室積の山奥のシュロ~長州(141) [萩の吉田松陰]

SH3B0557.jpgSH3B0557光市室積の象鼻ヶ岬
SH3B0558.jpgSH3B0558室積漁港方面
SH3B0560.jpgSH3B0560簡保センターの奥へ

神が好む光を浴びて、私は光市の室積海岸沿いをやや山手へと上っていった。
郵貯簡保センターの保養所がある小道をそのまま突っ切って山の中へ入っていくと、誰も住んでいない場所にシュロの木が立っていた。

道に立つシュロの木は、そこに何かあるか、そこが大事な分岐点であることを示唆する場合が多い。

車を道端に止めて、私はシュロの木のところまで歩い近づいていった。

光市のシュロ並木~長州(140) [萩の吉田松陰]

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SH3B0554これより光市の松原
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SH3B0555交差点にシュロの木
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SH3B0556室積の信号を左折し、光市母子殺人事件現場に接近したとき見たシュロ並木

右に瀬戸の海を見ながら光市へと入る。
松原の松の緑はまだ健全である。

JR光駅を左に見て通過すると、市内の景色が昔よりも垢抜けて見える。
あとで光市に住む知人に教えてもらったのだが、最近電線の地中化を実施したそうだ。

電柱と電線がなくなると、少し欧州の町の雰囲気がかもし出されてくるような気がする。

日曜大工の店ジュンテンドー最寄の交差点に立派なシュロ木がデンと立っていた。
何度もここを通ったが、ザビエルを意識し始めてからだと思うが、初めてこのシュロの存在に気づいた。

見て知ってはいたが、意識の中には無かったといっていいシュロである。

光もシュロで神を祝う心が根付いているようだ。

千鳥橋を渡ると製鉄所が右手に広がる。
昔は光海軍工廠だったところだ。

その千鳥橋の上で、幕末に第2奇兵隊を脱走し、尾道代官所を襲撃した立石孫一郎は射殺された。
司馬遼太郎氏も短編小説として取り上げていた。

その墓石が千鳥端の東側たもとに立っているが、そこにはシュロの木は無かったと思う。

国道188号線を通って光市を突き抜けると、バスターミナル駅がある港町室積へ着く。
江戸時代までは自然の良港で海運でにぎわっていた町である。

ここを右手に曲がれば観光名所の象鼻ケ岬(ぞうびがさき)である。
そこに来島だったか来原だったか、松陰ゆかりの志士が神として祭られている話題は以前このブログに上げたが、私はそのことを知らなかった。

逆に室積の信号を左折すると、全国で有名になった光市母子殺人事件現場のアパートに至る。道路そばの第7棟の4階東側角部屋が現場であった。

そこへ向かう途中、スーパーマーケットの前に「これでもか!」とシュロの並木が登場してきた。

意識し始めてから初めて見る棕櫚並木であるが、それには圧倒された。
何度も日常見ていたものだったが、その当時はシュロの意味など考えもしなかった。

同じ信仰を持つものたちは、ここへ来たときにほっとするのであろう。
そうではない私は「ぎょっ」としている。

毛利志摩守の椰子並木~長州(139) [萩の吉田松陰]

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SH3B0548車中泊旅行の必需品「コインランドリー」
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SH3B0549徳山から光市へ向かう途中、国道2号線に並ぶ椰子並木
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SH3B0553出光や帝人プラント前の特に密な椰子並木

以前、周防に住んでいたとき、徳山市には何度も買い物にきたことがある。
朝、徳山駅で朝食をとった。

隠れたグルメスポットとして、私は徳山駅構内食堂を上げたい。
安くてうまい。
トイレのそばにあるが、おでんで一杯やって帰宅する夜勤上がりの人もまだ多い。

その後で駅の西側方面にあるコインランドリーを探し出した。
電話帳から住所を割り出し、カーナビで接近し発見した。

車中泊旅行では温泉と洗濯は必須業務となる。

さっぱりと着替えて、再び車は国道2号線へ。

以前、徳山市(市名も変わったかも)の国道2号線を走っているとシュロの木か椰子の木の並木があったが、それは今も健在である。

昔はなぜここに椰子があるのかわからなかったが、今回の萩の旅でなんとなくわかってきた。

ここ徳山は毛利志摩守の藩で、萩長州毛利藩の支藩である。
その毛利志摩守には隠れキリシタンの重臣がいた可能性が高い。

村田右中(うちゅう)はその一人であろうと推理している。

息子は鎌倉の禅寺住職「竹院和尚」となり、娘は萩の益田家へ養女に出し、杉百合助と結婚させ、家事で焼け出されていた百合助に嫁+住宅まで提供している。

そこで生まれたのが、吉田松陰である。

竹院和尚は鎌倉で松陰の密航計画を事前に聞き、それを後押ししている。

つまり、徳山という町は私の目から見ると、どうもキリシタンの色が濃い町なのである。

旧約聖書ではモーセは神をナツメヤシの枝で祝えといい、キリスト生誕後はカトリックではナツメヤシの枝を持ってイエス復活を祝う。

その日を「枝の主日」と呼ぶのはそういう意味からきている。

徳山の椰子(シュロ)並木がモーセのいう神を祝うものか、あるいはイエスの復活を祝うものかはわからない。

ザビエル来日後の習慣であれば、イエズス会つまりカトリックの習慣だと思われるが、日ユ同祖論にあるようにイスラエル12部族のひとつがシルクロードを通って日本列島に移住したというユダヤ人起源説によれば、紀元前の古代から居住していた渡来人の信仰である可能性も残る。

その場合は旧約聖書の神を祝う行為となる。

モーセは神は「光」を好むといったが、この椰子並木の南側には「出光」の石油プラントが並んでいる。

ならば、「光市」はもっとも神が好む町の名前だろう。
ここは戦前戦中まで海軍工廠があった場所である。

天皇を支える軍隊の中でも海軍はもっとも重要なものであっただろう。
戦艦大和の大砲も、そこの10トン電気炉で溶解し鋳込まれたと聞いている。

そうか、「光」の一文字を地名にしている市があったのである。

神の好む光か、イエス復活の光かで宗派が異なる可能性がある。

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