剣豪キリシタンか~長州(134) [萩の吉田松陰]

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SH3B0526僧月性(左)と聾唖僧宇都宮黙霖(蝋人形、松陰神社境内)

前の記事で引用した福昌寺の記事でどうしても私の心に引っかかるものがあった。
それは次の部分である。

『略。
また1870年の浦上四番崩れの際には浦上(現・長崎市)のキリシタン収容所がこの福昌寺の跡地に建てられていた。

ちなみに他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、ここの待遇はかなり良かったらしく、後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのはこの浦上のキリシタンであった。』(福昌寺 (鹿児島市)(Wikipedia)より)

大山 綱良(おおやま つなよし)は、西郷の西南戦争準備を後押しした鹿児島県令(知事)である。

大石内蔵助に向かって吉良邸へ押し入って強盗殺人をやれやれ、と囃し立てたのは、歌舞伎忠臣蔵では松浦侯である。

モデルは、松浦侯・肥前平戸藩6万3000石の藩主・松浦鎮信である。

あるいは堀部安兵衛親子である。

西南戦争の準備期に、それとよく似た役割を大山綱良が果たしたように私には思われる。

つまり、西郷に新政府と戦争をしろとせっつく役目を果たした人物である。

その大山は西南戦争後に連座の罪により斬首されたことまでは知っていたが、葬儀を浦上のキリシタンが行ったことは知らなかった。

そのことが福昌寺 (鹿児島市)(Wikipedia)の記事に書かれているということは、鹿児島でのキリシタンの隠れた信仰拠点が福昌寺であったことを暗示しているように見える。

これは、ある種の秘密の暴露に見える。
言ってはいけないことだが、つい口から出てしまうという行為ではないだろうか。

西南戦争に連座して処刑された大山の葬儀は、浦上(現・長崎市)のキリシタンたちによって行われたと書いてある。

大山はキリシタン側にあった人物だということを示唆している。
ザビエルが鹿児島で撒いた種は、明治初期の鹿児島県令にまで及んでいたのだろうか。

大山は養子先の姓であり、綱良は元「樺山」姓の薩摩藩士である。
「剣客大山」の素顔が次の記事に描かれていた。

『大山 綱良(おおやま つなよし、文政8年11月6日(1825年12月15日)~明治10年(1877年)9月30日)は、江戸時代後期の薩摩藩士、明治時代の政治家である。

父は樺山善助。養父は大山四郎助。通称は正圓、角右衛門、格之助。
大山氏の本姓は宇多源氏で、養子先の家伝では佐々木盛綱の子孫である康綱の後裔を称するが明確ではない。

文政8年(1825年)、鹿児島に生まれる(幼名熊次郎)。

嘉永2年(1849年)12月26日に大山四郎助の婿養子となる。

西郷隆盛、大久保利通らとともに精忠組に属した。

島津久光の上洛に随行し、文久2年(1862年)の寺田屋事件では、奈良原喜八郎らとともに過激派藩士の粛清に加わり、事件の中心的役割を果たした。

特に寺田屋2階には大山巌・西郷従道・三島通庸らがいたが、大山が刀を捨てて必死の説得を行った結果、投降させることに成功した。

明治元年(1868年)の戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督府の下参謀になった(もう一人の下参謀は仙台藩士に処刑された長州藩士、世良修蔵)。

大山率いる新政府軍は仙台城下で強盗・強姦などの乱暴狼藉を働き、庄内藩を討つため仙台から出陣した。

その結果、仙台藩の藩論は「会津擁護」に固まった。

大山の新政府軍は庄内戦線において、庄内藩の反撃にあい連戦連敗を喫した。
しかし、戦後、新政府から賞典禄を受けた。

長州藩で大楽源太郎が反乱を起こして敗走し、再起のために日田県庁を襲った時には新政府の命を受けて討伐軍の司令官として鹿児島から派遣されながら現地到着後に独断で軍解散を命じて木戸孝允らの怒りを買い、西郷隆盛が詫びる騒ぎとなっている。

新政府では廃藩置県後に鹿児島県の大参事、権令(県令)となる。

だが、これは旧藩と新府県の関係を絶つために、新しい府県の幹部には他府県の出身者をもって充てるとした廃藩置県の原則に反する特例措置であった。
大山は島津久光の意を受けて西郷らを批判した。

明治6年(1873年)に征韓論争から発展した政変で西郷らが新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると、私学校設立などを援助し西郷を助けた。

その後、大山が県令を務める鹿児島県は新政府に租税を納めず、その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈した。

明治10年(1877年)に鹿児島で西郷らが挙兵した西南戦争では官金を西郷軍に提供し、西郷軍の敗北後、その罪を問われて逮捕され東京へ送還、のち長崎で斬首された、享年53。

墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。

剣の達人
大山は薬丸兼武及び子の兼義に薬丸自顕流の剣術を学んだ。
薬丸門下の高弟中の高弟であり、奥伝である小太刀を極め、飛鳥のように跳びかかって相手を打ち倒したという。

藩中随一の使い手といわれた。

江戸にて刀を用いた大道芸人を見物していたところ、大山が手練であることを見抜いた直心影流の長沼笑兵衛(恂郷)に道場に招かれた。

長沼の要請で大山は師範代と立ち会うことになった。
防具をつけた師範代に対し、大山は素面素小手で木刀一本を持って立会いに臨み、立会いがるや否や一撃で打ち倒した。

さらに薬丸流の技である打廻りを見せると、長沼は大変感激したという。

西郷隆盛とともに藤田東湖に会ったときのこと。
西郷は大山を剣の達人であると紹介した。

神道無念流門下であった藤田の斡旋で斎藤弥九郎道場の塾頭と試合をすることになった。

大山は例によって素面素小手。小太刀を一本持ったのみであった。
対して塾頭は防具と竹刀で臨む。

大山は立ち上がるや否や塾頭に打ち込んだ。
そこで塾頭はあまり打ち込みが早いのでもう一度試合をしてくれといったが、大山はこの道場では亡者が試合をするのかとあざ笑った。

実戦であれば一本目で決着が付くにもかかわらず、二本目、三本目と試合をすることへの皮肉である。

槍術の達人といわれた有村俊斉は鹿児島城下で次々と道場破りを行い、最後に薬丸家にやってきた。

薬丸家に代わって大山が試合に応じた。
結果大山が勝った。

有村は再戦を期し甲突川の水の中で槍突きの修行をし、三年くらい後に再びやってきた。
再度大山が立会い、やはり勝った。

有村は観念し薬丸家に入門した。

しかし有村、後の海江田信義の回顧では薬丸半左衛門(兼義)に入門したのは15歳のときとなっているので実際の相手は有村俊斉ではないだろう。

大山綱良が与えた影響
綱良が県令の時に、県庁に保存されていた薩摩藩時代の公文書を「旧弊が抜けないから」との理由で焼却してしまう。

この事件は江戸時代の火事や西南戦争とともに薩摩藩の歴史研究に弊害を与えたことが「鹿児島県史料 島津斉宣・斉興公史料集」の序章で述べられている。』(大山綱良(Wikipedia)より)

薩摩藩時代の公文書焼却には証拠隠滅の意識が働いているようだ。
「後世に知られてはまずい出来事」が幕末の薩摩藩内で行われていたことを暗示している。

「大山(綱良)が刀を捨てて必死の説得を行った結果、投降させることに成功した。」という下りは、読んだ当初は意味不明だった。

が、記事を最後まで読めば、その意味がじわりとわかってくる。

誰にも負けない腕を持つ大山(綱良)が刀を持てば、過激派の薩摩藩士であった大山巌・西郷従道・三島通庸らは皆殺しにあったはずだ。

それなのに大山(綱良)は刀を捨てて、彼らに投降してくれるように懇願したということである。

言われた方はかなわない。

私は、大山(綱良)は相当濃いキリシタンであったと想像している。
そういう視点で西南戦争を見直してみる必要があるだろう。

明治新政府は革命成功と同時にキリシタン弾圧を行っているのである。
反政府側に隠れキリシタンがいることは当然でもあろう。

仙台では世良の行状もさることながら、大山(綱良)の行状も奥州戦争勃発の触媒として作用しているようである。

よりによって、奥羽鎮撫総督府の下参謀2名に、薩長ともに危ない人物を登用したのである。

戦争をしたがっていた、というよりも日本で戦争が起きなければ破産するはずだったユダヤ資本がいたことは先に述べた。

再掲する。

『略。
しかしながら、南北戦争、クリミア戦争の終結と共に、ヨーロッパの兵器会社(ロスチャイルド系)の武器・弾薬は、上海市場に流れ込み、ロスチャイルドと縁戚関係を持つジャーディン・マセソン商会が、日本に内乱を画策し、長崎のグラバー商会を通して、また坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)をダミー会社として使い、イギリスは維新軍に武器を売りつけ、またフランスは幕府軍に武器を売りつけました。

これが、明治維新の本当の姿であります。

そして、彼らの画策に気づいた坂本龍馬は公武合体を唱え、徳川慶喜に大政奉還をうながし、内乱を避けようとした矢先に、坂本龍馬は暗殺されます。  

この時、内乱は必至とみたグラバーはジャーディンマセソン商会に大量の武器を発注してしまっており、日本が内乱に突入しないと、グラバー商会、ジャーディン・マセソン商会共に、大きな負債を抱かえてしまう問題がありました。』
(「クリミア戦争  ロスチャイルド」より)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1114.html

グラバーやジャーディンマセソン商会が、長崎や鹿児島の隠れキリシタンと近い関係にあったことは容易に想像がつく。

大山(綱良)が彼らの要請を受けて、戦争を何とか奥州で起こそうとした可能性はある。

私の調べでは世良修蔵は、浄土真宗本願寺派の僧侶、柳井の月性が三条実美の意向を受けて育てた過激志士である。

世良の親友が会津に殺されていることから考えても、世良が奥州に行けば戦争になることは木戸孝允も知っていたはずだ。

しかし、世良は徳川幕府を倒したがっていた浄土真宗僧侶の育てた青年であって、キリシタンではないように思われる。

すると、世良を奥羽鎮撫総督府の下参謀に任命した木戸孝允が隠れキリシタンと深い関係を持っている可能性が浮上してくる。

これは、あくまで可能性があるという段階である。

以上をまとめると、「大山綱良と木戸孝允が、キリシタンであった」可能性が浮上する。

神戸で捕縛された大山綱良は、鹿児島ではなく、なぜか長崎で処刑されているのだった。だから浦上のキリシタンによって埋葬されたのである。

なぜ長崎で大山を処刑したのであろうか。

『明治10年9月30日長崎で処刑、53歳。
明治7年鹿児島県初代県令(知事)となる。

西南の役に際し、軍資金、兵器、弾薬、食糧を送るなど薩軍を援助した罪により神戸で捕縛、官位をはく奪された。』(大山綱良(Wikipedia)より)

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