アメリカ大使ルース氏の額を見て [つれづれ日記]
昨日8月6日は「アメリカが広島に原爆を投下した記念日」である。
日本人にとっては「アメリカに原爆を落とされた被害者の慰霊日」である。
昨日の朝も広島は太陽の日差しは強かった。
あの日も強かったのだ。
参加者は、加害者も被害者も被害者遺族も暑そうな顔をして会場に座ってその時を待っていた。
アメリカ大使も暑そうな顔つきだった。
この人は本当はいい人物なのだろう。
英米仏がはじめて代表者を参加させたことをメディアが報じていた。
連合国軍の主要3国である。
原爆投下について事前に承知していた三国だろう。
原爆投下という「神を恐れぬ悪行」に手を染めたのはアメリカ1国だけである。
そのアメリカ大使の広い額に強い朝日が当たっている。
あの日も額に原爆の光線を直射された人が大勢いただろう。
この強い日差しの中で、額をガスバーナーで燃やしてしまえばどうなるか想像できるだろうか。
焼いた瞬間は衝撃と強烈な熱さに見舞われる。
そして驚く。
そのすぐあとに生体は修復しようとして水膨れをつくる。
やけどが深く真皮の下まで及べば出血し水泡は赤くなる。
出血がひどければ表皮が破れて血と体液が額から漏れ出してきて、やがてその目に入るだろう。
その水ぶくれた額に向けて、容赦なくその強い日差しが当たるのだ!
木陰など焼き尽くしていてない荒野でその強い日差しを患部に浴びるのだ。
参加しているルース大使の額をテレビで見つつ、そういう光景が私の脳裏に見えた。
ルース大使の「額」だけではない。
礼服もシャツもネクタイもズボンもパンツさえ一瞬に燃え、そして爆風で吹き飛ばされた。
むき出しの皮膚と毛は一瞬で焼かれる。
首も背中も腹も太ももも脛(すね)や足首さえもやけどで膨れるのだ。
靴も焼けて半分千切れる。
露出した足先も水膨れになる。
全身水膨れだ。
ほとんど全裸同然のルース大使の姿が見える。
全身が水ぶくれになると人間はどうなるだろうか。
亡き私の父は原爆投下1週間後の広島市内に兵隊として入った。
被爆者たちは全身水ぶくれになって、水を欲しがるのであるぞ!
体が全身を加圧してやけど部位に水を圧送するから、ヒバクシャは強烈な渇きを感じるのだ。
やがて全身焼け爛れたルース大使は立ち上がるだろう。
そのやけどあとにはその夏の熱い光線がジリジリと刺し込むのだ。
それがどれだけ痛いものであるか、わかるか?!
いや体験したものでなければわからない。
私もわからないが、少しは想像できる。
アメリカ人は想像さえ拒絶しているようだ。
いずれ不幸な国の国民が同じ体験することになろう。
そのときにアメリカ人はインタビューをして聞けばよい。
父は軍の命令により、爆死した兵隊の死体の回収に向かう。
トラックに20人ほど乗り、手にスコップを持っていた。
海田(かいた)の海軍基地を出て広島市内にやってきた。
一面が焼け野原である。
兵隊たちはトラックから飛び降りて整列してからある場所へ向かった。
兵士が集まっていた宿舎か軍司令部などの施設跡だろう。
スコップを持って行軍する兵士たちは道路の両側に座って並んでいるヒバクシャ難民たちを両側に見ながら進む。
人々は火傷をして1週間を生き延びた人たちだった。
多くの人がその間に地獄広島を去って天国へと旅立っていた。
運良くというか、運悪くというか、死に切れなかった重傷者たちがまだ生きていた。
全身に火傷を負ったルース大使の姿も私には見える。
死んだ人の衣服をはがして陰部に布切れをつけている。
アダムとイブのような姿で道端に立っている。
ほとんどの重傷者は腕を前方へ上げている。
腕を下げると水ぶくれが下がってきて激痛が起きるからである。
手の甲を前に向けて、そして指先は下に下がっている。
その姿は日本の幽霊の姿に良く似ている。
「うらめしやー」といいながら幽霊がそのまま腕を前に伸ばした形である。
そして口々に「水をくれー、水をくれー」といいながら兵隊たちに近寄ってくる。
男女の差はわからない。
兵隊たちの腰にある出納を目指しヒバクシャたちはよってくる。
当時20歳だった父は思った。
自分はこの水筒の水はなくなっても1日くらいなら我慢できる。
しかし、あげようと思っても水をあげることは許されていない。
原爆投下の1週間後は8月13日だ。
まだ帝国日本軍は降服していない。
戦時中である。
上官の命令は「兵士の遺体を回収せよ」であり、市民救護ではない
可愛そうにと思いながらも、父は行軍し、目的地へと進んでいった。
道々何百人もの人々から声をかけられた。
「水をくれー、みずをくれー」
目的地に着いた兵隊たちは焼け跡の瓦礫に埋もれた兵士の遺体を捜した。
爆死して1週間後の遺体は腐乱していた。
炭と泥まみれの遺体は千切れながらスコップですくい、トラックの上に放り上げた。
5~6体をトラックに上げたころ、スコップが重くなっていることに気づいた。
死骸の血や体液がスコップにつき、そこに炭や埃が付着している。
重くなったスコップをはがしてみると、実はそれは遺体からはがれた皮膚が何層にもなってスコップの表裏面に張り付いているのだった。
木切れやナイフの刃先でスコップをこすって皮膚の山をはぎ落とした。
再び遺体をすくってトラックに放り投げていると、またスコップが重くなって来る。
さながら有機物の廃棄物を満載した姿になったトラックを見送って本日の作業は終わった。
兵士たちは水筒の水を飲む。
それを見ていたヒバクシャがまた近づいてくる。
「水をくれー、水をくれー」
上官は命令する。「かまうな、撤収せよ」
父たち若い兵隊は汗と泥まみれの顔と体のままスコップを片手に再び輸送トラックの待機場所へと行軍した。
後年わかったことだが、その埃の中に強烈な残留放射能が含まれていた。
私はノーベル賞をもらって喜ぶ日本人原子力科学者の良心を疑う。
この時、広島に投下されたのが原爆だと彼らは知っていた。
兵士のみならず、一般市民をも被爆地内への立ち入りを禁止すべきだった。
ヒバクシャたちも大火傷のあとで、続いて残留放射能を浴び続けるという二重苦を加えられたのである。
当時の日本人物理学者のレベルはオッペンハイマーやアインシュタインに並ぶほどであり、残留放射能による作用と効果も予測できていた。
しかし見ぬ振りをしたのだ。
軍は当然科学者たちにヒアリングしておりそのことを知っていたが、広島市内への立ち入りを自由とした。
無条件降伏を受け入れる10日ほど前のことであるから、すべての政治機能がパニックになっていたのだろう。
戦後よく生きた私の父は、75歳で医師の手術ミスで死んだ。
肝臓がんとわかって余命を意識するようになってから、父は盛んに夢を見るようになった。
暗い中からたくさんの人が父の方へ近づいてくる。
みな両手を前に伸ばし手の甲を上に向け指先は下に下がっている。
「水をくれー、水をくれー」
夢にうなされながら老いた元兵隊はヒバクシャの彼らが集う場所へと旅立っていった。
「なぜあのとき、水筒の水を一滴くれなかったのか!」
そうあのときのヒバクシャたちに問い詰められて、うつむいている父の姿が目に浮かぶ。
テレビの画面に映るアメリカ大使の額にあたる熱い夏の日差しを見つつ、私には65年前の若き兵隊の悔いの姿が浮かんでくる。
アメリカは日本人に、とりわけ広島と長崎の人々と霊に対して謝罪すべきだ。
それが私が夢想したような哀れなルース大使の姿を現実化しないための第一歩だ。
「アメリカ軍兵士の命を救うために原爆は必要だった」という意見がアメリカにある。
それは「目には目を」の論理思考をする原理主義者にとって代わって利用されるだろう。
アメリカが悪の枢軸と称す敵国もまたその理屈を使うようになる。
「ゲリラ兵を救うために我々はワシントンで小型原爆を爆発させたのだ!」と。
謝罪し悔い改めるしかアメリカのとる道はない。
オバマよ、手遅れになる前に広島・長崎にやってきて謝罪せよ。
日本の今後の安全保障政策もその謝罪の後に真摯に話し合おう。
核爆弾なき世の安全保障政策をである。
日本人にとっては「アメリカに原爆を落とされた被害者の慰霊日」である。
昨日の朝も広島は太陽の日差しは強かった。
あの日も強かったのだ。
参加者は、加害者も被害者も被害者遺族も暑そうな顔をして会場に座ってその時を待っていた。
アメリカ大使も暑そうな顔つきだった。
この人は本当はいい人物なのだろう。
英米仏がはじめて代表者を参加させたことをメディアが報じていた。
連合国軍の主要3国である。
原爆投下について事前に承知していた三国だろう。
原爆投下という「神を恐れぬ悪行」に手を染めたのはアメリカ1国だけである。
そのアメリカ大使の広い額に強い朝日が当たっている。
あの日も額に原爆の光線を直射された人が大勢いただろう。
この強い日差しの中で、額をガスバーナーで燃やしてしまえばどうなるか想像できるだろうか。
焼いた瞬間は衝撃と強烈な熱さに見舞われる。
そして驚く。
そのすぐあとに生体は修復しようとして水膨れをつくる。
やけどが深く真皮の下まで及べば出血し水泡は赤くなる。
出血がひどければ表皮が破れて血と体液が額から漏れ出してきて、やがてその目に入るだろう。
その水ぶくれた額に向けて、容赦なくその強い日差しが当たるのだ!
木陰など焼き尽くしていてない荒野でその強い日差しを患部に浴びるのだ。
参加しているルース大使の額をテレビで見つつ、そういう光景が私の脳裏に見えた。
ルース大使の「額」だけではない。
礼服もシャツもネクタイもズボンもパンツさえ一瞬に燃え、そして爆風で吹き飛ばされた。
むき出しの皮膚と毛は一瞬で焼かれる。
首も背中も腹も太ももも脛(すね)や足首さえもやけどで膨れるのだ。
靴も焼けて半分千切れる。
露出した足先も水膨れになる。
全身水膨れだ。
ほとんど全裸同然のルース大使の姿が見える。
全身が水ぶくれになると人間はどうなるだろうか。
亡き私の父は原爆投下1週間後の広島市内に兵隊として入った。
被爆者たちは全身水ぶくれになって、水を欲しがるのであるぞ!
体が全身を加圧してやけど部位に水を圧送するから、ヒバクシャは強烈な渇きを感じるのだ。
やがて全身焼け爛れたルース大使は立ち上がるだろう。
そのやけどあとにはその夏の熱い光線がジリジリと刺し込むのだ。
それがどれだけ痛いものであるか、わかるか?!
いや体験したものでなければわからない。
私もわからないが、少しは想像できる。
アメリカ人は想像さえ拒絶しているようだ。
いずれ不幸な国の国民が同じ体験することになろう。
そのときにアメリカ人はインタビューをして聞けばよい。
父は軍の命令により、爆死した兵隊の死体の回収に向かう。
トラックに20人ほど乗り、手にスコップを持っていた。
海田(かいた)の海軍基地を出て広島市内にやってきた。
一面が焼け野原である。
兵隊たちはトラックから飛び降りて整列してからある場所へ向かった。
兵士が集まっていた宿舎か軍司令部などの施設跡だろう。
スコップを持って行軍する兵士たちは道路の両側に座って並んでいるヒバクシャ難民たちを両側に見ながら進む。
人々は火傷をして1週間を生き延びた人たちだった。
多くの人がその間に地獄広島を去って天国へと旅立っていた。
運良くというか、運悪くというか、死に切れなかった重傷者たちがまだ生きていた。
全身に火傷を負ったルース大使の姿も私には見える。
死んだ人の衣服をはがして陰部に布切れをつけている。
アダムとイブのような姿で道端に立っている。
ほとんどの重傷者は腕を前方へ上げている。
腕を下げると水ぶくれが下がってきて激痛が起きるからである。
手の甲を前に向けて、そして指先は下に下がっている。
その姿は日本の幽霊の姿に良く似ている。
「うらめしやー」といいながら幽霊がそのまま腕を前に伸ばした形である。
そして口々に「水をくれー、水をくれー」といいながら兵隊たちに近寄ってくる。
男女の差はわからない。
兵隊たちの腰にある出納を目指しヒバクシャたちはよってくる。
当時20歳だった父は思った。
自分はこの水筒の水はなくなっても1日くらいなら我慢できる。
しかし、あげようと思っても水をあげることは許されていない。
原爆投下の1週間後は8月13日だ。
まだ帝国日本軍は降服していない。
戦時中である。
上官の命令は「兵士の遺体を回収せよ」であり、市民救護ではない
可愛そうにと思いながらも、父は行軍し、目的地へと進んでいった。
道々何百人もの人々から声をかけられた。
「水をくれー、みずをくれー」
目的地に着いた兵隊たちは焼け跡の瓦礫に埋もれた兵士の遺体を捜した。
爆死して1週間後の遺体は腐乱していた。
炭と泥まみれの遺体は千切れながらスコップですくい、トラックの上に放り上げた。
5~6体をトラックに上げたころ、スコップが重くなっていることに気づいた。
死骸の血や体液がスコップにつき、そこに炭や埃が付着している。
重くなったスコップをはがしてみると、実はそれは遺体からはがれた皮膚が何層にもなってスコップの表裏面に張り付いているのだった。
木切れやナイフの刃先でスコップをこすって皮膚の山をはぎ落とした。
再び遺体をすくってトラックに放り投げていると、またスコップが重くなって来る。
さながら有機物の廃棄物を満載した姿になったトラックを見送って本日の作業は終わった。
兵士たちは水筒の水を飲む。
それを見ていたヒバクシャがまた近づいてくる。
「水をくれー、水をくれー」
上官は命令する。「かまうな、撤収せよ」
父たち若い兵隊は汗と泥まみれの顔と体のままスコップを片手に再び輸送トラックの待機場所へと行軍した。
後年わかったことだが、その埃の中に強烈な残留放射能が含まれていた。
私はノーベル賞をもらって喜ぶ日本人原子力科学者の良心を疑う。
この時、広島に投下されたのが原爆だと彼らは知っていた。
兵士のみならず、一般市民をも被爆地内への立ち入りを禁止すべきだった。
ヒバクシャたちも大火傷のあとで、続いて残留放射能を浴び続けるという二重苦を加えられたのである。
当時の日本人物理学者のレベルはオッペンハイマーやアインシュタインに並ぶほどであり、残留放射能による作用と効果も予測できていた。
しかし見ぬ振りをしたのだ。
軍は当然科学者たちにヒアリングしておりそのことを知っていたが、広島市内への立ち入りを自由とした。
無条件降伏を受け入れる10日ほど前のことであるから、すべての政治機能がパニックになっていたのだろう。
戦後よく生きた私の父は、75歳で医師の手術ミスで死んだ。
肝臓がんとわかって余命を意識するようになってから、父は盛んに夢を見るようになった。
暗い中からたくさんの人が父の方へ近づいてくる。
みな両手を前に伸ばし手の甲を上に向け指先は下に下がっている。
「水をくれー、水をくれー」
夢にうなされながら老いた元兵隊はヒバクシャの彼らが集う場所へと旅立っていった。
「なぜあのとき、水筒の水を一滴くれなかったのか!」
そうあのときのヒバクシャたちに問い詰められて、うつむいている父の姿が目に浮かぶ。
テレビの画面に映るアメリカ大使の額にあたる熱い夏の日差しを見つつ、私には65年前の若き兵隊の悔いの姿が浮かんでくる。
アメリカは日本人に、とりわけ広島と長崎の人々と霊に対して謝罪すべきだ。
それが私が夢想したような哀れなルース大使の姿を現実化しないための第一歩だ。
「アメリカ軍兵士の命を救うために原爆は必要だった」という意見がアメリカにある。
それは「目には目を」の論理思考をする原理主義者にとって代わって利用されるだろう。
アメリカが悪の枢軸と称す敵国もまたその理屈を使うようになる。
「ゲリラ兵を救うために我々はワシントンで小型原爆を爆発させたのだ!」と。
謝罪し悔い改めるしかアメリカのとる道はない。
オバマよ、手遅れになる前に広島・長崎にやってきて謝罪せよ。
日本の今後の安全保障政策もその謝罪の後に真摯に話し合おう。
核爆弾なき世の安全保障政策をである。
2010-08-07 14:17
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