牛縊(うしくびる)~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393456.jpgTS393456 「ふみしろ」の横にシュロの木
TS393457.jpgTS393457 手前に2本、奥に1本シュロがあった
TS393458.jpgTS393458 「この先田村町電線地中工事のため・・・」

「ふみしろ」というひらがの看板がある。
その建物の横にシュロの木が見えた。

それで一度立ち止まって5~6mほど後戻りしてみた。

見る位置が変われば樹木の本数が変わることがあるからだ。
「ふみしろ」の横には街道沿いに2本シュロの木が植えられていて、さらに奥のほうもう1本シュロの木があった。

歩道に工事中の看板があった。
「この先田村町電線地中工事のため・・・」と書いてある。

この先が「田村町」だそうだ。

「奥州街道 肘(ひじ)曲がり坂」の案内板「磐井郡鬼死骸村を通り田村氏の城下町一関に至る」と書いてあった。

ここ一関宿は田村氏の支配する宿場だった。
そして田村氏とは、坂上田村麻呂の末裔である。


『田村氏(たむらし)は陸奥国の田村郡を支配していた戦国大名。
豊臣秀吉の奥州仕置により改易となるが、後に仙台藩伊達家の内分分家大名として再興される。
明治以降は子爵となり華族に列せられた。

出自
平安時代、桓武天皇より征夷大将軍に任命されて蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂を祖とし、その子孫が代々田村郡を領してきたとされる。

だが、応永期までの田村庄領主であった田村庄司家は藤原姓であり、それ以後に田村庄司職を奪取したとみられる三春田村氏は、田村義顕が大元帥明王社に奉納した大般若経に平義顕とあり、同様に田村清顕発行文書には平清顕とあることから、平姓と考えられる。

その一方で両田村氏とも坂上氏の後裔と称しており(田村庄司家は鎌倉大草紙、三春田村氏の場合は家譜類に見える)、田村郡の領主は坂上氏の末裔でなくてはならないという伝統があったと考えられる。

それはこの地における支配の正当性を示すものであり、徳川氏が三河国の領主としての正当性を示そうと河内源氏を称したのと同種であろう。

中略。

伊達政宗と田村仕置
郡山合戦に勝利した伊達政宗は三春城に入城、清顕後室を船引城に隠居させ家中相馬派を一掃した。

そして、清顕の甥である田村孫七郎を三春城主に据え、宗の一字を与え田村宗顕と名乗らせた。
宗顕の父は清顕の弟氏顕であり、清顕と同母であるため、宗顕も伊達氏の血を引いている。

これら伊達政宗による一連の相馬家の影響力排除を「田村仕置」と呼ぶ。

なお、これによって田村氏が伊達家中に含まれたわけではない。

伊達氏の影響力が強まり、また宗顕も田村家中も政宗へ依存したことは事実である。
しかし、宗顕は政宗と愛姫の子供が生まれるまでの「名代」とされており、中継相続人として期間限定的に田村家の家督を継いだと考えられる。

このことから、伊達家の与力的な立場ではあるが、あくまでも独立領主としての地位を保持していたと考えうるのである。

奥州仕置による改易
宗顕は1590年、豊臣秀吉の小田原の役に参陣せず、奥州仕置によって改易された。
田村領は政宗に与えられた。これは、田村家の家督は清顕より渡され自分にあるとした伊達政宗が宗顕の参陣を止めさせたためであり、結果的に政宗は奥州仕置を利用して田村領を乗っ取った形になった。

この政宗の裏切りとも思える行為に宗顕以下田村家中は失望、憤慨した。

宗顕は改易後、政宗の庇護の申し出を断り、牛縊定顕と名乗り隠棲した。
なお、宗顕は後に愛姫の意向により仙台藩領白石に身を寄せ白石城主片倉景綱の姉・片倉喜多の名跡を継いだ。

改易後の旧田村家中
伊達政宗は田村家中を伊達家中として召し抱えようとしたが、乗っ取られた形となった田村家中の政宗への不信感と反発は強かった。 そのため、彼らの多くはこれを断り蒲生氏や上杉氏、相馬氏などに仕官するか、旧知行地に帰農した(のちに蒲生家の改易や上杉家の減封によって浪々し、伊達家に仕官する者もいた)。

帰農したものは近世に至って庄屋に任ぜられるなど、村落特権層を形成し、郷士や在郷給人といった待遇を受ける者もいた。実際、近世三春藩の庄屋層は田村氏の一族や家中館主の後裔と思われる者が多数を占める。なお、家中館主配下の地侍の流れを汲むと思われる者は領内の上層農民にみられる。

また、合戦の敗北による断絶ではなかったため、帰農した旧田村家中とその子孫は敗北感を持たず、剛腹で武勇に富み、村民から「御屋形様」などと呼ばれた。彼らはその高い誇りゆえに、新領主の蒲生氏や上杉氏の武威の前にも容易には下らなかったという。そこで新領主は旧田村家中を庄屋に任じ在郷の士分として扱い懐柔した。そのため、彼らは在地の実力者として大いに権勢を誇った。

しかし、それによる弊害も多く、秋田氏の入封後は平庄屋の苗字帯刀の禁止と持高の制限を行い、地侍的性格を否定した。一方で藩命により転村することも多く、支配の末端に属する藩の下級官吏的な面が強く残った。

庄屋層の中でも新田開発や献金、役儀精勤の者、特に由緒のある者、割頭(大庄屋)は在郷給人に列せられた。在郷給人は給地や苗字帯刀御目見えの特権を与えられ、臨時の軍役が課せられることもあるなど、士分に準じた郷士待遇であった。

これらの背景から帰農した旧田村家中の子孫は、士分的意識を持ち続けることが多かった。

なかには大名家への仕官を試みる者もおり、農商の世界に浸りきれなかった彼らの心情が表れているといえよう。
なお、明治初期の版籍奉還を前に、三春藩は在郷給人・郷士制度を廃止したため、これらの待遇を受けていた旧田村家中の子孫は士族とはならず、平民籍となった。

伊達家による田村氏の再興
その後、愛姫の遺言により伊達忠宗の三男宗良が1652年岩沼3万石を分知され、田村宗良を名乗って田村氏が再興される。

後に一関に移り一関藩となった。

この近世大名田村氏は伊達62万石の内に3万石の領地を分与された内分分家大名であったが、幕府に対して直接公役を果たし、譜代大名格となる。

なかでも一関初代藩主(近世大名田村氏としては二代)田村建顕は、奏者番として江戸城に出仕し、浅野長矩の刃傷事件に際してその身を預かり、邸内で切腹させたことでも有名である。再興された田村氏は幕末まで一関を領し、明治以後は華族令によって子爵に列せられた。
』(田村氏(Wikipedia)より)

坂上田村麻呂から始まって漸く一関初代藩主田村建顕が登場してきた。
それだけ田村氏の歴史は権力闘争に明け暮れていたということだろう。

アイヌ族の中へ植民地政策で入り込んできて、いきなり田村麻呂の末裔だから領主様だといってもなかなか国人たちの了解を得にくかったのだろうか。

奥州仕置による改易の際に、政宗は奥州仕置を利用して田村領を乗っ取った。
この政宗の裏切りに憤慨し、田村宗顕は政宗の庇護の申し出を断り、牛縊定顕と名乗り隠棲したという。

「牛縊(うしくびる)」という姓を名乗ったところが面白い。

おなじ「くびる」でも「括る」という漢字を当てれば「ひもなどでくくり締める」という意味になる。
しかし「縊る」という感じを当てれば、それは「首を絞めて殺す」という意味になる。

アイヌ族は馬の文化である。
トルコ系などの騎馬民族の血が入っているのかもしれない。

一方、弥生人、とりわけ大和族は稲作や輸送には牛を用いる。

京都祇園祭の牛車はその象徴である。

「牛の首を絞め殺す」と名乗った田村宗顕は自らを馬の文化と思っていたのではないかとふと思った。

伊達政宗を牛とみなしていたとすれば、伊達家は大和族から奥州へ植民してきた大和族の末裔なのかもしれない。

坂上田村麻呂も大和族の征夷大将軍としてやってきたのだが、奈良の坂の上に住む帰化人であった。

ただ田村麻呂の後裔を名乗る田村氏も歴史の中では姓を剥奪してものもいるようなので、果たしてどこまでが奈良の坂上の末裔かははなはだ疑問がある。

肉食が許されるようになった明治以降、牛タンが仙台名物となったことは、伊達政宗あるいは伊達家が牛を多用する民族だったことと関係あるのかもしれない。

福島県郡山市の中田町に「牛縊本郷」という地名がある。
「うしくびる」と読むのだろうか。

茨城県筑波郡にも牛縊村という地名があるが、この二つの地には「田村宗顕の憤慨」が伝播したのかもしれない。

蔵のある道~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393453.jpgTS393453 「トップウェルネス一関」の看板(左端)
TS393454.jpgTS393454 整備された歩道
TS393455.jpgTS393455 一関宿の蔵のある旧道

「トップウェルネス一関」の看板が交差点の左端に立っている。

『ペアーレ一関(一関社会保険健康センター)が『トップウェルネス一関』に変わりました!
 地域のみなさんが健康的でキラキラ輝く(=ウェルネスな)人生を過ごせますように、常時100種類以上の講座を開講しております。プールとジムは一般利用も行っております。』
(「トップウェルネス一関」より)
http://top-wellness.jp/ichinoseki/

市の保健福祉施設のようである。

行政も横文字を多用する時代になったので、ときどきなんだろうかと面食らう。

歩道は左側だけ広く整備されている。

蔵のある古風な街道に出てきた。

東京人は翌日広島は原爆だったと知っていた! [つれづれ日記]

NHK総合テレビで作家高見順の日記が紹介されていた。

『新橋駅で義兄に声をかけられた。
「大変な話-聞いた?」と義兄はいう。

「大変な話?」あたりの人をはばかって、
義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。

人のいないとこへと彼は私を引っぱて行って、「原子爆弾の話-」
「……!」
広島の全人口の三分の一がやられたという。

「もう戦争はおしまいだ」

原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める。
そういう話はかねて聞いていた。
私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。』
(NHK総合テレビ番組「あの日 昭和20年の記憶」より抜粋)

高見順は福井県知の妾腹から生まれているから、知事の息子から聞いたのかもしれない。

『福井県知事阪本釤之助の非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。

母は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性。

阪本釤之助は永井荷風の父方の叔父であり、したがって荷風と高見順は従兄弟同士になるが、それにも拘らず互いに極めて険悪な関係にあった。

1歳で母と共に上京。
実父と一度も会うことなく、東京麻布飯倉にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。

私生児としてしばしばいじめを受けた。

阪本家からは毎月10円の手当てを受けていたがそれでは足りず、母が針仕事で生計を立てた。
東京府立第一中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。

在学中より「左翼芸術」などに作品を発表し、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動する。
1932年、治安維持法違反の疑いで検挙されるが、「転向」を表明し、半年後に釈放される。

1935年、饒舌体と呼ばれる手法で「故旧忘れ得べき」を著わす。
これが、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。

第二次世界大戦中の1939年には、戦時下の重圧の中の浅草風俗を描いた「如何なる星の下に」で高い評価を受ける。

戦後は、「わが胸の底のここには」、「あるリベラリスト」などの作品で私小説風に傷つきやすい精神を掘り下げた作品を次々と発表する。

また、晩年は、昭和という時代を描く「激流」「いやな感じ」「大いなる手の影」の連作を発表する。長編などでは他に「都に夜のある如く」、「生命の樹」、「今ひとたびの」、「胸より胸に」などがある。

また、詩人としても活躍し、「樹木派」、「わが埋葬」、「死の淵より」(最晩年の作、新版が講談社文芸文庫)などを発表する。

永井荷風と並ぶ日記作家としても知られ、昭和史の資料ともいえる「高見順日記」を著わす。
(「敗戦日記 新版」が中公文庫で再刊)。回想記に「昭和文学盛衰史」がある。』(高見順(Wikipedia)より)

別のネット記事にある高見順の日記は、テレビの報道内容とほぼ同じだが、一部異なる部分がある。

『(8月7日)
新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。
 「大変な話・・・聞いた?」と義兄はいう。
 「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。

人のいないところへと彼は私を引っ張っていって、
 「原子爆弾の話・・・」
 「・・・!」
 「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし・・・」
 「もう戦争はおしまいだ」

原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、
原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。

そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾がついに出現したというのだ。
・・・衝撃は強烈だった。

私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。

対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。

(8月9日)
4時過ぎごろ、林房雄が自転車に乗ってきて、
 「えらいことになった。戦争はもうおしまいだな」という。新爆弾のことかと思ったら、
 「まだ知らんのか。ソ連が宣戦布告だ」3時のラジオで報道されたという。

永井(龍男)君が来た。
東京からの帰りに寄ったのである。
緊張した表情である。

長崎がまた原子爆弾に襲われ広島より惨害がひどいという。
二人のものが、同盟と朝日と両方から聞いてきて、そう言ったから、うそではないらしい。

避難の話になった。
もうこうなったら避難すべきときだということはわかっているのだが、誰もしかし逃げる気がしない。
億劫でありまた破れかぶれだ。
 「仕方がない。死ぬんだな」〗(「高見順敗戦日記より)
http://www.k4.dion.ne.jp/~skipio/21essay2/takami-jun-haisen-diary.htm

NHKテレビの内容とこの記事の内容で大きく異なるのは以下の部分であった。

『原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。

そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾がついに出現したというのだ。
・・・衝撃は強烈だった。』

おそらく東京にいる物理科学者たちの常識を識者たちは共有していたのである。
原爆を先に開発した国が勝利するということを東京人の一部は知っていた。

しかも原爆投下の翌日に新橋駅で立ち話するくらいに知っていたのだ。
原爆と知っていれば、原爆投下地には入ってはならないというのも常識である。

広島の人々はそういうことを知らない。
翌日も残留放射能を浴び続けていた。

政府や官僚が知らないはずはないのである。

現在でもこの日本の民主主義の欠陥はなお継続していると考えるべきだ。
国民の命が一番大事と思う国ではないということだ。

「あなたがいつ犠牲にされるかもしれない」という緊張感を持って、この国では生きていかねばならない。



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