川に映る空~長州(137) [萩の吉田松陰]

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H3B0541朝霧の駐車場
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SH3B0540山百合の蕾の鹿野町の清流
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SH3B0539「川が好き 川にうつった 空も好き」
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SH3B0538昨夕飛び込んだ温泉

朝靄(もや)が濃いから早朝は暗い。
しかし、山の中の朝のこの暗さは、却ってその日の快晴を約束してくれるものである。

昨夜遅く到着した鹿野町の川原の温泉の姿が、朝靄の中から浮かびあがってきた。
清流の岸辺に山百合の大きなつぼみがかすかに風に揺れている。

駐車場は川面に面していた。

石碑がある。
「川が好き 川にうつった 空も好き」

川に遊びに来た小学生が作った詩が全国の河川コンクールか何かで優秀賞として選ばれたのを記念して立てたものである。

「川面を見てそこに映っている空を発見する透明な心」を感じる。

私もそういう心を幼い頃持っていたことを思い出す。

いつの頃からそのような透き通った観察眼を失ったのであろうか。

川の汚染状態を見たり、川底の廃棄物金属の反射光を見たりするようになっている老人の目しか今は持ち合わせていない。

この詩を作った少女(?)を真似て、私も「川にうつった空」を見ようと努力してみた。

すると川面に空があるのが見えた。

詩は人の心を動かす。
詩は駄目になってしまった自分の心の実像を教えてくれる。

村田清風の死を聞いたときに、松陰は詩を作ってその悲しみを表現している。

「今日訃ヲキイテタダ錯愕ス。満窓ノ風雨、夢茫々タリ」

清風享年73歳、松陰26歳のときの別れである。

松陰は作った漢詩を読み上げ弟子たちの心を動かしたが、詩の読み方は長州方式ではなかった。
大和の「ある奇人」の用いていた「韻」を松下村塾で用いた。

それは松陰が旅をして学んだものであり、長州藩ではその韻を知るものは一人としていない。

明治になって、松下村塾の卒業生は、松陰先生の読んでいた独特の詩韻は、大和のある詩人の読み方の真似であることに気づいている。

その詩人は天狗党を鼓舞して、立ち上がらせた。

大和五条に棲む森田節斎である。

但し、鼓舞しておきながら節斎自身は逃げた。
逃げて明治まで生き延びている。

しかし、松陰は煽動しておきながら逃げるということはなかった。
むしろ煽動しつつ先頭を走って、弟子を置き去りにして死んだ。

新興宗教などでいつもそうであるが、マインドコントロールをかけた側は逃げおおせて、かけられた若者たちが罪を背負う。

宗教のマインドコントロールも音楽(韻、旋律)をよく使う。

「ショーコ ショコ ショコ ショーコ♪」の韻律をある参議院選挙の際に何度も耳にしたことを今でも覚えている。

瀬戸内へ~長州(136) [萩の吉田松陰]

SH3B0535.jpgSH3B0535山中を走る
SH3B0537.jpgSH3B0537月夜

江戸へ檻送される松陰の蝋人形を見て、これで私の萩訪問を終える。
午後4時過ぎである。

コンビニで冷やし中華そばのインスタントものを買って、駐車場で食べ旅立ちの前の腹ごしらえをした。

パンやサンドイッチ、あるいはおにぎりにすべきだった。

というのは、駐車中の車の中で食べたのだが、疲れていたのか手元が滑って容器を胸の前で傾けてしまった。

冷やし中華の甘ったるい醤油だしが、だらだらとたっぷりと私の洋服の前に流れ落ちてきた。

大慌てで車の外へ飛び出して、何とかシートへの汚染は防止できたのだが、体の背中側まで、いやズボンの中の下着まで冷やし中華の出しで濡れてしまった。

コンビニの駐車場でパンツまで着替えるのは困難だが、さりとてこのにおいをつけたまま運転をできまい。

着替えられるものは全部着替えて、パンツのみ残すこととなった。
コンビニに再び入って、トイレを借りてその中できれいな下着に履き替えた。

これで何とか臭いを断つことはできたようだ。
あとは温泉を見つけて飛び込むことである。

実は山口へ来た本来の用事は、ある実業団大会運営の応援のために来たのである。ここ萩とは反対側の海になる瀬戸内海側のある砂浜へ行くことが旅の本来の目的であった。

そのついでというか、応援業務の合間に、気になっていた村田清風とキリシタン殉教地、それに松陰との関係を自分の足で調べた次第である。

もっと調べたいことはあるが、専業作家ではないからそうも行かない。

車を再び阿武郡山中へと走らせた。

山中の景色を眺めながら、やがて日が暮れ月夜になっていった。

山陰と山陽の中間の山の中に鹿野(かの)という町がある。

ここは禅宗漢陽寺の精進料理観光で有名な町で、かなり昔に何度か来たことがある。
葉わさびの醤油漬けが私のお気に入りのお土産である。

その鹿野に温泉があると標識が出てきた。

街中で左折し4KMほど山へ入ったところの川そばに温泉があった。
かわらに駐車して温泉へ飛び込み、肌に染み付いた冷やし中華の臭いを洗い落とした。

萩のフィナーレが「冷やし中華ダシシャワー」となろうとは誰が予測できただろうか。

風呂上りに生ビールを飲み、川原の駐車場で車中泊した。

深夜にガスバーナーで味噌ラーメンを作り、空の月を見ながらおいしく食べた。

クリミア戦争の行方を知りたかった松陰~長州(135) [萩の吉田松陰]

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SH3B0528檻(おり)で江戸へ護送される松陰(松陰神社境内の蝋人形)

檻送される松陰を描いた蝋人形があった。
この竹で編んだ籠の中に捕縛されている29歳の萩の青年が、クリミア戦争のことを思っていたという。

これに反して、私たち現代日本人はクリミア戦争と幕末の日本の関係を驚くほど知らない。

当時松陰が抱いていた国家危機感の100分の一も、現代人は持ち合わせていないのである。

檻(おり)の中の松陰が知っていた事実を以下に抜粋する。

『クリミア戦争(Crimean War)は、衰退したトルコを食い物にするロシアと、ロシアの進出を嫌うイギリスやフランスとの戦いである。

その発端はトルコ領エルサレムの聖地管理権問題で、カソリック(フランス)とギリシア正教(ロシア)の宗教問題が絡んでいた。

元々管理権はフランスが持っていたが、フランス革命の混乱期にロシアに渡り、その後、ナポレオン3世がトルコに圧力をかけて取り戻した。

これに対してロシアは、トルコ領内のギリシア正教徒の保護を名目に、ロシア軍のトルコ領内進駐を迫った。

ロシアの真意は、地中海への出口確保(南下政策)だった。
イギリスやフランスはトルコを支援し、トルコはロシアの要求を拒否した。

バルカンでの戦闘  
1853年7月、ロシア軍は突然トルコ領モルドバ、ワラキアに進駐し、トルコ軍と対峙した。これに呼応してギリシャの義勇兵や反トルコ勢力が立ち上がり、マケドニアやブルガリア方面からトルコ軍を挟撃した。

苦境にたったトルコ軍を英仏艦隊が支援した。
フランス海軍は、ギリシャ向けの武器輸送船をテッサロニキで撃沈、イギリスもアテネの港ピレウスを封鎖した。

その結果、反トルコ組織は各地で鎮圧され、トルコ軍はロシア軍をドナウ以北にまで押し戻し戦線は膠着した。

同じ頃、コーカサス方面でもロシア軍が南下してきた。
要塞都市カルスをめぐる戦いが始まり、カルスへの補給基地であるシノープがロシアの攻撃目標になった。

クリミア半島
1853年11月、クリミア半島のセバストポリを出港したロシア黒海艦隊は、黒海南岸の港シノープ(Sinop)を急襲し、停泊中のトルコ艦隊を全滅させた。
また、艦砲射撃で街を焼き払い、多くの市民を犠牲にした。
各国はこの攻撃をシノープの虐殺と非難し、一気に戦争の気運が高まった。

1854年3月、イギリスとフランスはトルコと同盟を結び、ロシアに宣戦布告した。
モルドバ、ワラキアのロシア軍はオーストリアやプロシアの抗議により撤退した。
連合軍はブルガリアから北上してオデッサを攻める作戦だったが、オーストリア軍がワラキアに進駐したため、攻撃目標はロシア艦隊の基地セバストポリ(Sevastpol)となった。

1854年9月、連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。

ロシア軍は黒海艦隊を沈めて英仏艦隊の湾内突入を防ぎ、街を要塞化して連合軍を待ち受けた。』(「クリミア戦争 戦争にいたる経緯」より)
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b09_osman/crimeanwar.html

当時の日本では薩長を英国が、幕府をフランスが軍事支援していた。

ロシアがクリミア半島でどう出てくるのか、それは日本の国防戦略上とても重要な情報であった。

ロシアの軍人プチャーチンが長崎に寄航したと聞き、すぐに江戸を立って松陰は長崎へと向かった。

行動することが陽明学の基本だからである。
とにかくロシア人にあってことの事実を確かめたい。

しかし、日本の歴史では「あわてて長崎へ行こうと出発したが、ロシア軍艦が日本を去ってしまって、松陰は仕方なく江戸へ戻った」としか書かれていない。

「あわて者が結局失敗した」というニュアンスの書き方をするものさえいる。

黒船密航についても、「幕府ご法度を犯して結局失敗してつかまったあほな侍」という認識しか今の若者に伝えきれていない。

これは実際に私が25歳の若い女性に対して、「松陰の黒船密航事件についてどう思うか」と質問したときの返事である。

上の記事は英仏トルコ連合軍とロシア軍の大激突の前で終わっていた。

その年は1854年9月である。
『連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。』

同じ安政元年(1854年)、再航したペリー艦隊に松陰は萩の隠れキリシタンと思われる金子と二人で旗艦へ赴き、密航を訴えたのである。

松陰がペリーを刺殺しようとしていたという説もあるが、軍事戦略として松陰が考えた中にも「乗船して敵の大将を刺殺」というものはあっただろう。

しかし、もしそれが目的であれば、何も阿武郡のキリシタンの住む紫福村出身の足軽金子を伴う必要はないだろう。

むしろ剣客を雇うほうがいい。

ザビエルが布教した山口に程近い萩生まれの松陰は、宣教師が何をしに日本へやってきたかをほぼ正確に把握していたことだろう。

つまり、アメリカへ密航が成功したとき、アメリカという国家が日本に対して何をしたいと思っているのか、その最重要の情報を探る上でキリシタン人脈は効果的だと松陰は考えたのではないか。

萩を訪ねたあとで、私はそう思うように変わった。

アメリカのキリスト教徒も日本の隠れキリシタンも、ローマ法王のところで情報も人脈もつながっているからだ。

クリミア半島の争いがキリスト教徒のメッカエルサレムの統治権を争うものであることから、宗教問題に明るい人物による諜報活動を必要としたのではないか。

松陰は獄中において、「ナポレオン(那波列)翁による自由(フレーヘード)を求める革命」と同じことをやるべきだと、草莽による倒幕の決意を固めたのである。

『列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。

那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345

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