実在した山鹿流陣太鼓 [つれづれ日記]

CHUUSINGURA.jpg忠臣蔵十一段目夜討之図、歌川国芳作(忠臣蔵(Wikipedia)より引用)
yamagasokou.jpg赤穂城二の丸門跡そばにある素行の胸像(山鹿素行(Wikipedia)より引用)

赤穂事件で戦闘開始前に大石が山鹿流陣太鼓を打って「闇討ちにあらず、正式な戦争である」旨を伝えたと、井沢氏の真説「日本武将列伝」にあった。

上杉家からかなりの侍が吉良家護衛のために部屋住で派遣されており、彼らは吉良邸の壁沿いにあった長屋に居住していたはずである。
彼らが全員戦闘に参加すれば、赤穂浪士は半分も帰任できなかったはずだ。

彼らが殆ど長屋から出てこなかったという赤穂事件の「奇妙な事実」がある。

その当時、吉良上野介の嫡男は縁あって出羽米沢藩主上杉綱憲となっていたのである。
吉良家は古くは扇谷上杉氏の血を引いていることから、吉良上野介の妻が出羽米沢藩主上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)であった。

『寛文4年(1664年)閏5月、米沢藩主上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、(吉良義央の)長男三之助を上杉家の養子(のち上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で危機を収束させた。』(吉良義央(Wikipedia)より)

実父がなぶり殺しにあっているのに、長男が救いに行かないはずはないというのが人情である。

しかし、肝心の上杉家からは助っ人の犬一匹すら出動しなかった。

井沢氏のいう山鹿流陣太鼓が実在し、「これは乱暴狼藉ではない、浅野家と吉良家の正式な戦争である」と宣言してから大石が討ち入ったとすれば、上杉家から派遣され吉良家内に住んでいた助っ人が動けなかったことの納得がいく。

正式な兵法に基づく宣戦布告であるならば、上杉家家臣は上杉藩主の命令がなければ戦えなくなるはずだ。
これが夜盗の討ち入りなら違法行為なのでめった斬りしてもよいが、兵法上の戦争となると他家の武士はその動きに拘束が入る。

大石がそこまで考慮して陣太鼓を打ったとすれば、それは大したものである。

しかも幕府の老中の稲葉某(私の記憶によれば)の手回しにより、朝の4時、5時という早い時間に上杉家に助っ人禁止の通達が届いていた。

ずいぶん幕府側の手回しが良すぎる。
稲葉氏とは春日局の前夫と同じ姓であるが、時代はかなり下がっているものの少しひっかかる。

朝廷側のスパイが「幕府方」として上杉藩制止に動いた可能性もある。
浪士47人はドラマ忠臣蔵の素材である。
全員無事に泉岳寺へ届ける必要があるのだ。

赤穂事件の発生する前にシナリオの概略は書かれていたのではないだろうか。

しかし、ネットで検索した一見信頼できる資料には「山鹿流陣太鼓はうそっぱち」だと書いてある。
私はこれらを読んで今まで「山鹿流陣太鼓は嘘の話だ」と信じ込まされていたのだ。

これはネット社会の一つの怖さでもある。
ほとんどは事実であるが、肝心な部分で嘘をつく。
その影響はとても大きい。

『山鹿流(やまがりゅう)は、山鹿素行によって著された兵学(兵法)の流派。

諸藩でも普及しており、肥前国平戸藩では山鹿素行の一族の山鹿平馬が家老に、素行の次男である藤助が兵法師範に採用されて山鹿流が伝来している。

長州藩では吉田松陰が相続した吉田家は代々山鹿流師範家であり、松陰も藩主毛利敬親の前で「武教全書」戦法偏三の講義を行っている。
実の叔父にあたる玉木文之進も山鹿流兵学に明るかった。(萩市史第一巻)。

また、筑後国柳河藩でも山鹿流兵法師範がおり、文久年間に柳河藩士卒が山鹿流に編成されている。

山鹿流陣太鼓

山鹿流といえば、歌舞伎・人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』のなかで、赤穂四十七士の吉良邸討ち入りを指揮する大星由良助が合図に叩いた「山鹿流陣太鼓」が有名だが、実際には山鹿流の陣太鼓というものは存在せず、物語の中の創作。』
(山鹿流(Wikipedia)より)

「実際には山鹿流の陣太鼓というものは存在せず、物語の中の創作」という表現を見ておかしいと思わないだろうか。
本当に歌舞伎原作者の創作ならば、「単なる創作」とさらりと書けばよい。

「山鹿流の陣太鼓というものは存在せず」とわざわざ前段で飾らなければならないほどに、その実在が信じられていたのではないだろうか。

「実際に太鼓はあり、大石は打った」と私は考えたい。
本所松坂町の吉良屋敷周辺の住民や豆腐屋はその音を聞いたはずだ。

証人が少なからずいる限り、事件の黒幕にとっては「太鼓は存在しなかった」と強調する必要があったのである。

豆腐屋はその事件現場に最初に遭遇している。
異変を察知し、その足で急いで上杉家へ連絡に走ったのだ。

吉良のお坊ちゃんが上杉藩主に養子に行ったという目出度い情報は松坂町内住民の当然知るところである。

吉良屋敷に夜討ちがあるとなれば、それは「赤穂の浪人たちの仇討ちだ」というのも江戸っ子には百も承知のことだ。

「大変だ大変だ」と吉良のお坊ちゃんのいる上杉家へと早朝駆け込んだ豆腐屋の心情はよく理解できる。

しかし、上杉家家臣団は動かなかった。
吉良の実子である藩主は、じりじりして今にも駆けつけようとしただろう。

実父の命がまもなく消えようとしているのだ。

家臣団は藩主を押さえつけた。
上杉家のお家大事のためにである。

赤穂事件のあと、赤穂から平戸へと山鹿素行の血(子孫)は流れていった。
その血は幕末になって吉田松陰に兵法を注いでいる。

平戸は、鹿児島に上陸したザビエルが直後に九州布教の本拠地を築いた地でもあるが、そのことはあまり触れられていない。

筑前柳河藩に山鹿流兵法師範がいたことは知らなかった。

柳河藩は戦国時代に日本で唯一の女大名、立花誾千代(ぎんちよ)を輩出した土地である。

立花氏はキリシタン大名大友宗麟の家臣である。

『立花 誾千代(たちばな ぎんちよ)は、戦国時代の女性。

大友氏の有力家臣であった立花道雪(戸次鑑連)の一人娘として誕生。
名前に含まれる『誾』の字は“慎み人の話を聞く”という意味合いを含めて父・立花道雪が名付けた。

天正3年(1575年)に家督を譲られた。
道雪は娘に家督を継がせるため、通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家である大友家の許しを得た上で、彼女を立花家の当主とした。

戦国時代でもまれな例と言われる。

天正9年(1581年)、高橋紹運の長男立花宗茂を婿に迎える。

豊臣秀吉の命により宗茂が柳川城へ移ると、立花山城の明け渡しに反対して宮永館へ別居、「宮永殿」と呼ばれた。

関ヶ原合戦に際しては、鎮西へ撤退してきた宗茂を、家士や従者など数十名を率いて自ら出迎えた。

後、加藤清正が宗茂に開城を説得すべく、九州に進軍した折、「街道を進むと、宮永という地を通ることになりますが、ここは立花宗茂夫人の御座所です。

柳川の領民は立花家を大変に慕っており、宮永館に軍勢が接近したとあれば、みな武装して攻め寄せてくるでしょう。」と聞かされたため、宮永村を迂回して行軍した。

宗茂が改易されると肥後国玉名郡腹赤村(現熊本県玉名郡長洲町)に隠居し、わずか2年後にこの世を去った。享年34。

柳河(現福岡県柳川市)移転後に宗茂と別居(事実上の離婚)するなど、夫とは不仲であったと言われ、夫婦の間に子供はいなかった。』
(立花ぎん千代(Wikipedia)より)

立花ぎん千代自身は柳河城に入らず別居していたようで、彼女が住んだ別宅の地が虎の異名を持つ加藤清正すら迂回した「宮永」だったのだ。

ぎん千代は女鉄砲隊を編成して宮永の屋敷を警護させていたという。
加藤清正が恐れるはずである。

私は「ぎん千代」にキリシタンの匂いを感じる。
刀と槍で武装した加藤清正が恐れたのは女主ではなく、鉄砲と大量の火薬で武装した家臣たちであったはずだ。
それらは天正時代にはポルトガル商人から買い求めるしかない。

ポルトガル商人には必ずイエズス会宣教師が同行していた。

ぎん千代が別居した理由は、子ができないことから宗茂が側女を取ったからである。
キリシタンには妾を容認する教えはない。

ところで春日局は稲葉家から離縁された後、しばらく大友宗麟の本拠地であった臼杵に住んでいたことがある。
以前NHK総合の番組で見たのだが、春日局こと斎藤お福の書いた書簡がかつてお福が世話になっていた旧家に保管されていて、それが紹介されていた。

その書簡には「将軍家光は斎藤お福の子」であると書かれていた。

家光を孕みそれを生むまでの間、臼杵の親族の家に長く逗留していたのではないだろうか。

それが事実であれば、徳川家光は家康の子であるということになる。

正式な歴史書では家光は秀忠の子、家康の孫となっているのだが。

臼杵に保存されているお福の書簡が正しいとなれば、第2代将軍秀忠と第3代将軍家光は、ともに家康を父とする異母兄弟ということになる。

秀忠、家光は双方が仲が悪く、互いに命さえ狙っていたという話が残るのも、そういうことと関係があったのかもしれない。

「赤穂事件」を扱う記事の中に、「合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった」と書いてある。

太鼓ではなく鐘で合図を送ったというのである。

しかし、井沢氏は「山鹿流陣太鼓で宣戦布告をした」とはっきり書いているのである。
井沢氏の書いた逆説の日本史12巻を読んだが、彼は根拠もないこと書く人物ではない。

残念ながら真説日本武将列伝にはその根拠を示してはいなかった。

もう一つ、元禄赤穂事件(Wikipedia)の記事にも「山鹿流陣太鼓はもっていなかった」と書いてある。

『山鹿流陣太鼓と装束

山鹿素行が赤穂に配流になった縁で藩主が山鹿素行に師事し、赤穂藩は山鹿流兵法を採用していた。

映画やテレビドラマ、演劇では、雪の降りしきる夜、赤穂浪士は袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、内蔵助が「一打三流」の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす。

吉良家の剣客清水一学がその太鼓の音を聞いて「あれぞまさしく山鹿流」と赤穂浪士の討ち入りに気づくのが定番となっている。

実際には赤穂浪士は合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった。

門を叩き壊す音が『仮名手本忠臣蔵』で陣太鼓を打ち鳴らす音に変わったのではないかといわれている。

また山形模様は『仮名手本忠臣蔵』の衣装に採用されて広く認知されるようになったものだが、先行作でも使用が確認されている。

実際には赤穂浪士は討ち入りの際は火事装束に似せた黒装束でまとめ、頭巾に兜、黒小袖の下は鎖帷子を着込んだ完全武装だった。
羽織などの着用もばらばらだったといわれている。

山形模様ではないが、袖先には小袖と羽織をまとめるため、さらしを縫い付けている者もいた。』
(元禄赤穂事件(Wikipedia)より)

山鹿流陣太鼓の存在を消そうとしている努力の後が見えるようだ。
実際に太鼓の音を聞いたものが松坂町にはいたのであるから、簡単には否定できない。

「門を叩き壊す音が『仮名手本忠臣蔵』で陣太鼓を打ち鳴らす音に変わったのではないかといわれている。」と苦しい言い訳をしている。

太鼓がなかったというのが事実ならば、そこまで気遣う必要などはない。

実際に大石は山鹿流陣太鼓を持っていてそれにより宣戦布告をしたのだろう。
その音を聞いたものが多数いたのである。

大石の宣戦布告があったということで、初めて吉良屋敷内の吉良側戦闘要員の少なさの説明が成り立つ。

では、なぜ歌舞伎の忠臣蔵にそれほどまでなかったことにしたかった山鹿流陣太鼓が登場してしまったのか。

隠すべきことだったのであれば、赤穂事件の黒幕が歌舞伎原作者に事件の後で書くなといえば済むことだ。

芸能界の差配までは黒幕にできなかったということだろうか。

いや、私は忠臣蔵の原作は事件の前にすでに出来上がっていたと見る。

これは西洋にある出来事である。

シナリオを事前に用意し、そのとおりに事実が起きるように振る舞い、結果的に歴史を創造する知恵だ。
宗教的な訓練を受けているものには常識であろう。

奇跡を起こすなどその気になればいくらでもできるはずだ。

奇跡の物語を先に作っているのだから、そうなるように工夫を重ねていけばよい。
奇跡は必ず起きることになる。

歌舞伎の興行主が、赤穂事件のあとですかさずプロパガンダ上演したので、もみ消し工作する間がなかったということかもしれない。

初演でたたいた陣太鼓が消えれば、観客はおかしいと気づくだろう。
歌舞伎では最初から最後まで太鼓で行くしかなくなったのだろう。

完璧を期したはずの黒幕自身の失態だったのかもしれない。

事件がおきる前からシナリオはかかれていた。

洗脳されてしまった大石はシナリオ通りに太鼓をたたいた、

後は事実の方を消すことで、歌舞伎の方を偽ものとするしかなかったのだろう。

人間だれしも間違いはある。

調べてみると、事件を題材にした興行は事件の翌年に初演し、3日目にあわてて中止させられている。

『討ち入り決行の翌元禄16年(1703年)には事件を曾我兄弟の仇討ちに設定した『曙曽我夜討』が上演され3日目に上演禁止となったといわれるが、史実としての確認はできていない。

討ち入り事件の4年後の宝永3年(1706年)には、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座にて上演され、以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、数作品が作られた。』


そもそものシナリオの始まりから見てみよう。
事件は江戸城松の廊下から始まった。

『勅使・院使の江戸下向

元禄14年2月4日(1701年3月3日)、東山天皇の勅使柳原資廉(前の権大納言)、高野保春(前の権中納言)ならびに霊元上皇の院使清閑寺熈定(前の権大納言)の江戸下向が予定され、幕府は、勅使饗応役として播磨赤穂藩主の浅野内匠頭長矩を、院使饗応役として伊予吉田藩主の伊達左京亮村豊をそれぞれ任じた。

両名の指南役は高家の肝煎・吉良上野介義央が指名された。

勅使・院使は3月11日(4月18日)に江戸に到着し、幕府の「伝奏屋敷」(現在の日本工業倶楽部がある辺り)に滞在。

浅野内匠頭もこの前日には伝奏屋敷入りしており、以降数日間にわたり吉良の指南を受けながら勅使の饗応にあたるはずであった。

勅使たちは翌3月12日(4月19日)には江戸城へ登城の上、将軍徳川綱吉に勅宣、院宣を伝奏。また3月13日(4月20日)には猿楽能を観賞している。

松之大廊下の刃傷

江戸城本丸跡(東京)3月14日(4月21日)、勅使、院使が江戸城に登城して将軍綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上するという奉答の儀式が執り行われる予定になっていた。

同日巳の刻(午前10時ごろ)、江戸城本丸御殿松之大廊下(現在の皇居東御苑)において吉良上野介と旗本梶川与惣兵衛頼照が儀式の打合せをしていたところへ、突然、浅野内匠頭が吉良上野介に対して背後から脇差による殿中刃傷に及んだ。

浅野内匠頭は「この間の遺恨おぼえたるか」という叫びとともに斬りかかった。

吉良上野介は背後から背中を斬られ、「これはなんと」と振り向いたところを額を二回切りつけられ、気を失ってうつ伏せに倒れた。

吉良と打ち合わせをしていた旗本の梶川与惣兵衛頼照がすぐさま浅野内匠頭を取り押さえ、また居合わせた品川豊前守伊氏、畠山下総守義寧ら他の高家衆が吉良を蘇鉄の間に運んだ。

梶川らに大広間に連れて行かれる中、浅野は「上野介はこの間中から遺恨があるので、殿中と申し、今日のことと申し、かたがた恐れ入ることではあるが、是非に及ばず討ち果たしたのだ。」 とずっと繰り返した。

梶川は「もう終わったこと、殿中で大声はやめなさい」と言って黙らせようとした。

浅野は「もう放してくれ。失敗したし、処罰してくれ。もう乱暴しないから、服を直させてくれ。武家の決まり通りにさせてくれ。」
「拙者も5万石の城主だ。場所柄をはばからないのは重々恐れ入るが、乱暴な取り押さえで服が乱れた。
お上にはなんの恨みもないから刃向かわない。
殺せなかったのが残念だ。」 と言っていた。

しかし梶川達は浅野を押さえていた。

そこへ目付が来て、浅野を受け取って服を直して連れていった。
以上は目撃者である梶川による「梶川与怱兵衛筆記」により記されている。

すぐさま、浅野内匠頭は幕府目付の多門伝八郎重共と近藤平八郎重興の取調べを受け、多門伝八郎の記すところによれば、浅野内匠頭は「幕府に対する恨みは全くない。ただ吉良には私的な遺恨がある。だから己の宿意をもって前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」と述べている。

一方、外科の第一人者である栗崎道有によって傷口を数針縫いあわせられ、正気を戻した吉良上野介は、目付の大久保権左衛門忠鎮、久留十左衛門正清らから聞き取りを受けたが、「拙者は恨みを受ける覚えは無い。内匠頭の乱心であろう。またこの老体であるから、何を恨んだかなどいちいち覚えてはいない」と述べたとのこと。』
(元禄赤穂事件(Wikipedia)より)

この記事に書かれている浅野内匠頭の「馬鹿殿」ぶりはリアリティがある。

次は、「陣太鼓は嘘っぱち」という説を信じている人の記事だが、山鹿素行と大石の関係を詳しく説明している。

『山鹿流陣太鼓はどうして誕生したか?

赤穂藩と山鹿素行さんの関係

「大義の討入り」の象徴として音を出させる
承応元(1652)年12月から万治3(1660)年9月まで赤穂浅野藩祖の浅野長直さんが千石で当代一の大学者山鹿素行さんを江戸藩邸に招聘しました。

承応2(1653)年9月から7ヶ月間赤穂に滞在し、赤穂城の縄張りに貢献しました。

寛文6(1666)年11月から延宝3(1675)年6月まで赤穂に流罪となりました。
大石内蔵助さんの8歳から18歳までの間、素行さん内蔵助さんの大叔父頼母助良重さんの屋敷に居ました。

そんな関係で1681(天和元)年11月に素行さん(60歳)は赤穂藩主の浅野長矩(15歳)に押太鼓を貸しています。

1683(天和3)年3月に長矩さん(17歳)は勅使饗応役を大役を果たました。

この時世話をしたのが大石頼母助良重さん(65歳)で、指南役は吉良上野介義央さん(43歳)でした。

まったくの出鱈目でなく、こうした背景があって、静かな討ち入りでは様にならない。

そこで、「大義ある討入り」を象徴させようと、音の出る「陣太鼓」と、幕府に反逆した軍学者山鹿素行さんとが結合したのではないだろうか。』
(「討入名場面”山鹿流陣太鼓”これはフィクション」より)
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news201.htm

山鹿素行が(60歳)は赤穂藩主の浅野長矩(15歳)に押太鼓を貸したとある。
これが山鹿流陣太鼓なのだろう。

次に主君浅野の勅使饗応役の世話役として、赤穂藩より大石内蔵助の大叔父頼母助良重が当たっていたことがわかる。

『大石良重(おおいし よししげ、元和5年(1619年)頃 - 天和3年5月18日(1683年6月12日))は、江戸時代前期の武士。
赤穂藩浅野家の家老。
『忠臣蔵』で有名な大石良雄の大叔父。通称は頼母助(たのものすけ)。』(大石良重(Wikipedia)より)

指南役が吉良上野介である。
吉良の指南は赤穂藩家老の大石良重が受けてそれを浅野につなぐという形をとったのであろう。

松の廊下刃傷事件の目撃者である梶川による「梶川与怱兵衛筆記」をさきに掲載したが、その場面に藩主の世話役である大石良重の名前がどこにも出てこないのは不自然なことである。
大石良重がそのときどこにいて、何をしていたか調べる必要がある。

その大石良重の屋敷に山鹿素行は10年間も住んでいた。

これまで赤穂に山鹿素行は都合二度行っている。
一度目は1653年9月から7ヶ月間で「赤穂城の縄張りに貢献」とあるから、築城あるいは改築の土木設計の手伝いに行ったのであろう。
戦闘を考慮して城の造作を考える必要があるからだ。

「赤穂に二度行ったことがある」というからには、それ以外は山鹿素行は江戸の屋敷に住んでいたことになる。
山鹿素行は10年間も住んでいた大石良重の屋敷とは、江戸にあった屋敷だという理解になる。

江戸で20年間も山鹿素行と同居していれば、大石良重の思想は一体ものとなっている可能性が高い。

二度目は流罪で赤穂藩預かりとなったようである。
幕府から赤穂へ行けと流罪宣言されたということになろう。

流罪に処したのであるが、それまでに召抱えられていた赤穂藩を流罪先にしてくれたということだ。

流罪になった理由は、山鹿素行の過激な思想にある。

流罪先に配慮を加えさせたのは、おそらく江戸城大奥を支配していた春日局かその義姪の祖心尼であろう。
祖心尼は、会津生まれの山鹿素行育ての親といってもいい女性である。

加賀前田藩の養女となっていたとき、キリシタン大名の高山右近と必要以上に親密な関係になったという説がある。
加賀前田家の親族に嫁いでいたが、それが理由で離縁されて会津の町野家へ嫁入りしている。

その 町野家に居候していた浪人山鹿貞以の子として山鹿素行は生まれ、町野家の正夫人である「お奈」(祖心尼)に育てられた。
素行に母はいたが、その名は残されていない。

会津の町野家は、妙な居住者構成ではある。

町野氏は加賀前田藩を追い出されたお奈(祖心尼)を嫁に取らされたという雰囲気がある。

祖心尼は牧村お奈(おなあ)といった。
キリシタン大名牧村利貞の遺児である。

山鹿素行と大石の関係は、私が知っていた以上に深かったようである。

だからこそ、討ち入りに際し大石は山鹿流兵法に則って太鼓を鳴らしたと思いたい。
その太鼓は、山鹿素行から直接浅野内匠頭に渡された押太鼓である。
押太鼓の貸与は、山鹿素行の思想伝授の証と言ってもよいだろう。

ここで歌舞伎の原作者の心を考えてみよう。

現代の世間では討ち入りのときの陣太鼓は創作といわれている。
しかし、井沢元彦氏は事実であると言っている。

歌舞伎で陣太鼓はどう扱われているのか。
私は歌舞伎にはうといので、忠臣蔵を見物した人のブログを見てみよう。

なんと、歌舞伎ドラマの陰の主役は平戸藩主松浦侯で、吉良家の隣に住んでいたという。

隅田川の向かい側に江戸時代の松浦藩上屋敷があったと私は以前確認していた。
しかし、事件のあった元禄14年にどこにあったかまでは確かめていなかったから、吉良の隣家に住んでいた可能性は否定できない。

赤穂事件が起きてしまえば、その地は住みづらくなるはずだ。
暗殺仕掛け人の一人が松浦候であれば、死人の霊が漂う場所では暮らしたくはないだろう。

この記事には吉良屋敷の隣が松浦侯の屋敷だと書いている。
しかも隣人同士で犬猿の仲だったという。

『(俳人)基角(きかく)は(討ち入りした浪士の一人)大高源吾の妹のお縫(おぬい)ちゃんの、腰元奉公の世話をしました。
懇意にしている松浦候のお屋敷でお縫ちゃんは働いています。
お殿様にも気に入られてなかなか待遇はいいみたいですよ。

さて、大高源吾、基角にむかって
「討ち入りはしない、今は貧乏でも静かに暮らすのが楽しい」と言います。

ふぬけたことを聞かされて、基角はちょっとがっかり、でも寒そうだから着ていた羽織をあげます。
松浦様からいただいた大事な御紋付きだけど、まあいいや。

チナミに関係ないですが、見た目ペラペラの羽織一枚上に着たって大差ねえだろうと思うかもしれませんが、ああた一度おかいこ総裏付きの羽織を着てみればいいんです!! 軽くてあったかいー!!

さて其角、今日も松浦候のおうちで俳句、というか連歌の会です。
じつはこの松浦候が主人公です。

実事(じつごと、歌舞伎の役柄のひとつ)でありながら華のある、かなりオイシイ役どころですよ。
とはいえ普通にやるとコミカルな部分が安っぽくなってしまうので、もちろん誰にでもできる役というわけではありません。

ところで、ここポイントなんですが、松浦さまのお屋敷は、問題の吉良上野介のお屋敷のお隣りなのです。 

まあ当時の旗本屋敷なので敷地はムダに広いです。
広大な庭が間にあります。
今日びの「お隣」とは感覚違いますが。

えっと、だいたい今、都内(区内)で、小中学校→もと旗本屋敷 大学→もと大名屋敷、と思えばいいです。
昔の地図と見比べるとそんなかんじです。
広さが感覚的におわかりいただけるかと思います。

上機嫌で連歌を楽しみ、お気に入りのお縫ちゃんにお茶を入れさせていたりした松浦候、大高源吾の話を聞いて怒り出します。

「吉良ムカツク」と思っている松浦候、ずっと「いつ討ち入るか」楽しみでしょうがなかったのです。って子供ですか。
お縫ちゃんまで、とばっちりでクビにされそうになります。そんなー。

というかんじで、まあ、後半は見てりゃわかります。

太鼓の音が聞こえてきます。
お隣で討ち入りです。わあい。

ここで、太鼓の音を聞いて松浦さまが指を折って数えるシーンがあります。

大石蔵之助の学んだ兵法が「山鹿流」なのですが、この流派の陣太鼓の打ち方が独特なのです。

「三丁陸六ッ、一鼓六足、天地人の乱拍子」(さんちょう りくむっつ いっこ ろくそく てんちじんのらんびょうし)って意味わかりません。
まあそういうのを指を折って数えているのです。

「この打ち方は、大石殿だ!! 討ち入りかー!!」というかんじです。

三波春男先生の歌「俵星玄蕃(たわらぼし げんば)」によると、

♪ひと打ち 二打ち 三流れ
あれは 確かに 確かにあれは 山鹿流儀の 陣太鼓♪ 

だそうです。

大高源吾の役者さんが上手でかっこよくて声がいいと、討ち入りが終わって大高源吾があいさつに来て、討ち入りの様子を語るところが、ものすごく盛り上がります。
で、役者さんがイマイチだとダレますよ。 

あとセリフが聞き取れないと、ちょっと長いからつらいかもしれません。
なんとなく「かっこいいー」で乗り切ってください。

大高源吾が討ち入り後、付近の武家屋敷にあいさつ&報告に回ったのは史実のようです。

まさにお芝居の設定どおり、基角と親交があったために趣味つながりで大名旗本に顔見知りが多かったからです。
というわけでこのお芝居はそれなりに史実をふまえていますよ。

初代吉右衛門(現吉右衛門のお祖父さん)の松浦候が絶品だったそうで、彼のためのお芝居のように思われていますが、初演は、意外なことに上方です。

そのときの松浦候は、初代吉右衛門の父親にあたる中村歌六(なかむら かろく)です。
明治期の名優ですが、完全な上方役者です。

今は現吉右衛門さんが得意にしていることもあって、江戸風のすっきりしたお芝居に仕上がっていますが、
数年前に仁左衛門さんがなさったとき、松浦候のコミカルな部分がかなりコテコテに演じられていて、ちょっと新鮮でした。

周囲のお客さんの反応は「やりすぎ」「違和感がある」みたいなかんじでしたが、
あの仁左衛門さんの松浦候が、初演時の雰囲気を伝えているんだろうなと思えたので、そういう意味で非常に貴重な舞台だったと思いますー。』
(「討入名場面”山鹿流陣太鼓”これはフィクション」より抜粋)
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news201.htm

歌舞伎見物慣れしたお方のようである。
文面から推測するにお若い女性のように思われる。

「それなりに史実をふまえていますよ」とブログには書いてあるが、忠臣蔵の原作者もそうしたいと思ったのではないか。

「にっくき隣人吉良を成敗するために松浦藩主が仕組んだ仇討ちである」という雰囲気がこちらに伝わってくる。

歌舞伎原作者は松浦藩主の肝いりで原稿を書いたのだろうか。
山鹿流兵法は赤穂藩から平戸藩へ伝わった。

赤穂藩取り潰しのあと、山鹿素行の子孫たちは平戸を頼ったのだろう。

あとあとまで面倒を見るあたり、赤穂事件に山鹿流兵法を利用した松浦藩主の贖罪のようにも見えるが、実はそうではない。
松浦藩主のさらにバックがいるからだ。

山鹿素行を赤穂藩へ行かせた人物である。
それは松浦侯では決してない。

そして赤穂で事件を起こして武断派武士に刺激を与えることが、山鹿素行を赤穂へ流罪にした理由である。

赤穂浪士や吉良屋敷の人々の血を使って、江戸幕府打倒を狙う勢力、それが歌舞伎原作者のパトロンである。

赤穂藩がつぶされれば、そのあとは平戸藩を利用するだけのことである。

黒幕勢力の中で、松浦氏がかなりの位置にあったことは確かだろうが、歌舞伎の主役にさせられるあたりは本当の黒幕ではない。

黒幕は絶対に世間に姿を見せないのである。
だから黒幕と呼ばれるのだ。

吉良と不仲の松浦氏を利用して、赤穂事件のきっかけに利用したに過ぎない。

刃傷が起こるとすぐさま、これを題材にした「東山栄華舞台(ヒガシヤマエイガノブタイ)」が上演されたそうである。

演劇のシナリオが事件の前にすでに書かれていた可能性は高まる。
次々と赤穂事件を題材に上演を仕掛ける興行主の姿が見えてくる。

『「仮名手本忠臣蔵」の先行作品

近松門左衛門
江戸城内松の廊下における刃傷が起こるとすぐさま、これを題材にした「東山栄華舞台(ヒガシヤマエイガノブタイ)」が上演され、大石らが切腹したあとには、この事件を曽我物語になぞらえた「曙曽我夜討(アケボノソガノヨウチ)」が上演された。

大石の一味の大高源五とも交わりのあった、芭蕉の弟子の其角が、「曙曽我夜討」の上演について、大阪在住の近松門左衛門に次のとおりの手紙を送っている。

[……]此程の一件も二月四日に片付候て甚噂とりどり花やかなる説も多く候て無上忠臣と取沙汰此節其事計に候境町勘三座にて十六日より曽我夜討に致候て十郎に少長五郎に傳吉いたし候へども當時の事遠慮も有べきよしとて三日して相止候[……]「古今いろは評林」天明五年(1785年)

つまり、2月4日に赤穂の浪士全員の切腹で事件は決着して、町の噂はこの人々のことばかり、様々な説が飛び交い、この人々こそ真の忠臣だ、などとにぎやかな最中に、16日より江戸の境町の中村(勘三郎)座で「(曙)曽我夜討」が幕を開けたが、時節柄をわきまえて少しは慎めとばかりに三日後に上演差し止めになった、というのである。

近松門左衛門は、吉良邸討ち入り後に「傾城三ツ車」を書いているが、1706年(宝永3年)5月に、事件の輪郭を仄めかせた浄瑠璃「兼好法師物見車」を書き、1710年(宝永7年)前後にその続編として「碁盤太平記」を書いた。

「兼好法師物見車」では主人公は八幡太郎だったが、「碁盤太平記」では大星由良之介と改名され、明らかに大石内蔵助とわかる人物造形がなされ、討ち入りも詳細に描かれている。』(忠臣蔵と大佛次郎より)
http://goodfeeling.cocolog-nifty.com/camarade/2004/10/_8.html

上演を中止した理由は、山鹿流陣太鼓のあまりのリアルさにあったのではないか。

山鹿流陣太鼓は実在した。
山鹿素行から浅野内匠頭に渡された押太鼓がそれである。

大石が討ち入り開始に先立ってその陣太鼓を打ったと思うが、その根拠はこれから調べたい。

創られた「赤穂事件」 [つれづれ日記]

創られた「赤穂事件」

赤穂事件という。
作り話方の名が「忠臣蔵」である。

嘘の話はドラマでさんざんみせつけられたから、もういい。

井沢元彦著「真説日本武将列伝」(小学館文庫)に書いてあることだからこれらは本当なのだろう。

浅野の馬鹿殿は吉良を松の廊下で後ろから切り付けていた。

また作り話だと聞いていた「陣太鼓」は本当だと言う。
大石が山鹿流陣太鼓を打ち鳴らしたのは闇討ちではなく堂々たる軍事行動であることを示すものだとのこと。

中国の朱子学によれば「馬鹿な殿ほどそのために命をかけた部下は忠臣になる」そうだ。
大石はそのことを果たして知っていて仇討ちをやったのだろうか?

また武士のはしくれでありながら、浅野は相手を後ろから切りつけている。
それでいながら打ち損じている。
侍としては馬鹿といっていい。

なぜ腹を刺し通さなかったのか。
なぜ振り向いてから左胸を指さなかったのか。

信長、秀吉の時代なら常識中の常識である。
敵の首をとってはじめて手柄になるのである。
相手が重傷を負った程度で暴れまわるようでは、首も落ち着いて切り離せない。
一発で仕留めるのが武士の務めなのだが、家康の「武士骨抜き作戦」はじわじわと江戸時代に浸透していったのである。

赤穂事件はある政治勢力によってドラマ「忠臣蔵」に書き換えられて、政治的プロパガンダに利用されたのである。
その政治メカニズムは、現代でも作用している可能性がある。

「ある勢力」がまだ力を温存しているならば、同じことを繰り返すはずだ。

第2次世界大戦の敗戦でも生き残る政治勢力とは一体何だろうか。

中国で数万人を超える人体毒ガス実験を行っていた石井731部隊の隊員たちは戦後も生き延びていることはよく知られている。
銃殺刑に処される人々はなぜ生き延びたのか。

それは「取引」である。

毒ガス実験データをすべてアメリカに手渡す代わりに、命を助けてもらったのである。
かなり多くの石井731部隊の人々が、その後薬害エイズ事件にかかわった薬剤会社などに就職していることを見ると、日本の薬剤メーカとアメリカの抗がん剤開発の闇の関係が浮かび上がってくるように思われる。

抗がん剤第1号は石井731部隊が中国人をモルモットにやったマスタード系毒ガス人体実験データを参考にしてアメリカの薬剤メーカで開発されたものだ。
「マスタード」の語がその抗がん剤にはついているという。
毒ガスは正常細胞を殺す道具だ。
解剖してみればわかることだが、同時にがん細胞をも殺している。

正常細胞をほどほどにしつつ、がん細胞を殺す薬剤があれば、それは抗がん剤となる。

抗がん剤を飲んで苦しむ患者が多いのは、毒を飲むから正常細胞までも痛めるからである。
私は抗がん剤で苦しみながら死ぬよりも、がんの痛みを麻薬で緩和しつつ自然に死ぬほうを選ぶだろう。

つまり、石井731部隊生存の話は、第2次世界大戦で負けてはいても、何かを敵にプレゼントした連中は生き延びていることの実例となる。
彼らはデータを渡した。
金、女、戦後の利権など与えるものはいくらでもあっただろう。

石井731部隊以外にも、巨悪が戦前から現在まで生き延びている可能性は高い。

だから現代「忠臣蔵」でさえも、必要になったらまた同じ手でやり始める可能性がある。

巨悪が赤穂事件を起こさせたという仮説を私は立てる。
では、何のために赤穂事件を大石内蔵助に起こさせたのか?

大石自信は弟浅野大学を奉じてお家再興を企てていた。
大石が本当の忠臣ならば、浅野切腹後すぐに吉良邸に討ち入るべきだった。

お家再興もだめになって、そのうちぐずぐずしているうちに、江戸高田馬場の堀部親子ら過激派に扇動されて、渋々最後に決意したように見える。

一部の過激派の赤穂浪士たちにとっては、主君の仇討ちは悲願だろう。
それならば腕利きが4~5人もいればもっと早い時期に吉良の首は取れていたはずだ。

幕府大老の井伊直弼でさえ水戸脱藩浪人を中心とする桜田十八士により首を取られている。
たった18人で大老の首は取れたのだ。
一方、迎え撃った井伊側は16名だった。

『当日は季節外れの雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。

江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲うなどという発想そのものがなく、彦根藩側の油断を誘った。

襲撃者たちは『武鑑』を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待っていた。

駕籠が近づくと、まず前衛を任された森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえにきた日下部三郎右衛門をやにわに斬り捨てた。

こうして護衛の注意を前方に引きつけておいたうえで、黒澤忠三郎(関鉄之介という説あり)が合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。

発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまった。

襲撃に驚いた丸腰の駕籠かきはもちろん、太平の世に慣れた藩士の多くは算を乱して遁走した。

それでも意地のある数名の供侍たちが駕籠を動かそうと試みたものの斬り付けられ、駕籠は雪の上に放置される。

護衛の任にある彦根藩士たちは、ベタ雪の水分が柄を濡らすのを避けるため、両刀に柄袋をかけていたが、それが邪魔して咄嗟に抜刀できなかった。

このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んで指や耳を切り落とされるなど、狼狽した彦根藩士の有様は江戸町人に嘲笑されたが、こうした不利な形勢のなか、二刀流の使い手として藩外にも知られていた河西忠左衛門だけは冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って稲田重蔵を倒すなど襲撃者たちをてこずらせた。

しかし、しょせん一人では抵抗しきれず、遂に斬り伏せられる(河西の刃こぼれした刀は彦根城博物館に保存されている)。

もはや護る者のいなくなった駕籠に、次々に刀が突き立てられた。さらに有村次左衛門が荒々しく扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴んで駕籠から引きずり出した。

直弼は無意識に地面を這おうとしたが、有村が発した薬丸自顕流の「猿叫」(「キエーッ」という気合い)とともに、振り下ろされた薩摩刀によって胴体から切断された首は、あたかも鞠のように雪のうえを飛んだという。

襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったという。
一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に鮮やかに描かれている。

有村らは勝鬨をあげ、刀の切先に直弼の首級を突きたてて引き上げにかかったが、斬られて昏倒していた小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に切りつけた。

小河原は広岡子之次郎らによって膾(なます)のように斬り倒されたが、その有様は目を覆うほど壮絶無残だったという。

一方、有村も重傷を負って歩行困難となり、若年寄遠藤胤統邸の門前で自決する。

小河原は即日絶命するが、ほかに数名でも自分と同じような決死の士がいれば、けっして主君の首を奪われることはなかったと、無念の言葉を遺している。

襲撃を聞いた彦根藩邸からは直ちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで徹底的に回収した。

直弼の首は遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。』(桜田門外の変(Wikipedia)より)

最後のとどめが薩摩藩士だったということは面白い。

ある「意思」が働いていると見るべきだろう。
このお役目は誰でもよいというものではない。
なぜならば手柄に直結するからである。

「江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲うなどという発想そのものがなく、彦根藩側の油断を誘った。」というところにヒントがある。

幕末でさえ武士は使い物にならなかったということだ。

それは家康が敷いた武家諸法度、参勤交代などの法制が徳川家だけに有利に働き他の大名の力を削ぐためのものだったからだ。
オランダとの長崎出島貿易は徳川家を豊かにし、密貿易で栄えてきた薩摩を疲弊させてきた。

家康がオランダと手を結んだのは、井沢氏によれば、布教を強制しないプロテスタント系キリスト教の国だったからだという。

家康の鎖国とは西国大名や朝廷から貿易の甘い蜜を奪い去り、徳川一家の利益とするための方策だったのである。

戦争がなくなり、武士の力を発揮する戦場が無くなり、江戸時代にはなまくら武士が増えてきてしまった。
そこへ加えて、朝廷と大名の財力も衰退の一途をたどる。

それを喜ぶのは徳川家だけである。

朝廷は江戸幕府を苦々しく思っていたはずだ。

家康は朝廷を京都に閉じ込め、自らが東を照らす神「アズマテラスの神(東照宮)」となって関東に君臨した。
政治権力を朝廷から完全に剥奪することに成功したのである。

信長には朝廷を倒す考えがあったが、事前に殺された、

代わった秀吉は朝廷のシステムに取り入ることにより身分を得て関白に就任した。
つまり朝廷の下につくことで天下を治めたのである。

二人のやり方を見て学んだ家康はいずれも採用しなかった。

朝廷を倒すこともせず、朝廷の傘下ににも入らない道をとった。

家康自身が西のアマテラスに対抗して、東のアズマテラスになった。
そして他大名と朝廷の間の婚姻をやめさせ、徳川家のみが朝廷と婚姻を結ぶことにした。

婚姻関係ができれば院政を敷くことさえ可能となる。

そういう江戸時代であるから、徳川家を倒す大名が生まれない限り、朝廷の輝かしい復活はありえない。

ならばどうやって武士に本来の戦争好きな性格を植え付けるかが大事な課題となる。

赤穂事件は格好の武断派再生のチャンスだった。
その成功はやがて明治維新という形となって大きな実を結ぶことになる。

朝廷側にたって見れば、赤穂事件は明治維新の訓練のためのモデル戦闘だったといってもいい。

忠臣蔵劇を日本国民にあれほど見せても、幕末の桜田門外の変では井伊藩では不甲斐ない武士の失態が起きた。
いかに戦争がなくなった時代の江戸武士がだらしなくなっていたかということを示す。

朝廷側にたてば、なまくら武士が多い江戸末期ほど、徳川家は倒しやすくなっていたともいえよう。

大石が本当に吉良の首が欲しかったのであれば、刺客は47人も要らないのである。
しかも相手は大老ではなく、並の旗本で文治派の小大名にすぎない。
赤穂浪士10人でもやれたはずだ。

大石は吉良の首が欲しかったのではなく、家臣たちの再就職先が欲しかったのである。
勿論大石自身の就職もだ。

つまりお家再興を図った大石は、生きて働こうと努力してきたのだ。

いつから大石は生きていく努力を捨てる気になったのだろうか。
私は大石は「命を捨てる気にさせられた」のだろうと思っている。

大石は、一種の洗脳を京都で受けてしまったのではないか。
あるいはある権威ある人物から提示された「嘘の企み」にうっかり大石は乗せられてしまったのだと思う。

それも含めて洗脳といってもいい。

赤穂藩家老を洗脳できるほどの力を持つもの、それは馬鹿殿浅野を松の廊下で錯乱させることをも制御できる人物である可能性が高い。

赤穂藩藩主・浅野長矩(ながのり)は、精神性疾患を持っていたという説もある。
つまり症状に詳しい医師であれば、どういう薬を処方すればどう変化するなどという知識も持っていただろう。

もし仕組まれた殺傷事件だったとしたら、吉良家にとってはいい迷惑である。
切りつけられ、うそのドラマでは悪役に描かれ、最後に殺害される。
吉良の息子は上杉家へ養子にやっていたが、やがて病死するに至る。

浅野刃傷事件に対して吉良家側になんら罪がないとしたら、これほど理不尽な歴史もないことになる。

浅野赤穂藩は歴代朝廷へ「赤穂の塩」を献上していた。
朝廷とは命の源泉である「塩」を介して関係があったということだ。

アッシリア語で「塩」は「シオ」と発音する。

日本語の「シオ」が大陸から運ばれてきたとすれば、アッシリア地方からの渡来人によって輸入された可能性がある。
塩田作りも海外から輸入されたものである。

ここに事実としての山鹿流陣太鼓の登場がある。
これまで私は陣太鼓は創作とばかり思っていたので、深く考えたことはなかった。

ある本では陣太鼓は創作話であると根拠を示さずに書いていたがm私はそれをこれまで鵜呑みにして信じていたのだ。

吉田松陰を別ルートで追いかけているが、松陰の成長期に平戸藩の家老山鹿某による兵法指南を受けている。
師匠は山鹿素行の末裔である。

幕末の火薬庫である吉田松陰と、武断派武士の洗脳のために行われた赤穂事件と、いずれも山鹿素行の陰がちらつく。

山鹿素行はかつて幕府の儒者で幕臣として採用されそうになったことがある。
義理の叔母である大奥取り締まり春日局の引きである。
採用面接の最後の段階にきて、幕府j儒学者の林羅山に思想の危険性を見破られて不採用になった。

幕臣になれなかった失意の山鹿素行の向かった先が赤穂藩だった。

春日局は朝廷公家の養女となることによって大奥に入り込むことに成功しているから、春日局が朝廷との接触点と見てよさそうだ。

『美濃の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる斎藤利三で、母は稲葉一鉄の娘・稲葉あん。
稲葉正成の妻で、稲葉正勝、稲葉正定、稲葉正利は実子。養子に堀田正俊。

江戸城大奥の礎を築いた人物。松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の1人に数えられた。』(春日局(Wikipedia)より)

春日局の本名は斎藤お福である。
父斎藤利三は本能寺の変で織田信長を殺害した現場にいた軍事指導者である。
明智光秀は本陣にいいて現場には行っていない。

つまり織田信長を殺害した男の娘が斎藤お福、後の春日局である。
そのお福は山鹿素行を将軍家光のお傍つきの幕臣にしようと画策したことがある。

その後、山鹿素行はなぜか赤穂藩に召抱えられる。
多くの大名が山鹿素行の家臣として迎えたいと希望していたのに、なぜ山鹿素行は赤穂藩を選んだのか。
おそらく春日局の指示に従ったのであろう。
それは朝廷側からの指示でもある。

赤穂事件に山鹿素行が思想面で絡んでいることは、主犯黒幕をあぶりだす上でおおいに参考になる。

石川遼のような・・・ [つれづれ日記]

会社を定時に出ると、いつも目の不自由な若い女性を追い越すことになる。
パワハラ社長やセクハラ相談役の活躍する汚いオフィスから一刻も早く脱出するために、終業チャイムと同時に私は脱兎のごとく職場を出る。

エレベーターを降りてビルの一階玄関へ向かう。

一階ロビーに降りると、例の白い杖の女性が私の前を歩いている。

白い杖は白杖(はくじょう)と呼ぶことを学んだが、西洋で呼ぶケーンと呼ぶ方がよさそうだ。
「はくじょう」なんて響きがとても悪い。

広いロビーは冷たい人工大理石タイルであり、そこには点字ブロックなどは全くない。
だから彼女には歩き辛い空間だ。

自動ドアの左にある固定ガラス戸に彼女の白い杖が当たり、やがて彼女のつま先もガラス戸に当たって停止した。
私は意図はしていなかったものの必然的に彼女の右側をさっと追い越すことになった。

彼女の歩行の邪魔をしないためにには、私が早く自動ドアからでないといけない!

そのとき、私の左足の革靴の踵(かかと)部に白い杖の先がコツンと当たった。

私は後ろを振り返って「失礼」と詫びながらも、早めた歩速をゆるめずに先に自動ドアを抜け出た。

あるいは自動ドアの手前で私が立ち止まりケーンの彼女が自動ドアを出るまでじっくり待つという選択もあった。
しかしそれは机上の空論である。

一連の流れの中で、私は親切な行為だと思って急いで自動ドアの前に行き、彼女よりも先にドアを開けたのだ。

彼女は空いているにもかかわらず自動ドアの前でちょっと立ち止まり、杖の先でドアが空いていることを確かめてから出てきたようだ。

「ようだ」と言うのは私は後ろを見ていないからだ。

「失礼」と言ってちょっと振り返ったときに、私の後ろに彼女が一瞬立ち止まっている姿が見えた切りである。

そうか、彼女は私の踵に杖が当たったから、何か障害物が自動ドアの位置にあると気づいたのだろう。

足音から人間に杖が当たったことは気づいていただろうが、その前にいた人間がまだいるかどうか探っていたのだろう。

ロビーでは私の革靴の足音がしていたからだ。

よかれと思い早めた私の足だったが、返って彼女の歩く上での障害になってしまった。

数日後にはもう少し危険な光景を目にした。

彼女は「石川遼のような健常者にしか特約を支払わない保険会社」に入っては駄目だと思う。

目が不自由な白い杖の彼女が危うく事故に遇うところだったのだ。

傷害がある方は「石川遼のような生命保険会社」は避けた方が無難だ。

それは私が歩道に出てから白い杖の女性を追い越すときだった。
私の後ろを歩いているサラリーマン紳士が小さく叫んだ。

「危ない!」

居酒屋が歩道の中に持ち出して置いた看板灯に彼女がぶつかりそうになったからだ。

その声と同時に白い杖の先が看板灯に当たり「コン」と金属音を鳴らし、彼女は看板灯の30cm手前で停止した。

それまでは「チャッチャッチャッ」と小気味良い音が白い杖と歩道の石によってリズミカルに出ていたのだが、突然「コン」と空虚な金属音に変わった。
それで彼女は立ち止まったのである。

紳士の「危ない」という声で立ち止まったのではない。
声のほうが「コン」よりも早く出ていたが、彼女は他人の声では止まらない。
杖の音で停止していた。

後ろのサラリーマン紳士とほぼ同時に私も「危ない」と思ったが、私は声に出していない。

それは私が薄情だからということではない。

通い慣れた歩道でなら彼女の能力なら障害物を交わせると思ったからだ。
でも心の中では私も「危ない」と叫んでしまっていた。

その無言の叫びと紳士の声は同時だった。
「コン」はその0.5秒後だった。

紳士は素直に危ないと感じ警告の声を発したのだろう。
私は無言で彼女の応対を眺めていただけである。

彼女は30センチの停止制御能力を持っている。
但し、それは障害物が静止している場合である。

一人で通勤すると決心した日から、彼女は自分の努力だけで歩くことに決めたのである。
だから同伴者もいないし、盲導犬も連れていないのだ。

みちゆく紳士たちに声をかけてもらわないと歩けないのではない。

後ろの紳士と違って、私は今日の彼女は「真っすぐ歩けている」ということをその前に見ていた。
だからこのまま行けば看板灯にぶつかるということも予想できた。

しかも交わすだろうということも期待していた。

本日は晴れ、微風である。
人は十メートル長さの区間に十人くらい歩いている。
今日の歩道の通行量は平日並だ。

やはり人の足音や話し声で自分の歩くべき方向を見極めているのではないだろうか?
まだ確信は持てないが、今日は完璧に真っすぐに歩けていた。

先日、風のある曇りの日には、彼女は横方向に三メートルも蛇行しながら歩いていた。
そのときは人通りが少なかったので、歩行者の話し声により歩道の方向を知ることができなかったのではないかと推理している。

アメリカ大使ルース氏の額を見て [つれづれ日記]

昨日8月6日は「アメリカが広島に原爆を投下した記念日」である。
日本人にとっては「アメリカに原爆を落とされた被害者の慰霊日」である。

昨日の朝も広島は太陽の日差しは強かった。
あの日も強かったのだ。

参加者は、加害者も被害者も被害者遺族も暑そうな顔をして会場に座ってその時を待っていた。
アメリカ大使も暑そうな顔つきだった。
この人は本当はいい人物なのだろう。

英米仏がはじめて代表者を参加させたことをメディアが報じていた。
連合国軍の主要3国である。
原爆投下について事前に承知していた三国だろう。

原爆投下という「神を恐れぬ悪行」に手を染めたのはアメリカ1国だけである。

そのアメリカ大使の広い額に強い朝日が当たっている。
あの日も額に原爆の光線を直射された人が大勢いただろう。

この強い日差しの中で、額をガスバーナーで燃やしてしまえばどうなるか想像できるだろうか。
焼いた瞬間は衝撃と強烈な熱さに見舞われる。
そして驚く。

そのすぐあとに生体は修復しようとして水膨れをつくる。

やけどが深く真皮の下まで及べば出血し水泡は赤くなる。
出血がひどければ表皮が破れて血と体液が額から漏れ出してきて、やがてその目に入るだろう。

その水ぶくれた額に向けて、容赦なくその強い日差しが当たるのだ!

木陰など焼き尽くしていてない荒野でその強い日差しを患部に浴びるのだ。
参加しているルース大使の額をテレビで見つつ、そういう光景が私の脳裏に見えた。

ルース大使の「額」だけではない。
礼服もシャツもネクタイもズボンもパンツさえ一瞬に燃え、そして爆風で吹き飛ばされた。

むき出しの皮膚と毛は一瞬で焼かれる。
首も背中も腹も太ももも脛(すね)や足首さえもやけどで膨れるのだ。

靴も焼けて半分千切れる。
露出した足先も水膨れになる。
全身水膨れだ。

ほとんど全裸同然のルース大使の姿が見える。

全身が水ぶくれになると人間はどうなるだろうか。

亡き私の父は原爆投下1週間後の広島市内に兵隊として入った。

被爆者たちは全身水ぶくれになって、水を欲しがるのであるぞ!

体が全身を加圧してやけど部位に水を圧送するから、ヒバクシャは強烈な渇きを感じるのだ。

やがて全身焼け爛れたルース大使は立ち上がるだろう。

そのやけどあとにはその夏の熱い光線がジリジリと刺し込むのだ。

それがどれだけ痛いものであるか、わかるか?!

いや体験したものでなければわからない。
私もわからないが、少しは想像できる。
アメリカ人は想像さえ拒絶しているようだ。

いずれ不幸な国の国民が同じ体験することになろう。
そのときにアメリカ人はインタビューをして聞けばよい。

父は軍の命令により、爆死した兵隊の死体の回収に向かう。

トラックに20人ほど乗り、手にスコップを持っていた。

海田(かいた)の海軍基地を出て広島市内にやってきた。
一面が焼け野原である。

兵隊たちはトラックから飛び降りて整列してからある場所へ向かった。
兵士が集まっていた宿舎か軍司令部などの施設跡だろう。

スコップを持って行軍する兵士たちは道路の両側に座って並んでいるヒバクシャ難民たちを両側に見ながら進む。

人々は火傷をして1週間を生き延びた人たちだった。
多くの人がその間に地獄広島を去って天国へと旅立っていた。

運良くというか、運悪くというか、死に切れなかった重傷者たちがまだ生きていた。

全身に火傷を負ったルース大使の姿も私には見える。

死んだ人の衣服をはがして陰部に布切れをつけている。
アダムとイブのような姿で道端に立っている。

ほとんどの重傷者は腕を前方へ上げている。
腕を下げると水ぶくれが下がってきて激痛が起きるからである。

手の甲を前に向けて、そして指先は下に下がっている。

その姿は日本の幽霊の姿に良く似ている。
「うらめしやー」といいながら幽霊がそのまま腕を前に伸ばした形である。

そして口々に「水をくれー、水をくれー」といいながら兵隊たちに近寄ってくる。
男女の差はわからない。

兵隊たちの腰にある出納を目指しヒバクシャたちはよってくる。

当時20歳だった父は思った。
自分はこの水筒の水はなくなっても1日くらいなら我慢できる。
しかし、あげようと思っても水をあげることは許されていない。

原爆投下の1週間後は8月13日だ。
まだ帝国日本軍は降服していない。

戦時中である。
上官の命令は「兵士の遺体を回収せよ」であり、市民救護ではない

可愛そうにと思いながらも、父は行軍し、目的地へと進んでいった。
道々何百人もの人々から声をかけられた。

「水をくれー、みずをくれー」

目的地に着いた兵隊たちは焼け跡の瓦礫に埋もれた兵士の遺体を捜した。

爆死して1週間後の遺体は腐乱していた。
炭と泥まみれの遺体は千切れながらスコップですくい、トラックの上に放り上げた。
5~6体をトラックに上げたころ、スコップが重くなっていることに気づいた。

死骸の血や体液がスコップにつき、そこに炭や埃が付着している。

重くなったスコップをはがしてみると、実はそれは遺体からはがれた皮膚が何層にもなってスコップの表裏面に張り付いているのだった。
木切れやナイフの刃先でスコップをこすって皮膚の山をはぎ落とした。
再び遺体をすくってトラックに放り投げていると、またスコップが重くなって来る。

さながら有機物の廃棄物を満載した姿になったトラックを見送って本日の作業は終わった。
兵士たちは水筒の水を飲む。
それを見ていたヒバクシャがまた近づいてくる。

「水をくれー、水をくれー」

上官は命令する。「かまうな、撤収せよ」

父たち若い兵隊は汗と泥まみれの顔と体のままスコップを片手に再び輸送トラックの待機場所へと行軍した。

後年わかったことだが、その埃の中に強烈な残留放射能が含まれていた。

私はノーベル賞をもらって喜ぶ日本人原子力科学者の良心を疑う。
この時、広島に投下されたのが原爆だと彼らは知っていた。

兵士のみならず、一般市民をも被爆地内への立ち入りを禁止すべきだった。
ヒバクシャたちも大火傷のあとで、続いて残留放射能を浴び続けるという二重苦を加えられたのである。

当時の日本人物理学者のレベルはオッペンハイマーやアインシュタインに並ぶほどであり、残留放射能による作用と効果も予測できていた。
しかし見ぬ振りをしたのだ。

軍は当然科学者たちにヒアリングしておりそのことを知っていたが、広島市内への立ち入りを自由とした。

無条件降伏を受け入れる10日ほど前のことであるから、すべての政治機能がパニックになっていたのだろう。

戦後よく生きた私の父は、75歳で医師の手術ミスで死んだ。
肝臓がんとわかって余命を意識するようになってから、父は盛んに夢を見るようになった。

暗い中からたくさんの人が父の方へ近づいてくる。

みな両手を前に伸ばし手の甲を上に向け指先は下に下がっている。

「水をくれー、水をくれー」

夢にうなされながら老いた元兵隊はヒバクシャの彼らが集う場所へと旅立っていった。

「なぜあのとき、水筒の水を一滴くれなかったのか!」
そうあのときのヒバクシャたちに問い詰められて、うつむいている父の姿が目に浮かぶ。

テレビの画面に映るアメリカ大使の額にあたる熱い夏の日差しを見つつ、私には65年前の若き兵隊の悔いの姿が浮かんでくる。

アメリカは日本人に、とりわけ広島と長崎の人々と霊に対して謝罪すべきだ。

それが私が夢想したような哀れなルース大使の姿を現実化しないための第一歩だ。

「アメリカ軍兵士の命を救うために原爆は必要だった」という意見がアメリカにある。

それは「目には目を」の論理思考をする原理主義者にとって代わって利用されるだろう。

アメリカが悪の枢軸と称す敵国もまたその理屈を使うようになる。

「ゲリラ兵を救うために我々はワシントンで小型原爆を爆発させたのだ!」と。

謝罪し悔い改めるしかアメリカのとる道はない。
オバマよ、手遅れになる前に広島・長崎にやってきて謝罪せよ。

日本の今後の安全保障政策もその謝罪の後に真摯に話し合おう。
核爆弾なき世の安全保障政策をである。

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