吉良側は吉良邸内に180人程いた [つれづれ日記]

Wikipedia記事によれば、寺坂吉右衛門は大石の許可を得て浅野家ゆかりの家に一部始終を報告にいったとされている。
しかし、私はそれを信じられない。

またその根拠となる資料にも出会っていない。
複数の浪士が寺坂の脱走の正当性を説明したことはあったようである。

もし大石の命令で脱走しているならば、業務報告を終えたら即刻切腹したはずだ。
浪士たちの切腹の知らせを当然寺坂も受け取っているはずだからだ。

幕府は後に出頭した寺坂に「時効である」として放免している。
それが事実としても、時効にかかるほどの間逃亡していたのであろう。

忠臣らしからぬ姑息な行動であるといえよう。
やはり大きな力の支配下にあって寺坂は動いていたのであろう。

大石は脱走すら気づかなかったのではないだろうか。
主君の仇を討った以上、何をどう報告する必要があるのか。
ないはずだ。

詳細を知りたい者がいるとすれば、それは忠臣蔵のシナリオライターである。
松浦候はにっくき吉良の最後の姿をありありと想像したかったであろう。

寺坂スパイ説はまだ消えていない。

討ち入りの日に吉良邸内にいた武士が本気で戦えば、赤穂浪士の半分は死んだであろう。

当日吉良屋敷内にいた人数は180人だと桑名藩所伝覚書にある。
そのうち死ぬまで戦ったのは14名である。
負傷して横たわったり物陰に逃げ込んだものが28名いる。

ほとんどまじめに戦闘を行っていないのである。

『吉良家の家臣数は諸説あってはっきりしていません。

討ち入り後の幕府の検死役の書に「中間小物共89人」と書かれ、桑名藩所伝覚書では「上杉弾正(上杉弾正大弼綱憲)から吉良左平(吉良左兵衛義周)様への御付人の儀侍分の者40人程、雑兵180人程参り居り申し候よし」と記されています。

吉良上野介義央の石高は4200石ですので、慶安2年(1649)の軍役規定によると

4000石は79人
5000石は103人

ですので、高家の石高にもよりますが吉良家の場合、通常100人程度の家臣(中間、小者も含む)はいたと思われます。

なお、討ち入り当時の吉良家の家臣数は先に回答している方と同様ですが、戦死者の内訳も判っていますので紹介しておきます。

・戦死者17名の内訳
士分 14名
茶坊主 2名(鈴木松竹、牧野春斎。ともに十代の少年とみられています。非戦闘員ですが、武器をとって応戦したため、討ち死にしたと言われています)
中間 1名(門番)

・負傷者 28名
この負傷者の中に、吉良義央の嫡子・吉良義周がいます。

・生存者 101名
この生存者である足軽ら101名は門の脇にある長屋にいましたが、浪士方に扉を鎹(かすがい)で打ち付けられてしまい、閉じ込められていましたので戦闘に参加できませんでした。

・逃亡者 4名
この中で上杉邸に急報した、吉良義周の家来も含まれていると思います。』(「赤穂浪士の、吉良邸討ち入りのとき、吉良の家臣はいたのですか?」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1227877137

茶坊主2名のうちの一名は長屋から飛び出してきたものである。
早朝まだ暗かったので、てっきり浪士たちは武士が切りかかかってきたものとみなして、ばっさりと斬り捨てたのである。

「茶坊主が武器をとって応戦したため、討ち死にした」と上には書かれているが、うち一名は少なくとも逃げようとして殺されている。

坊主の力で蹴破ることができる長屋の戸である。

「浪士方に扉を鎹(かすがい)で打ち付けられてしまい、閉じ込められていましたので戦闘に参加できませんでした。」というのは、命乞いのための言い訳に過ぎない。

山鹿流陣太鼓の音を聞いた上杉家家臣たちは身動きができなくなってしまったのである。

兵法を知っている武士ゆえに上杉家の家法に縛られたのであろう。

おそらく上杉家からの援軍が吉良屋敷に到着し、藩主の命令を受けたならば、赤穂藩との戦争に参加したことであろう。

上杉家の援軍を足止めした老中稲葉某の役割がいかに大きかったかわかる。

『江戸藩邸は文政年間当時、外桜田御堀通り(現在の法務省敷地内)に上屋敷、麻布に中屋敷、芝白金に下屋敷があった。
また京都藩邸は柳馬場通三条下る西側に構えていた。

麻布藩邸は上杉綱憲により新築された。』(米沢藩(Wikipedia)より)

当時は「生類憐れみの令」により早馬は禁止されていたそうだが、霞ヶ関からであれば走れば30分もあれば本所へ駆けつけられるのではないだろうか。

討ち入りは午前3時過ぎである。
豆腐屋が知って駆けつけたのが4時ころだとすれば、取って返して5時までには本所に着いていただろう。
まだ赤穂浪士たちは両国橋付近にいたはずだ。

四十七士を皆殺しすることは可能だったのである。

スパイは墓を複数作り足跡をくらます [つれづれ日記]

松の廊下事件の際に大石良重がいなかった理由はわかった。
すでに亡くなっていたからだ。

浅野長矩の勅使饗応役を世話したのは確かに大石良重だったが、それは一回目のお役目のときであった。
それは無事に勤め上げている。

『(浅野長矩は)(天和3年2月6日(1683年3月4日)には、霊元天皇の勅使として江戸に下向予定の花山院定誠(正二位内大臣)・千種有能(正二位権大納言)の両名の饗応役を拝命し、3月に両名が下向してくるとその饗応にあたった。

このとき高家吉良義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野は勅使饗応役を無事務め上げている。

なおこの際に院使饗応役を勤めたのは菰野藩主土方雄豊であった。雄豊の娘はのちに長矩の弟浅野長広と結婚している。

この役目の折に浅野家と土方家のあいだで縁談話が持ち上がったと考えられる。
勅使饗応役のお役目が終わった直後の5月に阿久里と正式に結婚。

またこの結婚と前後する5月18日には家老大石良重(大石良雄の大叔父。また浅野家の親族でもある。詳しくは各項目参照のこと)が江戸で死去している。

大石良重は若くして筆頭家老になった大石良雄の後見人をつとめ、また幼少の藩主浅野長矩を補佐し、二人に代わって赤穂藩政を実質的に執ってきた老臣である。

しかしこれによって長矩に藩政の実権が移ったとは考えにくい。

長矩は依然数え年で17歳(満15歳)であり、国許の大石内蔵助もすでに筆頭家老の肩書は与えられていたとはいえ、数え年で25歳にすぎない。

したがって藩の実権は大石良重に次ぐ老臣大野知房(末席家老)に自然に移っていったと考えられる。』(浅野長矩(Wikipedia)より)

江戸詰めの赤穂藩家老として老人大石良重は主君の世話を勤めきっている。

二回目の勅使饗応役のときに、浅野は吉良を切りつけた。
お世話役は老臣大野知房(末席家老)に変わっていたのであろう。

先の記事「実在した山鹿流陣太鼓」のところで「梶川与怱兵衛筆記」を紹介したが、事件の際の松の廊下の登場人物には浅野家の大野知房の名はなかった。

家臣は別の間で待機していて、事件の騒ぎに気づかなかったのだろうか。


『大野 知房(おおの ともふさ、生没年不詳)は播州赤穂藩浅野家の末席家老650石。
『忠臣蔵』における不忠臣の代表格。

一方で優秀な経済官僚であったといわれる。
通称は九郎兵衛(くろべえ)。

大野知房は藩財政の運営と塩田開発に手腕を発揮して家老に取り立てられた。

元禄赤穂事件時にはかなりの高齢だったと見られる。

赤穂藩番頭の伊藤五右衛門(450石)は弟といわれる(一説に甥)。

元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩の吉良義央への江戸城での刃傷により、浅野長矩は切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。

筆頭家老大石良雄とともに大野は赤穂城での評定を主宰。

大野は開城恭順を主張し、籠城を主張する大石派の藩士と対立した。

また、分配金の配分では大石は微禄の者に手厚く配分すべきとしたのに対して、大野は石高に応じて配分すべきと主張している。
結局、大石の意見どおりに配分され、大野は藩内で孤立を深めた。

特に大野は、足軽頭原元辰と札座奉行岡島常樹の兄弟と対立した。

大野の原兄弟への憎悪はかなり深かったようで、三次藩士・久保田源大夫に向けて出した書状のなかで原を「無理非道の者」などと罵倒している。

また大野は、岡島の部下の小役人達が改易の混乱に乗じて金銀を奪って逃亡する事件をとらえて、岡島も一味に違いないと吹聴したといわれる。

これに激怒した岡島は、4月12日に大野邸に乗り込んだが、大野は会おうとはせず、やむをえず岡島は大野の弟の伊藤五右衛門邸へ行き、伝言を頼んで帰った。

しかしその日の夜、大野は子息の大野群右衛門とともに家財を置いたまま船で逐電する。

よほど慌てていたと見え、幼い孫娘を屋敷に置いたままにしたうえ、女駕籠にて逃げたことが堀部武庸筆記に記されている。

その後の大野については諸説あるが、元禄16年(1703年)4月に伊藤東涯が並河天民へおくった書簡に九郎兵衛と伊藤五右衛門の事が書かれている。

伊藤東涯と大野兄弟は親族関係なのであろうか。

ともかくそれによると「伴閑精」と称して、京都の仁和寺の辺りに住んでいたという。

元禄16年(1703年)4月6日に衰死して東山の黒谷に葬られたことも書かれている。
これは伊藤五右衛門が埋葬してくれた日夏長兵衛へ対して送った4月17日付けの礼状にも記述があるという。

また群馬県安中市の松岸寺にある林遊謙なる者の墓があり、これが大野であるという伝承もあるが、この墓碑には「慈望遊議居士 寛延四年九月二十四日」と書かれている。

これに従えば、大野は赤穂城開城時から50年以上も生きたことになり、疑わしい。

山形県の板谷峠にも大野のものと伝わる石碑がある。

ここには大石良雄が討ち入りに失敗した時のための「第二陣」を大野知房が率いてこの板谷峠に潜伏し、大石らの討ち入りが成功したのを聞いて歓喜し、その場で自害したという伝説が残るのだが、伝説の域を出ていない。

更に、山梨県甲府市の能成寺にも大野が隠れ住んでいたという伝承があり、墓石には「幽玄院真岩猶夢居士」と刻まれている。

大野は人々から不忠臣として扱われ、長く庶民から憎まれ続けた。

大野邸跡に残る柳の木は不忠柳と呼ばれている。

また歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』でも大野は悪役「斧九太夫」として登場する。』(大野知房(Wikipedia))

大野知房(九郎兵衛)の墓は全国各地にある。
京都東山、群馬安中市、山形県板谷峠、山梨県甲府市と幅広い。

一般に素性や経歴を消す目的で墓を複数作ることは、スパイの定石である。

大野の素性や足跡が後の時代に知れては困るという理由があったのだろう。

忠臣ではない赤穂藩元家老となれば、墓も暴かれていたずらされるという不安も遺族にあったのかもしれないが、遺族が墓を複数置いてかく乱するということは考えにくい。あらされるのが怖いなら、墓を作らねばよいだけだ。
寺が位牌と遺骨を預かってくれる。

あちこちに墓を設けるのは、財力と政治力がある人物の画策によるものだ。

大野九郎兵衛ともいうから、歌舞伎原作者は「斧九太夫」とあだ名したのであろう。

『斧九太夫【おの くだゆう】…仮名手本キャラ。大野九郎兵衛がモデル。

大石(大星)とたもとをわけたあと、敵方吉良のスパイとなり、祇園で遊びほうける大石に討ち入りの意思があるかないかを探りにのこのこやって来る。

殿の命日なのに大石にタコの刺身を食べさせたり、刀を抜いて錆をコソ見したり。

老齢ながら縁の下に隠れるなどして諜報活動を続けた結果、密書の盗み見に成功するが、最終的に潜んでるところを大石に引っ張りだされ、「てめえよくも命日にタコなんぞ食わせやがったなこの野郎!」といままでとぼけてた大石に逆上され、寺坂吉右衛門(寺岡平右衛門)に河原で始末される。』(斧九太夫(Kusupedia)より)

歌舞伎原作者は大野九郎兵衛を幕府側のスパイだと設定している。
スパイであった可能性は高いが、朝廷側のスパイだった可能性も残る。

歌舞伎では寺坂吉右衛門に大野は殺されている。
実は四十七士の一人である寺坂吉右衛門にもスパイのにおいがする。

私は本所松坂町吉良屋敷から泉岳寺まで赤穂浪士と同じ道を辿って歩いたことがある。

新橋を通過して品川へ出るまでの間のどこかで寺坂吉右衛門は行軍から逃亡している。

右へ走れば大名屋敷が並ぶ街区である。

どこかに飛び込んで、討ち入りの詳細を語ったはずだ。
つまり討ち入り前から討ち入りの様子を詳細に報告する役目を寺坂は負っていたのである。

逃亡に当たって、複数の浪士たちが寺坂の逃亡をかばっている様子がある。

大石が容認していたかどうかは不明である。

少なくとも寺坂が泉岳寺に行く前に逃亡し切腹を免れるということについて、四十七士の中に了解していたものが複数いたのは確かだろう。

今泉岳寺に行くと、四十七の墓の中にちゃんと寺坂吉右衛門の墓もある。
どこかの寺の小使いか何かをして80歳くらいになるまで長生きして、それから遺骨が泉岳寺へとやってきたのだろう。

泉岳寺以外にも、この寺坂吉右衛門の墓は全国にいくつかあるのだ。

寺坂もスパイであった可能性がある。

寺坂は討ち入りの詳細を黒幕と近松門左衛門に報告したのではないか?
原作者は事前に書いておいたシナリオと実際の討ち入りの齟齬を修正することができるからだ。

歌舞伎にあるように、大野の口封じのために寺坂が殺害した可能性もあり得る。
その場合は、浅野を刃傷事件へ落とす役割の大野と、シナリオの完成責務を負う寺坂の姿が浮かんでくる。

松の廊下の事件を回避させるべき役目を負っていた末席家老の大野九郎兵衛は江戸城で何をしていたのか。
浅野の勅使饗応役を無事に済ませるべく働いていたのであろうか。

一回目の勅使饗応役は大石良重の努力で無事に乗り切っている。
浅野は二回目の体験である。

大野さえしっかりしていれば、無難に勤め上げていてもおかしくはない。
スパイだとすると大野は「逆に動いた」のではないかという疑いを捨てきれない。


縄の工場~奥州街道(4-194) [奥州街道日記]

TS393399.jpgTS393399再び有壁宿を逆走する
TS393400.jpgTS393400水路
TS393402.jpgTS393402水路の紅葉
TS393401.jpgTS393401縄の製造所

悔しい思いをしながら有壁宿へと戻る。
どうせ国道に戻るなら別の道を歩こうと思い水路に沿って歩いた。

水際に赤く色づいたきれいな紅葉が並んでいた。

そのすぐそばで機械の音が聞こえる。

カチャンカチャンと規則的な音がする。

屋内を覗くと、縄を巻いた製品が並んでいた。

縄を編む工場だった。
生まれて初めて見た縄の製造所だった。

同じ道を歩けば同じ光景しか見えないが、一本北側の路地を歩くことで新しい発見がある。

転んでもただでは起きないとはこういうことだろう。

紅葉見物で目の保養をし、縄の工場で社会見学をした。

山中の双六(すごろく)~奥州街道(4-194) [奥州街道日記]

TS393395.jpgTS393395マイクロウエーブの塔
TS393396.jpgTS393396林道は下り始める
TS393398.jpgTS393398どこかで見た光景??(古道の入口)

林道の坂を上っていくと、やがてマイクロウエーブの塔が立つ峠らしき場所へ着いた。
そこから右へ旋回しながら、林道は下り坂になっていく。

あまりに道路の旋回が大きいなと思いつつも、坂を下っていった。

しばらく降りてくると、右手に見たことのある光景が広がった。

「奥州街道 有壁方面」と赤い文字が見える。
その奥には先ほど読んだ案内板があった。

「奥州街道 肘(ひじ)曲がり坂」と書いてある。

やってしまった!

完全に道を間違えた。
それも一旦登っていった坂道を、下りには迂回しながら元の古道出発点の位置まで戻ってきたのである。

第二有壁には行けなかったのだ。

林道を巡るうちにいつのまにか有壁宿の北の外れへ戻されたことになる。

無駄に約2キロメートルを歩いたことになる。

暑さのために汗をかいているが、その上に冷や汗もかきはじめたようだ。

これを無念といわずになんと言おうか。

あきらめるしかない。

私の使っているガイドブックの地図の不正確さも手伝っているが、途中途中でコンパスで方向を確認することを怠った私の責任でもある。
奥州街道は北へ北へと延びているから、東や南を向いたら間違いであると気づくべきだった。

奥州街道の第4幕は今日で4日目である。
4日目の足はつま先が痺(しび)れ始める。

以前はここで豆ができて歩けなくなっていたが、四街道を歩くうちに豆はできない体質に変わった。
しかし、疲労が足先に出てくるのは変わらない。

その足で第二有壁へと挑んだのだったが、元に返されてしまった。

街道歩きにはつき物の道迷いであるが、今回はほとほと精神的ダメージを受けた。

もう一度古道を通って険しいといわれる第二有壁に挑戦するだけの体力もないし、これからでは山中で日が暮れ始めるから危険である。
有壁宿をもう一度通過して、来た道を戻り国道4号線を歩くしか他に手はない。
今朝歩いてきた道を戻って、国道4号線に戻った。

国道を歩けば間違いなく一関宿へと着く。

江戸時代には国道はないから、道を間違ったなら何度もそのルートを探して挑戦したことだろう。

そういう苦労を含めて昔の街道歩きというのはすごいものだと関心する。

現代の私たちは、国道という逃げ道が税金でちゃんと整備されている。

再び林道~奥州街道(4-194) [奥州街道日記]

TS393392.jpgTS393392赤い実の群れ
TS393393.jpgTS393393赤い実
TS393394.jpgTS393394あれ!林道だ

赤い実が目立つ。
きれいな朱色の丸い実が可憐である。

森の中へ再び入っていく。

しばらくすると、車の轍(わだち)のある林道に出た。

第二有壁は第一有壁よりも険しいと書いてあったが、林道とはちょっと解せない。

引き返すつもりもないので、ずんずんと前へ歩いていく。

赤い実~奥州街道(4-193) [奥州街道日記]

TS393388.jpgTS393388あぜ道と森
TS393389.jpgTS393389田んぼが消えた
TS393390.jpgTS393390赤い実
TS393391.jpgTS393391再び森の中へ

森を左手に見ながら、田んぼのあぜ道を登っていく。
静かな空間に熊よけの鈴だけが鳴り響く。

あぜ道に赤い実がなっていた。

いよいよ眼前の森へと入っていく。


タグ:赤い実

生き生き~奥州街道(4-192) [奥州街道日記]

TS393384.jpgTS393384生い茂る露草
TS393386.jpgTS393386露草
TS393385.jpgTS393385ミツバチハッチ

説明は要らないだろう。
廃道に咲く江戸時代と同じ草花である。

これほど生き生きとした植物はない。

人間がいないということは自然界にとっては幸福なことなのだ。

杖~奥州街道(4-191) [奥州街道日記]

TS393376.jpgTS393376左折すればこの方向
TS393379.jpgTS393379右折すればこの方向(こちらへ進む)
TS393381.jpgTS393381LEKIのステッキ

山を抜けて稲田の畔道を歩く。
分岐では右折を選んだ。
右手が森に深くなると読んだ。

第二有壁とやらに向かう。

熊よけのつもりで、リュックからLEKIの杖一本を取り出す。
私は二本ステッキではない。
一本だけで歩く。

獣と対峙したときに、この杖が一本あれば距離を稼ぎナイフを取り出す時間が稼げるだろう。
しかも使わないときは、一本だけリュックに収納すれば済む。

迷い道~奥州街道(4-190) [奥州街道日記]

TS393373.jpgTS393373森の出口は田んぼのあぜ道
TS393374.jpgTS393374「有壁方面奥州街道」の標識
TS393377.jpgTS393377昼食はみたらしダンゴ

森の木が少なくなり、空が広く明るく見えてきた。
坂を下ると田んぼの稲穂が見えた。

これが街道?
どう見ても田んぼのあぜ道に出てきた。
一本道だったから間違えたはずはない。

そのあぜみちの右下側に、地面すれすれの小さい標識があった。

「有壁方面奥州街道」と書いてある。

やはりこれが江戸時代からの奥州街道だったのだ。

この標識をおいてくれた親切な人に感謝した。
安心したので、その草むらにリュックを降ろし、途中で買った「みたらしだんご」で昼食とした。

ダンゴを頬張っていると、左手の山際から自動車の音が聞こえてきた。
遠くの山すそを国道4号線がよぎっているのがちらりと見えた。
ときどき自動車が左右に走る姿が遠くに見える。

よく見ていないと国道を見落とすくらい遠い。

あれが現在の自動車でいく奥州街道なのだ。
旧街道はこのあぜ道である。

13時に草むらを出発した。

上の写真にあるように、あぜ道は正面の森に突き当たり左右に分かれる。
奥州街道に行くにはどちらをいけばいいか、探すが標識はない。

左手に国道4号線が見えたので、左へ曲がれば国道に戻ってしまうだろう。
右手に曲がれば、さらに深い森へと入っていくだろう。

ガイドブックの地図には、これから第二有壁で険しくなると説明がある。
ならば右の森のほうへ再び向かうべきだろう。

自信はなかったが、「勘」に従い右折した。

もし「有壁方面奥州街道」の標識がなかったならば、道に迷ったかも知れないという不安が増加しているときだったので、国道に近づく方向に、つまり左へ曲がっていただろう。

腹ごしらえもして、落ち着いて考えた末、右へと曲がったのである。

野アザミ~奥州街道(4-189) [奥州街道日記]

TS393370big.jpgTS393370b道に咲く野アザミの花
TS393371.jpgTS393371平たい草の道
TS393372.jpgTS393372北側が開けてきた

野アザミの花を踏みつけないように跨いで坂を上りきると、そこに平たい草の道が広がっている。
それが正式な花の名前かどうかは私は知らない。

私が幼いころに山歩きをして感じたままに花の名を付けて呼ぶ。

「肘(ひじ)曲がり坂」は長さ約50mと案内板に書かれていた。

これまで上ってきた坂がそれなのだろう。
次にどちらにいけばよいか標識はなかった。

「肘曲がり坂」は廃道になっているそうだから、文句も言えない。
そこへ入っていく私のほうが普通ではないのだ。

小型のコンパスで方向を確かめる。
動物的感に従い、奥州街道が向かっている北の方向へと進むことにする。

辺りの暗さに目が慣れてきたころに、前方に明るい空が開けてきた。

熊に出会うことなく森を抜け出ることができたのだ。

薄暗い森の中で見る空の明るさは、私に生きる希望を与えてくれる。
しかし、あの野アザミにとってはこの暗さと湿気が生きやすいのであろう。

これで森歩きは終わるのではないかと甘い期待を持ちつつ、明るい方向へと急いでいった。

肘(ひじ)曲がり坂~奥州街道(4-188) [奥州街道日記]

TS393364.jpgTS393364これが奥州街道の古道
TS393367.jpgTS393367草に埋もれてしまった地面
TS393369.jpgTS393369雑草の繁栄

意を決して、「奥州街道 肘(ひじ)曲がり坂」の案内板のところから左に折れ、林道から外れた。

道が殆どないような草の土手へと這い上がり更に深い森の中へ入る。
旧街道はあたかも熊笹の中を分け入るが如しである。

案内板には「磐井郡鬼死骸村を通り田村氏の城下町一関に至る」と書いてあった。
鬼の死骸に満ちているような名前の村を通るようだ。

命名したのは、この地域を侵略し植民地化に成功した大和族である。
恐ろしい名前をつけるのは、この地域の蝦夷(えみし)と呼ばれたアイヌ人部族が武力にとても優れていた証(あかし)である。

倭人には「言霊(ことだま)信仰」があるという。
井沢元彦著「逆説の日本史」で知った。

「もし核戦争が起ったらどう防衛するか?」という議論を国会で行うことを日本人は嫌う。
「もし甲子園大会で1回戦で負けたときは、どうするのですか?」

不幸な出来事を「言葉」にして口に出すと、その言葉自体霊力を持ってしまいそれが実現してしまうという信仰である。

「おばけ村」と名づければ、そこにはお化けがいるということになる。
「鬼死骸村」と名づければ、そこには鬼、つまり蝦夷の死骸があることになる。

おそらく侵略者たちはアイヌ一族を皆殺しにしてその村に埋めたのであろう。
恐ろしい名の村には倭人たちは近づかない。
よって、再び有壁の地がアイヌ族の酋長が栄える村にはならないという祈りが込められているのだろう。

杉林の中をとおり、そこを抜けると道路は草に埋もれていた。
地面がむき出しになっていないのは、人間が歩かないからである。
お陰で道路の雑草は目一杯繁栄している。

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