川に映る空~長州(137) [萩の吉田松陰]

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H3B0541朝霧の駐車場
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SH3B0540山百合の蕾の鹿野町の清流
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SH3B0539「川が好き 川にうつった 空も好き」
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SH3B0538昨夕飛び込んだ温泉

朝靄(もや)が濃いから早朝は暗い。
しかし、山の中の朝のこの暗さは、却ってその日の快晴を約束してくれるものである。

昨夜遅く到着した鹿野町の川原の温泉の姿が、朝靄の中から浮かびあがってきた。
清流の岸辺に山百合の大きなつぼみがかすかに風に揺れている。

駐車場は川面に面していた。

石碑がある。
「川が好き 川にうつった 空も好き」

川に遊びに来た小学生が作った詩が全国の河川コンクールか何かで優秀賞として選ばれたのを記念して立てたものである。

「川面を見てそこに映っている空を発見する透明な心」を感じる。

私もそういう心を幼い頃持っていたことを思い出す。

いつの頃からそのような透き通った観察眼を失ったのであろうか。

川の汚染状態を見たり、川底の廃棄物金属の反射光を見たりするようになっている老人の目しか今は持ち合わせていない。

この詩を作った少女(?)を真似て、私も「川にうつった空」を見ようと努力してみた。

すると川面に空があるのが見えた。

詩は人の心を動かす。
詩は駄目になってしまった自分の心の実像を教えてくれる。

村田清風の死を聞いたときに、松陰は詩を作ってその悲しみを表現している。

「今日訃ヲキイテタダ錯愕ス。満窓ノ風雨、夢茫々タリ」

清風享年73歳、松陰26歳のときの別れである。

松陰は作った漢詩を読み上げ弟子たちの心を動かしたが、詩の読み方は長州方式ではなかった。
大和の「ある奇人」の用いていた「韻」を松下村塾で用いた。

それは松陰が旅をして学んだものであり、長州藩ではその韻を知るものは一人としていない。

明治になって、松下村塾の卒業生は、松陰先生の読んでいた独特の詩韻は、大和のある詩人の読み方の真似であることに気づいている。

その詩人は天狗党を鼓舞して、立ち上がらせた。

大和五条に棲む森田節斎である。

但し、鼓舞しておきながら節斎自身は逃げた。
逃げて明治まで生き延びている。

しかし、松陰は煽動しておきながら逃げるということはなかった。
むしろ煽動しつつ先頭を走って、弟子を置き去りにして死んだ。

新興宗教などでいつもそうであるが、マインドコントロールをかけた側は逃げおおせて、かけられた若者たちが罪を背負う。

宗教のマインドコントロールも音楽(韻、旋律)をよく使う。

「ショーコ ショコ ショコ ショーコ♪」の韻律をある参議院選挙の際に何度も耳にしたことを今でも覚えている。

瀬戸内へ~長州(136) [萩の吉田松陰]

SH3B0535.jpgSH3B0535山中を走る
SH3B0537.jpgSH3B0537月夜

江戸へ檻送される松陰の蝋人形を見て、これで私の萩訪問を終える。
午後4時過ぎである。

コンビニで冷やし中華そばのインスタントものを買って、駐車場で食べ旅立ちの前の腹ごしらえをした。

パンやサンドイッチ、あるいはおにぎりにすべきだった。

というのは、駐車中の車の中で食べたのだが、疲れていたのか手元が滑って容器を胸の前で傾けてしまった。

冷やし中華の甘ったるい醤油だしが、だらだらとたっぷりと私の洋服の前に流れ落ちてきた。

大慌てで車の外へ飛び出して、何とかシートへの汚染は防止できたのだが、体の背中側まで、いやズボンの中の下着まで冷やし中華の出しで濡れてしまった。

コンビニの駐車場でパンツまで着替えるのは困難だが、さりとてこのにおいをつけたまま運転をできまい。

着替えられるものは全部着替えて、パンツのみ残すこととなった。
コンビニに再び入って、トイレを借りてその中できれいな下着に履き替えた。

これで何とか臭いを断つことはできたようだ。
あとは温泉を見つけて飛び込むことである。

実は山口へ来た本来の用事は、ある実業団大会運営の応援のために来たのである。ここ萩とは反対側の海になる瀬戸内海側のある砂浜へ行くことが旅の本来の目的であった。

そのついでというか、応援業務の合間に、気になっていた村田清風とキリシタン殉教地、それに松陰との関係を自分の足で調べた次第である。

もっと調べたいことはあるが、専業作家ではないからそうも行かない。

車を再び阿武郡山中へと走らせた。

山中の景色を眺めながら、やがて日が暮れ月夜になっていった。

山陰と山陽の中間の山の中に鹿野(かの)という町がある。

ここは禅宗漢陽寺の精進料理観光で有名な町で、かなり昔に何度か来たことがある。
葉わさびの醤油漬けが私のお気に入りのお土産である。

その鹿野に温泉があると標識が出てきた。

街中で左折し4KMほど山へ入ったところの川そばに温泉があった。
かわらに駐車して温泉へ飛び込み、肌に染み付いた冷やし中華の臭いを洗い落とした。

萩のフィナーレが「冷やし中華ダシシャワー」となろうとは誰が予測できただろうか。

風呂上りに生ビールを飲み、川原の駐車場で車中泊した。

深夜にガスバーナーで味噌ラーメンを作り、空の月を見ながらおいしく食べた。

クリミア戦争の行方を知りたかった松陰~長州(135) [萩の吉田松陰]

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SH3B0528檻(おり)で江戸へ護送される松陰(松陰神社境内の蝋人形)

檻送される松陰を描いた蝋人形があった。
この竹で編んだ籠の中に捕縛されている29歳の萩の青年が、クリミア戦争のことを思っていたという。

これに反して、私たち現代日本人はクリミア戦争と幕末の日本の関係を驚くほど知らない。

当時松陰が抱いていた国家危機感の100分の一も、現代人は持ち合わせていないのである。

檻(おり)の中の松陰が知っていた事実を以下に抜粋する。

『クリミア戦争(Crimean War)は、衰退したトルコを食い物にするロシアと、ロシアの進出を嫌うイギリスやフランスとの戦いである。

その発端はトルコ領エルサレムの聖地管理権問題で、カソリック(フランス)とギリシア正教(ロシア)の宗教問題が絡んでいた。

元々管理権はフランスが持っていたが、フランス革命の混乱期にロシアに渡り、その後、ナポレオン3世がトルコに圧力をかけて取り戻した。

これに対してロシアは、トルコ領内のギリシア正教徒の保護を名目に、ロシア軍のトルコ領内進駐を迫った。

ロシアの真意は、地中海への出口確保(南下政策)だった。
イギリスやフランスはトルコを支援し、トルコはロシアの要求を拒否した。

バルカンでの戦闘  
1853年7月、ロシア軍は突然トルコ領モルドバ、ワラキアに進駐し、トルコ軍と対峙した。これに呼応してギリシャの義勇兵や反トルコ勢力が立ち上がり、マケドニアやブルガリア方面からトルコ軍を挟撃した。

苦境にたったトルコ軍を英仏艦隊が支援した。
フランス海軍は、ギリシャ向けの武器輸送船をテッサロニキで撃沈、イギリスもアテネの港ピレウスを封鎖した。

その結果、反トルコ組織は各地で鎮圧され、トルコ軍はロシア軍をドナウ以北にまで押し戻し戦線は膠着した。

同じ頃、コーカサス方面でもロシア軍が南下してきた。
要塞都市カルスをめぐる戦いが始まり、カルスへの補給基地であるシノープがロシアの攻撃目標になった。

クリミア半島
1853年11月、クリミア半島のセバストポリを出港したロシア黒海艦隊は、黒海南岸の港シノープ(Sinop)を急襲し、停泊中のトルコ艦隊を全滅させた。
また、艦砲射撃で街を焼き払い、多くの市民を犠牲にした。
各国はこの攻撃をシノープの虐殺と非難し、一気に戦争の気運が高まった。

1854年3月、イギリスとフランスはトルコと同盟を結び、ロシアに宣戦布告した。
モルドバ、ワラキアのロシア軍はオーストリアやプロシアの抗議により撤退した。
連合軍はブルガリアから北上してオデッサを攻める作戦だったが、オーストリア軍がワラキアに進駐したため、攻撃目標はロシア艦隊の基地セバストポリ(Sevastpol)となった。

1854年9月、連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。

ロシア軍は黒海艦隊を沈めて英仏艦隊の湾内突入を防ぎ、街を要塞化して連合軍を待ち受けた。』(「クリミア戦争 戦争にいたる経緯」より)
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b09_osman/crimeanwar.html

当時の日本では薩長を英国が、幕府をフランスが軍事支援していた。

ロシアがクリミア半島でどう出てくるのか、それは日本の国防戦略上とても重要な情報であった。

ロシアの軍人プチャーチンが長崎に寄航したと聞き、すぐに江戸を立って松陰は長崎へと向かった。

行動することが陽明学の基本だからである。
とにかくロシア人にあってことの事実を確かめたい。

しかし、日本の歴史では「あわてて長崎へ行こうと出発したが、ロシア軍艦が日本を去ってしまって、松陰は仕方なく江戸へ戻った」としか書かれていない。

「あわて者が結局失敗した」というニュアンスの書き方をするものさえいる。

黒船密航についても、「幕府ご法度を犯して結局失敗してつかまったあほな侍」という認識しか今の若者に伝えきれていない。

これは実際に私が25歳の若い女性に対して、「松陰の黒船密航事件についてどう思うか」と質問したときの返事である。

上の記事は英仏トルコ連合軍とロシア軍の大激突の前で終わっていた。

その年は1854年9月である。
『連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。』

同じ安政元年(1854年)、再航したペリー艦隊に松陰は萩の隠れキリシタンと思われる金子と二人で旗艦へ赴き、密航を訴えたのである。

松陰がペリーを刺殺しようとしていたという説もあるが、軍事戦略として松陰が考えた中にも「乗船して敵の大将を刺殺」というものはあっただろう。

しかし、もしそれが目的であれば、何も阿武郡のキリシタンの住む紫福村出身の足軽金子を伴う必要はないだろう。

むしろ剣客を雇うほうがいい。

ザビエルが布教した山口に程近い萩生まれの松陰は、宣教師が何をしに日本へやってきたかをほぼ正確に把握していたことだろう。

つまり、アメリカへ密航が成功したとき、アメリカという国家が日本に対して何をしたいと思っているのか、その最重要の情報を探る上でキリシタン人脈は効果的だと松陰は考えたのではないか。

萩を訪ねたあとで、私はそう思うように変わった。

アメリカのキリスト教徒も日本の隠れキリシタンも、ローマ法王のところで情報も人脈もつながっているからだ。

クリミア半島の争いがキリスト教徒のメッカエルサレムの統治権を争うものであることから、宗教問題に明るい人物による諜報活動を必要としたのではないか。

松陰は獄中において、「ナポレオン(那波列)翁による自由(フレーヘード)を求める革命」と同じことをやるべきだと、草莽による倒幕の決意を固めたのである。

『列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。

那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345

剣豪キリシタンか~長州(134) [萩の吉田松陰]

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SH3B0526僧月性(左)と聾唖僧宇都宮黙霖(蝋人形、松陰神社境内)

前の記事で引用した福昌寺の記事でどうしても私の心に引っかかるものがあった。
それは次の部分である。

『略。
また1870年の浦上四番崩れの際には浦上(現・長崎市)のキリシタン収容所がこの福昌寺の跡地に建てられていた。

ちなみに他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、ここの待遇はかなり良かったらしく、後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのはこの浦上のキリシタンであった。』(福昌寺 (鹿児島市)(Wikipedia)より)

大山 綱良(おおやま つなよし)は、西郷の西南戦争準備を後押しした鹿児島県令(知事)である。

大石内蔵助に向かって吉良邸へ押し入って強盗殺人をやれやれ、と囃し立てたのは、歌舞伎忠臣蔵では松浦侯である。

モデルは、松浦侯・肥前平戸藩6万3000石の藩主・松浦鎮信である。

あるいは堀部安兵衛親子である。

西南戦争の準備期に、それとよく似た役割を大山綱良が果たしたように私には思われる。

つまり、西郷に新政府と戦争をしろとせっつく役目を果たした人物である。

その大山は西南戦争後に連座の罪により斬首されたことまでは知っていたが、葬儀を浦上のキリシタンが行ったことは知らなかった。

そのことが福昌寺 (鹿児島市)(Wikipedia)の記事に書かれているということは、鹿児島でのキリシタンの隠れた信仰拠点が福昌寺であったことを暗示しているように見える。

これは、ある種の秘密の暴露に見える。
言ってはいけないことだが、つい口から出てしまうという行為ではないだろうか。

西南戦争に連座して処刑された大山の葬儀は、浦上(現・長崎市)のキリシタンたちによって行われたと書いてある。

大山はキリシタン側にあった人物だということを示唆している。
ザビエルが鹿児島で撒いた種は、明治初期の鹿児島県令にまで及んでいたのだろうか。

大山は養子先の姓であり、綱良は元「樺山」姓の薩摩藩士である。
「剣客大山」の素顔が次の記事に描かれていた。

『大山 綱良(おおやま つなよし、文政8年11月6日(1825年12月15日)~明治10年(1877年)9月30日)は、江戸時代後期の薩摩藩士、明治時代の政治家である。

父は樺山善助。養父は大山四郎助。通称は正圓、角右衛門、格之助。
大山氏の本姓は宇多源氏で、養子先の家伝では佐々木盛綱の子孫である康綱の後裔を称するが明確ではない。

文政8年(1825年)、鹿児島に生まれる(幼名熊次郎)。

嘉永2年(1849年)12月26日に大山四郎助の婿養子となる。

西郷隆盛、大久保利通らとともに精忠組に属した。

島津久光の上洛に随行し、文久2年(1862年)の寺田屋事件では、奈良原喜八郎らとともに過激派藩士の粛清に加わり、事件の中心的役割を果たした。

特に寺田屋2階には大山巌・西郷従道・三島通庸らがいたが、大山が刀を捨てて必死の説得を行った結果、投降させることに成功した。

明治元年(1868年)の戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督府の下参謀になった(もう一人の下参謀は仙台藩士に処刑された長州藩士、世良修蔵)。

大山率いる新政府軍は仙台城下で強盗・強姦などの乱暴狼藉を働き、庄内藩を討つため仙台から出陣した。

その結果、仙台藩の藩論は「会津擁護」に固まった。

大山の新政府軍は庄内戦線において、庄内藩の反撃にあい連戦連敗を喫した。
しかし、戦後、新政府から賞典禄を受けた。

長州藩で大楽源太郎が反乱を起こして敗走し、再起のために日田県庁を襲った時には新政府の命を受けて討伐軍の司令官として鹿児島から派遣されながら現地到着後に独断で軍解散を命じて木戸孝允らの怒りを買い、西郷隆盛が詫びる騒ぎとなっている。

新政府では廃藩置県後に鹿児島県の大参事、権令(県令)となる。

だが、これは旧藩と新府県の関係を絶つために、新しい府県の幹部には他府県の出身者をもって充てるとした廃藩置県の原則に反する特例措置であった。
大山は島津久光の意を受けて西郷らを批判した。

明治6年(1873年)に征韓論争から発展した政変で西郷らが新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると、私学校設立などを援助し西郷を助けた。

その後、大山が県令を務める鹿児島県は新政府に租税を納めず、その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈した。

明治10年(1877年)に鹿児島で西郷らが挙兵した西南戦争では官金を西郷軍に提供し、西郷軍の敗北後、その罪を問われて逮捕され東京へ送還、のち長崎で斬首された、享年53。

墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。

剣の達人
大山は薬丸兼武及び子の兼義に薬丸自顕流の剣術を学んだ。
薬丸門下の高弟中の高弟であり、奥伝である小太刀を極め、飛鳥のように跳びかかって相手を打ち倒したという。

藩中随一の使い手といわれた。

江戸にて刀を用いた大道芸人を見物していたところ、大山が手練であることを見抜いた直心影流の長沼笑兵衛(恂郷)に道場に招かれた。

長沼の要請で大山は師範代と立ち会うことになった。
防具をつけた師範代に対し、大山は素面素小手で木刀一本を持って立会いに臨み、立会いがるや否や一撃で打ち倒した。

さらに薬丸流の技である打廻りを見せると、長沼は大変感激したという。

西郷隆盛とともに藤田東湖に会ったときのこと。
西郷は大山を剣の達人であると紹介した。

神道無念流門下であった藤田の斡旋で斎藤弥九郎道場の塾頭と試合をすることになった。

大山は例によって素面素小手。小太刀を一本持ったのみであった。
対して塾頭は防具と竹刀で臨む。

大山は立ち上がるや否や塾頭に打ち込んだ。
そこで塾頭はあまり打ち込みが早いのでもう一度試合をしてくれといったが、大山はこの道場では亡者が試合をするのかとあざ笑った。

実戦であれば一本目で決着が付くにもかかわらず、二本目、三本目と試合をすることへの皮肉である。

槍術の達人といわれた有村俊斉は鹿児島城下で次々と道場破りを行い、最後に薬丸家にやってきた。

薬丸家に代わって大山が試合に応じた。
結果大山が勝った。

有村は再戦を期し甲突川の水の中で槍突きの修行をし、三年くらい後に再びやってきた。
再度大山が立会い、やはり勝った。

有村は観念し薬丸家に入門した。

しかし有村、後の海江田信義の回顧では薬丸半左衛門(兼義)に入門したのは15歳のときとなっているので実際の相手は有村俊斉ではないだろう。

大山綱良が与えた影響
綱良が県令の時に、県庁に保存されていた薩摩藩時代の公文書を「旧弊が抜けないから」との理由で焼却してしまう。

この事件は江戸時代の火事や西南戦争とともに薩摩藩の歴史研究に弊害を与えたことが「鹿児島県史料 島津斉宣・斉興公史料集」の序章で述べられている。』(大山綱良(Wikipedia)より)

薩摩藩時代の公文書焼却には証拠隠滅の意識が働いているようだ。
「後世に知られてはまずい出来事」が幕末の薩摩藩内で行われていたことを暗示している。

「大山(綱良)が刀を捨てて必死の説得を行った結果、投降させることに成功した。」という下りは、読んだ当初は意味不明だった。

が、記事を最後まで読めば、その意味がじわりとわかってくる。

誰にも負けない腕を持つ大山(綱良)が刀を持てば、過激派の薩摩藩士であった大山巌・西郷従道・三島通庸らは皆殺しにあったはずだ。

それなのに大山(綱良)は刀を捨てて、彼らに投降してくれるように懇願したということである。

言われた方はかなわない。

私は、大山(綱良)は相当濃いキリシタンであったと想像している。
そういう視点で西南戦争を見直してみる必要があるだろう。

明治新政府は革命成功と同時にキリシタン弾圧を行っているのである。
反政府側に隠れキリシタンがいることは当然でもあろう。

仙台では世良の行状もさることながら、大山(綱良)の行状も奥州戦争勃発の触媒として作用しているようである。

よりによって、奥羽鎮撫総督府の下参謀2名に、薩長ともに危ない人物を登用したのである。

戦争をしたがっていた、というよりも日本で戦争が起きなければ破産するはずだったユダヤ資本がいたことは先に述べた。

再掲する。

『略。
しかしながら、南北戦争、クリミア戦争の終結と共に、ヨーロッパの兵器会社(ロスチャイルド系)の武器・弾薬は、上海市場に流れ込み、ロスチャイルドと縁戚関係を持つジャーディン・マセソン商会が、日本に内乱を画策し、長崎のグラバー商会を通して、また坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)をダミー会社として使い、イギリスは維新軍に武器を売りつけ、またフランスは幕府軍に武器を売りつけました。

これが、明治維新の本当の姿であります。

そして、彼らの画策に気づいた坂本龍馬は公武合体を唱え、徳川慶喜に大政奉還をうながし、内乱を避けようとした矢先に、坂本龍馬は暗殺されます。  

この時、内乱は必至とみたグラバーはジャーディンマセソン商会に大量の武器を発注してしまっており、日本が内乱に突入しないと、グラバー商会、ジャーディン・マセソン商会共に、大きな負債を抱かえてしまう問題がありました。』
(「クリミア戦争  ロスチャイルド」より)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1114.html

グラバーやジャーディンマセソン商会が、長崎や鹿児島の隠れキリシタンと近い関係にあったことは容易に想像がつく。

大山(綱良)が彼らの要請を受けて、戦争を何とか奥州で起こそうとした可能性はある。

私の調べでは世良修蔵は、浄土真宗本願寺派の僧侶、柳井の月性が三条実美の意向を受けて育てた過激志士である。

世良の親友が会津に殺されていることから考えても、世良が奥州に行けば戦争になることは木戸孝允も知っていたはずだ。

しかし、世良は徳川幕府を倒したがっていた浄土真宗僧侶の育てた青年であって、キリシタンではないように思われる。

すると、世良を奥羽鎮撫総督府の下参謀に任命した木戸孝允が隠れキリシタンと深い関係を持っている可能性が浮上してくる。

これは、あくまで可能性があるという段階である。

以上をまとめると、「大山綱良と木戸孝允が、キリシタンであった」可能性が浮上する。

神戸で捕縛された大山綱良は、鹿児島ではなく、なぜか長崎で処刑されているのだった。だから浦上のキリシタンによって埋葬されたのである。

なぜ長崎で大山を処刑したのであろうか。

『明治10年9月30日長崎で処刑、53歳。
明治7年鹿児島県初代県令(知事)となる。

西南の役に際し、軍資金、兵器、弾薬、食糧を送るなど薩軍を援助した罪により神戸で捕縛、官位をはく奪された。』(大山綱良(Wikipedia)より)

髑髏の黄金盃~長州(133) [萩の吉田松陰]

SH3B0530.jpgSH3B0530獄中の松陰(蝋人形より)
スキタイ.jpgスキタイの地図(スキタイ(Wikipedia)より)
618px-Skythian_archer_Louvre_F126.jpg陶器に描かれたスキタイ戦士(同上)

先の記事で紹介したヤジロウ日記は第10章「東堂忍室」から抜粋したものだった。
「ヤジロウ日記」とは、実は小説だった。
戦国時代に口語体で書かれているのはおかしいとは思っていたが、やはりそうだった。

ザビエル書簡集やルイス・フロイスの日記を参考にしながら、現代の人が架空の物語に構成したものだった。

その著者は結城康三氏で、ご本人のサイトに掲載して公開していたものだ。

『この度第20回新風舎出版賞、フィクション部門にて奨励賞を受賞しました。

新風舎の出版化権が切れましたので作品を公開します。』
(「小説家ゆうきくん」より)
http://www.ykya.co.jp/dorakuan/shosetu/shosetu.htm

僧侶とザビエルの宗論の場は福昌寺といい、鹿児島市池之上町にあった寺である。
「あった寺」ということは、今はないということだ。

『フランシスコ・ザビエルは鹿児島滞在中、島津貴久によってこの福昌寺を宿所としていた。

この時に当時の福昌寺住持であった15世忍室とはかなり親しくしており、ザビエルは書簡で忍室のことを激賞している。

また1870年の浦上四番崩れの際には浦上(現・長崎市)のキリシタン収容所がこの福昌寺の跡地に建てられていた。

ちなみに他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、ここの待遇はかなり良かったらしく、後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのはこの浦上のキリシタンであった。』(福昌寺 (鹿児島市)(Wikipedia)より)

「浦上四番崩れ」のキリシタン収容所がこの福昌寺の「跡地」に建てられたとはどういうことなのか。

キリシタンたちの心の拠り所が福昌寺だったのではないか。
それとも宗論でザビエルを負かした忍室の力量を尊重して、仏教徒がこの地にキリシタンを集めたのだろうか。

「浦上四番崩れ」のキリシタンたちは全国に分散して収容されている。

山口県萩市では、萩城下の堀の内にある厚狭毛利藩屋敷のすぐそばに収容て拷問を受けていた。

私は厚狭毛利氏かその家臣団にキリシタンがいて、彼らがキリシタンたちの便宜によいようにと近くに住まわせたのだと感じていた。

なぜならば、異教徒のキリシタン収容施設と、毛利本藩親戚筋の厚狭毛利家屋敷との距離があまりに近いからである。

普通なら拷問を受けるキリシタンは町外れの川原や山の中に収容されるはずだ。

萩と同じ仮説論理でいけば、鹿児島の福昌寺は隠れキリシタンたちの拠点であった可能性が高い。


さて小説「ヤジロウの日記」の第2章「学僧顕忍」に出てくるもうひとつのお寺「宝資山」とは、鹿児島にある光寿院東漸寺のことである。

『<仏寺> 宝資山光寿院東漸寺

地頭館より北西5町 川北にあり、本府の真言宗大乗院の末寺。
当郷の祈願所である。

開基は祢寝氏の支族・山本氏(円妙禅門・知泉禅尼)。

正龍寺由来記によると、山本某が海で大鯛を釣り上げ、腹を割いたら「黄金」がたくさん入っていた。

これを元手に根占に「東漸寺」、山川に「正龍寺」を建立した、という。

東漸寺は跡形もないが、山川港には正龍寺が今も残っている。』
(「『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座」より)
http://kamodoku.dee.cc/oosumi-rekisikouza-8.html

同じ名の寺が仙台にもある。

鹿児島で余り普及し得なかったキリスト教は、後に仙台藩で大変な発展を遂げている。
伊達政宗の家臣で、キリシタン武将の支倉常長の話はあまりに有名である。

鹿児島の東漸寺が、仙台へ引越したのだろうか。

豊後国東のキリシタンだったペドロ岐部は、インドから歩いてローマへ行きようやくイエズス会宣教師となるが、江戸のキリシタン禁制中の日本へ再び死を覚悟して布教のために戻ってくる。

長崎に上陸した岐部は、なぜか仙台で布教活動を進めていた。

そして仙台藩内で捕縛され、拷問死するに至る。
今は殉教した聖人として世界中の信者に尊敬されている。

仙台の東漸寺は、鍛冶職人の町にあった。
なぜ鉄造りの町にあるのだろうか。

『慶長末年(1614年)開創(大阪冬の陣前あたり)
藩政初期の早い段階に寺領が定まり堂舎がつくられる。
400年の歴史をもつ。

寛永頃には城下東南の地として既に発展し、荒町から南鍛冶町にかけては、曹洞四録司の中の昌伝庵、泰心院、皎林寺、法華の仏眼寺と共に、東漸寺は城下に於いて真宗の拠点寺院として重きをなし、江戸時代にあっては確固たる地位を占めていました。(参考文献、佛法山東漸寺誌)

南鍛冶町と東漸寺  
東漸寺の南を東西に通じる幹線道路が南鍛冶町です。
伊達政宗による慶長5~6(1600~1601)の仙台城下の町割でつくられたなかに元鍛治町があります。

現在のここに鍛冶職人を集めて鍛治町をつくりましたが、やがて侍屋敷をまとめるために北鍛冶町と南鍛冶町に分かれて鍛冶衆が移動しました。

やがて参勤交代で奥州道中がここを通るようになりますと、職人町と街道沿いということも手伝って南鍛冶町はより重要さを増していきました。

北山五山を中心に臨済、曹洞など伊達ゆかりの寺が多く、八塚(現在の新寺地区)などには曹洞、法華などが多く、念仏系の浄土、真宗、時宗の各宗は北山でも、八塚方面でも周辺部におかれたなかで、町人層に立脚した東漸寺は、城下東方の若林の地にあっても脈々と信仰の法灯を守り続けたことを考える時、城下の名もなき、権力もない人々によって永らえ続けたことが、今日の南鍛冶町に東漸寺ありということになったものと思われるのです。』
(「真宗大谷派仏法山東漸寺」より)
http://sekishin.info/temples/wakabayashi/touzenji/

更に、千葉県松戸市にも同じ名の寺がある。
松戸の東漸寺は、1481年の開基である。
ザビエルの来日は1549年であるから、その68年も前にできた寺である。

『東漸寺は、今から約520有余年前の文明13年(1481)、経譽愚底運公上人により、当初、根木内(この地より1キロ北東)に開創いたしました。
この後約60年後の天文年間、現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹です。

檀林となった東漸寺は、広大な境内を持ち、多くの建物を擁するようになりました。
大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展しました。

明治初頭に、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となりました。

江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇を失ってしまいました。

また、学寮およびその敷地は、地域青少年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となりました。

幕末以降の経済基盤となっていた広大な寺有田(現在の新松戸周辺)は、第2次大戦後の農地解放で失い、境内もかなり荒廃していました。

しかしながら、歴代住職の尽力により、関東屈指の多数の文化財ならびに檀林の面影を伝えてくれている境内の古木や巨木が昔のまま保存され伝えられてきたことは、東漸寺の復興に大きな力となりました。

昭和38年に、寺子屋教育の再現を目指して、東漸寺幼稚園を開設、昭和40年後半より、開創500年記念復興事業として、熱心な檀信徒の協力を得て、本堂、鐘楼、中雀門、山門、総門の改修、書院の新築平成8年に観音堂の再建を完成し、現在にいたっています。

現在では樹齢300年を誇るしだれ桜や鶴亀の松、参道の梅やあじさい・もみじなど、四季折々の自然に触れ、日本の伝統美を感ずることのできるお寺として、また、賑わいを求めて4月の御忌まつり、12月の除夜の鐘など毎年、多数の参詣者が訪れます。』
(「東漸寺の歴史 東漸寺の沿革」より)
http://tozenji.sakura.ne.jp/rekisi.html

東漸寺のある地名が、鹿児島では根占で、千葉県松戸では根木内と「根」の字を含むところがよく似ている。

西洋では根をルーツと言い、民族的な根源、先祖を意味する。

鍛冶町の人々は、一体どこからやってきたのだろうか。
東漸寺は彼ら民族の信仰の場であったのである。

製鉄技術は中近東のヒッタイトやスキタイ人が口伝して伝えてきたものと言われる。
製造法を紙に書き残すと、他民族に盗まれるからである。

やがてシルクロード(絹の道)を通って、製鉄技術はわが国へとわたってきたはずだ。

すると、鍛冶町の人々はスキタイの末裔なのか。

『スキタイは紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。
中略。

家畜
スキタイでは馬を始め、数々の家畜を飼育しているが、豚だけは飼育しておらず、生贄にも使わない。

戦争
スキタイは最初に倒した敵の血を飲む。

また、戦闘で殺した敵兵の首はことごとく王のもとへ持っていき、その数に応じて褒美がもらえる。

首は頭蓋骨から皮をきれいに剥ぎ取って手巾とし、馬勒にかけて勲章とする。

またある者は敵兵の皮をつなぎ合わせて衣服にしたり、矢筒にしたりする。

頭蓋骨は最も憎い敵に限り、髑髏杯として用いる。

年に一度、戦争で手柄のあった者はその地区の長官から一杯から二杯の酒がもらえる。
逆に手柄のないものは酒がもらえず、恥辱をしのんで離れた席に座る。』
(「スキタイ(Wikipedia)より」

織田信長は、敵将の浅井長政の髑髏(どくろ)を黄金の盃にしていた。

日本の武士たちは戦場で獲得した首の種類と数によって、戦勲を評価されていた。

首と髑髏の扱いについては、源氏平氏の末裔たちの行動に非常によく似ている。

『アッシリア碑文の記録
「アッシリア碑文」においてスキタイはアシュグザあるいはイシュクザーヤと記される(紀元前7世紀)。

アッシリア王エサルハドン(在位:前681年 - 前669年)は、マンナイの地(現:西北イラン)でマンナイ軍とマンナイを救援するためにやってきたアシュグザ(スキタイ)王イシュパカーの軍を撃ち破った。

その後もイシュクザーヤ(スキタイ)はメディアの同盟者としてギミッラーヤとともにマンナイに与してアッシリアに抵抗するが、その王イシュパカーは前673年頃アッシリアによって殺される。

ところがその翌年、エサルハドンは自分の娘をイシュクザーヤの王バルタトゥアに与えて結婚させ、同盟関係となる』

スキタイは紀元前7世紀にはアッシリアから影響を受けていたようだ。

アッシリア語で「水」のことは「ミズ」と発音し、「塩」のことは「シオ」と発音するそうだ。

どちらも、生命体を維持するために無くてはならない大切なものである。

大日とデウスの戦い~長州(132) [萩の吉田松陰]

SH3B0509読み下し.jpgSH3B0509読み下し 松陰「自警の詩」の読み下し文

大日とデウスの戦い~長州(132)
SH3B0509読み下し 松陰「自警の詩」の読み下し文

先ほどの「西欧の東洋侵略」年表は、「1854(安政元年)クリミア戦争はじまる」で終わっていた。

明治維新とは「クリミア戦争」を知ることですべてが把握できるのではないだろうか。

私は高校で日本史を選択したため、クリミア戦争のことをまったく知らない。
私の脳は歴史という意味において、きわめて巧妙に分断されている。

日本国内のことしかわからないのである。

第2次世界大戦で敗戦した日本は、再建時の憲法制定から教育法制定までアメリカを中心とする欧米諸国の意向のもとで再興を果たした。

その国で教育された私は、そこで育ち還暦を迎えて高齢者の仲間入りを果たした。

その私はクリミア戦争のことや、それと明治維新革命とのかかわりについてまったく何も知らない。
やがて知らないまま死んでいくことになるのだが、それでよいのだろうか?

お釈迦様の手のひらの上で生かされているという言い方があるが、現代日本人はキリスト様あるいはダビデ王の手のひらの上で生かされているのではないのだろうか。

『Rothschild-26  阿片戦争

産業革命により、ヨーロッパ各国は経済力をつけると共に、その製品のはけ口としての市場を奪い合うようになって、争いは容易に軍事衝突にエスカレートするようになりました。

同時に、人々の国家意識が高揚し、封建領主の土地に細分化されていたドイツやイタリアにも国民国家を求める機運が高まり、こうした情勢下で始まったのがロシアのトルコ干渉に端を発したクリミア戦争(1853-1865年)であります。

イギリス、フランスが参戦したこの戦争で、ロスチャイルド家はトルコ側に立ち、戦時公債の起債に協力しましたが、その背景にはロシアでのユダヤ人迫害がありました。

かねてから、ロシアのユダヤ人弾圧政策に反発していたロンドン、パリの分家はそれぞれ総力を挙げてイギリス、フランス両軍の遠征費の調達を行い、トルコにも借款を行い、戦局はクリミア半島のロシアのセヴェストーポリ要塞の攻略に成功したトルコ英仏連合の勝利に終わり、ロスチャイルド家は久しぶりに大きな利益を上げました。

実は、江戸末期に起こったアメリカの南北戦争、ロシアのクリミア戦争は、我々日本にも大きな影響を与える事になります。

それは、この戦争のおかげで、ヨーロッパ列強は忙しく、日本を侵略することが出来ず、時間稼ぎができた日本は、ヨーロッパの植民地にならずに済んだのです。

しかしながら、南北戦争、クリミア戦争の終結と共に、ヨーロッパの兵器会社(ロスチャイルド系)の武器・弾薬は、上海市場に流れ込み、ロスチャイルドと縁戚関係を持つジャーディン・マセソン商会が、日本に内乱を画策し、長崎のグラバー商会を通して、また坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)をダミー会社として使い、イギリスは維新軍に武器を売りつけ、またフランスは幕府軍に武器を売りつけました。

これが、明治維新の本当の姿であります。

そして、彼らの画策に気づいた坂本龍馬は公武合体を唱え、徳川慶喜に大政奉還をうながし、内乱を避けようとした矢先に、坂本龍馬は暗殺されます。  

この時、内乱は必至とみたグラバーはジャーディンマセソン商会に大量の武器を発注してしまっており、日本が内乱に突入しないと、グラバー商会、ジャーディン・マセソン商会共に、大きな負債を抱かえてしまう問題がありました。』
(「クリミア戦争  ロスチャイルド」より)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1114.html

これによれば、日本国内内乱を回避しようとした坂本龍馬を暗殺したのはユダヤ資本を元にした兵器商人であるという推理が成り立ってくる。

日本で戦争を始める必要があったために、奥羽鎮撫総督下参謀に月性が育てた世良修蔵を任命したのである。

すると、戦乱の素となる世良を推奨した木戸孝允、あるいはその主人は、ユダヤ兵器商会と深い関係があったということになろう。

米国の世界警察としての力が弱まってきた今こそ、本当の歴史を正しく学ぶ必要を感じている。

そこで前の記事で約束した「禅宗僧侶とザビエルの宗教討論」のことを調べてみた。

鹿児島で布教をするためにザビエルは鹿児島へ上陸したはずだ。
しかし、宗教討論のおかげで、ザビエルは島津氏の保護下から離れ、平戸松浦氏のもとへ去った。

平戸は幕末にいたって、倒幕思想を育てる場所と成長していく。

鹿児島でザビエルは何を体験したのだろうか。

布教するためにザビエルはインドネシアの人食い人種の島へ単身乗り込んでいった。

それほどの勇気ある人が、何を嫌って、あるいは何を避けて、鹿児島を去ったのだろうか。

人食い人種よりも恐ろしいものを鹿児島で見たに違いない。

その問題に対する対策は、自分が中国大陸に渡ることだとザビエルは達観した。
来日2年を待たずに、ザビエルは中国へ渡ろうとし、途上で病死する。

その後の中国をマクロで観測すると、アヘンを注入され、それでも破壊されないとわかるとマルクス主義(毛沢東思想)を注入され、唐時代に完成されていた中国文化は、ほぼ破壊されてしまった。

日本は原爆投下2発によって主体性ある国家としての姿を棄却し、「米国に従属する国家としての平安」を求めてきた。

ザビエルを鹿児島から追い出し、中国へと追いやったという宗論を見てみよう。

ザビエルをインド・ゴアから日本の鹿児島へ連れてきた薩摩藩士「ヤジロウの日記」(小説、結城康三著)からその下りを抜粋する。

聖書の和訳もヤジロウの仕事であったから、ヤジロウは宗教哲学にも明るいはずだ。

仏教の成立は約2500年前、キリスト教の成立は2011年前である。

『十月八日

ザビエル様は今日、福昌寺の忍室(にんじつ)様を訪ねました。
あれから幾度か福昌寺を訪ねているのですが、その度に忍室様の書院で親しく話をしてきます。

今日はザビエル様が僧侶の修業を見たいと言いました。
忍室様はうなずいて寺の道場に案内してくれました。

道場の入口を入り内側の扉を開いて中を覗くと、そこは静寂そのものの別世界でした。
両側に二〇人位ずつ僧侶が黙って足を組んで座っていました。

僧侶の修業である座禅というものを聞いたことはあったのですが、こうして見るのは初めてでした。
僧侶は座ったままぴくりともせずに、あたかも石像のようでした。

手に笏を持った僧侶が一人、真中の通路をゆっくりと往復して歩いていました。
その僧侶は忍室様に気がつくと、立ち止まり軽く頭を下げて又黙々と歩き始めました。

そこは外の世界とは全く違った空間のように思えました。
空気さえも動きません。

ザビエル様もさすがにこの雰囲気には驚いたようです。

しかし、ザビエル様を驚かせたのは、その雰囲気も去ることながら、僧侶の修行が、霊操というイエズス会総会長イグナティウス様が考えた修業に酷似していたことでした。
私もゴアで霊操を行っていた時のことを思い出していました。

霊操では、イエズス・キリストの生涯を観想し、それを自分の物とするのです。
今、目の前で修行をしている僧侶達が霊操を行っていると言われたら私は疑わないかもしれません。

彼らの衣装や堂内の調度品がわずかにそれを否定するものでした。
私やザビエル様がボウズの衣装で、この堂内で霊操を行えば、人は私達が座禅をしていると思うかもしれません。

しばらくして忍室様は静かに扉を閉じて外に出ました。

書院に戻る途中、ザビエル様は忍室様に尋ねました。
「あの僧侶達はいったい何を考えて座っているのですか。」

忍室様はザビエル様よりそのような問いが出るのをすでに承知していたようでしたが、わざと首をかしげて言いました。

「さて、それはまた難解な御質問じゃ。あの者達がのう・・・一体何を考えておるのか。」

忍室様は手に持った扇子をもう一方の手に打ち付けながら、さも難問を課せられたような顔で言いました。

「拙僧も修業が足りぬ故・・・。あの者達は拙僧の弟子でな。ろくな事を考えてはおらんじゃろう。」

私はザビエル様に忍室様の言葉をどのように通訳して良いのか分かりませんでした。
ザビエル様は忍室様の気持ちを十分に汲み取っていると信じて、忍室様が話された通りに通訳するしかありませんでした。

「右側の一番前に座っていた若い僧侶がおったじゃろう。あれは空念と申して修業を始めたばかりじゃ。毎日、皆の食事の世話をしておるよって夕食の事でも考えておるのじゃろう。あいつはいつも飯がまずいと他の僧侶に怒られてばかりおるからのう。」

忍室様の言葉は高僧の言葉とも思えませんでした。
「それから左側の中ほどに座っておった元開という僧は寺の勘定方じゃ。
真面目な奴じゃから過去数カ月間に信徒達からどれだけの収入が有ったかを勘定しておるかもしれぬ。」

ザビエル様が忍室様の答えに不思議そうな顔をしたのを見て忍室様は言いました。
「上に座っている者達はもう長く修業をしておる。早くこの寺を出て、いづれかの寺の住職になりたいと思っておるのじゃろう。どの寺に行けば一番待遇が良いのかをな、ハッハッハ。」

忍室様は自分の話を一笑するかのように声高に笑い、そして言われました。

「要するに何か価値の有る事を考えている者は一人もおらぬかも知れん。しかし、彼らが何を考えているのか、どんな境地にいるのか、推し量ることさえもおこがましい。彼らの考えている事が価値があるとかないとか、慮る事こそ価値がないのではないのかな。」

私は忍室様の言葉を必死になって通訳しました。
まだ日本語を片言しか話せないザビエル様が忍室様の言葉をどのように受けとめているのかが心配でした。

しかし、私とて仏教の知識はありませんし、忍室様の真意を図ることはできませんでしたので、言葉通りにしか伝えることができませんでした。

 
十月十二日

入信した弘道は、毎日ザビエル様より教義を教えられていました。
まじめで頭の良い弘道です。
海綿が水を吸うように教義を良く理解して行きました。

入信して二十日も経たないと言うのに、未だ私の知らないことまでザビエル様は弘道に教えています。
所詮、私とは頭の出来が違うのでしょう。
ザビエル様も面白いように知識を吸収する弘道をかわいがっていました。

しかし、どうも私には妙に感じてなりません。
弘道は入信して後も袈裟を脱ごうとはしませんでした。

本人は他に着る物がないと言っておりますし、ザビエル様も、信仰は着るもので決まるものではないと言うのですが、私にはどうも妙でならないのです。

弘道が祭壇で祈る姿は仏教の僧侶そのものでした。
その姿を見ていると、彼が信じるものと私達が信じているものが果たして同じものなのか分からなくなってしまいます。

弘道は、
「私は真理を極めたい。」
と繰り返し言うのですが、果たして信仰の証とは何なのでしょうか。

ザビエル様の言うとおり、信仰心は服装や持ち物で決まるものではありません。

全てはその人の心の内にあり。
それは分かっているのです。

私が弘道の袈裟姿を見て彼の信仰心に疑いをはさんでいるのは私の心にこそ病巣があるのでしょうか。

今日も弘道は祭壇の前で祈っておりました。
私は袈裟を着て手を合わせる弘道をじっと見ていました。

「Padre nosso Que estas em os Santificado Seja o teu nome ・・・・」

弘道の流暢なポルトガル語は、彼の聡明さを感じさせて余りあるものでした。しかし、その次に彼の口から出た言葉は信じられないものでした。

「ナウマク、サマンダボダナン、アビラウンケン・・・・・・」

それがポルトガル語でもラティムでもないことはすぐに分かりました。

私には聞きなれた言葉でした。
その言葉はすぐに顕忍さまを連想させました。

根占の寺で顕忍さまが本堂の本尊を前に口にしていた言葉でした。
「ナウマク、サマンダボダナン、アビラウンケン・・・」

私は心の内にその言葉を暗誦していました。
根占の寺で何度となく聞かされたその言葉は、私の心の中に染み付いていました。そして、
「大日如来、・・・」
言葉が言葉を連想させていました。

私は背筋に冷たいものが走ったような気がしました。
「大日如来・・・」

私はデウスを「大日」と訳し、日本の人達に伝え、弘道もデウスを大日と呼び、信奉していました。

「ひょっとして弘道は、大日如来を・・・・。」
私は弘道の誤った信仰心を責めようとする前に、自分が取り返しのつかない大きな罪を犯したように思えました。

十月二十日

ザビエル様は今日も福昌寺の忍室様を訪ねました。
ザビエル様は寺の門を入ると、まっすぐに忍室様の書院に向かいました。
いつもの事なので、門番の寺男もザビエル様を止めようとはしません。

中庭から書院の方へと入りました。忍室様は書物に目を通しているところでした。
庭先からザビエル様は忍室様に声をかけました。
忍室様はいやな顔一つせずにザビエル様を迎えてくれます。

ザビエル様は縁側に座り、忍室様に話しかけました。
「東堂様、相変わらずお元気ですね。」

忍室様は書物を閉じてザビエル様の方ににじり寄って応えました。
「いやいや、拙僧ももう年老いてしまって、あなた方若い者がうらやましい。」

ザビエル様はその言葉を聞いて、忍室様の方に向き直って言いました。

「忍室様、あなたは今この寺の東堂という地位にありますが、青年時代のあなたと今の高齢のあなたとどちらが良いと思われますか。」

不意の質問に忍室様はしばらく考えていましたが、
「それは、やはり青年時代でしょう。」
と、答えました。

「何故に青年時代の方が良いと申されるのですか。」
「それは無論、青年時代には身体も丈夫で病気の禍もない。それに自分がしようと思う事は何でもできますからな。」

忍室様の応えは誰でもうなずけるものでした。
いかに福昌寺の東堂という高い地位についても、やはり人間は肉体的な若さと寿命に執着するものです。

「しからば、今ここに一つの港から出帆して、他の港へ行かねばならない船があるとしましょう。その船が大海に乗り出し波風や嵐にさらされている時と、無事に目的の港に入ろうとしている時とでは乗客はどちらが嬉しいでしょうか。」

忍室様はザビエル様の言葉に相槌を打ちながら言いました。
「ザビエル殿、あなたが言わんとしている事は良く分かります。荒波を乗り越えてきた乗客達にとって、早く港に入り安堵感に満たされる事が喜ばしいのは私も良く承知しております。」

「では何故、青年時代の方が良いとおっしゃられるのでしょうか。」
「人の人生を船の航海に例えることが当を得ているのかどうかは分かりません。今、老いた私がこうして人生を振り返れば、青年時代の私は、今の私に比べてはるかに無知で軽薄でした。

人生の最後の時が近づいた私が果たして極楽へ行くのか、それとも畜生道に落ちるのか、それは私には分かりません。あなたの喩えを借りれば、私は果たしてどの港に入れるものやら分からないのです。

人は皆、青年時代には必死で生きています。
後から考えればたわいのない事に悩み、若さ故の苦悩と戦わなくてはなりません。

言わば、今の私は崖を登りきった者が、後から崖を登ってくる人々を見ているようなものです。
もっと楽な道があるのに何故急な崖を登ろうとするのか、と思うこともありましょう。
一生懸命崖を登ろうとする者にとって、他に楽な道があると思ってはいないでしょう。

目の前にある崖が自分に与えられた道と信じて皆必死に登ろうとしています。
ある者は崖を途中まで登りつめ、はたと他を振り向き、もっと楽な道があることに気が付き楽な道に移ろうとして崖から落ちてしまう者もいるかもしれません。

楽な道を登り始め、途中急に崖が険しくなり途方に暮れる者もいるでしょう。
崖を登りつめた私にとっては果たして青年時代の私は自分に与えられた道を正直に登ってきたのかどうか疑問に思っています。

一度崖を登りつめた私でも、できることならもう一度崖を登ってみたい。
正直に脇目も振らずにな。それがどこへ続く道であろうとも。」

「東堂様は人生と言う道が、どこへ続くのか、漕ぎ出した船がどの港へ着くのか分からぬと申されるのか。」
「さよう。私が死後どこへ辿り着くのか、どちらの港に着くのかは、私の知る所ではありません。」

私は忍室様の言葉を事細かにザビエル様に通訳しましたが、忍室様の言葉は禅問答とでも申すのでしょうか。私には上手く通訳できないことが多いのです。

先日、忍室様は霊魂は不滅であると申していたのですが、それ以前には霊魂は滅するとも言っておりました。

私にはどちらの言葉も容易に嚥下することができるのですが、論理的に理解しようとするザビエル様には不可解に思えたようです。
やはり私は日本人なのでしょうか。

今日の忍室様との話でザビエル様は、忍室様が人生の目的を見失っているかのような印象を受けたかもしれません。

しかし、忍室様の心の内は、それ程単純ではないことは私には良く分かりました。

私は、神の教えを日本に広めようとするザビエル様と日本との橋渡しになろうと決心して日本に戻ってきました。

せめてザビエル様やフェルナンデス様が日本の言葉を理解できるようになるまで、私は身を捧げようと思っていました。

しかし、私は神の声やザビエル様の言葉を正確に日本の人達に伝えているのだろうか。

そして、忍室様や島津様、そして日本の人達の気持がザビエル様に正確に伝わっているのだろうか。

急にそんな不安な気持が私の心に広がって行きました。』

このあとで、ザビエルは和訳聖書の「神」を「大日如来」から原語の「デウス」に変えさせている。

神の定義において、ザビエルは禅宗の神とキリスト教の神が同一神となることを恐れたのである。

ヤジロウの書いていた「根占の寺で顕忍さまが本堂の本尊を前に口にしていた言葉」「ナウマク、サマンダボダナン、アビラウンケン・・・」とは、真言である。

オン バザラダト バン(金剛界)
ナウマク サマンダボダナン アビラウンケン(胎蔵界)

この真言を唱えれば、あらゆる霊徳が得られるとされるもので、胎蔵界とは「万物の創造」を意味する。

驚くほど聖書の記述に似てくるのは不思議なことではない。

空海が唐から持ち帰った経典の中には、漢字で書かれた旧約聖書もあり、今でも高野山に保管されている。

真言密教とは秘密にすべき宗教であって、実は旧約&新約聖書をも含むのである。
高野山の僧侶は朝の念仏修行の際に袈裟の前で十字を切る。

そこまで詳しくヤジロウは記述することをためらっているが、イエズス会信者となった元禅宗僧侶の弘道がイエス・キリスト像の前で袈裟を着て十字を切る姿を見たはずだ。

その光景にヤジロウが恐れおののいたのもよくわかる。

日本の国ではキリスト教さえも密教化して多くの神々の中に吸収されていたのだった。

ザビエルはそれを知って、あえて袈裟を着たまま弘道に祈りを続けさせている。
西洋の論理は是非、善悪の二者択一である。

同じバスク人であるイグナチオ・ロヨラに心酔してイエズス会創設に参加したザビエルが、ロヨラの哲学を非とするわけがない。

真言密教の流れを汲む禅宗を「悪」、「邪教」とザビエルは見たはずだ。
あえて袈裟を着たまま、どこまで弘道がキリスト教の真似毎を日常修行の中に取り入れていたかを観察していたのだろう。

禅宗はインドで発生した仏教が、中国を経て日本へわたってきたものである。
キリスト教もインドから伝わったものが含まれていても決しておかしくはないが、善悪の二者択一論に汚染されると冷静な判断はできなくなる。

ひょっとしてザビエルは、中国へ渡り禅宗を破壊しようとしたのではないだろうか。

この宗論が戦わされた鹿児島の福昌寺(ふくしょうじ)とは、曹洞宗大本山總持寺の御直末であり、そしてそれは明治維新革命によって破壊されている。

薩摩藩主島津氏の菩提寺であったものが、なんと明治初年の廃仏毀釈により破壊されたのだ。

仏教徒から見れば明治維新とは一体なんだったのか明らかなのではないか。

明治維新はザビエルの抱いた「見果てぬ夢」の実現でもあった。

しかし、それは兵学者松陰の目から見れば、「日本の敗北」となろう。
敗北を恥ずべきではない、
問題は負因を分析し、同じ負けを2度とせぬことだと松陰は言っている。

歴史を正しく学ばない人は、同じ負けを再び受けるはずだ。

国民を馬鹿な状態のまま温存するには、歴史を正しく学ばせないことである。



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