楓とカトリック~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393447.jpgTS393447 楓並木
TS393448.jpg 平泉へはこの先を左へ
TS393449.jpgTS393449  左折して平泉へ向かう

北日本銀行の辺りから商店街の両側に楓の木が並んでいた。

私は楓の並木を見て、カトリック教徒の存在を感じている。
私だけはそう感じるのかも知れない。

しかし、カトリック教徒には明らかな意味が伝わっているはずだ。

楓の木で師弟の契りを結んだ長州人がいる。

吉田松陰と高杉晋作である。

楓の木が両者に深く関係していることは、その墓所を訪ねればわかる。
世田谷の松蔭の墓の左手には大きな楓の木がある。
晋作の墓は下関の東行庵の裏山にあるが、そこは紅葉谷という。
楓で山全体が包まれている。

楓の並木を歩きながら、おそらくこの左手に一関カトリック教会があるのだろうと推測した。
あいにく訪ねる予定はないが、足が丈夫であったならば訪ねるべき場所だと思う。

秋田の涙のマリアの庭園の隣にある『子羊の庭園」を歩けば、これとおなじ光景がある。
秋田のその楓並木が行き着いた先には、小さな小屋が道をふさぐように建っている。

中に入ると見上げるほどの高い位置にイエス・キリストの磔像が掲げられていた。

腕や足に打たれた釘穴から流れ落ちる赤い血は、まさに楓の葉の色であった。

スペイン宣教師ソテロは伊達政宗の保護を受けて東北布教で実りを上げたが、家康のカトリック嫌い(プロテスタント好き)のために最後は火あぶりの刑で死んでいる。
支倉常長をローマへ引率したころが、ソテロの人生の頂上だったのだろう。

『仙台藩主・伊達政宗との知遇を得、東北地方にも布教を行った。

1613年(慶長18年)、布教が禁止され捕らえられるが伊達政宗の助命嘆願によって赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとともにヌエバ・エスパーニャを経てヨーロッパに渡る。

エスパーニャ王、ローマ教皇パウルス5世に謁見し日本での宣教の援助を求めるが目的を達せず1617年、エスパーニャを発ちヌエバ・エスパーニャ経由でフィリピンに入り、マニラで日本に渡る機会を待って1622年(元和8年)、長崎に密入国したが捕らえられる。

この際も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、1624年(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教した。』(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)

商店街の外れに近づくと、「平泉へはこの先を左へ」と示す交通標識が現れる。
左折して、義経の第二の故郷、平泉へと向かう。

グラバーの息子の死 [つれづれ日記]

今(2010年8月15日敗戦記念日の午後1時前)、10チャンネル(テレビ朝日)で黒鉄ひろしがその死を一言語った。

「長崎原爆を見たグラバーの息子は、その1週間後に首をくくって死んだ。」

グラバーの息子とは日系2世の倉場富三郎のことである。

私はこのブログで「マリアとグラバー」という題でそれについて触れていた。
そこでグラバーの子の自殺は拳銃自殺であって欲しいと私は書いた。

再掲する。

『74歳の倉場富三郎は、原爆投下から17日後に自殺している。
おそらく彼は敬虔なカトリック教徒の一人としてカトリック教徒が建国したアメリカ軍によって破壊された「悲しき聖廃墟」を見に行ったであろう。

倉場富三郎が戦後の日本人からの迫害を恐れて自殺したとは思えない。
長崎でハーフではあるが、同じ商人として人々と親しく付き合って暮らしてきた人物である。

長崎の人々の被爆の痛みは、倉場富三郎自身の心の痛みでもあったはずだ。

神の命令だとして日本人カトリック教徒たちを皆殺しするアメリカという国の「本当の狙い」に気づいたのではないか。

日本人カトリック信者倉場富三郎として彼の脳は激しく活動をしたであろう。

戦艦武蔵を建造する長崎三菱造船所の破壊が重要な軍事戦略であることも倉場富三郎は知っていたはずだ。
敵国の軍事基地への攻撃はどの国でも必要なことである。

教会で祈る日本人カトリック信者が爆心地の教会にいることもアメリカは承知のはずである。

広島にも爆心地最寄にカトリック教会があった。
そこは直接の被災は免れている。

但しそこの神父たちは運良く?当日は出かけていて教会付近にはいなかったようだ。
直接被爆はしていないと何かで読んだ。

広島のカトリックは「情報」を入手できていたのだろうか。

日本人のカトリック信者となると英米人の信者と扱いが異なるということを、原爆被災地を見て日英混血児の富三郎は確信し、そして失望したのではないだろうか。

『第二次世界大戦開始後、英国人の父と日本人の母との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられた。

終戦直後の1945年8月26日に自殺。遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻とともに埋葬されている。』(倉場富三郎(Wikipedia)より)

自殺の方法はわからないが、せめて英国人らしく拳銃自殺する方法を父から教えてもらっていたと思いたい。

下記は原爆投下から5ヵ月後の浦上教会の鐘である。』(以上、拙著ブログより再掲)


拳銃自殺をグラバーの息子に期待したのは、彼の父が銃砲の取引商人だったからだ。
当然拳銃は持っていたはずだ。

なぜ日本人的な湿り気の多い首吊りなど選んだのだろうか。

彼は長崎の原爆被害を見て「異常体験」を脳に起こしているはずだ。

その瞬間に彼は完全な日本人として死にたいと思ったのかも知れない。
母は日本人である。

父への尊敬の念が一気に崩壊したのではないだろうか。

もし遺書が残されていれば、その死に方の意味も解けるだろう。

広島への原爆投下の前日、淵田美津雄中佐に広島から岩国への移動を命じる連絡が入った。

彼は真珠湾攻撃爆撃隊長であった。
戦後はアメリカでキリスト教伝道者として活躍し、アメリカ人からは「真珠湾の英雄」として称えられている。

なぜ真珠湾を攻撃した日本人淵田がアメリカの英雄になるのか?

宣戦布告前の爆撃は卑怯な行為である。
そのジャップの卑怯さのために、アメリカの世論は戦争突入に向かって一致団結できたのである。

オバマ大統領が医療保険制度改革法案を通すために国民や議員を説得してもなかなか過半数の見通しを得ることができなかったように、いろいろな意見のあるアメリカ全土を一本化するには、真珠湾攻撃はなくてはならない事件だった。

世論操作のためにアメリカ自身が演出したドラマであった側面がある。
主演が淵田中佐なのである。

長崎原爆投下前夜までに、カトリック教であったと思われる倉場富三郎にも避難せよとの秘密の連絡が入ったはずである。
なぜそう断定できるかというと、広島にいた日本人の淵田にも同じ情報が入っているからだ。

倉場富三郎のいた場所は造船所からはやや離れていたので、被爆を運良く免れている。
しかし、なぜ倉場富三郎は日本人淵田中佐と同じように長崎を脱出しなかったのだろうか。

諫早や天草へ避難する選択があったはずだし、その手引きもあったことだろう。

74歳の高齢であったから、「死ぬなら長崎で」と覚悟を決めたのかも知れない。
それでも死ねずに生き残ってしまった。

しかもアメリカの原爆により、浦上天主堂で朝のミサをあげていた日本人カトリック信者は焼かれ吹き飛ばされた。
浦上天主堂は爆心地にあったから、信者の女や子供も、その内臓も脳も一瞬で灰になり、爆風で粉々に飛ばされてしまった。
遺骨さえ破片となって飛び散るから残らない。

それを見て、倉場富三郎はもはや生きる望みを失ったのだろう。

彼が銃殺ではなく、日本人的な首吊り自殺を選んだ理由はわからないが、なくなった日本人の信者たちのことを思うたびに日本人に帰ろうと思ったのではないかと思われる。

TOKEI&HOSEKI~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393444.jpgTS393444夕暮れ前の一関宿
TS393445.jpgTS393445懐かしいローソンの看板
TS393446.jpgTS393446大町銀座のTOKEI&HOSEKI店
ルイスソテロ.jpgローマで支倉常長らと語らうルイス・ソテロ(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)

夕暮れ前の一関宿を歩いている。
整備された商店街だが、歩く人影はまばらだ。

大町銀座「TOKEI&HOSEKI」店の看板が目立つ。

英語ではない。

英語なら、「Watch &Juerry」である。
つまり英語圏の人間に知らせるための看板ではない。

戦国時代に、イエズス会が日本布教のために同行したのは火薬と鉄砲商人たちである。
彼らは主にポルトガル人である。

のち江戸時代にポルトガルはスペインに併合され、日本国での布教にスペイン人宣教師が多く関わってくる。

仙台の伊達政宗はカトリック教徒である支倉常長をメキシコや欧州へ派遣したが、支倉を支えた宣教師はスペイン人ソテロだった。

『ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574年~1624年)はエスパーニャ・セビリア生まれのフランシスコ会宣教師である。』(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)

ローマ字で時計や宝石を売っている店であることを示す必要があったのは、ここ一関の商売の相手がポルトガルやスペインの商人たちであることを物語っている。

その長い伝統が現在の商店街の看板に残っている。

「大航海時代にヨーロッパ勢力は、世界各地に植民地をつくっていた。

植民地活動で先行していたのはカトリックのエスパーニャ、ポルトガルであり、太平洋地域に於いてエスパーニャはフィリピンを植民地としてマニラ・ガレオンなどで多くの利益を上げ、ポルトガルはマカオを拠点にしていた。

一方、植民地活動で遅れをとっていたプロテスタントのイギリス、オランダも、遅れを取り戻すべく積極的な活動をしており、徳川家康は、オランダの商船リーフデ号で豊後国(現大分県)に漂着したイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦安針)を外交顧問としていた。

こうした状況のなか、慶長14年(1609年)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴが上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、慶長16年(1611年)には答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがエスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて来日した。

しかし徳川家康は、エスパーニャ側の要求であるカトリックの布教を許せば、それをてこにして植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかった。

そして、伊達政宗は仙台領内において、セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船サン・フアン・バウティスタ号を建造した。

伊達政宗はルイス・ソテロを外交使節の正使に、家臣・支倉常長を副使に任命し、ソテロや常長を中心とする一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)、エスパーニャ(スペイン)、およびローマへ派遣した。

使節の主目的は仙台藩とスペインの通商交渉であったと言われる。』(「慶長遣欧使節(Wikipedia)」より)

徳川家康は布教を強制するカトリックに対して脅威を抱いていた。
だからプロテスタントのオランダと長崎で独占貿易を行ったのである。

日本の歴史の選択には、世界における宗教の選択が大きく関わっているのだが、日本の教科書ではそのことを殆どすべて省略して教えている。

この看板が「Watch &Juerry」に架け替えられたときには、一関がプロテスタントの支配地域になったことを示すのであろう。

一関宿~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393440.jpgTS393440 八幡宮の鳥居
TS393442.jpgTS393442 一関駅前
TS393443.jpgTS393443 一関駅

八幡宮の鳥居が左手に見える。
一関八幡神社であろう。

「一関駅前」の標識が見えてきた。
右手を見ると、遠くの駅舎が見える。

さきほど京都妙心寺のことを考えていたから、その流れでこの大きな宿場にもカトリック教会があるのではないかと思った。
調べると一関から約500北を左に曲がったところに教会があることがわかった。

明治時代になっても、切支丹へのさまざまな抑圧は続いていたはずであるが、ここは明治35年の設立だから、意外と早い。
江戸時代からカクレキリシタンたちが住んでいた可能性があるだろう。

NHK大河ドラマの龍馬伝に出てくる長崎丸山芸者お元さんのような日本女性が宿場の旅籠で働いていたのかもしれない。

『一関教会は1902年(明治35年)にパリ外国宣教会の司祭により小教区が設立された。

1948年(昭和23年)進駐軍より譲り受けたカマボコ型兵舎を改造して聖堂とした。
1949年(昭和24年)12月ドミニコ会からスイス・ベトレヘム外国宣教会の司牧へ変わり、1952年(昭和27年)、新しい聖堂が完成し現在も大切に使用されている。

1975年(昭和50年)ベトレヘム外国宣
教会から、教区邦人司祭に移行し現在に至っている。

現在の主任司祭は佐藤守也師。聖堂内にはスイス・ルツェルン市アンセルモ・ローネル氏より寄贈のあった美しいマリア像が設置されている。
また教会の窓にはカルペンティール神父(ドミニコ会)制作の十字架の道行きのステンドグラスが設置されている。』
(「カトリック一関教会 聖寵の聖母」より)
http://www.sendai.catholic.jp/c%20ichinoseki.htm

パリ外国宣教会とは、戦国時代に設立されたイエズス会のことではないだろうか。
カトリック教会の元になる活動が江戸時代に一関であったとすれば、ペドロ岐部も一関を訪れているはずだ。

日が暮れなずむ一関市街を通過し、今夜の寝床を探さなければならない。
だから一関教会へも寄れないが、夕方に見学する仕組みもないだろう。

切支丹と妙心寺の縁~奥州街道(4-204) [奥州街道日記]

TS393436.jpgTS393436 「大慈山祥雲寺」の駐車場 
TS393438.jpgTS393438 岩手は新沼謙治の
TS393439.jpgTS393439 「一関運動公園は左へ」の標識

祥雲寺(Wikipedia)の記事によれば、その名の寺は全国に存在している。
曹洞宗と臨済宗が混在しているのが興味深い。

『祥雲寺(しょううんじ)

岩手県一関市にある臨済宗の寺院。大慈山祥雲寺。 - 祥雲寺 (一関市)
栃木県宇都宮市にある曹洞宗の寺院。戸祭山祥雲寺。 - 祥雲寺 (宇都宮市)
東京都豊島区池袋要町にある曹洞宗の寺院。瑞鳳山祥雲寺。 - 祥雲寺 (豊島区)
東京都渋谷区広尾にある臨済宗の寺院。瑞泉山祥雲寺。 - 祥雲寺 (渋谷区)
山口県周南市にある曹洞宗の寺院。瑞龍山祥雲寺。 - 祥雲寺 (周南市)
山口県岩国市にあった臨済宗の寺院。宝山祥雲寺。 - 祥雲寺 (岩国市)
沖縄県宮古島市にある寺院。 - 祥雲寺 (宮古島市) 』(祥雲寺(Wikipedia)より)

沖縄だけは宗派の記載がないのも面白い。

ここ一関市にあるのは、臨済宗妙心寺派「大慈山・祥雲寺」である。

妙心寺派と聞くとキリシタンのことを思い出す。
京都の本山妙心寺である。

キリシタン大名牧村利貞の実の弟が雑華院という塔頭(たっちゅう)の住職を勤めていた。

『塔頭(たっちゅう)は、本来、禅寺で、祖師や大寺・名刹の高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)、または、その敷地内に建てた小院である。』(「 塔頭(Wikipedia)」より)

牧村は朝鮮戦争の帰路病死し、その遺児お奈(おなあ)は前田利家の養女となって加賀へ渡る。
お奈の弟は不審な暗殺死を遂げている。

将軍家光の禅の講師役として大奥に上がったお奈だったが、女中たちに「お奈さんの教えは切支丹の教えだ。」と将軍へ讒言される。

あわてたお奈は、京都の本山妙心寺の雑華院へ駆け込み頭を丸める。
得度を受けて臨済宗の尼となり、祖心尼を名乗り、再び大奥へ復帰を果たしている。

戦国時代、鉄砲と火薬欲しさに織田信長が京都でイエズス会にキリスト教の布教を許し、南蛮寺が建てられた。
のち豊臣秀吉により切支丹は迫害を受け、南蛮寺も廃止された。

秀吉の時代には鉄砲の国産化が本格的になっていて、ポルトガルへの依存度が下がったのではないか。
それでも火薬だけは硝石がないため国産化できず、外国商人から買わなければならなかった。

ポルトガルで鋳込まれた南蛮寺のその「梵鐘」は、京都の本山妙心寺境内に保管されている。
普通なら異教の寺にあった鐘は鋳潰すはずだが、京都に残すという「心」が妙心寺にあったことが興味深い。

だから私は『妙心寺」と聞くと、すぐに切支丹のことを思い出す。

一関の「大慈山・祥雲寺」は臨済宗妙心寺派であるが、だから切支丹だというつもりはない。
本山には信長の時代の切支丹南蛮寺との縁があるという話である。

秀吉の時代から迫害を受けた切支丹であったが、宣教師たちが表面上は京都を去るにあたって、おなじ宗教法人として
暖かく引き取ってあげたということも考えられる。

上に抜粋した祥雲寺(Wikipedia)の記事を見ると、「祥雲寺」という名前の寺が二つあるところは、きれいに宗派が臨済宗と曹洞宗に分かれていることがわかる。東京都と山口県である。

山口は、ザビエルが日本上陸してから周防の大名大内義孝の許しを得て、初めて大々的に布教したところである。
ただ山口市には祥雲寺がなく、瀬戸内海に面した岩国(東)と周南(西)にあるのが特徴的である。

東京では豊島区と渋谷区という若者が集積する町に置いてあるのが興味深い。
案外、お年よりも多い町なのだろうか。

一関の祥雲寺は見ていないが、その駐車場の前を通過する。

街道傍の車庫の壁に歌謡ショーのポスターが貼ってある。
岩手は新沼謙治のふるさとであるから、彼が大きく描かれている。

「一関運動公園は左」の標識が見えた。
日が暮れかけていたら、私は左へ行っただろう。
大体そこには広い芝生があり、テントを張るには好適地であるからだ。

しかし、まだ空は明るい。

このまま一関市街を通過していこう。

第二有壁の様子~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393433.jpgTS393433 遠くに市街地が見えてきた
TS393434.jpgTS393434 左手丘の上にお寺の門
TS393435.jpgTS393435 古道から旧道へ

鬼死骸村の鬼は「オカツの大武丸」だった

この地のアイヌ族首領「大武丸」の死骸をここに埋めたということで、「鬼の死骸村」と名づけたのだ。
街道を歩きながら推測していた通りだった。
大武丸は、「だいぶまる」と読むのだろうか。

大和族は死者におくった名だから、「武威が大変大きかったアイヌの首領」という意味だろう。
「おおたけまる」と読むこともできる。

大武丸の上に鬼石を載せたときに飛び散った死骸の一部を、鬼石やあばら石などと名づけたようだ。
他にも飛び散ったものが沢山あって地名や石の名になった。

どれほど大きな石を大武丸に抱かせたのか。

大武丸には人首丸(ひとかべまる)という子がいた。
人首丸はなぜか奥州市江刺区に追われて討たれたという。

血統を残そうと部下たちが嫡男を抱えて逃げたのかも知れない。
逃げ切れずに殺されたのであろう。

「人首村と称し、現在も人首の地名が残っている」というから、そこが子供が亡くなった場所かも知れない。

人首丸を「ひとかべまる」と読むことにふと思いついた。
「ひとかべ」が「人首」ならば、「ありかべ」は「有首」だったのではないか!?

「有首(ありかべ)」という峠名は、さすがに暗い森の中では嫌だったのではないだろうか。
だからおなじ音の「有壁」を当てたのだろう。

第二有壁(首)があるなら、他に第一有壁(首)があってもよさそうである。
ガイドブックにはその名はない。
有壁宿のなぞの一つである。

有壁宿そのものを第一有壁と呼ぶのであれば、第一有首となり、首領である大武丸の首が有壁宿の寺に埋めてある可能性がある。

すると第二有首とは、その子の首になるだろう。

そうではなしに、第二有壁に「大武丸」自身の首を埋めた可能性もあるだろう。
本陣の傍にかつての酋長の首が座っていては、名主、国人も落ち着いて眠れないはずだ。

大和族は怨霊の祟りを恐れるからである。

いずれにせよ、「ありかべ」がアイヌ族と大和族を隔てる峠だったことは間違いない。

どうしてもその第二有壁のことを知りたくてネットで調べてみた。
街道歩きの方のブログがあった。( )部は筆者の挿入コメントである。

『13時27分、有壁宿本陣跡を通る。
金成から3時間15分、11770歩, 9.2km。

有壁本陣前から山の中へ入っていく。(私の場合はここからが問題だった。)

ここの旧道は前半戦の一つのヤマ場と思っていた。(やはりね)

旧道の様子が良く分からず、歩く人が少ないようで情報が少ないのだ。(そうそう、道路標識もあまりない。)

二人で「さて、行くぞ!」と気合を入れて進んでいく。(二人連れなら心強いですね)
山の中に入って二ヶ所分かれ道があり、そのいずれも左側を進めばいいと聞いていたので注意をしながら進む。
(なるほど、いずれも左へ行くのか、私は2つ目を右へ行ってしまった。)

肘曲がり坂のところで早くも道が二手に分かれている。

三好さんは昨年栗原での街道会議に出席された際、ここを歩かれたそうだが、もう一つ記憶が定かではないという。
(へー、街道会議というものがあるのですか)

そのため昨日お会いした渡部さんに電話を入れて確認していただく。

私の電話はバッテリーが残り少なくなってきており、電池切れの心配があるのでこれ以降ホテルまで使わないことにした。
(電池は困ります。それで私はsharpのソーラー携帯に変えたのですが、効果はなし)

結局これまで歩いてきた砂利道は明治の旧道で、左に上っていく道は江戸時代の道。
いずれにしても少し先で合流しているということが分かったので、江戸時代の道を歩くことにする。
(やはり二つ目を左なんですね)

途中でもう一ヶ所T字路があったがここも左折して進むと一旦開けた場所に出た。

三好さんが参加された昨年の会議では、ここから左折して国道のほうへ出たということだったが、前を見ると直進する道が見えるので、これを進んでみることにする。
(国道とは私が止む無く歩いていった国道4号線のことですね)

松の葉が落ち積もった道は下がゆるい。
ここを雨の日に歩くとかなりぬかるんだ道になるだろうなと思った。
(長い年月の間に枯葉が重なって、腐葉土が深いのでしょう)

実は今日の予報は雨だったのだが、幸いここまでは降らずに来ることができたのだ。
やがて14時頃になってポツポツと雨が落ちてきたが、降りはあまり強くなく歩く上で支障にはならなかった。

この間、道はきれいに整備されており歩く上で何ら支障はなかった。
もっともこの時期だから下草がなくて歩きやすかったのか、いつでもこの状況なのかはわからなかった。

いずれにしても前半戦の大きなヤマ場と思った場所は意外に簡単に歩き終えることができた。
(そうなんですか)

やがて道は下り始め坂上田村麻呂が、この地で鬼を退治し死骸を埋めたということからついた地名という鬼死骸に出た。』
(「宮野~沢辺~金成~有壁~一関」より抜粋、( )部は筆者挿入文)
http://www.jinriki.info/blog/kacchan/141.html

意外と楽に峠を越えた様子が見える。
おそらく山の尾根のようなところを通って緩やかに北上していったのだろう。

私が歩いたルートは、彼らが歩いた江戸時代の古道から見れば、右手に大きく旋回しながら、南の有壁宿へと戻ったことになる。

この記事のおかげで、なんとかまだ見ぬ第二有壁の雰囲気を知ることができた。

さあ、これからはまたリアルな奥州街道歩きである。
雨は完全にあがった。

新幹線の高架橋に沿って旧道を歩いていると、遠くに市街地が見えてきた。
あれが一関市の町並みなのだろう。

街道の左手やや上の丘にお寺らしき山門が見える。

街道歩き4日目の足では坂道は登れない。
登れないことはないのだが、そういう無理をすると残りの数日間を歩き続けることができなくなる。

少し先に「大慈山祥雲寺」の駐車場がある。
先ほどの寺の名前だろう。

鬼は「オカツの大武丸」だった~奥州街道(4-202) [奥州街道日記]

TS393430.jpgTS393430 街道に墓?
TS393429.jpgTS393429 野の花
TS393432.jpg「豊吉の墓」(市指定文化財)

あと5キロメートルで一関宿である。

途中で雨が降って来た。
新幹線の架橋下で雨宿りをする。

4日目の昼過ぎの足をいたわり30分ほどゆっくり休んだ。
やがて雨がやんだ。

15時15分に高架橋下を出発する。

街道左手の土手に墓らしきものがある。
「豊吉の墓」(市指定文化財)と書いた白い標識柱が立っている。

鬼死骸伝説とともに豊吉の墓を紹介した記事がある。
地元の方が書いたものだろう。

『当地には鬼の死骸に関する伝説があります

安永風土記(江戸時代の記録。抜粋)

鬼死骸村
一 村名に付き由来 往古吾勝郷と申唱候処田村将軍夷賊御退治賊主大武丸死骸此所に相埋候以来村名に罷成候由申伝候事

※現代語簡訳 昔は吾勝郷(あかつごう)という所でしたが、田村将軍が蝦夷(えぞ)退治にお出でになった折り、退治した「大武丸」という首領の死骸をここに埋めたので、それ以来、村名となったと伝えられている

鬼死骸村には、鬼にまつわる名所等が残されています

所在については鬼死骸八幡神社及び鹿島神社の交通案内図を参照して下さい

鬼石
田村将軍が大武丸の一党をここに追い詰めて成敗した時に、その死骸を埋めた上に置いたと伝えられる巨石

左手上方に鹿島神社の赤い鳥居の柱が見えています

土手と電線はJR東北本線

所在は、鹿島神社手前の的場踏切の真南、田の中

石の窪みは、田村将軍の乗馬の蹄の痕とも、鉄棒の痕ともいう

すぐ近くには、まだ数個の大石が転がっている

鬼石を載せたときに飛び散った死骸の一部とも、死んだ鬼の化したものともいう。

周辺には同様の石が多かったと伝わるが、名石の鬼石とあばら石の二つを残して多くは石材として利用されてしまったという


あばら石
ここには4つの大石があり、兜石(かぶといし。男・女の2つ)、肋岩(あばらいし)、背骨石といわれている

近年まで名称看板があったが、朽ちて草むらに沈んでいます

所在は、鬼石から約150m県道を国道4号方向に南下し、東南方向の枝道に入り約80mの路傍


鬼石井
死骸に載せるために鬼石を取ったときに、そこから湧いたという清水。干魃の時でも水が絶えず、希代の冷水といわれた。
的場(まとば。地名)清水ともいう

現代では利用されることも少なく荒れてしまっているのが残念です

すぐそばには、明治9年と同14年の奥羽御巡幸の際にこの場所で御小休みされたことを示す『明治天皇小次遺跡』碑が建立されています

所在は、前掲的場踏切を渡り北上約50m。『明治天皇小次遺跡』碑が目印

鬼石井(的場清水)のすぐ下流は、近年の道路改良工事で道路下に埋没してしまいました

これを惜しみ南側隣家では井戸を整備しました。写真奥の屋根の掛かっているのが的場清水の水脈の井戸です

写真手前の池の噴水は、同様に名水と伝わる金魚清水を引いてきたものです

鬼牙石
鹿島神社に奉納されていたが、中世末期に城主小岩伊賀守が所持、城主没落後は子孫絶え、大正5年に三上氏(鬼死骸八幡神社別当)が引き受ける

通称「天狗の爪」ともいう

鬼手
鬼の手が跳んで落ちた所。手骸(てがら)が何時しか手柄となったという。宮城県片馬合手柄沢

鬼首
鬼の首が跳んで落ちた所に温泉が湧いたという。宮城県鳴子町の鬼首(おにこうべ)温泉

人首
大武丸の子の人首丸(ひとかべまる)は奥州市江刺区に追われて討たれた。この地は人首村と称し、現在も人首の地名が残っている

豊吉の墓
以上が古代の鬼とすれば、こちらは近世の鬼かもしれません
蘭医学が興隆し始めた頃、東北地方で最初の腑分け(ふわけ。人体解剖)が行われました
罪人として処刑された豊吉の死骸が提供され、その後ここに埋葬されました

墓のそばの看板には一関市指定有形文化財であることと、その意義について解説されています
墓のすぐ前は国道でたくさんの車が通過しています

所在は、国道342号から鬼死骸八幡神社に至る別れ道の交差点正面』(「鬼死骸伝説」より抜粋)
http://www.nishi-iwai.org/ubusuna/n/onishigai.htm

墓の前に案内板がある。
「とよきちのはか」と読む。

『天明5年(1785)11月13日、一関の医師16名が、処刑された豊吉の死体を貰い受け解剖しました。
医師たちはこれにより長年抱いてきた疑問を解読することができたので、豊吉を丁重に葬り、この墓を建てました。

元々は旧一関藩橋田原刑場跡にあったものです。

古くから、解剖は死者を冒涜(ぼうとく)すること、許されないことと考えられていました。
しかし、江戸時代の中頃になると、宝暦4年(1754)京都で日本初の官許を得た人体解剖が実施され、寛永3年(1774)杉田玄白らがオランダの医学書を翻訳し「解体新書」を出版するなど、漢方医学とオランダ医学の両方から実証を重視しようという精神が芽生え、各地で解剖が行われるようになりました。

豊吉の解剖は、このような中でも東北地方としては早い時期に行われたものです。

この頃一関では、二代建部清庵や大槻玄沢など、オランダ医学を研究する人が出ています。
彼らの影響は甚大であったと思われます。

一関博物館で関連事項を紹介しています。

平成13年3月   一関市教育委員会』(案内板より抜粋)

鬼死骸村の昔の地名は、吾勝郷(あかつごう)だと書いてある。
アイヌ語の「アカツ」とはどう意味だろうか。

北海道常呂郡置戸町の地名について、こういう記事がある。

『命名の由来置戸町の町名から引用した「オケトウンナイ」はアイヌ語では、鹿の皮を乾かすところの意味である』
(「HAPPY-FARM LINK」より)
http://www.happy-farm.gr.jp/link/linkvp.html

「鹿の皮を乾かすところ」というアイヌ語の「オケトウンナイ」が「置戸(おきと)町」になっているから、吾勝(郷)という旧地名も「アカツ」という音(おん)に似たアイヌ語に由来するはずだ。

「古代の山北地方地名について」という資料に「アカツ」の語源らしきアイヌ語が登場していた。

『地形と地名を関連させた一説を紹介したい。
それは、駒形村郷土誌という筆書きの古い一書に載っていることである。

万葉集に
「なせの子や、とりの乎加恥志なかたおれ(実際は耳へんに止と書いて「ち」と読ませている)、
あをねしなくよ息つくまでに」

という歌がある。
この場合の乎加恥(オカチ)というのは岡の道という意味である。

だから雄勝(乎加知)村は東鳥海山麓の岡道、即ち今の湯沢市相川の付近であろうという説である。
なお更に、北秋田郡比内の庄に雄勝田村(現在は鷹巣町小ヶ田)があり、また仙北郡の雄勝田(現角館町小勝田)も共に山村で高所にあるとも述べている。

ところで、菅江真澄は東鳥海山のことについて
「この山にしずまり給ふ御神は恐くも雄勝の尊にて、吾勝(アカツ)の尊は陸奥国を守護、雄勝の尊は出羽国を守らせ給ふこと古き駒形の神の縁起に見えたり」
と書いている。

駒形の神とは今の栗駒山のことであるが、
「駒形の縁起は古来陸奥風土記の抜書きせしものの残りならんといへり。」
とも真澄はいっているので、もしほんとうに陸奥風土記の一部だとすればこの縁起はすい分ふるいことになる。

吾勝の尊という神は、古事記の上では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命で、宮城県栗駒町の駒形神社や岩手県一関市市野々の吾勝神社の祭神である。
そして、この辺を昔は吾勝郷とも呼んでいたという。

一方、雄勝の尊については、東鳥海山の神社が今も雄勝の宮と称されてはいるけれども、どんな素性の神なのかはよくわからないのが残念である。』(「古代の山北地方地名について」より)
http://www.geocities.jp/pppppppihyghhg/Web-Ani/akita-chimei/nenpoxx/nenpo03/871823.pdf

群馬県に両毛線の駒形駅がある。
前橋駅から東南へ6kmほど行ったところである。

「吾勝(アカツ)の尊」という神が、岩手県一関市市野々の吾勝神社の祭神であることがわかる。
古代の人々はその周辺を「吾勝(アカツ)郷」と呼んでいたという。

おそらく「吾勝(アカツ)の尊」とは「岡の道」(アイヌ語では「オカツ」)を支配していたアイヌの酋長のことだろう。

「岡の道」つまり「オカツ」とは、第二有壁の峠なのである。

古代のアイヌと大和を分ける「白河の関」のような峠だったのであろう。

南からこの「オカツ」を越えてやってきた大和族は、峠の北の村を鬼死骸村と名づけ、その北にある宿場を「一関」(いちのせき)と名づけた。

大和族から見て「最初の関」なのである。

鬼死骸村に埋葬されたアイヌの酋長は「大武丸」であった。

「武力が強く体の大きい快男子」というオクリナなのだろう。
これも大和族のつけた名である。
本名がアイヌ語であったはずだが、それは伝わっていないだろう。

大和族は怨霊信仰に染まっている。
死者の霊が怨念を抱いて再び自分を襲ってこないように、立派な名前を贈るのである。

死者はその立派さに喜び鎮まると信じているからだ。

家族皆殺しなどという非業の死を遂げたものほど、立派な名前を贈るのである。

神々の住んでいた「八幡」~奥州街道(4-201) [奥州街道日記]

TS393425.jpgTS393425ホテル「芭蕉」の看板
TS393426.jpgTS393426東北新幹線の高架に沿う
TS393427.jpgTS393427岩手県交通「八幡」バス停

ホテル「芭蕉」の看板を通過したころ、ポツポツと雨粒が散発的に落ちてきた。
東北新幹線の高架に沿って旧街道を歩く。

岩手県交通「八幡」バス停を通過する。
「はちまん」と読むのか「やはた」と読むのかわからない。

福島県福島市鎌田下釜」の先には「廣幡八幡神社」があったが、ここは「ひろはたやはた」と読むはずだ。

新日鉄の製鉄所の昔の拠点は、八幡系が北九州の「八幡(やはた)製鉄所」で、富士系が姫路市の「広畑製鉄所」であった。

『古来たたら製鉄が栄えた西播磨の地を仰ぎ、大洋へ、世界へと誘う瀬戸内播磨灘を望み、1939年以来、鉄をつくり続けてきた広畑製鉄所。』(新日鉄のホームページより抜粋)

この流れから行けばバス停は「やはた」と読むべきだが、八幡神社傍だとすれば「はちまん」と読むはずだ。

拙著ブログ「廣幡八幡神社~奥州街道(3-280)」には、神功皇后の傭兵として胡勒(トルコ系)武士を紹介した。
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59266544.html

『「八幡は対馬から」という以下の記事に、「神功皇后に従った胡勒武装の神々」が登場している。

胡勒(ころく)とは、「胡(えびす)」は「外国人」で、「勒(ろく)」は既に述べたように馬具である。

胡がトルコ人であれば、ひょっとして馬は「鉄勒」を頭に嵌めていたのではないだろうか。

トルコ系騎馬民族を味方につけ、神功皇后が船団を率いて百済救出へ向かう様子が見えるようである。』

北九州から出発した船にトルコ系騎馬民族集団が乗っていたのである。
これは、神功皇后の時代にトルコ系騎馬民族が北九州付近に住んでいたことを物語っている。

『廣旗八幡神社境内に、古代から生き続けてきた若いシュロたちがいた。

神功皇后の三韓征伐に同行したという胡勒(ころく)の神々が文字通り胡(=外国)の勒(=くつわなどの皮製の馬具)を装備したトルコ系騎馬民族であったならば、ゾロアスター教かマニ教の信者であったはずだ。

奥羽へやってきた胡は製鉄技術を有していたから、胡勒(ころく)の神々が使用した馬具は鉄勒(てつろく)だったかも知れない。

中国では鉄勒(てつろく)とは「テュルク(トルコ)」の音(おん)への当て字で、トルコ系騎馬民族を指す。後の匈奴である。

いずれも後のユダヤ教と関連がある宗教である。
シュロで神を祝う習慣を持っていたのかも知れない。

現代の「わ」人の末裔たちは、なぜここにシュロの木が植えられているか知らないのだろう。
木が若いことが普段切り取られていることを物語っている。

いつの時代からか、モーセの教えを秘匿する必要がこの国で生じたのであろう。

枝を切られた一本の若いシュロの木に向けて、一筋の光が射していた。
これが「光を好む神が慶ぶ」というシーンなのだろうか。』
(拙著「神の光~奥州街道(3-282)」より抜粋)
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59272533.html

アテルイは胡勒武装の神々の末裔では~奥州街道(4-200) [奥州街道日記]

TS393422.jpgTS393422まだ緩やかに上っている
TS393423.jpgTS393423再び古道に入りる
TS393424.jpgTS393424旧奥州街道に戻る

「鬼死骸村」について考えている。
私を寄せ付けなかった第二有壁を北へ越えたところにある。
ここは金成村の中か隣である。
おそらく行政範囲があいまいだった奈良時代、騎馬で移動するアイヌ族にとっては金成一帯の北端になるだろう。

鬼死骸村の北に一関宿がある。
あと5km先である。

一関村は大きな生活圏だっただろう。

南から大和族の征夷大将軍が「蝦夷(えみし)を征伐」に北上してくる。
この付近の険しい地形からみて、敵の大和族は第二有壁を越えてくるに違いない。
アイヌの酋長は兵隊を率いて鬼死骸村を軍事拠点として峠で迎え撃つことにしたのであろう。

峠を破られ、北へ後退してこの「鬼死骸村」で果てたのである。

地名は大和族によって変えられた。
元の名はアイヌの美しい名前だったはずだ。

森や岩や川などのアイヌ語が並ぶ美しい名であっただろう。

退治した蝦夷の族長の首を取った大和族のリーダーが「鬼死骸」を見てから名づけたものだろう。
敵に恐れられるほど、この地のアイヌ族の戦闘能力は高かったのである。

私はこの村で撃ち取られた酋長がアザマロやアテルイではないかと思っている。

大和族によって植民地化されても、この地方の騎馬戦術が消えたわけではない。
奥州に脈々と受け継がれてきた戦術は、一関の先にある平泉の藤原氏の軍事力を支えたはずである。

京都から逃れてきた少年源義経は、アイヌ族直伝の騎馬戦術を身に付けたのだ。

『この騎馬戦術は昔から大和族を散々懲らしめたものである。
義経殿もこれを習得して、平家を打倒しお父上の無念を晴らすがいい。」

十歳代の青年義経は、この鬼死骸村まで遠乗りしてきたはずだ。

世界史の中で集団騎馬戦を戦争で用いたのは義経が最古である。
おそらく坂上田村麻呂が散々苦しめられたアテルイの戦術もそうだっただろう。

人数に圧倒的に勝る大和族が、あわてて後退させられることなどが記録に載っているが、徒歩と騎馬の力の違いがあったのだろう。

しかし、征伐したあとに敵の戦術をほめることなど大和族の歴史書には残せない。
人々の記憶が薄れるとともに忘れさられていったことだろう。

しかし平泉で育った義経が世界史に残る戦記を残してくれたことにより、義経を軍事指導したのがこの地のアイヌ人の末裔であることが証明された。

奥州街道第3幕の記事「タワラトーダ~奥州街道(3-275)」のところで俵藤太は製鉄技術を持って帰化してきたトルコ系騎馬民族だったのではないかという仮説を述べた。
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59257848.html

福島学院大学のテニスコートを抜け、鎌田下釜の交差点に至ったときに、その地名から「鉄の製造場所」を連想したからだ。
地名は「福島県福島市鎌田下釜」で、JR東北本線東福島駅の東700mの地点だった。

その近くの川岸で私は休憩したが、八反田という地名や川の名も、製鉄所にゆかりがあるものだった。

たたら製鉄で名高い島根県松江市や南津軽に同じ地名がある。
松江市では江戸時代に八反田川で砂鉄事業者と農民が水源汚染について衝突している。

俵藤太や金売り吉次が伝説のような炭焼きではなく、薪を燃やしてたたらを吹いて鉄を作る技術を持つ渡来人であるという私自身が立てた仮説である。

ならば騎馬戦術が得意だったということも納得がいく。
ユーラシア大陸で戦いながら日本列島までやってきたのだから、強いはずだ。

「神功皇后に従った胡勒武装の神々」という表現があるそうだが、「胡勒武装の神々」とは「胡勒=トルコ人の武装をした渡来人」という意味である。

朝鮮海峡を渡った神功皇后の傭兵であろう。

北九州と朝鮮半島の間をうろうろしているうちに、騎馬民族ゆえに農耕民族の大和族よりも一足早く奥州まで到達したのではないか。

奥州にたどり着いてみると、なんと実りの多い国なのかと気づき、馬から下りて定住することになったのであろう。

奈良、京都で大和族がひと息ついている間に、奥州に行った元傭兵の胡勒武装の神々が大変強い財力と軍事力を持ち始めていることに気づいた。
最初に気づいた人は恒武天皇である。

負け戦続きでぐずぐずしている征夷大将軍を叱責し、坂上田村麻呂(この人も坂の上に住んでいた帰化人)に命じた。

神代の時代のことは再びあとで触れる。

奥州仕込みの「義経の騎馬戦術」のことは既に書いた。
拙著ブログ記事「義経の集団騎馬戦~奥州街道(3-283) 」より抜粋する。
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59272736.html

『写真の鵯越駅は、兵庫県神戸市兵庫区里山町にある。
神戸電鉄有馬線の駅で、標高134mである。

源義経が世界で初めて集団騎馬戦を行った地域にある。

義経の騎馬戦術の秀逸さから考えて、平泉の藤原氏がトルコ系騎馬民族の末裔ではないかと推理した。
そのことについて、ここで詳しく紹介したい。

騎馬砲兵を本格的に導入したのはフリードリヒ大王が最初であると云われる。
しかし、それは1730年代のことである。

一方、義経が集団騎馬戦を実践したのは、寿永3年(1184年)のことであり、これが世界で初めて集団騎馬戦術を戦闘に用いた始まりである。

平安末期にあって、その戦術がどれほどセンセーショナルに京都で喧伝されただろうか。

『2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。
平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。

上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場する事となる。』(源義経(Wikipedia)より)

奥羽では佐藤兄弟と当たり前にやっていた複数騎馬による奇襲合戦が、大和国では驚くべき出来事であった。
トルコ系騎馬民族の末裔たちの面目躍如といった感がある。

義経の軍事戦術の特徴を詳しく解説した記事を抜粋する。

『この奇襲攻撃を最大限有効に使えば寡兵をもって大軍を打ち破る事も可能であり、これこそが近代騎兵最高の戦術とされました。

ところが騎兵戦術の難しさは奇襲であるというところにつきます。
敵の裏をかいて密かに騎兵部隊を正面の敵陣から大きく迂回させて進めたり、戦場でもっとも敵が弱点とするポイントを見抜いて騎兵襲撃をかけるには、そこに天才戦術家を必要とします。

それほどの天才戦術家は世の中にゴロゴロいるわけではなく、ものの本によると騎兵戦法で成功を収めたのは、モンゴルのジンギスカン、プロシャのフリードリッヒ大王、フランスの皇帝ナポレオン、ドイツの参謀総長モルトケしかいないとも言われるほどです。

義経は騎兵戦術を編み出しただけで天才戦術家と呼ばれるのに十分であり、その騎兵部隊で歴史的な勝利をもたらした用兵で、さらにその上に「卓越した」がつけられるといえます。

しかしこの戦術は義経なきあと速やかに滅び、忘れ去られ、わずかに信長が桶狭間で類似の事をやったぐらいに留まります。
それほど騎兵戦術とは天才性を必要とするものなのです。
中略。

一分の隙も無いと思われた平家の大戦略でしたが、これを打ち破る糸のような細い活路を義経は見出します。
おそらくこれが見えたのは義経ただひとりでしょうし、他の人間では思いつきもしないでしょうし、説明をされても理解できない戦術であったと思われます。

源氏の主力は範頼に率いられて京都から大阪に下り、海岸線沿いに平家陣地の真正面から正攻法で挑みます。
義経は大胆にもこれを巨大な囮と見なして、少数の騎兵集団を率い、京都から丹波を抜け、途中三草山の平家陣地を奇襲で抜き、後は隠密裏に六甲山の裏側に進みます。

義経の進撃路と伝えられる山道は現在でもかなりけわしいところが多く、伝承があるにしろこんなところを通ったとは信じがたい箇所も少なくありませんが、源氏の主力軍が正攻法で力攻めしている真っ最中に平家陣地の裏手になる鵯越(ひよどりごえ)に現れた事は間違いない事実です。

義経軍が駆け下ったと伝えられる鵯越も実は諸説があり、実際の現場は特定されていないのですが、幾つかある候補地はすべて急峻な崖であり、守る平家側にしてもまさかこんなところを鎧武者が攻めてくるとは予想すらしていなかったのは間違いありません。

まさに騎兵戦術の要諦である奇襲を教科書にしたような攻撃です。
鵯越を駆け下りて一の谷に攻め込んだ人数も諸説ありますが、義経の進撃コースを考えると100人は超えないと考えます。

おそらく50人以下、ある説によると20人程度であるともありますが、おそらくそれぐらいではないかと考えます。

たった数十人が大軍の平家陣地に流れ込んでも大勢に影響はなさそうなものですが、この辺は戦場心理が微妙に働いたと考えます。
平家にすれば南、西、北は敵襲のないところと信じきっていました。また唯一の攻め口の東側には源氏の主力が朝から攻撃を続けており、平家にすれば後方に予備として控えさせていた軍勢も東側の防戦に動員していたと考えます。

手薄になりきったところに源氏側の騎兵襲撃が行なわれます。
意表をつかれて狼狽した鵯越方面の平家勢はすぐさま「応援頼む」の伝令を出します。
この伝令の内容が、「源氏武者少数の来襲」→「源氏武者の来襲」→「源氏の大軍が攻め込んできた」に伝言ゲームのように広がり、一挙に浮き足立ち壊走したことは史実の通りです。

まさに磐石と思われた平家陣地の唯一の弱点をピンポイントのように絶妙のタイミングで叩いた義経の天才性がもっとも如実に現れた一戦となりました。』(抜粋終わり)
(「天才武将義経」より)
http://www.kcc.zaq.ne.jp/kids_clinic/Cafe/yoshitune/yoshitune01.html

その義経が幼い頃に、京都から奥州平泉へと連れ出したものがいる。

平清盛の命令で密かに鞍馬寺に出家していた源家の御曹司牛若丸の存在を突き止め、かつその将来利用価値を見抜いた商人がいたのである。

『奥州と京都を往復する商人ですから、半端な事では出来ません。

金売りと言うからには奥州の砂金を売りに来たのでしょうが、道中は山賊や盗賊が跳梁跋扈しているだけではなく、土地土地の有力者たちもいつ刃を向けてくるかわかりません。それから身を守るために自衛軍を率い、有力者に渡りをつけ、何度も往復するには相当の人物でないと出来るはずはありません。

その吉次から見て義経は相当の価値があると見込まれたようです。
また吉次なら秀衡の事も良く知っているはずですから、連れて行けば喜ぶはずだと判断したはずです。この辺は義経の幸福であったと考えますし、この時代が義経をどうしても必要としたからだとも言えます。

藤原秀衡
動かなかった北の覇王。
一説によれば彼の存在が頼朝を鎌倉に縛りつけたとも言われる。
奥州藤原氏の力は強大です。
武力は十八万騎と畏怖され、富は奥州の優駿と豊富に取れた砂金をバックに華麗な北の都平泉を築き上げています。
相次ぐ戦乱でその遺跡のほとんどは焼失していますが、わずかに残る毛越寺の庭園や中尊寺の金色堂にその栄華は十分に偲べます。』(同上より抜粋)

「また吉次なら秀衡の事も良く知っているはずですから」と書いていたが、このブログを読んでいる方にはおわかりであろう。

金売り吉次の父が俵藤太であり、それが藤原秀郷その人だった。
中尊寺金色堂も藤太や吉次が作った金(gold)で作ったのである。

金装飾加工が上手な中近東の騎馬民族はスキタイ人であったことを思い出す。

騎馬軍団十八万騎を抱え、金装飾に囲まれていた俵藤太(=藤原秀郷)は、どうみても立派な騎馬民族の酋長である。』(拙著ブログから抜粋)

誇るべき「鬼死骸村」の名前~奥州街道(4-199) [奥州街道日記]

TS393417.jpgTS393417左へ一関への旧街道
TS393420.jpgTS393420イチジクの実
TS393421.jpgTS393421一関平泉線(県道260号線)「一関市鬼死骸」

国道4号線から左へそれると、旧奥州街道である。
交通標識によれば、それは「一関平泉線(県道260号線)」であり、「一関市鬼死骸」「一関まで5km」と読める。

あと1時間少々で一関宿へ着けると思うと少しほっとする。
有壁の山中で散々迷ったあとなので、喜びも一塩である。

「鬼死骸村」というのは第二有壁を越したこの辺りをいうのであった。

ひどい名前だ。
しかし、地元の人は誇りを持っていい名前だ。

この国を2000年にわたって支配し続けている大和族が付けた名前だからだ。
もともとはアイヌ語のちゃんとした地名があったはずだ。

侵略して植民地化に成功したあとに、入植してきた大和族が新しく村の名前をつけたのである。

大和族から見て「鬼のように怖い」アイヌ族の酋長が住んでいた村なのである。

なかなか征服できずに、てこずったということが名前に現れている。

つまり、この地域の人々は、かつて大和族と対等に戦い、幾度か大和族を打ち負かしたこともある「勇気あるアイヌ族の末裔」なのである。

関東以西の倭人は、あっけなくおそらく朝鮮半島から移住してきた大和族にやすやすと征服されてしまった。

倭人というのはそういう民族だったのだ。
戦いを好まず話し合いで何事も解決する性格なのである。

この国の支配権が移動するに際して、出雲の神は話し合いによって「国譲り」を行った。
ただで国をアマテラスにあげたのである。
その代わりといっちゃあなんだが、年に一度だけ一ヶ月間八百万の神々を出雲へ里帰りさせて欲しいと願い出て認められた。

大和方から見れば全部の神々が出雲へ里帰りするから、その月は「神無月(かんなづき)」と呼ぶ。
一方の出雲方では、その月を「神在月(かみありづき)」と呼ぶ。

あと5kmで一関宿である。

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