創られた「赤穂事件」 [つれづれ日記]

創られた「赤穂事件」

赤穂事件という。
作り話方の名が「忠臣蔵」である。

嘘の話はドラマでさんざんみせつけられたから、もういい。

井沢元彦著「真説日本武将列伝」(小学館文庫)に書いてあることだからこれらは本当なのだろう。

浅野の馬鹿殿は吉良を松の廊下で後ろから切り付けていた。

また作り話だと聞いていた「陣太鼓」は本当だと言う。
大石が山鹿流陣太鼓を打ち鳴らしたのは闇討ちではなく堂々たる軍事行動であることを示すものだとのこと。

中国の朱子学によれば「馬鹿な殿ほどそのために命をかけた部下は忠臣になる」そうだ。
大石はそのことを果たして知っていて仇討ちをやったのだろうか?

また武士のはしくれでありながら、浅野は相手を後ろから切りつけている。
それでいながら打ち損じている。
侍としては馬鹿といっていい。

なぜ腹を刺し通さなかったのか。
なぜ振り向いてから左胸を指さなかったのか。

信長、秀吉の時代なら常識中の常識である。
敵の首をとってはじめて手柄になるのである。
相手が重傷を負った程度で暴れまわるようでは、首も落ち着いて切り離せない。
一発で仕留めるのが武士の務めなのだが、家康の「武士骨抜き作戦」はじわじわと江戸時代に浸透していったのである。

赤穂事件はある政治勢力によってドラマ「忠臣蔵」に書き換えられて、政治的プロパガンダに利用されたのである。
その政治メカニズムは、現代でも作用している可能性がある。

「ある勢力」がまだ力を温存しているならば、同じことを繰り返すはずだ。

第2次世界大戦の敗戦でも生き残る政治勢力とは一体何だろうか。

中国で数万人を超える人体毒ガス実験を行っていた石井731部隊の隊員たちは戦後も生き延びていることはよく知られている。
銃殺刑に処される人々はなぜ生き延びたのか。

それは「取引」である。

毒ガス実験データをすべてアメリカに手渡す代わりに、命を助けてもらったのである。
かなり多くの石井731部隊の人々が、その後薬害エイズ事件にかかわった薬剤会社などに就職していることを見ると、日本の薬剤メーカとアメリカの抗がん剤開発の闇の関係が浮かび上がってくるように思われる。

抗がん剤第1号は石井731部隊が中国人をモルモットにやったマスタード系毒ガス人体実験データを参考にしてアメリカの薬剤メーカで開発されたものだ。
「マスタード」の語がその抗がん剤にはついているという。
毒ガスは正常細胞を殺す道具だ。
解剖してみればわかることだが、同時にがん細胞をも殺している。

正常細胞をほどほどにしつつ、がん細胞を殺す薬剤があれば、それは抗がん剤となる。

抗がん剤を飲んで苦しむ患者が多いのは、毒を飲むから正常細胞までも痛めるからである。
私は抗がん剤で苦しみながら死ぬよりも、がんの痛みを麻薬で緩和しつつ自然に死ぬほうを選ぶだろう。

つまり、石井731部隊生存の話は、第2次世界大戦で負けてはいても、何かを敵にプレゼントした連中は生き延びていることの実例となる。
彼らはデータを渡した。
金、女、戦後の利権など与えるものはいくらでもあっただろう。

石井731部隊以外にも、巨悪が戦前から現在まで生き延びている可能性は高い。

だから現代「忠臣蔵」でさえも、必要になったらまた同じ手でやり始める可能性がある。

巨悪が赤穂事件を起こさせたという仮説を私は立てる。
では、何のために赤穂事件を大石内蔵助に起こさせたのか?

大石自信は弟浅野大学を奉じてお家再興を企てていた。
大石が本当の忠臣ならば、浅野切腹後すぐに吉良邸に討ち入るべきだった。

お家再興もだめになって、そのうちぐずぐずしているうちに、江戸高田馬場の堀部親子ら過激派に扇動されて、渋々最後に決意したように見える。

一部の過激派の赤穂浪士たちにとっては、主君の仇討ちは悲願だろう。
それならば腕利きが4~5人もいればもっと早い時期に吉良の首は取れていたはずだ。

幕府大老の井伊直弼でさえ水戸脱藩浪人を中心とする桜田十八士により首を取られている。
たった18人で大老の首は取れたのだ。
一方、迎え撃った井伊側は16名だった。

『当日は季節外れの雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。

江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲うなどという発想そのものがなく、彦根藩側の油断を誘った。

襲撃者たちは『武鑑』を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待っていた。

駕籠が近づくと、まず前衛を任された森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえにきた日下部三郎右衛門をやにわに斬り捨てた。

こうして護衛の注意を前方に引きつけておいたうえで、黒澤忠三郎(関鉄之介という説あり)が合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。

発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまった。

襲撃に驚いた丸腰の駕籠かきはもちろん、太平の世に慣れた藩士の多くは算を乱して遁走した。

それでも意地のある数名の供侍たちが駕籠を動かそうと試みたものの斬り付けられ、駕籠は雪の上に放置される。

護衛の任にある彦根藩士たちは、ベタ雪の水分が柄を濡らすのを避けるため、両刀に柄袋をかけていたが、それが邪魔して咄嗟に抜刀できなかった。

このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んで指や耳を切り落とされるなど、狼狽した彦根藩士の有様は江戸町人に嘲笑されたが、こうした不利な形勢のなか、二刀流の使い手として藩外にも知られていた河西忠左衛門だけは冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って稲田重蔵を倒すなど襲撃者たちをてこずらせた。

しかし、しょせん一人では抵抗しきれず、遂に斬り伏せられる(河西の刃こぼれした刀は彦根城博物館に保存されている)。

もはや護る者のいなくなった駕籠に、次々に刀が突き立てられた。さらに有村次左衛門が荒々しく扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴んで駕籠から引きずり出した。

直弼は無意識に地面を這おうとしたが、有村が発した薬丸自顕流の「猿叫」(「キエーッ」という気合い)とともに、振り下ろされた薩摩刀によって胴体から切断された首は、あたかも鞠のように雪のうえを飛んだという。

襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったという。
一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に鮮やかに描かれている。

有村らは勝鬨をあげ、刀の切先に直弼の首級を突きたてて引き上げにかかったが、斬られて昏倒していた小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に切りつけた。

小河原は広岡子之次郎らによって膾(なます)のように斬り倒されたが、その有様は目を覆うほど壮絶無残だったという。

一方、有村も重傷を負って歩行困難となり、若年寄遠藤胤統邸の門前で自決する。

小河原は即日絶命するが、ほかに数名でも自分と同じような決死の士がいれば、けっして主君の首を奪われることはなかったと、無念の言葉を遺している。

襲撃を聞いた彦根藩邸からは直ちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで徹底的に回収した。

直弼の首は遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。』(桜田門外の変(Wikipedia)より)

最後のとどめが薩摩藩士だったということは面白い。

ある「意思」が働いていると見るべきだろう。
このお役目は誰でもよいというものではない。
なぜならば手柄に直結するからである。

「江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲うなどという発想そのものがなく、彦根藩側の油断を誘った。」というところにヒントがある。

幕末でさえ武士は使い物にならなかったということだ。

それは家康が敷いた武家諸法度、参勤交代などの法制が徳川家だけに有利に働き他の大名の力を削ぐためのものだったからだ。
オランダとの長崎出島貿易は徳川家を豊かにし、密貿易で栄えてきた薩摩を疲弊させてきた。

家康がオランダと手を結んだのは、井沢氏によれば、布教を強制しないプロテスタント系キリスト教の国だったからだという。

家康の鎖国とは西国大名や朝廷から貿易の甘い蜜を奪い去り、徳川一家の利益とするための方策だったのである。

戦争がなくなり、武士の力を発揮する戦場が無くなり、江戸時代にはなまくら武士が増えてきてしまった。
そこへ加えて、朝廷と大名の財力も衰退の一途をたどる。

それを喜ぶのは徳川家だけである。

朝廷は江戸幕府を苦々しく思っていたはずだ。

家康は朝廷を京都に閉じ込め、自らが東を照らす神「アズマテラスの神(東照宮)」となって関東に君臨した。
政治権力を朝廷から完全に剥奪することに成功したのである。

信長には朝廷を倒す考えがあったが、事前に殺された、

代わった秀吉は朝廷のシステムに取り入ることにより身分を得て関白に就任した。
つまり朝廷の下につくことで天下を治めたのである。

二人のやり方を見て学んだ家康はいずれも採用しなかった。

朝廷を倒すこともせず、朝廷の傘下ににも入らない道をとった。

家康自身が西のアマテラスに対抗して、東のアズマテラスになった。
そして他大名と朝廷の間の婚姻をやめさせ、徳川家のみが朝廷と婚姻を結ぶことにした。

婚姻関係ができれば院政を敷くことさえ可能となる。

そういう江戸時代であるから、徳川家を倒す大名が生まれない限り、朝廷の輝かしい復活はありえない。

ならばどうやって武士に本来の戦争好きな性格を植え付けるかが大事な課題となる。

赤穂事件は格好の武断派再生のチャンスだった。
その成功はやがて明治維新という形となって大きな実を結ぶことになる。

朝廷側にたって見れば、赤穂事件は明治維新の訓練のためのモデル戦闘だったといってもいい。

忠臣蔵劇を日本国民にあれほど見せても、幕末の桜田門外の変では井伊藩では不甲斐ない武士の失態が起きた。
いかに戦争がなくなった時代の江戸武士がだらしなくなっていたかということを示す。

朝廷側にたてば、なまくら武士が多い江戸末期ほど、徳川家は倒しやすくなっていたともいえよう。

大石が本当に吉良の首が欲しかったのであれば、刺客は47人も要らないのである。
しかも相手は大老ではなく、並の旗本で文治派の小大名にすぎない。
赤穂浪士10人でもやれたはずだ。

大石は吉良の首が欲しかったのではなく、家臣たちの再就職先が欲しかったのである。
勿論大石自身の就職もだ。

つまりお家再興を図った大石は、生きて働こうと努力してきたのだ。

いつから大石は生きていく努力を捨てる気になったのだろうか。
私は大石は「命を捨てる気にさせられた」のだろうと思っている。

大石は、一種の洗脳を京都で受けてしまったのではないか。
あるいはある権威ある人物から提示された「嘘の企み」にうっかり大石は乗せられてしまったのだと思う。

それも含めて洗脳といってもいい。

赤穂藩家老を洗脳できるほどの力を持つもの、それは馬鹿殿浅野を松の廊下で錯乱させることをも制御できる人物である可能性が高い。

赤穂藩藩主・浅野長矩(ながのり)は、精神性疾患を持っていたという説もある。
つまり症状に詳しい医師であれば、どういう薬を処方すればどう変化するなどという知識も持っていただろう。

もし仕組まれた殺傷事件だったとしたら、吉良家にとってはいい迷惑である。
切りつけられ、うそのドラマでは悪役に描かれ、最後に殺害される。
吉良の息子は上杉家へ養子にやっていたが、やがて病死するに至る。

浅野刃傷事件に対して吉良家側になんら罪がないとしたら、これほど理不尽な歴史もないことになる。

浅野赤穂藩は歴代朝廷へ「赤穂の塩」を献上していた。
朝廷とは命の源泉である「塩」を介して関係があったということだ。

アッシリア語で「塩」は「シオ」と発音する。

日本語の「シオ」が大陸から運ばれてきたとすれば、アッシリア地方からの渡来人によって輸入された可能性がある。
塩田作りも海外から輸入されたものである。

ここに事実としての山鹿流陣太鼓の登場がある。
これまで私は陣太鼓は創作とばかり思っていたので、深く考えたことはなかった。

ある本では陣太鼓は創作話であると根拠を示さずに書いていたがm私はそれをこれまで鵜呑みにして信じていたのだ。

吉田松陰を別ルートで追いかけているが、松陰の成長期に平戸藩の家老山鹿某による兵法指南を受けている。
師匠は山鹿素行の末裔である。

幕末の火薬庫である吉田松陰と、武断派武士の洗脳のために行われた赤穂事件と、いずれも山鹿素行の陰がちらつく。

山鹿素行はかつて幕府の儒者で幕臣として採用されそうになったことがある。
義理の叔母である大奥取り締まり春日局の引きである。
採用面接の最後の段階にきて、幕府j儒学者の林羅山に思想の危険性を見破られて不採用になった。

幕臣になれなかった失意の山鹿素行の向かった先が赤穂藩だった。

春日局は朝廷公家の養女となることによって大奥に入り込むことに成功しているから、春日局が朝廷との接触点と見てよさそうだ。

『美濃の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる斎藤利三で、母は稲葉一鉄の娘・稲葉あん。
稲葉正成の妻で、稲葉正勝、稲葉正定、稲葉正利は実子。養子に堀田正俊。

江戸城大奥の礎を築いた人物。松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の1人に数えられた。』(春日局(Wikipedia)より)

春日局の本名は斎藤お福である。
父斎藤利三は本能寺の変で織田信長を殺害した現場にいた軍事指導者である。
明智光秀は本陣にいいて現場には行っていない。

つまり織田信長を殺害した男の娘が斎藤お福、後の春日局である。
そのお福は山鹿素行を将軍家光のお傍つきの幕臣にしようと画策したことがある。

その後、山鹿素行はなぜか赤穂藩に召抱えられる。
多くの大名が山鹿素行の家臣として迎えたいと希望していたのに、なぜ山鹿素行は赤穂藩を選んだのか。
おそらく春日局の指示に従ったのであろう。
それは朝廷側からの指示でもある。

赤穂事件に山鹿素行が思想面で絡んでいることは、主犯黒幕をあぶりだす上でおおいに参考になる。
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百楽天

 はじめまして。

 ブログ拝読しました。

 中信(ちゅうしん)という名で、『忠臣蔵 の なぞとき』をブログに書いています。

 おそらく市販の忠臣蔵本にはない内容がほとんどだと思います。

 ご意見いただければ幸甚です。
by 百楽天 (2012-02-15 23:06) 

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