髑髏の黄金盃~長州(133) [萩の吉田松陰]

SH3B0530.jpgSH3B0530獄中の松陰(蝋人形より)
スキタイ.jpgスキタイの地図(スキタイ(Wikipedia)より)
618px-Skythian_archer_Louvre_F126.jpg陶器に描かれたスキタイ戦士(同上)

先の記事で紹介したヤジロウ日記は第10章「東堂忍室」から抜粋したものだった。
「ヤジロウ日記」とは、実は小説だった。
戦国時代に口語体で書かれているのはおかしいとは思っていたが、やはりそうだった。

ザビエル書簡集やルイス・フロイスの日記を参考にしながら、現代の人が架空の物語に構成したものだった。

その著者は結城康三氏で、ご本人のサイトに掲載して公開していたものだ。

『この度第20回新風舎出版賞、フィクション部門にて奨励賞を受賞しました。

新風舎の出版化権が切れましたので作品を公開します。』
(「小説家ゆうきくん」より)
http://www.ykya.co.jp/dorakuan/shosetu/shosetu.htm

僧侶とザビエルの宗論の場は福昌寺といい、鹿児島市池之上町にあった寺である。
「あった寺」ということは、今はないということだ。

『フランシスコ・ザビエルは鹿児島滞在中、島津貴久によってこの福昌寺を宿所としていた。

この時に当時の福昌寺住持であった15世忍室とはかなり親しくしており、ザビエルは書簡で忍室のことを激賞している。

また1870年の浦上四番崩れの際には浦上(現・長崎市)のキリシタン収容所がこの福昌寺の跡地に建てられていた。

ちなみに他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、ここの待遇はかなり良かったらしく、後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのはこの浦上のキリシタンであった。』(福昌寺 (鹿児島市)(Wikipedia)より)

「浦上四番崩れ」のキリシタン収容所がこの福昌寺の「跡地」に建てられたとはどういうことなのか。

キリシタンたちの心の拠り所が福昌寺だったのではないか。
それとも宗論でザビエルを負かした忍室の力量を尊重して、仏教徒がこの地にキリシタンを集めたのだろうか。

「浦上四番崩れ」のキリシタンたちは全国に分散して収容されている。

山口県萩市では、萩城下の堀の内にある厚狭毛利藩屋敷のすぐそばに収容て拷問を受けていた。

私は厚狭毛利氏かその家臣団にキリシタンがいて、彼らがキリシタンたちの便宜によいようにと近くに住まわせたのだと感じていた。

なぜならば、異教徒のキリシタン収容施設と、毛利本藩親戚筋の厚狭毛利家屋敷との距離があまりに近いからである。

普通なら拷問を受けるキリシタンは町外れの川原や山の中に収容されるはずだ。

萩と同じ仮説論理でいけば、鹿児島の福昌寺は隠れキリシタンたちの拠点であった可能性が高い。


さて小説「ヤジロウの日記」の第2章「学僧顕忍」に出てくるもうひとつのお寺「宝資山」とは、鹿児島にある光寿院東漸寺のことである。

『<仏寺> 宝資山光寿院東漸寺

地頭館より北西5町 川北にあり、本府の真言宗大乗院の末寺。
当郷の祈願所である。

開基は祢寝氏の支族・山本氏(円妙禅門・知泉禅尼)。

正龍寺由来記によると、山本某が海で大鯛を釣り上げ、腹を割いたら「黄金」がたくさん入っていた。

これを元手に根占に「東漸寺」、山川に「正龍寺」を建立した、という。

東漸寺は跡形もないが、山川港には正龍寺が今も残っている。』
(「『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座」より)
http://kamodoku.dee.cc/oosumi-rekisikouza-8.html

同じ名の寺が仙台にもある。

鹿児島で余り普及し得なかったキリスト教は、後に仙台藩で大変な発展を遂げている。
伊達政宗の家臣で、キリシタン武将の支倉常長の話はあまりに有名である。

鹿児島の東漸寺が、仙台へ引越したのだろうか。

豊後国東のキリシタンだったペドロ岐部は、インドから歩いてローマへ行きようやくイエズス会宣教師となるが、江戸のキリシタン禁制中の日本へ再び死を覚悟して布教のために戻ってくる。

長崎に上陸した岐部は、なぜか仙台で布教活動を進めていた。

そして仙台藩内で捕縛され、拷問死するに至る。
今は殉教した聖人として世界中の信者に尊敬されている。

仙台の東漸寺は、鍛冶職人の町にあった。
なぜ鉄造りの町にあるのだろうか。

『慶長末年(1614年)開創(大阪冬の陣前あたり)
藩政初期の早い段階に寺領が定まり堂舎がつくられる。
400年の歴史をもつ。

寛永頃には城下東南の地として既に発展し、荒町から南鍛冶町にかけては、曹洞四録司の中の昌伝庵、泰心院、皎林寺、法華の仏眼寺と共に、東漸寺は城下に於いて真宗の拠点寺院として重きをなし、江戸時代にあっては確固たる地位を占めていました。(参考文献、佛法山東漸寺誌)

南鍛冶町と東漸寺  
東漸寺の南を東西に通じる幹線道路が南鍛冶町です。
伊達政宗による慶長5~6(1600~1601)の仙台城下の町割でつくられたなかに元鍛治町があります。

現在のここに鍛冶職人を集めて鍛治町をつくりましたが、やがて侍屋敷をまとめるために北鍛冶町と南鍛冶町に分かれて鍛冶衆が移動しました。

やがて参勤交代で奥州道中がここを通るようになりますと、職人町と街道沿いということも手伝って南鍛冶町はより重要さを増していきました。

北山五山を中心に臨済、曹洞など伊達ゆかりの寺が多く、八塚(現在の新寺地区)などには曹洞、法華などが多く、念仏系の浄土、真宗、時宗の各宗は北山でも、八塚方面でも周辺部におかれたなかで、町人層に立脚した東漸寺は、城下東方の若林の地にあっても脈々と信仰の法灯を守り続けたことを考える時、城下の名もなき、権力もない人々によって永らえ続けたことが、今日の南鍛冶町に東漸寺ありということになったものと思われるのです。』
(「真宗大谷派仏法山東漸寺」より)
http://sekishin.info/temples/wakabayashi/touzenji/

更に、千葉県松戸市にも同じ名の寺がある。
松戸の東漸寺は、1481年の開基である。
ザビエルの来日は1549年であるから、その68年も前にできた寺である。

『東漸寺は、今から約520有余年前の文明13年(1481)、経譽愚底運公上人により、当初、根木内(この地より1キロ北東)に開創いたしました。
この後約60年後の天文年間、現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹です。

檀林となった東漸寺は、広大な境内を持ち、多くの建物を擁するようになりました。
大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展しました。

明治初頭に、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となりました。

江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇を失ってしまいました。

また、学寮およびその敷地は、地域青少年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となりました。

幕末以降の経済基盤となっていた広大な寺有田(現在の新松戸周辺)は、第2次大戦後の農地解放で失い、境内もかなり荒廃していました。

しかしながら、歴代住職の尽力により、関東屈指の多数の文化財ならびに檀林の面影を伝えてくれている境内の古木や巨木が昔のまま保存され伝えられてきたことは、東漸寺の復興に大きな力となりました。

昭和38年に、寺子屋教育の再現を目指して、東漸寺幼稚園を開設、昭和40年後半より、開創500年記念復興事業として、熱心な檀信徒の協力を得て、本堂、鐘楼、中雀門、山門、総門の改修、書院の新築平成8年に観音堂の再建を完成し、現在にいたっています。

現在では樹齢300年を誇るしだれ桜や鶴亀の松、参道の梅やあじさい・もみじなど、四季折々の自然に触れ、日本の伝統美を感ずることのできるお寺として、また、賑わいを求めて4月の御忌まつり、12月の除夜の鐘など毎年、多数の参詣者が訪れます。』
(「東漸寺の歴史 東漸寺の沿革」より)
http://tozenji.sakura.ne.jp/rekisi.html

東漸寺のある地名が、鹿児島では根占で、千葉県松戸では根木内と「根」の字を含むところがよく似ている。

西洋では根をルーツと言い、民族的な根源、先祖を意味する。

鍛冶町の人々は、一体どこからやってきたのだろうか。
東漸寺は彼ら民族の信仰の場であったのである。

製鉄技術は中近東のヒッタイトやスキタイ人が口伝して伝えてきたものと言われる。
製造法を紙に書き残すと、他民族に盗まれるからである。

やがてシルクロード(絹の道)を通って、製鉄技術はわが国へとわたってきたはずだ。

すると、鍛冶町の人々はスキタイの末裔なのか。

『スキタイは紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。
中略。

家畜
スキタイでは馬を始め、数々の家畜を飼育しているが、豚だけは飼育しておらず、生贄にも使わない。

戦争
スキタイは最初に倒した敵の血を飲む。

また、戦闘で殺した敵兵の首はことごとく王のもとへ持っていき、その数に応じて褒美がもらえる。

首は頭蓋骨から皮をきれいに剥ぎ取って手巾とし、馬勒にかけて勲章とする。

またある者は敵兵の皮をつなぎ合わせて衣服にしたり、矢筒にしたりする。

頭蓋骨は最も憎い敵に限り、髑髏杯として用いる。

年に一度、戦争で手柄のあった者はその地区の長官から一杯から二杯の酒がもらえる。
逆に手柄のないものは酒がもらえず、恥辱をしのんで離れた席に座る。』
(「スキタイ(Wikipedia)より」

織田信長は、敵将の浅井長政の髑髏(どくろ)を黄金の盃にしていた。

日本の武士たちは戦場で獲得した首の種類と数によって、戦勲を評価されていた。

首と髑髏の扱いについては、源氏平氏の末裔たちの行動に非常によく似ている。

『アッシリア碑文の記録
「アッシリア碑文」においてスキタイはアシュグザあるいはイシュクザーヤと記される(紀元前7世紀)。

アッシリア王エサルハドン(在位:前681年 - 前669年)は、マンナイの地(現:西北イラン)でマンナイ軍とマンナイを救援するためにやってきたアシュグザ(スキタイ)王イシュパカーの軍を撃ち破った。

その後もイシュクザーヤ(スキタイ)はメディアの同盟者としてギミッラーヤとともにマンナイに与してアッシリアに抵抗するが、その王イシュパカーは前673年頃アッシリアによって殺される。

ところがその翌年、エサルハドンは自分の娘をイシュクザーヤの王バルタトゥアに与えて結婚させ、同盟関係となる』

スキタイは紀元前7世紀にはアッシリアから影響を受けていたようだ。

アッシリア語で「水」のことは「ミズ」と発音し、「塩」のことは「シオ」と発音するそうだ。

どちらも、生命体を維持するために無くてはならない大切なものである。

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