江戸麹町四番町のシュロの木 [つれづれ日記]

SH3B0167A.jpgSH3B0167四番町のシュロの木
SH3B0168.jpgSH3B0168敷地隣が番町教会だった。
SH3B0171A.jpgSH3B0171日テレ四番町ビル1号館
SH3B0173.jpgSH3B0173上智大学市谷校舎のシュロ

今日麹町(こうじまち)四番町を歩いていてシュロの木を見た。
ブロック塀を隔ててすぐ隣は番町教会だった。
カトリック教会であろうか。

正式名は「日本基督教団 番町教会」だった、
http://bancho.m78.com/

このホームページのQ&Aに経緯が紹介されていた。

『番町教会は1886年(明治19年)に設立されました。
設立以来現在地と同じ場所で、キリストの恵みの福音を語り続けています。

Q.キリスト教にはいろんな教会があるようですね?

A. 大きく分けて、カトリックとプロテスタントの教会があります。
番町教会はプロテスタントの日本キリスト教団に属する約1700の教会をはじめとして、カトリックなど他の教派の教会とも協力関係にあり、全国のキリスト教主義学校や社会福祉施設、団体ともつながりを持っています。』(抜粋終わり)

この説明によれば、ここはプロテスタントの教会である。

プロテスタント教会でもシュロはイエス復活を祈るもののようだ。

シュロは隣地に生えているが、至近距離であるから以前は広い同じ敷地内にあったものと思われる。

番町教会のちょうど1ブロック北側の通りを歩いて見ると「日テレ四番町ビル1号館」の前を通った。

この傍に日本山岳会の事務所があったはずだが、今日は見当たらなかった。
変わりに馬鹿に広い真新しい駐車場の工事完成間近の敷地が広がっていた。

古いマンションのどこかの階に日本山岳会はあったはずだが、マンションが解体されたのだろうか。
夏の日差しの中で引き返して確認する気力も出なかったので、そのまま通り過ぎた。

なぜ日本山岳会を思い出したかというと、英国公使館員のアーネスト・サトウと日本女性との間に生まれた男子が設立メンバーの一人であったからだ。

単なる直感であるが、アーネスト・サトウはカトリックや英国国教会の信者ではなかったのではないかと思っていた。
ひょっとするとプロテスタントだったのではないかと思ったことがあったからだ。

日テレ四番町ビル1号館を過ぎると、道路向かいに上智大学の市谷校舎の門が見えてくる。

「SOPHIA」の英語の文字が門に掲げられている。
校舎の高いコンクリート塀に内部はさえぎられているが、その塀の上から背の高いシュロの木の枝が見えている。

上智大学の本学には、学生や教職員のカトリック活動をサポートカトリックセンターがあるから、こちらはカトリックである。

同じ四番町に日テレビルを挟んでプロテスタントとカトリックがあるということだ。

昔は布教するために聖書が必須だった。
だから印刷技術は最初に聖書の印刷に利用された。

今でも聖書は大事であるが、他のメディアも活用されている。

一昔前までは新聞、ラジオ、テレビのメディアも書籍という媒体に加えて重要な情報通信手段であった。

今ではこれにインターネットが加わってきた。

もともとインターネットは米国国防総省の情報部門のツールとして開発されている。
米国は大統領の就任式で聖書に手をおき誓約するカトリックの国である。

大統領選にインターネットが活用されて効果を出したことと同じように、宗教のいろいろな情報伝達にも多く利用されているはずだ。

日テレをカトリックとプロテスタントが挟む構図は、明治維新という革命の背景を語っているようでもある。

東海道の記憶 [つれづれ日記]

SH3B0156.jpgSH3B0156鮫州運転試験場
SH3B0160.jpgSH3B0160旧東海道の北品川方面を見る
SH3B0162.jpgSH3B0162昔の面影のある民家

8月1日(日)に自動車免許の更新のために鮫州運転試験場に行った。
京急の駅から試験場に向かうときに、いつかこの付近を通った記憶がよみがえった。

既視感(デジャブー)という。

以前にこのシーンは見たことがあるぞというフィーリングである。

無事に免許を更新して帰り道にゆっくりとその場所を眺めてみた。

5年前、街道歩きではまったくの素人だった私が
早朝日本橋を出て昼過ぎにこの辺りを歩いたのだった。

北品川宿辺りを通り過ぎてこの鮫州付近を通過したのだった。

旧東海道に立って、北品川方面を見た。
こちらから5年前の私は歩いてきたのだった。

角に昔の面影のある木造民家が残っていた。

緑のペイントが塗られた歩道を歩いていたという記憶がよみがえってきた。



肘(ひじ)曲がり坂~奥州街道(4-187) [奥州街道日記]

TS393361.jpgTS393361山道に案内板
TS393362.jpgTS393362「奥州街道 肘(ひじ)曲がり坂」の案内板
TS393363.jpgTS393363いよいよ熊の生息地らしき山へ入る

砂利道の林道のような旧奥州街道を歩いて、緩やかな坂を上っている。
人家は消えてしまった。

やがて街道脇に案内板が見える。
そして足が2本しか入らないほど狭い山道が林道から直角に山へ分け入って続いている。

「まさか、この小道が奥州州街道だというのではあるまいな。」

実は中山道を下諏訪宿から和田峠を越えて奈良井宿へ出てきたときに、短い距離だったが「江戸時代のままの中山道古道」という標識を見つけた。
その古道はまさにこれくらいの一人しか歩けないほどの狭い道だったのだ。

だから、その「まさかなのだろう」という印象も同時に持った。

案内板を抜粋する。

『奥州街道 肘(ひじ)曲がり坂

奥州街道とは江戸時代、東海道や中仙道、日光道中、甲州道中とともに、五街道の一つに数えられた奥州道中の別称で、正式には江戸日本橋を起点とし、千住宿から白河宿までの道中を意味しますが、次第に陸奥三厩宿(むつみんまやじゅく)に至る、概ね百十五宿の街道の名称となりました。

ここは江戸時代、栗原藩三迫有壁宿の北側、観音寺を通り北へ向かう上り坂で、この坂の頂上付近が肘曲がり坂と呼ばれています。

安永年間(1772~1781)の「有壁村風土記御用書上」に「肘曲がり坂、長三拾間(約50m)」とあり、江戸時代からの名称であることがわかります。

肘曲がり坂、大沢田坂を越え、磐井郡鬼死骸村を通り田村氏の城下町であった一関に至ります。

明治時代に入り陸羽街道(現在の国道四号)の開設と鉄道の開業によりこの街道を利用する人々が少なくなり、廃道となりました。

このため江戸時代に多くの人々が往来した当時の様子を偲ばせる道路や切り通し、講中により建てられた石碑群や自然環境が大変よく残されています。

平成18年3月 栗原市教育委員会』(抜粋終わり)

50mと短い古道だが、このまま永遠に残して置きたい道である。

このブログには五街道のうち、三街道はすでに掲載を終えた。
あとは奥州街道後半戦と甲州道中を書き終えるだけである。

無料ブログの活用ゆえいつも容量が不足するので、複数に分割して掲載している。
よって過去記事は下記を参照していただきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/suikyo50/
および
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000

「磐井郡鬼死骸村を通り田村氏の城下町一関に至る」と書いてある。
なんと恐ろしい名前の地名を通過するのだろう。

おそらく原住民であったアイヌ人を殺し骸骨にしてしまった大和族が名づけたものだろう。
侵略者によるひどいセンスの命名である。

逆に言えば、コレハル村のアザマロやアテルイなどの古代アイヌ人が如何に勇猛果敢だったかということを示している。

おそらく中国式の歩兵中心の大和族に対して、奥羽のアザマロたちは騎馬民族の末裔として騎馬戦を得意としていたのであろう。

後の時代に平泉の藤原氏に匿われていた源義経が、世界史の中でもっとも早く集団騎馬戦を実践した。
歩兵を用いず全員が騎馬戦であることが義経オリジナル戦法の特徴である。

そのことも、古代アイヌ人の騎馬技術が奥羽地方にあったことと関係しているものと思われる。

もしアイヌ人たちが弱々しい民族だったとしたら、征服した大和族が「鬼死骸村」などという怖い名前を付けるはずがない。

「お花畑村」でよかったはずだ。

大和族はアザマロの末裔たちの蜂起を恐れていたのだろう。
おどろおどろしい地名をつけたところに、大和族の恐怖心が鮮やかに表現されている。

つまり「鬼死骸村」は、かつて強敵だったアイヌの部族の城があった場所であると推測される。
そこはこの付近では、もっとも大和族が恐れた地であるはずだ。

ここは栗原村である。
古代はコレハル村である。

コレハル村のアザマロの城か砦があった山頂ではないか。
そういう思いが、自然に頭をよぎった。

アザマロの霊が、「そうだ!」と私に語りかけているような気がする。

しかも「陸羽街道の開設と鉄道の開業によりこの街道を利用する人々が少なくなり、廃道となりました。」とある。

おいおい「人が通らない道」を歩けというのか。

普通ならここで引き返して国道4号線を歩くところだ。

しかし、私はあくまで江戸時代の先輩方の街道歩きをできるだけトレースすることが目的である。
人影のない廃道だからといって尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。

そういう根性だから、進む先々でトラブルに遭遇するのであるが、これが癖になるとやめられなくなる。

怖いもの見たさというか、入場料を支払った直後の幽霊屋敷入り口に立つ心境に似ている。
金を払って帰る馬鹿はいない。

「江戸時代に多くの人々が往来した当時の様子を偲ばせる道路や切り通し、講中により建てられた石碑群や自然環境が大変よく残されています。」とあるが、それはそれで大変喜ばしい限りだが、そこをこれから歩こうという私は江戸時代さながらの苦労を背負うことになるのではないかいな。

あとでわかるが、果たしてその通りだった。

写真の通りの「昔のままの古道」の中に入って行く。

いざ入り込むまでに、なぜか私は20秒間ほど案内板の前でボーっとたっていた。
待っていても、引き止める人も現れないのにだ。

心が「行くぞ」と固まるまで時間が少々かかるものである。

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