日本刀の源流~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393468.jpgTS393468 磐井橋
TS393467.jpgTS393467 磐井川
TS393470.jpgTS393470 橋より西を見る
TS393472.jpgTS393472 橋より東を見る

芭蕉の二夜庵跡は磐井川のすぐ傍にある。
磐井川は、度々氾濫した川のようである。

磐井橋の上から東西に川面を眺める。

一関の古代に思いを馳せる。
平泉の入口にあった交易中心町である。

『原始・古代
太古の地質時代、一関地方は広大な湖になっていたが、狐禅寺付近が 削られて現在の北上川ができ、長年月をかけて北上盆地がつくられた。

日本列島に人類が住みついたのは約十万年前頃だが、この時代は土器を使用せず、石器だけを使用する生活だった。
一関ではこのころの遺跡はまだ見つかっていないが、一関市内では水口(真滝)、結渡(厳美町 山谷)、祭畤(厳美町)で一万数千年前の石器が見つかっている。

一関地方は、遠い昔から東西の政治・文化・経済の接点となっていた。
縄文中期には、東北南部の大木文化圏に属しながら東北北部の円筒文化圏の影響を受け、弥生時代にも南側から浸透してくる様相が認められている。

縄文時代の遺跡には、庄司合(山谷)、樋ノ口(厳美町)、岡山(同) 四度花山(同)、上野(同)、荷掛場(舞川)、草ヶ沢(狐禅寺)、羽根 橋(萩荘)、八起島(同)などがある。

一関は古代、磐井郡に属し、前九年の役(1051~1062)の激戦地として知られている。
この戦いは陸奥国奥六郡(現在の岩手県内陸部)を主戦場に安倍氏と源頼義・義家父子軍が戦った。

出羽山北の豪族・清原氏の参戦で源氏軍が勝利し、安倍氏は滅亡した。
その後藤原氏の東北支配下で平泉が政治・経済・文化のセンターとして栄えた。

その平泉の入り口にあった一関には、当時の文化的遺産として、泥田廃寺跡(平安末期)、延喜式内社の配志和神社と舞草神社、藤原時代の作とされる永泉寺本造聖観音立像、願 成寺の木造薬師如来像などが遺っている。

また、舞草地区には、日本刀の源流の一つともいわれる刀鍛冶にちなんだ口承や地名が伝えられているが、刀鍛冶に直接係わる場所等の特定はできていない。』
(「一関の歴史」より)
http://www.teganuma.ne.jp/ichi/rekishi/index.html

「弥生時代にも南側から浸透してくる様相」とあるが、征夷大将軍の坂上田村麻呂以降、稲作民族「大和族」が押し寄せてきたのである。

「日本刀の源流の一つともいわれる刀鍛冶にちなんだ口承や地名」が伝わるというが、東北地方が鉄の発祥地であったのであろう。

このブログでは私は東北の蝦夷、即ちアイヌ族は大陸渡来の鉄勒(テュルク)人、トルコ系騎馬民族ではないかと書いてきた。

トルコ系騎馬民族に鉄勒という漢字を当てたのは中国人であるが、馬のお面に鉄製のものを使用したからであろう。

おそらく騎馬戦闘時の槍や矢の防御のための馬具である。

陽が落ちかけている磐井川の上に立って、紀元前の一関の姿を想像している。
この川は一関城の外堀でもあったという。

廣幡八幡神社がこの奥州地域に残っているのも、奥州が製鉄技術の起源であることを感じさせてくれる。
廣幡(ひろはた)、八幡(やはた)、いずれも現在の新日鉄の基幹製鉄所の名である。

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