速装置)を完成させ、10月にボーアを日本に招いている。
1939年2月には200トンもの大型サイクロトロン本体を完成させ、1944年1月から実験を始めた。

日米戦争と原爆開発「ニ号研究」
仁科は、米国の科学技術が進んでいることから日米開戦(太平洋戦争)には反対していた。

一方、1938年(昭和13年)にオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーらが原子核分裂を発見し、膨大なエネルギーを得られることが判明。

1940年(昭和15年)、仁科は安田武雄陸軍航空技術研究所長からウランを用いた新型爆弾の開発研究を要請され、理論的可能性の検討に入った。

アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年1943年(昭和18年)、仁科はウランの分離によって原子爆弾が作れる可能性を軍に提示。

この年から理研の仁科研究室が中心になって原子爆弾の開発がおこなわれることになった。

この開発は、仁科の「に」から「ニ号研究」と呼ばれた。

しかし結局、1945年(昭和20年)のアメリカ軍の空襲(日本本土爆撃)によって設備が焼失し、日本の原爆開発は潰えることになる。

またサイクロトロンは、戦争のために活躍する事なく(日本の原子爆弾開発を参照)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によって11月にサイクロトロンは東京湾に投棄された。』(仁科芳雄(Wikipedia)より)

仁科芳雄氏は、原爆製造に関して当時の世界トップレベルの技術と知識を有していた科学者だった。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。