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日本刀の源流~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393468.jpgTS393468 磐井橋
TS393467.jpgTS393467 磐井川
TS393470.jpgTS393470 橋より西を見る
TS393472.jpgTS393472 橋より東を見る

芭蕉の二夜庵跡は磐井川のすぐ傍にある。
磐井川は、度々氾濫した川のようである。

磐井橋の上から東西に川面を眺める。

一関の古代に思いを馳せる。
平泉の入口にあった交易中心町である。

『原始・古代
太古の地質時代、一関地方は広大な湖になっていたが、狐禅寺付近が 削られて現在の北上川ができ、長年月をかけて北上盆地がつくられた。

日本列島に人類が住みついたのは約十万年前頃だが、この時代は土器を使用せず、石器だけを使用する生活だった。
一関ではこのころの遺跡はまだ見つかっていないが、一関市内では水口(真滝)、結渡(厳美町 山谷)、祭畤(厳美町)で一万数千年前の石器が見つかっている。

一関地方は、遠い昔から東西の政治・文化・経済の接点となっていた。
縄文中期には、東北南部の大木文化圏に属しながら東北北部の円筒文化圏の影響を受け、弥生時代にも南側から浸透してくる様相が認められている。

縄文時代の遺跡には、庄司合(山谷)、樋ノ口(厳美町)、岡山(同) 四度花山(同)、上野(同)、荷掛場(舞川)、草ヶ沢(狐禅寺)、羽根 橋(萩荘)、八起島(同)などがある。

一関は古代、磐井郡に属し、前九年の役(1051~1062)の激戦地として知られている。
この戦いは陸奥国奥六郡(現在の岩手県内陸部)を主戦場に安倍氏と源頼義・義家父子軍が戦った。

出羽山北の豪族・清原氏の参戦で源氏軍が勝利し、安倍氏は滅亡した。
その後藤原氏の東北支配下で平泉が政治・経済・文化のセンターとして栄えた。

その平泉の入り口にあった一関には、当時の文化的遺産として、泥田廃寺跡(平安末期)、延喜式内社の配志和神社と舞草神社、藤原時代の作とされる永泉寺本造聖観音立像、願 成寺の木造薬師如来像などが遺っている。

また、舞草地区には、日本刀の源流の一つともいわれる刀鍛冶にちなんだ口承や地名が伝えられているが、刀鍛冶に直接係わる場所等の特定はできていない。』
(「一関の歴史」より)
http://www.teganuma.ne.jp/ichi/rekishi/index.html

「弥生時代にも南側から浸透してくる様相」とあるが、征夷大将軍の坂上田村麻呂以降、稲作民族「大和族」が押し寄せてきたのである。

「日本刀の源流の一つともいわれる刀鍛冶にちなんだ口承や地名」が伝わるというが、東北地方が鉄の発祥地であったのであろう。

このブログでは私は東北の蝦夷、即ちアイヌ族は大陸渡来の鉄勒(テュルク)人、トルコ系騎馬民族ではないかと書いてきた。

トルコ系騎馬民族に鉄勒という漢字を当てたのは中国人であるが、馬のお面に鉄製のものを使用したからであろう。

おそらく騎馬戦闘時の槍や矢の防御のための馬具である。

陽が落ちかけている磐井川の上に立って、紀元前の一関の姿を想像している。
この川は一関城の外堀でもあったという。

廣幡八幡神社がこの奥州地域に残っているのも、奥州が製鉄技術の起源であることを感じさせてくれる。
廣幡(ひろはた)、八幡(やはた)、いずれも現在の新日鉄の基幹製鉄所の名である。

天気吉一ノ関ヲ立~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393464.jpgTS393464 墨絵の中の芭蕉翁
TS393463.jpgTS393463 奥の細道曽良旅日記抄
TS393466.jpgTS393466 奥の細道の地図板

二夜庵跡の少し手前のところに、街道左手に立派なシュロの木が3本あった。
そのことは既に書いた。
そこは「ふみしろ」というのは呉服屋であった。

呉服屋からそう遠くないところに磐井川が流れ、その橋のたもと(手前)が二夜庵跡である。
家の前に説明板がおいてある。

『芭蕉奥州路
最北の宿
芭蕉二夜庵 跡

俳聖・松尾芭蕉が弟子、曽良を伴い奥の細道行脚(あんぎゃ)の旅で一関を訪れたのは元禄二年(1689)5月12日、雨の夕暮れだった。

翌13日は平泉に遊趣し、高館、衣川、中尊寺などを巡り一関に帰る。
金森家は芭蕉翁が二宿したことから二夜庵と呼ばれるようになった。

14日はここを立ち、尿前ノ関を越えて日本海の出羽の国に入った。
詩歌俳諧の聖典『おくのほそ道』の頂点にあたる平泉の著述が、ここに宿することで編まれたことを想うと二夜庵の存在は大きい。

再建 平成11年3月 社団法人 一関青年会議所』(抜粋終り)

また石碑に「奥の細道曽良旅日記抄」が書いてあった。

『奥の細道曽良旅日記抄
元禄二年五月
十二日雲 戸今を立 安久津雨
強降ル 馬ニ乗 一リ加 
澤 三リ 皆山坂也 一
ノ関黄昏ニ着 合羽モト
ヲル也 宿ス

十三日天気明 巳ノ刻ヨリ平泉
へ赴 一リ山ノ目 高館
衣川 中尊寺 光堂 秀
平やしき等を見ル 申ノ上刻帰る 主 水風呂敷
ヲシテ待 宿ス

十四日天気吉一ノ関ヲ立』(抜粋終り、「刻(こく)」の字は当用漢字に換えて記載した)

二夜庵跡~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393460.jpgTS393460夕暮れの」一関宿
TS393461.jpgTS393461この先が武家住宅のようだ
TS393465.jpgTS393465松尾芭蕉「二夜庵跡」

夕暮れの一関宿の写真には案内標識が写っている。

「旧沼田家武家住宅」は左方向だと示している。
中街通りも左にある。

一関わが街ガイドに「旧沼田家武家住宅」の説明があったので抜粋する。

『江戸時代後期に一関藩家老職を勤めた沼田家の住宅です。
創建は18世紀の初頭から中頃と推定され、約三百年の歴史を有していて、付近を流れる磐井川のたび重なる水害にも倒壊することなく今日に至りました。

一関市教育委員会文化振興課 
休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始
公開時間
9:00~16:00(4月~10月)
10:00~15:00(11月~3月)
入館料 無料
住所 一関市田村町2-18
交通 JR一ノ関駅より徒歩5分 』
(「旧沼田家武家住宅」より)
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,4321,111,77,html

沼田家は、一関城主田村氏の家老だった。

『沼田家は一関藩家老を勤めた家柄です。
城主である田村家の陣屋に程近く、外堀内部に配置されている事から「内家中」と呼ばれ、一般の足軽や商人達と区別されていました。

外掘にあたる磐井川は度々叛乱し、特に昭和21・22年に襲ったカザリン・アイオン台風は城下町の風情が残る町並みを一掃し、一関が近代的な町になるある意味で起点となりました。

その中で、旧沼田家住宅は幕末に建てられた当時の原型を留めていて、当時の一関藩上級武士の生活を知る上で貴重な存在となっています。

一関藩は三万石と言われていますが実石では二万三千石程度だったと言われ、財政面では常に逼迫した状態にあり、家老職を務めた住宅であっても破風付な玄関など華美な装飾がなく極めて質素な形態を取っています。

又、間取り的には同じ岩手県で伊達領の要害が置かれた金ケ崎の武家屋敷で見られるような座敷が道路側でなく奥に配置されているのが特徴的です。

道路側に座敷を配置するといのは、藩主(城主)が道路を通った時逸早く出る事が出来る事や、外部の侵入者に対して有利とも言われていますが、逆に土間や玄関が手前にある事は利便性に長け実用的だったとも考えられます。

一関藩では学力に力を入れ、多くの学者を輩出していますので、より合理的に考える藩風があったのかも知れません。』
「一関市・観光・歴史・名所 」より)
http://www.iwatabi.net/morioka/itinoseki/buke.html

武家住宅への路地をのぞいてみるだけに留め、私は街道を先へ進むことにする。

もう日が暮れかけているから、今夜のテント宿泊地を探さねばならない。

街道に古風であるが新しい木造住宅があった。
家の前に墨絵を書いた石の板が置いてある。

普通の住宅ではないなと感じたので、10mほど後戻ってみると、そこには「漂白の詩人 松尾芭蕉「二夜庵跡」」と書いてあった。
ここに芭蕉が宿泊したのである。

牛縊(うしくびる)~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393456.jpgTS393456 「ふみしろ」の横にシュロの木
TS393457.jpgTS393457 手前に2本、奥に1本シュロがあった
TS393458.jpgTS393458 「この先田村町電線地中工事のため・・・」

「ふみしろ」というひらがの看板がある。
その建物の横にシュロの木が見えた。

それで一度立ち止まって5~6mほど後戻りしてみた。

見る位置が変われば樹木の本数が変わることがあるからだ。
「ふみしろ」の横には街道沿いに2本シュロの木が植えられていて、さらに奥のほうもう1本シュロの木があった。

歩道に工事中の看板があった。
「この先田村町電線地中工事のため・・・」と書いてある。

この先が「田村町」だそうだ。

「奥州街道 肘(ひじ)曲がり坂」の案内板「磐井郡鬼死骸村を通り田村氏の城下町一関に至る」と書いてあった。

ここ一関宿は田村氏の支配する宿場だった。
そして田村氏とは、坂上田村麻呂の末裔である。


『田村氏(たむらし)は陸奥国の田村郡を支配していた戦国大名。
豊臣秀吉の奥州仕置により改易となるが、後に仙台藩伊達家の内分分家大名として再興される。
明治以降は子爵となり華族に列せられた。

出自
平安時代、桓武天皇より征夷大将軍に任命されて蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂を祖とし、その子孫が代々田村郡を領してきたとされる。

だが、応永期までの田村庄領主であった田村庄司家は藤原姓であり、それ以後に田村庄司職を奪取したとみられる三春田村氏は、田村義顕が大元帥明王社に奉納した大般若経に平義顕とあり、同様に田村清顕発行文書には平清顕とあることから、平姓と考えられる。

その一方で両田村氏とも坂上氏の後裔と称しており(田村庄司家は鎌倉大草紙、三春田村氏の場合は家譜類に見える)、田村郡の領主は坂上氏の末裔でなくてはならないという伝統があったと考えられる。

それはこの地における支配の正当性を示すものであり、徳川氏が三河国の領主としての正当性を示そうと河内源氏を称したのと同種であろう。

中略。

伊達政宗と田村仕置
郡山合戦に勝利した伊達政宗は三春城に入城、清顕後室を船引城に隠居させ家中相馬派を一掃した。

そして、清顕の甥である田村孫七郎を三春城主に据え、宗の一字を与え田村宗顕と名乗らせた。
宗顕の父は清顕の弟氏顕であり、清顕と同母であるため、宗顕も伊達氏の血を引いている。

これら伊達政宗による一連の相馬家の影響力排除を「田村仕置」と呼ぶ。

なお、これによって田村氏が伊達家中に含まれたわけではない。

伊達氏の影響力が強まり、また宗顕も田村家中も政宗へ依存したことは事実である。
しかし、宗顕は政宗と愛姫の子供が生まれるまでの「名代」とされており、中継相続人として期間限定的に田村家の家督を継いだと考えられる。

このことから、伊達家の与力的な立場ではあるが、あくまでも独立領主としての地位を保持していたと考えうるのである。

奥州仕置による改易
宗顕は1590年、豊臣秀吉の小田原の役に参陣せず、奥州仕置によって改易された。
田村領は政宗に与えられた。これは、田村家の家督は清顕より渡され自分にあるとした伊達政宗が宗顕の参陣を止めさせたためであり、結果的に政宗は奥州仕置を利用して田村領を乗っ取った形になった。

この政宗の裏切りとも思える行為に宗顕以下田村家中は失望、憤慨した。

宗顕は改易後、政宗の庇護の申し出を断り、牛縊定顕と名乗り隠棲した。
なお、宗顕は後に愛姫の意向により仙台藩領白石に身を寄せ白石城主片倉景綱の姉・片倉喜多の名跡を継いだ。

改易後の旧田村家中
伊達政宗は田村家中を伊達家中として召し抱えようとしたが、乗っ取られた形となった田村家中の政宗への不信感と反発は強かった。 そのため、彼らの多くはこれを断り蒲生氏や上杉氏、相馬氏などに仕官するか、旧知行地に帰農した(のちに蒲生家の改易や上杉家の減封によって浪々し、伊達家に仕官する者もいた)。

帰農したものは近世に至って庄屋に任ぜられるなど、村落特権層を形成し、郷士や在郷給人といった待遇を受ける者もいた。実際、近世三春藩の庄屋層は田村氏の一族や家中館主の後裔と思われる者が多数を占める。なお、家中館主配下の地侍の流れを汲むと思われる者は領内の上層農民にみられる。

また、合戦の敗北による断絶ではなかったため、帰農した旧田村家中とその子孫は敗北感を持たず、剛腹で武勇に富み、村民から「御屋形様」などと呼ばれた。彼らはその高い誇りゆえに、新領主の蒲生氏や上杉氏の武威の前にも容易には下らなかったという。そこで新領主は旧田村家中を庄屋に任じ在郷の士分として扱い懐柔した。そのため、彼らは在地の実力者として大いに権勢を誇った。

しかし、それによる弊害も多く、秋田氏の入封後は平庄屋の苗字帯刀の禁止と持高の制限を行い、地侍的性格を否定した。一方で藩命により転村することも多く、支配の末端に属する藩の下級官吏的な面が強く残った。

庄屋層の中でも新田開発や献金、役儀精勤の者、特に由緒のある者、割頭(大庄屋)は在郷給人に列せられた。在郷給人は給地や苗字帯刀御目見えの特権を与えられ、臨時の軍役が課せられることもあるなど、士分に準じた郷士待遇であった。

これらの背景から帰農した旧田村家中の子孫は、士分的意識を持ち続けることが多かった。

なかには大名家への仕官を試みる者もおり、農商の世界に浸りきれなかった彼らの心情が表れているといえよう。
なお、明治初期の版籍奉還を前に、三春藩は在郷給人・郷士制度を廃止したため、これらの待遇を受けていた旧田村家中の子孫は士族とはならず、平民籍となった。

伊達家による田村氏の再興
その後、愛姫の遺言により伊達忠宗の三男宗良が1652年岩沼3万石を分知され、田村宗良を名乗って田村氏が再興される。

後に一関に移り一関藩となった。

この近世大名田村氏は伊達62万石の内に3万石の領地を分与された内分分家大名であったが、幕府に対して直接公役を果たし、譜代大名格となる。

なかでも一関初代藩主(近世大名田村氏としては二代)田村建顕は、奏者番として江戸城に出仕し、浅野長矩の刃傷事件に際してその身を預かり、邸内で切腹させたことでも有名である。再興された田村氏は幕末まで一関を領し、明治以後は華族令によって子爵に列せられた。
』(田村氏(Wikipedia)より)

坂上田村麻呂から始まって漸く一関初代藩主田村建顕が登場してきた。
それだけ田村氏の歴史は権力闘争に明け暮れていたということだろう。

アイヌ族の中へ植民地政策で入り込んできて、いきなり田村麻呂の末裔だから領主様だといってもなかなか国人たちの了解を得にくかったのだろうか。

奥州仕置による改易の際に、政宗は奥州仕置を利用して田村領を乗っ取った。
この政宗の裏切りに憤慨し、田村宗顕は政宗の庇護の申し出を断り、牛縊定顕と名乗り隠棲したという。

「牛縊(うしくびる)」という姓を名乗ったところが面白い。

おなじ「くびる」でも「括る」という漢字を当てれば「ひもなどでくくり締める」という意味になる。
しかし「縊る」という感じを当てれば、それは「首を絞めて殺す」という意味になる。

アイヌ族は馬の文化である。
トルコ系などの騎馬民族の血が入っているのかもしれない。

一方、弥生人、とりわけ大和族は稲作や輸送には牛を用いる。

京都祇園祭の牛車はその象徴である。

「牛の首を絞め殺す」と名乗った田村宗顕は自らを馬の文化と思っていたのではないかとふと思った。

伊達政宗を牛とみなしていたとすれば、伊達家は大和族から奥州へ植民してきた大和族の末裔なのかもしれない。

坂上田村麻呂も大和族の征夷大将軍としてやってきたのだが、奈良の坂の上に住む帰化人であった。

ただ田村麻呂の後裔を名乗る田村氏も歴史の中では姓を剥奪してものもいるようなので、果たしてどこまでが奈良の坂上の末裔かははなはだ疑問がある。

肉食が許されるようになった明治以降、牛タンが仙台名物となったことは、伊達政宗あるいは伊達家が牛を多用する民族だったことと関係あるのかもしれない。

福島県郡山市の中田町に「牛縊本郷」という地名がある。
「うしくびる」と読むのだろうか。

茨城県筑波郡にも牛縊村という地名があるが、この二つの地には「田村宗顕の憤慨」が伝播したのかもしれない。

蔵のある道~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393453.jpgTS393453 「トップウェルネス一関」の看板(左端)
TS393454.jpgTS393454 整備された歩道
TS393455.jpgTS393455 一関宿の蔵のある旧道

「トップウェルネス一関」の看板が交差点の左端に立っている。

『ペアーレ一関(一関社会保険健康センター)が『トップウェルネス一関』に変わりました!
 地域のみなさんが健康的でキラキラ輝く(=ウェルネスな)人生を過ごせますように、常時100種類以上の講座を開講しております。プールとジムは一般利用も行っております。』
(「トップウェルネス一関」より)
http://top-wellness.jp/ichinoseki/

市の保健福祉施設のようである。

行政も横文字を多用する時代になったので、ときどきなんだろうかと面食らう。

歩道は左側だけ広く整備されている。

蔵のある古風な街道に出てきた。

一関の観光案内~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393450.jpgTS393450 「錦町水天宮通り」の標識
TS393451.jpgTS393451 赤い実
TS393452.jpgTS393452 「地主町通り」「蔵のひろば」

案内標識が歩道に出ている。

標識にはこう書かれていた。
「錦町水天宮通り」
「蔵のひろば」
「浦しま公園」
「一関文化センター」

そして楓の葉色に良く似た木に、赤い実が沢山なっていた。

もう一つの標識はこういうものもあった。

「地主町通り」
「大町通り」

「地主町通り」や「蔵のひろば」には財力を誇る庄屋や商家が並んでいたのろう。

楓とカトリック~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393447.jpgTS393447 楓並木
TS393448.jpg 平泉へはこの先を左へ
TS393449.jpgTS393449  左折して平泉へ向かう

北日本銀行の辺りから商店街の両側に楓の木が並んでいた。

私は楓の並木を見て、カトリック教徒の存在を感じている。
私だけはそう感じるのかも知れない。

しかし、カトリック教徒には明らかな意味が伝わっているはずだ。

楓の木で師弟の契りを結んだ長州人がいる。

吉田松陰と高杉晋作である。

楓の木が両者に深く関係していることは、その墓所を訪ねればわかる。
世田谷の松蔭の墓の左手には大きな楓の木がある。
晋作の墓は下関の東行庵の裏山にあるが、そこは紅葉谷という。
楓で山全体が包まれている。

楓の並木を歩きながら、おそらくこの左手に一関カトリック教会があるのだろうと推測した。
あいにく訪ねる予定はないが、足が丈夫であったならば訪ねるべき場所だと思う。

秋田の涙のマリアの庭園の隣にある『子羊の庭園」を歩けば、これとおなじ光景がある。
秋田のその楓並木が行き着いた先には、小さな小屋が道をふさぐように建っている。

中に入ると見上げるほどの高い位置にイエス・キリストの磔像が掲げられていた。

腕や足に打たれた釘穴から流れ落ちる赤い血は、まさに楓の葉の色であった。

スペイン宣教師ソテロは伊達政宗の保護を受けて東北布教で実りを上げたが、家康のカトリック嫌い(プロテスタント好き)のために最後は火あぶりの刑で死んでいる。
支倉常長をローマへ引率したころが、ソテロの人生の頂上だったのだろう。

『仙台藩主・伊達政宗との知遇を得、東北地方にも布教を行った。

1613年(慶長18年)、布教が禁止され捕らえられるが伊達政宗の助命嘆願によって赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとともにヌエバ・エスパーニャを経てヨーロッパに渡る。

エスパーニャ王、ローマ教皇パウルス5世に謁見し日本での宣教の援助を求めるが目的を達せず1617年、エスパーニャを発ちヌエバ・エスパーニャ経由でフィリピンに入り、マニラで日本に渡る機会を待って1622年(元和8年)、長崎に密入国したが捕らえられる。

この際も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、1624年(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教した。』(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)

商店街の外れに近づくと、「平泉へはこの先を左へ」と示す交通標識が現れる。
左折して、義経の第二の故郷、平泉へと向かう。

TOKEI&HOSEKI~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393444.jpgTS393444夕暮れ前の一関宿
TS393445.jpgTS393445懐かしいローソンの看板
TS393446.jpgTS393446大町銀座のTOKEI&HOSEKI店
ルイスソテロ.jpgローマで支倉常長らと語らうルイス・ソテロ(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)

夕暮れ前の一関宿を歩いている。
整備された商店街だが、歩く人影はまばらだ。

大町銀座「TOKEI&HOSEKI」店の看板が目立つ。

英語ではない。

英語なら、「Watch &Juerry」である。
つまり英語圏の人間に知らせるための看板ではない。

戦国時代に、イエズス会が日本布教のために同行したのは火薬と鉄砲商人たちである。
彼らは主にポルトガル人である。

のち江戸時代にポルトガルはスペインに併合され、日本国での布教にスペイン人宣教師が多く関わってくる。

仙台の伊達政宗はカトリック教徒である支倉常長をメキシコや欧州へ派遣したが、支倉を支えた宣教師はスペイン人ソテロだった。

『ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574年~1624年)はエスパーニャ・セビリア生まれのフランシスコ会宣教師である。』(ルイス・ソテロ(Wikipedia)より)

ローマ字で時計や宝石を売っている店であることを示す必要があったのは、ここ一関の商売の相手がポルトガルやスペインの商人たちであることを物語っている。

その長い伝統が現在の商店街の看板に残っている。

「大航海時代にヨーロッパ勢力は、世界各地に植民地をつくっていた。

植民地活動で先行していたのはカトリックのエスパーニャ、ポルトガルであり、太平洋地域に於いてエスパーニャはフィリピンを植民地としてマニラ・ガレオンなどで多くの利益を上げ、ポルトガルはマカオを拠点にしていた。

一方、植民地活動で遅れをとっていたプロテスタントのイギリス、オランダも、遅れを取り戻すべく積極的な活動をしており、徳川家康は、オランダの商船リーフデ号で豊後国(現大分県)に漂着したイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦安針)を外交顧問としていた。

こうした状況のなか、慶長14年(1609年)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴが上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、慶長16年(1611年)には答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがエスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて来日した。

しかし徳川家康は、エスパーニャ側の要求であるカトリックの布教を許せば、それをてこにして植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかった。

そして、伊達政宗は仙台領内において、セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船サン・フアン・バウティスタ号を建造した。

伊達政宗はルイス・ソテロを外交使節の正使に、家臣・支倉常長を副使に任命し、ソテロや常長を中心とする一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)、エスパーニャ(スペイン)、およびローマへ派遣した。

使節の主目的は仙台藩とスペインの通商交渉であったと言われる。』(「慶長遣欧使節(Wikipedia)」より)

徳川家康は布教を強制するカトリックに対して脅威を抱いていた。
だからプロテスタントのオランダと長崎で独占貿易を行ったのである。

日本の歴史の選択には、世界における宗教の選択が大きく関わっているのだが、日本の教科書ではそのことを殆どすべて省略して教えている。

この看板が「Watch &Juerry」に架け替えられたときには、一関がプロテスタントの支配地域になったことを示すのであろう。

一関宿~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393440.jpgTS393440 八幡宮の鳥居
TS393442.jpgTS393442 一関駅前
TS393443.jpgTS393443 一関駅

八幡宮の鳥居が左手に見える。
一関八幡神社であろう。

「一関駅前」の標識が見えてきた。
右手を見ると、遠くの駅舎が見える。

さきほど京都妙心寺のことを考えていたから、その流れでこの大きな宿場にもカトリック教会があるのではないかと思った。
調べると一関から約500北を左に曲がったところに教会があることがわかった。

明治時代になっても、切支丹へのさまざまな抑圧は続いていたはずであるが、ここは明治35年の設立だから、意外と早い。
江戸時代からカクレキリシタンたちが住んでいた可能性があるだろう。

NHK大河ドラマの龍馬伝に出てくる長崎丸山芸者お元さんのような日本女性が宿場の旅籠で働いていたのかもしれない。

『一関教会は1902年(明治35年)にパリ外国宣教会の司祭により小教区が設立された。

1948年(昭和23年)進駐軍より譲り受けたカマボコ型兵舎を改造して聖堂とした。
1949年(昭和24年)12月ドミニコ会からスイス・ベトレヘム外国宣教会の司牧へ変わり、1952年(昭和27年)、新しい聖堂が完成し現在も大切に使用されている。

1975年(昭和50年)ベトレヘム外国宣
教会から、教区邦人司祭に移行し現在に至っている。

現在の主任司祭は佐藤守也師。聖堂内にはスイス・ルツェルン市アンセルモ・ローネル氏より寄贈のあった美しいマリア像が設置されている。
また教会の窓にはカルペンティール神父(ドミニコ会)制作の十字架の道行きのステンドグラスが設置されている。』
(「カトリック一関教会 聖寵の聖母」より)
http://www.sendai.catholic.jp/c%20ichinoseki.htm

パリ外国宣教会とは、戦国時代に設立されたイエズス会のことではないだろうか。
カトリック教会の元になる活動が江戸時代に一関であったとすれば、ペドロ岐部も一関を訪れているはずだ。

日が暮れなずむ一関市街を通過し、今夜の寝床を探さなければならない。
だから一関教会へも寄れないが、夕方に見学する仕組みもないだろう。

切支丹と妙心寺の縁~奥州街道(4-204) [奥州街道日記]

TS393436.jpgTS393436 「大慈山祥雲寺」の駐車場 
TS393438.jpgTS393438 岩手は新沼謙治の
TS393439.jpgTS393439 「一関運動公園は左へ」の標識

祥雲寺(Wikipedia)の記事によれば、その名の寺は全国に存在している。
曹洞宗と臨済宗が混在しているのが興味深い。

『祥雲寺(しょううんじ)

岩手県一関市にある臨済宗の寺院。大慈山祥雲寺。 - 祥雲寺 (一関市)
栃木県宇都宮市にある曹洞宗の寺院。戸祭山祥雲寺。 - 祥雲寺 (宇都宮市)
東京都豊島区池袋要町にある曹洞宗の寺院。瑞鳳山祥雲寺。 - 祥雲寺 (豊島区)
東京都渋谷区広尾にある臨済宗の寺院。瑞泉山祥雲寺。 - 祥雲寺 (渋谷区)
山口県周南市にある曹洞宗の寺院。瑞龍山祥雲寺。 - 祥雲寺 (周南市)
山口県岩国市にあった臨済宗の寺院。宝山祥雲寺。 - 祥雲寺 (岩国市)
沖縄県宮古島市にある寺院。 - 祥雲寺 (宮古島市) 』(祥雲寺(Wikipedia)より)

沖縄だけは宗派の記載がないのも面白い。

ここ一関市にあるのは、臨済宗妙心寺派「大慈山・祥雲寺」である。

妙心寺派と聞くとキリシタンのことを思い出す。
京都の本山妙心寺である。

キリシタン大名牧村利貞の実の弟が雑華院という塔頭(たっちゅう)の住職を勤めていた。

『塔頭(たっちゅう)は、本来、禅寺で、祖師や大寺・名刹の高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)、または、その敷地内に建てた小院である。』(「 塔頭(Wikipedia)」より)

牧村は朝鮮戦争の帰路病死し、その遺児お奈(おなあ)は前田利家の養女となって加賀へ渡る。
お奈の弟は不審な暗殺死を遂げている。

将軍家光の禅の講師役として大奥に上がったお奈だったが、女中たちに「お奈さんの教えは切支丹の教えだ。」と将軍へ讒言される。

あわてたお奈は、京都の本山妙心寺の雑華院へ駆け込み頭を丸める。
得度を受けて臨済宗の尼となり、祖心尼を名乗り、再び大奥へ復帰を果たしている。

戦国時代、鉄砲と火薬欲しさに織田信長が京都でイエズス会にキリスト教の布教を許し、南蛮寺が建てられた。
のち豊臣秀吉により切支丹は迫害を受け、南蛮寺も廃止された。

秀吉の時代には鉄砲の国産化が本格的になっていて、ポルトガルへの依存度が下がったのではないか。
それでも火薬だけは硝石がないため国産化できず、外国商人から買わなければならなかった。

ポルトガルで鋳込まれた南蛮寺のその「梵鐘」は、京都の本山妙心寺境内に保管されている。
普通なら異教の寺にあった鐘は鋳潰すはずだが、京都に残すという「心」が妙心寺にあったことが興味深い。

だから私は『妙心寺」と聞くと、すぐに切支丹のことを思い出す。

一関の「大慈山・祥雲寺」は臨済宗妙心寺派であるが、だから切支丹だというつもりはない。
本山には信長の時代の切支丹南蛮寺との縁があるという話である。

秀吉の時代から迫害を受けた切支丹であったが、宣教師たちが表面上は京都を去るにあたって、おなじ宗教法人として
暖かく引き取ってあげたということも考えられる。

上に抜粋した祥雲寺(Wikipedia)の記事を見ると、「祥雲寺」という名前の寺が二つあるところは、きれいに宗派が臨済宗と曹洞宗に分かれていることがわかる。東京都と山口県である。

山口は、ザビエルが日本上陸してから周防の大名大内義孝の許しを得て、初めて大々的に布教したところである。
ただ山口市には祥雲寺がなく、瀬戸内海に面した岩国(東)と周南(西)にあるのが特徴的である。

東京では豊島区と渋谷区という若者が集積する町に置いてあるのが興味深い。
案外、お年よりも多い町なのだろうか。

一関の祥雲寺は見ていないが、その駐車場の前を通過する。

街道傍の車庫の壁に歌謡ショーのポスターが貼ってある。
岩手は新沼謙治のふるさとであるから、彼が大きく描かれている。

「一関運動公園は左」の標識が見えた。
日が暮れかけていたら、私は左へ行っただろう。
大体そこには広い芝生があり、テントを張るには好適地であるからだ。

しかし、まだ空は明るい。

このまま一関市街を通過していこう。
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