クリミア戦争の行方を知りたかった松陰~長州(135) [萩の吉田松陰]

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SH3B0528檻(おり)で江戸へ護送される松陰(松陰神社境内の蝋人形)

檻送される松陰を描いた蝋人形があった。
この竹で編んだ籠の中に捕縛されている29歳の萩の青年が、クリミア戦争のことを思っていたという。

これに反して、私たち現代日本人はクリミア戦争と幕末の日本の関係を驚くほど知らない。

当時松陰が抱いていた国家危機感の100分の一も、現代人は持ち合わせていないのである。

檻(おり)の中の松陰が知っていた事実を以下に抜粋する。

『クリミア戦争(Crimean War)は、衰退したトルコを食い物にするロシアと、ロシアの進出を嫌うイギリスやフランスとの戦いである。

その発端はトルコ領エルサレムの聖地管理権問題で、カソリック(フランス)とギリシア正教(ロシア)の宗教問題が絡んでいた。

元々管理権はフランスが持っていたが、フランス革命の混乱期にロシアに渡り、その後、ナポレオン3世がトルコに圧力をかけて取り戻した。

これに対してロシアは、トルコ領内のギリシア正教徒の保護を名目に、ロシア軍のトルコ領内進駐を迫った。

ロシアの真意は、地中海への出口確保(南下政策)だった。
イギリスやフランスはトルコを支援し、トルコはロシアの要求を拒否した。

バルカンでの戦闘  
1853年7月、ロシア軍は突然トルコ領モルドバ、ワラキアに進駐し、トルコ軍と対峙した。これに呼応してギリシャの義勇兵や反トルコ勢力が立ち上がり、マケドニアやブルガリア方面からトルコ軍を挟撃した。

苦境にたったトルコ軍を英仏艦隊が支援した。
フランス海軍は、ギリシャ向けの武器輸送船をテッサロニキで撃沈、イギリスもアテネの港ピレウスを封鎖した。

その結果、反トルコ組織は各地で鎮圧され、トルコ軍はロシア軍をドナウ以北にまで押し戻し戦線は膠着した。

同じ頃、コーカサス方面でもロシア軍が南下してきた。
要塞都市カルスをめぐる戦いが始まり、カルスへの補給基地であるシノープがロシアの攻撃目標になった。

クリミア半島
1853年11月、クリミア半島のセバストポリを出港したロシア黒海艦隊は、黒海南岸の港シノープ(Sinop)を急襲し、停泊中のトルコ艦隊を全滅させた。
また、艦砲射撃で街を焼き払い、多くの市民を犠牲にした。
各国はこの攻撃をシノープの虐殺と非難し、一気に戦争の気運が高まった。

1854年3月、イギリスとフランスはトルコと同盟を結び、ロシアに宣戦布告した。
モルドバ、ワラキアのロシア軍はオーストリアやプロシアの抗議により撤退した。
連合軍はブルガリアから北上してオデッサを攻める作戦だったが、オーストリア軍がワラキアに進駐したため、攻撃目標はロシア艦隊の基地セバストポリ(Sevastpol)となった。

1854年9月、連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。

ロシア軍は黒海艦隊を沈めて英仏艦隊の湾内突入を防ぎ、街を要塞化して連合軍を待ち受けた。』(「クリミア戦争 戦争にいたる経緯」より)
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b09_osman/crimeanwar.html

当時の日本では薩長を英国が、幕府をフランスが軍事支援していた。

ロシアがクリミア半島でどう出てくるのか、それは日本の国防戦略上とても重要な情報であった。

ロシアの軍人プチャーチンが長崎に寄航したと聞き、すぐに江戸を立って松陰は長崎へと向かった。

行動することが陽明学の基本だからである。
とにかくロシア人にあってことの事実を確かめたい。

しかし、日本の歴史では「あわてて長崎へ行こうと出発したが、ロシア軍艦が日本を去ってしまって、松陰は仕方なく江戸へ戻った」としか書かれていない。

「あわて者が結局失敗した」というニュアンスの書き方をするものさえいる。

黒船密航についても、「幕府ご法度を犯して結局失敗してつかまったあほな侍」という認識しか今の若者に伝えきれていない。

これは実際に私が25歳の若い女性に対して、「松陰の黒船密航事件についてどう思うか」と質問したときの返事である。

上の記事は英仏トルコ連合軍とロシア軍の大激突の前で終わっていた。

その年は1854年9月である。
『連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。』

同じ安政元年(1854年)、再航したペリー艦隊に松陰は萩の隠れキリシタンと思われる金子と二人で旗艦へ赴き、密航を訴えたのである。

松陰がペリーを刺殺しようとしていたという説もあるが、軍事戦略として松陰が考えた中にも「乗船して敵の大将を刺殺」というものはあっただろう。

しかし、もしそれが目的であれば、何も阿武郡のキリシタンの住む紫福村出身の足軽金子を伴う必要はないだろう。

むしろ剣客を雇うほうがいい。

ザビエルが布教した山口に程近い萩生まれの松陰は、宣教師が何をしに日本へやってきたかをほぼ正確に把握していたことだろう。

つまり、アメリカへ密航が成功したとき、アメリカという国家が日本に対して何をしたいと思っているのか、その最重要の情報を探る上でキリシタン人脈は効果的だと松陰は考えたのではないか。

萩を訪ねたあとで、私はそう思うように変わった。

アメリカのキリスト教徒も日本の隠れキリシタンも、ローマ法王のところで情報も人脈もつながっているからだ。

クリミア半島の争いがキリスト教徒のメッカエルサレムの統治権を争うものであることから、宗教問題に明るい人物による諜報活動を必要としたのではないか。

松陰は獄中において、「ナポレオン(那波列)翁による自由(フレーヘード)を求める革命」と同じことをやるべきだと、草莽による倒幕の決意を固めたのである。

『列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。

那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345

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