火石輪神社~奥州街道(4-208) [奥州街道日記]
TS393486配志和神社から飛び出してきたジョギング中の人
TS393487平泉へ(左厳美渓、右陸前高田)
薄暮の中、神社の鳥居のそばからジョギング姿のおじさんが飛び出してきた。
その神社の名前であるが、「配志和神社」とはどう読むのだろうか。
岩手県一関市山目字舘にある式内社で、古くは陸奥國磐井郡の配志和神社というそうである。
御祭神は、「高皇産靈神 瓊瓊杵尊 木花開耶姫命」である。
靈神の「」は、旧字体、所謂繁体字というそうで、訓読で「たま」、音読で「レイ」、「リョウ」と読むという。中国語では、「ling2」(リン)と読む。
高皇産靈神は「タカミムスビノカミ」と読む。
『タカミムスビは、日本神話の神である。
『古事記』では高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、『日本書紀』では高皇産霊神(タカミムスビノカミ)と書かれる。
葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。神社の祭神としては高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)などとも書かれる。
別名の通り、本来は高木の神格化されたものを指したと考えられている。
「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である。
『古事記』によれば、天地開闢の時、最初に天御中主神が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすび)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神という神である。子に思兼神(おもいかね)、栲幡千千姫命がいる。
天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ、人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。この造化三神のうち、神皇産霊神・高皇産霊神は、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿で祀られた。
高皇産霊神は、『日本書紀』では、天地初発条一書第四に「又曰く~」という形式で登場しているに過ぎない神であり、その他では巻十五の「顕宗紀」において阿閇臣事代が任那に派遣され壱岐及び対馬に立ち寄った際に名前が登場する程度ではある。 また、『延喜式』「祝詞」・「出雲国神賀詞」には、「神王高御魂命」とされている。
神話での行動
天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほみみ)が高皇産霊神の娘栲幡千々姫命(たくはたちぢひめ)と結婚して生まれたのが天孫瓊々杵尊であるので、タカミムスビは天孫ニニギの外祖父に相当する。
天津国玉神の子である天稚彦(あめのわかひこ)が、天孫降臨に先立って降ったが復命せず、問責の使者・雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を射殺した。それが高皇産霊神の怒りに触れ、その矢を射返されて死んだという。
『古事記』では神武天皇の熊野から大和に侵攻する場面で夢に登場し、さらに天照大神より優位に立って天孫降臨を司令している伝も存在する。』
(タカミムスビ(Wikipedia)より抜粋)
本来は高木の神格化されたものを指し、「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、「創造」を神格化した神であるというが、高木神(タカギノカミ)、それは「無から糸を算出する蚕の化身」のことではないだろうか。
ふと、そんなことを思った。
お一人の神様のことを調べるだけでも、これだけの行数がかかる。
さて、ここでの本題はこの「配志和神社」の読み方でああった。
『景行天皇の御代、日本武尊により創祀されたといわれる神社。
火石輪が変化して配志和となったとされている。
火石輪がどういう意味かわからないが、烽火を囲んだストーンサークルのようなものだろうか。』(「配志和神社」より)
http://www.genbu.net/data/mutu/haisiwa_title.htm
「ひいしわ」が「はいしわ」に転化したもののようであるが、事実はわからない。
もっと深い深い歴史の謎が含まれている可能性もある。
古代日本人は自分たちのことを「わ」から来たと言った。
魏志倭人伝にそう書いてある。
「お前たちはどこから来たか?」
「『わ』から来た。」
このやりとりから、古代中国人たちは彼らを「わ」人、蔑視した当て字を当てて倭人と称したという。
井沢元彦著「逆説の日本史」を読むと、この「わ」を井沢氏独自の解釈をしている。
「環」または「輪」であろうという。
環濠集落では住む形態も、先祖の墓の形態も環状を持って形成していたために、環もしくは輪の状態の集落全体を「わ」と称したものであろう。
北九州では朝鮮半島人と北九州人が海上で混血化していったことが想像されるので、私は韓国語の読みを調べてみた。
韓国語で「わ」と読む文字に「輪」があることを知った。
それで私は「輪人」であると想像した。
後日、あるサイト記事で吉田松陰の叔父さんで松下村塾の創設者である玉木文之進のことを調べていると、玉木家は古くは環(たまき)家であり、大内義隆滅亡時の遺児の末裔であると書かれていた。
当の環家末裔の人物が祖父母から聞き伝えられた話を書いていた記事だった。
周防の大内義隆の祖先は多々良家であり、韓国からの渡来人であることはほぼ間違いない。その末裔が環(たまき)家を名乗ったことは、北九州と朝鮮半島南部を往来していた有力な一族が「環」(わ)ではなかったのかと思われる。
北九州から魏の国へわたった古代日本人は、南朝鮮と北九州を根拠地とするバイリンガル(二ヶ国語民族)である環(わ)人だったのではないだろうか。
玉木文之進は松蔭の生まれた吉田家から玉木家へ養子にいき、松下村塾を創立し、甥の松蔭を過酷な教育によって鍛え上げたのである。
その吉田松陰の教え子たちは、やがて徳川政権を転覆し、明治の天皇中心の政治社会を再構築したのである。
明治維新とは、古代から続く「環」一族の復権でもあったのだ。
話が逸れたが、火石輪(ひいしわ)とは貴重な火打石を環状に並べたものを指すよう思われる。
火石といい、輪(環)といい、古代日本人の存在を色濃く示す神社名である。
北九州に上陸した環人たちは、岩手山のふもと、宮城山福松生誕の地辺りまで北上してきたのであろうか。
何かの宗教的政治的配慮からいつの時代か配志和神社と改名しているが、「わ」の音から和を用いて輪(環)のイメージを消している操作の跡を私は感じる。
古代のこの国の原住民であった環人(輪人)ではない一族の仕業による改名のような気がする。
なぜならば輪もしくは環のイメージが破壊されてしまっているからである。
音の「わ」を残したのは、せめてもの意地なのであろうか。
道路のトラックなどが前照灯をつけ始めた。
かなり暗くなってきたようだ。
交通標識に「平泉(左へ厳美渓、右へ陸前高田)」が見えてきた。
源義経終焉の地へと近づいている。
TS393487平泉へ(左厳美渓、右陸前高田)
薄暮の中、神社の鳥居のそばからジョギング姿のおじさんが飛び出してきた。
その神社の名前であるが、「配志和神社」とはどう読むのだろうか。
岩手県一関市山目字舘にある式内社で、古くは陸奥國磐井郡の配志和神社というそうである。
御祭神は、「高皇産靈神 瓊瓊杵尊 木花開耶姫命」である。
靈神の「」は、旧字体、所謂繁体字というそうで、訓読で「たま」、音読で「レイ」、「リョウ」と読むという。中国語では、「ling2」(リン)と読む。
高皇産靈神は「タカミムスビノカミ」と読む。
『タカミムスビは、日本神話の神である。
『古事記』では高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、『日本書紀』では高皇産霊神(タカミムスビノカミ)と書かれる。
葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。神社の祭神としては高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)などとも書かれる。
別名の通り、本来は高木の神格化されたものを指したと考えられている。
「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である。
『古事記』によれば、天地開闢の時、最初に天御中主神が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすび)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神という神である。子に思兼神(おもいかね)、栲幡千千姫命がいる。
天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ、人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。この造化三神のうち、神皇産霊神・高皇産霊神は、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿で祀られた。
高皇産霊神は、『日本書紀』では、天地初発条一書第四に「又曰く~」という形式で登場しているに過ぎない神であり、その他では巻十五の「顕宗紀」において阿閇臣事代が任那に派遣され壱岐及び対馬に立ち寄った際に名前が登場する程度ではある。 また、『延喜式』「祝詞」・「出雲国神賀詞」には、「神王高御魂命」とされている。
神話での行動
天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほみみ)が高皇産霊神の娘栲幡千々姫命(たくはたちぢひめ)と結婚して生まれたのが天孫瓊々杵尊であるので、タカミムスビは天孫ニニギの外祖父に相当する。
天津国玉神の子である天稚彦(あめのわかひこ)が、天孫降臨に先立って降ったが復命せず、問責の使者・雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を射殺した。それが高皇産霊神の怒りに触れ、その矢を射返されて死んだという。
『古事記』では神武天皇の熊野から大和に侵攻する場面で夢に登場し、さらに天照大神より優位に立って天孫降臨を司令している伝も存在する。』
(タカミムスビ(Wikipedia)より抜粋)
本来は高木の神格化されたものを指し、「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、「創造」を神格化した神であるというが、高木神(タカギノカミ)、それは「無から糸を算出する蚕の化身」のことではないだろうか。
ふと、そんなことを思った。
お一人の神様のことを調べるだけでも、これだけの行数がかかる。
さて、ここでの本題はこの「配志和神社」の読み方でああった。
『景行天皇の御代、日本武尊により創祀されたといわれる神社。
火石輪が変化して配志和となったとされている。
火石輪がどういう意味かわからないが、烽火を囲んだストーンサークルのようなものだろうか。』(「配志和神社」より)
http://www.genbu.net/data/mutu/haisiwa_title.htm
「ひいしわ」が「はいしわ」に転化したもののようであるが、事実はわからない。
もっと深い深い歴史の謎が含まれている可能性もある。
古代日本人は自分たちのことを「わ」から来たと言った。
魏志倭人伝にそう書いてある。
「お前たちはどこから来たか?」
「『わ』から来た。」
このやりとりから、古代中国人たちは彼らを「わ」人、蔑視した当て字を当てて倭人と称したという。
井沢元彦著「逆説の日本史」を読むと、この「わ」を井沢氏独自の解釈をしている。
「環」または「輪」であろうという。
環濠集落では住む形態も、先祖の墓の形態も環状を持って形成していたために、環もしくは輪の状態の集落全体を「わ」と称したものであろう。
北九州では朝鮮半島人と北九州人が海上で混血化していったことが想像されるので、私は韓国語の読みを調べてみた。
韓国語で「わ」と読む文字に「輪」があることを知った。
それで私は「輪人」であると想像した。
後日、あるサイト記事で吉田松陰の叔父さんで松下村塾の創設者である玉木文之進のことを調べていると、玉木家は古くは環(たまき)家であり、大内義隆滅亡時の遺児の末裔であると書かれていた。
当の環家末裔の人物が祖父母から聞き伝えられた話を書いていた記事だった。
周防の大内義隆の祖先は多々良家であり、韓国からの渡来人であることはほぼ間違いない。その末裔が環(たまき)家を名乗ったことは、北九州と朝鮮半島南部を往来していた有力な一族が「環」(わ)ではなかったのかと思われる。
北九州から魏の国へわたった古代日本人は、南朝鮮と北九州を根拠地とするバイリンガル(二ヶ国語民族)である環(わ)人だったのではないだろうか。
玉木文之進は松蔭の生まれた吉田家から玉木家へ養子にいき、松下村塾を創立し、甥の松蔭を過酷な教育によって鍛え上げたのである。
その吉田松陰の教え子たちは、やがて徳川政権を転覆し、明治の天皇中心の政治社会を再構築したのである。
明治維新とは、古代から続く「環」一族の復権でもあったのだ。
話が逸れたが、火石輪(ひいしわ)とは貴重な火打石を環状に並べたものを指すよう思われる。
火石といい、輪(環)といい、古代日本人の存在を色濃く示す神社名である。
北九州に上陸した環人たちは、岩手山のふもと、宮城山福松生誕の地辺りまで北上してきたのであろうか。
何かの宗教的政治的配慮からいつの時代か配志和神社と改名しているが、「わ」の音から和を用いて輪(環)のイメージを消している操作の跡を私は感じる。
古代のこの国の原住民であった環人(輪人)ではない一族の仕業による改名のような気がする。
なぜならば輪もしくは環のイメージが破壊されてしまっているからである。
音の「わ」を残したのは、せめてもの意地なのであろうか。
道路のトラックなどが前照灯をつけ始めた。
かなり暗くなってきたようだ。
交通標識に「平泉(左へ厳美渓、右へ陸前高田)」が見えてきた。
源義経終焉の地へと近づいている。
初四股名の謎「岩手川か、岩手山か?」~奥州街道(4-207) [奥州街道日記]
写真 宮城山福松(Wikipedia)より引用
TS393484「第29代横綱 宮城山 福松」の説明板(再掲)
先に抜粋した宮城山福松(Wikipedia)の記事には、「1910年(明治43年)出羽ノ海部屋に入門し同年6月場所、岩手川の四股名で初土俵。」とあり、「岩手川」が初四股名であったことがわかる。
しかし、生誕地に立つ「第29代横綱 宮城山 福松」の説明板を読むと、「岩手山」と書かれている。
地元の人たちが岩手県出身の相撲取りの初四股名を間違えて記載する可能性は薄いように思われる。
岩手山という四股名は一体いつの時代に名乗ったのだろうか?
謎が生じてきた。
Wikipedia記事の著者が単純に川と山を間違えて記載した可能性もあるが、初四股名という大事な名前を間違える可能性は低いのではないだろうか。
ましてや後に宮城山と解明して地元の人々の反感を買った福松のことである。
その岩手県出身者の初四股名については、きっと慎重に取り扱って記事を書いたはずである。
そこで調べてみた。
岩手山と書かれていた説明板「第29代横綱 宮城山 福松」の全文を以下に抜粋してみよう。
『第二十九代横綱 宮城山福松
本名を佐藤福松といい、明治二十八年現在地で生まれる。
生来体力が優れ、同四十三年十六歳のとき、東京相撲出羽の海部屋に入門して岩手山を名のり、後宮城山と改めた。
大正二年故あって大阪相撲高田川部屋に移籍日夜鍛錬したかいがあって同五年二十二歳で入幕、同十一年念願の横綱に昇進した。
昭和二年に長らく対立していた東京・大阪相撲協会が合併して大日本相撲協会となり、合併後初の東京場所において堂々優勝し、横綱としての貫禄と実力を示した。
同五年宮中での天覧相撲の際は、晴れて土俵入りの光栄に浴す。
翌六年には引退し、年寄役芝田山として後輩の指導に当たり、同十八年四十九歳で他界した。墓は円満寺にある。
この石碑は、第二十五回岩手国体開催の年を記念し横綱宮城山の功績を顕彰するため、建立したもので、第四代高砂親方(元前田山英五郎)の揮毫による。
一関市教育委員会』(抜粋終わり)』
ここには、「東京相撲出羽の海部屋に入門して岩手山を名のった」と書いてある。
東京相撲出羽の海部屋に入門した頃の四股名は、地元の顕彰碑には「岩手山」と刻まれており、一方で宮城山福松(Wikipedia)には「岩手川」と書かれているのである。
「相撲人名鑑(宮城山 福松)」には、
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19270101.htm
「改名歴 岩手川→宮木山→宮城山」とあるから、初四股名は「岩手川」が正解である。
また、「1912年(明治45年)5月場所に三段目になり、床山に当時許されていた大銀杏を結ってもらい喜んでいるところに、幕下の九州山が来て殴られたため逃げ出し廃業。」(宮城山福松(Wikipedia)より)という下りに登場する喧嘩相手だった同部屋の九州山十郎(Wikipedia)記事にも、「岩手川」の四股名が登場している。
該当部を抜粋する。
『九州男児らしい剛胆な性格で知られ、ある日師匠入間川を脅しに来たごろつきをやっつけたところ、逆恨みで仇討ちに来た連中に囲まれたことがあった。しかし九州山は「命が欲しきゃ、持ってきねえ」と言って横になったまま動じる様子もなかったので、ごろつきたちは気圧されて尻尾を巻いたという。
反面、気性が強過ぎたのか、同じ部屋だった宮城山(当時は岩手川)が三段目になったご褒美に大銀杏を結ってもらっていたところを殴ってしまい、岩手川が部屋を逃げて大坂相撲へ移るきっかけをつくってしまった(のちに和解)。そんな九州山だったが、大関を落ちたときには隅田川へ投身自殺を考えたほど落ち込んだとも伝わる。以下略』(九州山十郎(Wikipedia)より)
どうやら「岩手川」が本当の初四股名であって、この一関市教育委員会が書いた「第二十九代横綱 宮城山福松」の説明板の記載が間違っているようである。
ところで、「岩手山」は地元の人々の憧れの山である。
宮城山などと名乗るのであれば、なぜ「岩手山(いわてさん)」と名乗らなかったのか!?
そう地元の人々は言いたかったのであろうか。
『(岩手山は)盛岡市の北西にある火山。標高2038メートル。北麓の金沢清水は名水で知られる。南部富士。岩手富士。巌鷲山(がんじゅさん)。』
(goo辞書「いわてさん」http://dictionary.goo.ne.jp/より)
岩手山は、盛岡市から眺められる華麗な山である。
高温の地熱や硫気ガスを発生する火山であり、南部富士と称せられる美しい容姿を持つ。
初冠雪は10月初旬である。
TS393484「第29代横綱 宮城山 福松」の説明板(再掲)
先に抜粋した宮城山福松(Wikipedia)の記事には、「1910年(明治43年)出羽ノ海部屋に入門し同年6月場所、岩手川の四股名で初土俵。」とあり、「岩手川」が初四股名であったことがわかる。
しかし、生誕地に立つ「第29代横綱 宮城山 福松」の説明板を読むと、「岩手山」と書かれている。
地元の人たちが岩手県出身の相撲取りの初四股名を間違えて記載する可能性は薄いように思われる。
岩手山という四股名は一体いつの時代に名乗ったのだろうか?
謎が生じてきた。
Wikipedia記事の著者が単純に川と山を間違えて記載した可能性もあるが、初四股名という大事な名前を間違える可能性は低いのではないだろうか。
ましてや後に宮城山と解明して地元の人々の反感を買った福松のことである。
その岩手県出身者の初四股名については、きっと慎重に取り扱って記事を書いたはずである。
そこで調べてみた。
岩手山と書かれていた説明板「第29代横綱 宮城山 福松」の全文を以下に抜粋してみよう。
『第二十九代横綱 宮城山福松
本名を佐藤福松といい、明治二十八年現在地で生まれる。
生来体力が優れ、同四十三年十六歳のとき、東京相撲出羽の海部屋に入門して岩手山を名のり、後宮城山と改めた。
大正二年故あって大阪相撲高田川部屋に移籍日夜鍛錬したかいがあって同五年二十二歳で入幕、同十一年念願の横綱に昇進した。
昭和二年に長らく対立していた東京・大阪相撲協会が合併して大日本相撲協会となり、合併後初の東京場所において堂々優勝し、横綱としての貫禄と実力を示した。
同五年宮中での天覧相撲の際は、晴れて土俵入りの光栄に浴す。
翌六年には引退し、年寄役芝田山として後輩の指導に当たり、同十八年四十九歳で他界した。墓は円満寺にある。
この石碑は、第二十五回岩手国体開催の年を記念し横綱宮城山の功績を顕彰するため、建立したもので、第四代高砂親方(元前田山英五郎)の揮毫による。
一関市教育委員会』(抜粋終わり)』
ここには、「東京相撲出羽の海部屋に入門して岩手山を名のった」と書いてある。
東京相撲出羽の海部屋に入門した頃の四股名は、地元の顕彰碑には「岩手山」と刻まれており、一方で宮城山福松(Wikipedia)には「岩手川」と書かれているのである。
「相撲人名鑑(宮城山 福松)」には、
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19270101.htm
「改名歴 岩手川→宮木山→宮城山」とあるから、初四股名は「岩手川」が正解である。
また、「1912年(明治45年)5月場所に三段目になり、床山に当時許されていた大銀杏を結ってもらい喜んでいるところに、幕下の九州山が来て殴られたため逃げ出し廃業。」(宮城山福松(Wikipedia)より)という下りに登場する喧嘩相手だった同部屋の九州山十郎(Wikipedia)記事にも、「岩手川」の四股名が登場している。
該当部を抜粋する。
『九州男児らしい剛胆な性格で知られ、ある日師匠入間川を脅しに来たごろつきをやっつけたところ、逆恨みで仇討ちに来た連中に囲まれたことがあった。しかし九州山は「命が欲しきゃ、持ってきねえ」と言って横になったまま動じる様子もなかったので、ごろつきたちは気圧されて尻尾を巻いたという。
反面、気性が強過ぎたのか、同じ部屋だった宮城山(当時は岩手川)が三段目になったご褒美に大銀杏を結ってもらっていたところを殴ってしまい、岩手川が部屋を逃げて大坂相撲へ移るきっかけをつくってしまった(のちに和解)。そんな九州山だったが、大関を落ちたときには隅田川へ投身自殺を考えたほど落ち込んだとも伝わる。以下略』(九州山十郎(Wikipedia)より)
どうやら「岩手川」が本当の初四股名であって、この一関市教育委員会が書いた「第二十九代横綱 宮城山福松」の説明板の記載が間違っているようである。
ところで、「岩手山」は地元の人々の憧れの山である。
宮城山などと名乗るのであれば、なぜ「岩手山(いわてさん)」と名乗らなかったのか!?
そう地元の人々は言いたかったのであろうか。
『(岩手山は)盛岡市の北西にある火山。標高2038メートル。北麓の金沢清水は名水で知られる。南部富士。岩手富士。巌鷲山(がんじゅさん)。』
(goo辞書「いわてさん」http://dictionary.goo.ne.jp/より)
岩手山は、盛岡市から眺められる華麗な山である。
高温の地熱や硫気ガスを発生する火山であり、南部富士と称せられる美しい容姿を持つ。
初冠雪は10月初旬である。
宮城山 福松~奥州街道(4-206) [奥州街道日記]
TS393483二十九代横綱出生地の石碑
TS393484「第29代横綱 宮城山 福松」の説明板
TS393485横綱出生地の街道
これまで街道で100泊もテントで野宿したのだから、今はどこでもテントを張れる自信が付いている。
だから日が暮れてきても何も心配はない。
そう前の記事で書いたのだが、やはり日が暮れてくると心細くなる。
例えば4km先に芝生の公園があって、そこでテント泊可能だとわかっているとすると、ずいぶんと気持ちが楽になる。
今の状況は未知の地域へ向かう自分であり、夕暮れの中でこの先数kmの状況はわからない。
暗がりの中で見える川原や公園などの様子から宿泊可否を自ら判定するしかない。
暗くなりかけた街道に黒い大理石の碑がどしんと立っていた。
「二十九代横綱出生地」とあり、そばの説明板には「第29代横綱 宮城山福松」と書かれている。
宮城山福松のWikipedia記事(一部以下に抜粋)によれば、「岩手県一関市山ノ目町五代の生まれ」とあるから、ここは山ノ目町五代という地である。
岩手県生まれなのに宮城山とは、これ如何に?
『宮城山福松(みやぎやま ふくまつ、本名:佐藤 福松(さとう ふくまつ)、1895年2月27日-1943年11月19日は、大相撲の力士で、岩手県出身力士では唯一横綱まで昇進した。第29代横綱に公認されている。
現役時代の体格は173cm、113kg。
来歴
1895年(明治28年)2月27日、岩手県一関市山ノ目町五代に生まれる。
1910年(明治43年)出羽ノ海部屋に入門し同年6月場所、岩手川の四股名で初土俵。
1912年(明治45年)5月場所に三段目になり、床山に当時許されていた大銀杏を結ってもらい喜んでいるところに、幕下の九州山が来て殴られたため逃げ出し廃業。
その素質を惜しんだ常陸山の勧めで大坂相撲の高田川部屋に移籍し、宮木山(のち宮城山)を名乗り幕下から再スタートを切った。
後に1921年(大正10年)3月に行われた合併興行で九州山に勝ち、その後互いに昔の無礼を詫びて和解の握手をした。
四股名は最初は岩手川だった。
大坂加入後に宮木山、後に宮城山。
岩手県出身でありながら宮城山の四股名を名乗ったのは、出身地が仙台藩の領地だったからと言われているが、岩手県民からは反感を買ったという。
1922年(大正11年)に吉田司家から横綱免許を授与される。大坂相撲の横綱としては宮城山が4人目で、それ以前には若島、大木戸、大錦大五郎の3人がいる。これが結果として大坂相撲では最後の横綱になった。なお現存する大坂相撲時代の写真で大木戸と宮城山の両者が締めている横綱は縒り方が逆である(上記写真と比較参照[1])。東西合併後の宮城山の写真は現在の縒り方の横綱を締めている。
ところが横綱免許直後瘭疽を患ってしまいほとんど休場ばかり。特に1923年(大正12年)1月から1925年(大正14年)5月場所までの成績は7勝2敗1分50休という状況であった。大正時代も末期になると、関東大震災で国技館を失い苦しむ東京相撲との合併の話が持ち上がり、番付統合のために合併場所が開催された(1925~26年、計3回)。ここで大坂力士は力量が東京力士より劣ることが判明し、大坂大関の荒熊は平幕の9枚目、錦城山は平幕の10枚目になってしまった。唯一東京と互角に取れた真鶴は平幕の筆頭になった。宮城山の実力評価は小結と判定されたが、吉田司家が認めた正式な横綱であるため、格下げするわけにも行かず張出横綱の形で編入させた。
迎えた合併後初の本場所である1927年(昭和2年)1月場所には、横綱常ノ花には負けるが10勝1敗で幕内最高優勝。次の3月場所では千秋楽に常ノ花を倒して全勝を阻み大坂相撲の面目を保った。しかし持病の影響もあり1928年(昭和3年)10月場所に9勝2敗で2度目の優勝を最後に賜杯は抱けず、皆勤での負け越しも3回記録した。1931年(昭和6年)1月場所では初日から前頭7枚目藤ノ里・同3枚目新海・同6枚目玉碇・同筆頭山錦と4日連続で金星を献上し、3度目となる皆勤負け越し(5勝6敗)でこの場所が事実上取り納めとなった。金星配給数は29個で一場所平均にすると1.71個、一場所11番の時代だったことを考えればきわめて多いといえる。このため晩年には土俵入りで「弱い横綱」との罵声まで出たという。以下略。』(宮城山福松(Wikipedia)より)
明治28年生まれの佐藤福松は、出身地が仙台藩の領地だったために宮城山を名乗ったということだった。
戊辰戦争の記憶がまだ残る時代の東北の人々にとっては、出身地の名乗りで生死が分かれるという印象が色濃くあったのであろう。
歴史は相撲人生にも大きく影響を及ぼしていた。
デビュー当時の最初の四股名(しこな)「岩手川」こそ、当人の素直な気持ちから生まれた相撲名であったと言える。
TS393484「第29代横綱 宮城山 福松」の説明板
TS393485横綱出生地の街道
これまで街道で100泊もテントで野宿したのだから、今はどこでもテントを張れる自信が付いている。
だから日が暮れてきても何も心配はない。
そう前の記事で書いたのだが、やはり日が暮れてくると心細くなる。
例えば4km先に芝生の公園があって、そこでテント泊可能だとわかっているとすると、ずいぶんと気持ちが楽になる。
今の状況は未知の地域へ向かう自分であり、夕暮れの中でこの先数kmの状況はわからない。
暗がりの中で見える川原や公園などの様子から宿泊可否を自ら判定するしかない。
暗くなりかけた街道に黒い大理石の碑がどしんと立っていた。
「二十九代横綱出生地」とあり、そばの説明板には「第29代横綱 宮城山福松」と書かれている。
宮城山福松のWikipedia記事(一部以下に抜粋)によれば、「岩手県一関市山ノ目町五代の生まれ」とあるから、ここは山ノ目町五代という地である。
岩手県生まれなのに宮城山とは、これ如何に?
『宮城山福松(みやぎやま ふくまつ、本名:佐藤 福松(さとう ふくまつ)、1895年2月27日-1943年11月19日は、大相撲の力士で、岩手県出身力士では唯一横綱まで昇進した。第29代横綱に公認されている。
現役時代の体格は173cm、113kg。
来歴
1895年(明治28年)2月27日、岩手県一関市山ノ目町五代に生まれる。
1910年(明治43年)出羽ノ海部屋に入門し同年6月場所、岩手川の四股名で初土俵。
1912年(明治45年)5月場所に三段目になり、床山に当時許されていた大銀杏を結ってもらい喜んでいるところに、幕下の九州山が来て殴られたため逃げ出し廃業。
その素質を惜しんだ常陸山の勧めで大坂相撲の高田川部屋に移籍し、宮木山(のち宮城山)を名乗り幕下から再スタートを切った。
後に1921年(大正10年)3月に行われた合併興行で九州山に勝ち、その後互いに昔の無礼を詫びて和解の握手をした。
四股名は最初は岩手川だった。
大坂加入後に宮木山、後に宮城山。
岩手県出身でありながら宮城山の四股名を名乗ったのは、出身地が仙台藩の領地だったからと言われているが、岩手県民からは反感を買ったという。
1922年(大正11年)に吉田司家から横綱免許を授与される。大坂相撲の横綱としては宮城山が4人目で、それ以前には若島、大木戸、大錦大五郎の3人がいる。これが結果として大坂相撲では最後の横綱になった。なお現存する大坂相撲時代の写真で大木戸と宮城山の両者が締めている横綱は縒り方が逆である(上記写真と比較参照[1])。東西合併後の宮城山の写真は現在の縒り方の横綱を締めている。
ところが横綱免許直後瘭疽を患ってしまいほとんど休場ばかり。特に1923年(大正12年)1月から1925年(大正14年)5月場所までの成績は7勝2敗1分50休という状況であった。大正時代も末期になると、関東大震災で国技館を失い苦しむ東京相撲との合併の話が持ち上がり、番付統合のために合併場所が開催された(1925~26年、計3回)。ここで大坂力士は力量が東京力士より劣ることが判明し、大坂大関の荒熊は平幕の9枚目、錦城山は平幕の10枚目になってしまった。唯一東京と互角に取れた真鶴は平幕の筆頭になった。宮城山の実力評価は小結と判定されたが、吉田司家が認めた正式な横綱であるため、格下げするわけにも行かず張出横綱の形で編入させた。
迎えた合併後初の本場所である1927年(昭和2年)1月場所には、横綱常ノ花には負けるが10勝1敗で幕内最高優勝。次の3月場所では千秋楽に常ノ花を倒して全勝を阻み大坂相撲の面目を保った。しかし持病の影響もあり1928年(昭和3年)10月場所に9勝2敗で2度目の優勝を最後に賜杯は抱けず、皆勤での負け越しも3回記録した。1931年(昭和6年)1月場所では初日から前頭7枚目藤ノ里・同3枚目新海・同6枚目玉碇・同筆頭山錦と4日連続で金星を献上し、3度目となる皆勤負け越し(5勝6敗)でこの場所が事実上取り納めとなった。金星配給数は29個で一場所平均にすると1.71個、一場所11番の時代だったことを考えればきわめて多いといえる。このため晩年には土俵入りで「弱い横綱」との罵声まで出たという。以下略。』(宮城山福松(Wikipedia)より)
明治28年生まれの佐藤福松は、出身地が仙台藩の領地だったために宮城山を名乗ったということだった。
戊辰戦争の記憶がまだ残る時代の東北の人々にとっては、出身地の名乗りで生死が分かれるという印象が色濃くあったのであろう。
歴史は相撲人生にも大きく影響を及ぼしていた。
デビュー当時の最初の四股名(しこな)「岩手川」こそ、当人の素直な気持ちから生まれた相撲名であったと言える。
テントを張れる心~奥州街道(4-205) [奥州街道日記]
旧街道筋
シュロの木がある家
「俳聖~の道」碑
江戸時代以前の奥州街道には磐井橋は無かったようで、木製の仮橋が架けられたのは明治3年だという。
それ以前は流れの浅いところに渡し場があったのだろう。
磐井橋を渡り、岩手県の南玄関一関市を出て、盛岡市方面へと歩いていく。
既にあたりは暗くなってきた。
まだテントをどこに張るのか決めていないが、最初の頃の不安な気持ちはもうなくなり、今ではあたりが暗くなっても平気で歩き続けている。
歩けなくなったところでテントを適当に張ればよいと腹をくくっているからである。
この腹をくくるという態度がなかなかできない。
できない間は夕暮れとともにあせりが生じる。
まともな宿を確保できずに日暮れに突入する自分に侘しさを感じてしまうのである。
100回も街道筋でテントを張ってきた私であるが、最近はテントを張れない場所を探すことの方が困難である。
いまなら、東京のど真ん中でもテント泊できる自信ができている。
でも、最初の頃はそうではなかった。
恥を知る心があった。
人の目を気にする心があった。
プライドを護ろうとする心があった。
そういう余計なものを持っていると、人気のある場所ではなかなかテントを張る勇気が湧いてこないものだった。
そうは言っても、人っ子一人いない山中で平気でテントを張れるかというと、それはそれで真っ暗な山中ではとても怖いからなかなか張れないのである。
つまり、都会でも山中でもテントを張れないサラリーマンの私がいたのだった。
100泊の体験は言葉では説明できないが、どこでもテントを張れる人間を育ててきたことは事実である。
シュロの木がある家を見ながら歩く。
その先に「俳聖~の道」と書いた碑がある。
「~」の部分は消した跡があり、読めない。
松尾芭蕉の事跡にちなんだ言葉なのだろうが、そこを敢えて消そうとした人物がいたことの方に興味が湧く。
今夜のテントをどこで張ろうか?
そろそろ私の脳はそれを考えながら歩いている。
シュロの木がある家
「俳聖~の道」碑
江戸時代以前の奥州街道には磐井橋は無かったようで、木製の仮橋が架けられたのは明治3年だという。
それ以前は流れの浅いところに渡し場があったのだろう。
磐井橋を渡り、岩手県の南玄関一関市を出て、盛岡市方面へと歩いていく。
既にあたりは暗くなってきた。
まだテントをどこに張るのか決めていないが、最初の頃の不安な気持ちはもうなくなり、今ではあたりが暗くなっても平気で歩き続けている。
歩けなくなったところでテントを適当に張ればよいと腹をくくっているからである。
この腹をくくるという態度がなかなかできない。
できない間は夕暮れとともにあせりが生じる。
まともな宿を確保できずに日暮れに突入する自分に侘しさを感じてしまうのである。
100回も街道筋でテントを張ってきた私であるが、最近はテントを張れない場所を探すことの方が困難である。
いまなら、東京のど真ん中でもテント泊できる自信ができている。
でも、最初の頃はそうではなかった。
恥を知る心があった。
人の目を気にする心があった。
プライドを護ろうとする心があった。
そういう余計なものを持っていると、人気のある場所ではなかなかテントを張る勇気が湧いてこないものだった。
そうは言っても、人っ子一人いない山中で平気でテントを張れるかというと、それはそれで真っ暗な山中ではとても怖いからなかなか張れないのである。
つまり、都会でも山中でもテントを張れないサラリーマンの私がいたのだった。
100泊の体験は言葉では説明できないが、どこでもテントを張れる人間を育ててきたことは事実である。
シュロの木がある家を見ながら歩く。
その先に「俳聖~の道」と書いた碑がある。
「~」の部分は消した跡があり、読めない。
松尾芭蕉の事跡にちなんだ言葉なのだろうが、そこを敢えて消そうとした人物がいたことの方に興味が湧く。
今夜のテントをどこで張ろうか?
そろそろ私の脳はそれを考えながら歩いている。
磐井橋~奥州街道(4-204) [奥州街道日記]
TS393473 夕暮れの奥州街道
TS393474 磐井橋を渡りきった
TS393478 芭蕉も眺めただろう風景(北岸から)
夕暮れの中を磐井橋を渡る。
川の流れは意外と速いが、この写真には写っていないがよく見ると手前側に治水によって幾本かの流れの速い用水路が形成されており、高度地区へも水を供給している様子が認められる。
ふと二宮金次郎の存在が脳裏に浮かんできた。
実際にこの磐井川の治水工事を行ったのは別の日本人なのだろうが、「水を農業生活に活かす知恵」という風に見たときに、自然と二宮金次郎の薪を背負った姿が浮かぶのである。
偉人とはそういう人物のことをいうのであろう。
歴史が高々200年と浅いアメリカ合衆国ではその種の人物をパイオニアと呼ぶが、2000年を超えるわが国ではやはり「偉人の仕業」と呼ぶべきであろう。
磐井橋を渡り切るころには、既に西の山際に日が沈みかけていた。
川原はまだ残照で明るいのだが、たちまち暗くなることは目に見えていた。
私はこの広く整備された芝生の川原にテントを張りたいという衝動に駆られた。
芭蕉もこの川原で数日間を過ごしたいと感じて、南岸にある橋の袂の宿を取ったのに違いない。
私が惹かれるのも仕方がないことである。
しかし、ここで安易な生活に溺れている暇はない。
サラリーマンの街道歩きは、時間が限られているし、予算も限られている。
安逸を脱して、重い腰を上げねばならないのである。
そこが芭蕉とは大きく異なるのである。
暗くなっても本日のノルマである歩行距離20kmをきちんと越えて行かねばならないのだ。
それでもあと10分ほどはこの川原を眺めていることにしよう。
それからまた歩き始めよう。
犬を連れた人が私が座っている石段の傍を通り川原へ降りていった。
千切れるばかりに左右に振っている白い子犬の尻尾に、犬の生きている喜びが溢れていた。
TS393474 磐井橋を渡りきった
TS393478 芭蕉も眺めただろう風景(北岸から)
夕暮れの中を磐井橋を渡る。
川の流れは意外と速いが、この写真には写っていないがよく見ると手前側に治水によって幾本かの流れの速い用水路が形成されており、高度地区へも水を供給している様子が認められる。
ふと二宮金次郎の存在が脳裏に浮かんできた。
実際にこの磐井川の治水工事を行ったのは別の日本人なのだろうが、「水を農業生活に活かす知恵」という風に見たときに、自然と二宮金次郎の薪を背負った姿が浮かぶのである。
偉人とはそういう人物のことをいうのであろう。
歴史が高々200年と浅いアメリカ合衆国ではその種の人物をパイオニアと呼ぶが、2000年を超えるわが国ではやはり「偉人の仕業」と呼ぶべきであろう。
磐井橋を渡り切るころには、既に西の山際に日が沈みかけていた。
川原はまだ残照で明るいのだが、たちまち暗くなることは目に見えていた。
私はこの広く整備された芝生の川原にテントを張りたいという衝動に駆られた。
芭蕉もこの川原で数日間を過ごしたいと感じて、南岸にある橋の袂の宿を取ったのに違いない。
私が惹かれるのも仕方がないことである。
しかし、ここで安易な生活に溺れている暇はない。
サラリーマンの街道歩きは、時間が限られているし、予算も限られている。
安逸を脱して、重い腰を上げねばならないのである。
そこが芭蕉とは大きく異なるのである。
暗くなっても本日のノルマである歩行距離20kmをきちんと越えて行かねばならないのだ。
それでもあと10分ほどはこの川原を眺めていることにしよう。
それからまた歩き始めよう。
犬を連れた人が私が座っている石段の傍を通り川原へ降りていった。
千切れるばかりに左右に振っている白い子犬の尻尾に、犬の生きている喜びが溢れていた。
奥州街道記事再開です。 [奥州街道日記]
昨年9月末で38年間勤めた会社を年満退職しました。
約束どおりならこれかららくらくの年金生活でしたが、そうはいかないとのことで、65歳まで働く必要があることを知りました。(一定期間の法的処置として、個人が申請すれば特別支給の老齢厚生年金が支給されるとのこと、年金事務所の無料相談で教えてもらい、早速申請しましたが、実際支給までは数ヶ月かかるようでした。その間の生活は工夫することが必要になります。そのお陰様でタバコは辞めることができました。怪我の功名です。)
しかし「継続雇用社員とするかどうか」は会社が決めることといい、私は継続雇用されないグループに入ったようでして、それでも子会社の嘱託雇用というスタイルで何とか働き続ける環境は不十分ながら確保されました。
しかし、年満退職だということで今住んでいる前の会社の社宅は3ヶ月以内に退去せよとの仰せであり、街道歩きで慣れ親しんだテント生活を家族に強要することもできませんので、転居先住居を探す毎日となりました。
首都圏内に還暦過ぎて住むことを考える場合、賃貸か分譲か、分譲でも中古か新築か、迷うことばかりでした。
20年前に聞いたある東京のマンションデベロッパー管理職であった知人の言葉を思い出し、必死に住まい探しに奔走しました。その間、この奥州街道日記は休止することとなりました。
その言葉とは、
「マンションは車の購入とは訳が違う。一生に一度しかない大きな買い物だから、購入決定までに少なくとも30箇所のモデルルームを見ておくべきですよ。その間に品物を見る目が養われます。」
彼は、この国でもっとも優れたブランドと言われる不動産会社の課長でした。
30箇所も見て回れば、怪しい物件や、いい加減な物件を見抜く目が養われ、やがてきちんと設計施工した自社物件に顧客は舞い戻ってくるはずだという彼なりの自信と信念があったのでしょう。
中古物件と新築モデルルームをあわせて、合計29件の見学を行いました。
あの課長のアドバイスに1件足りない段階で、私の意志は決定しました。
結果的に購入したのは、あの課長の不動産会社が鉄道会社とジョイントベンチャー(共同事業)で作った新築マンションでした。
知人はもう2年前に年満退職し子会社の社長をしていますので、彼の企画設計物件ではありえません。
その結果がよかったか悪かったかは、意見の分かれるところでしょうが、2ヶ月間に29件も足を使って見歩き、その上て決定した「一生のお買い物」ですから、私自身の内面ではいささかも悔いがありませんし、今後もないことでしょう。
「自ら納得する選択をする。」
それがあの課長が教えてくれた「大事なこと」だったのではないかと思っています。
私は田舎に小さな持ち家を持っていて、会社命令の転勤ゆえに…という「特例貸与」とはいえ、60歳まで会社の社宅を貸していただいたことに厚く感謝をしています。
「何よりも従業員の福利厚生を大事に考える。」
いまどきそんな悠長な考え方の企業は少ないと思います。
稀有な会社に長く勤められたことに幸福を感じつつ、引越し準備のダンボールが積み上げられた和室の中で再び奥州街道歩きの記事を執筆いたします。
ゴールの三厩(みんまや、みまや)宿へたどり着くまで……!
約束どおりならこれかららくらくの年金生活でしたが、そうはいかないとのことで、65歳まで働く必要があることを知りました。(一定期間の法的処置として、個人が申請すれば特別支給の老齢厚生年金が支給されるとのこと、年金事務所の無料相談で教えてもらい、早速申請しましたが、実際支給までは数ヶ月かかるようでした。その間の生活は工夫することが必要になります。そのお陰様でタバコは辞めることができました。怪我の功名です。)
しかし「継続雇用社員とするかどうか」は会社が決めることといい、私は継続雇用されないグループに入ったようでして、それでも子会社の嘱託雇用というスタイルで何とか働き続ける環境は不十分ながら確保されました。
しかし、年満退職だということで今住んでいる前の会社の社宅は3ヶ月以内に退去せよとの仰せであり、街道歩きで慣れ親しんだテント生活を家族に強要することもできませんので、転居先住居を探す毎日となりました。
首都圏内に還暦過ぎて住むことを考える場合、賃貸か分譲か、分譲でも中古か新築か、迷うことばかりでした。
20年前に聞いたある東京のマンションデベロッパー管理職であった知人の言葉を思い出し、必死に住まい探しに奔走しました。その間、この奥州街道日記は休止することとなりました。
その言葉とは、
「マンションは車の購入とは訳が違う。一生に一度しかない大きな買い物だから、購入決定までに少なくとも30箇所のモデルルームを見ておくべきですよ。その間に品物を見る目が養われます。」
彼は、この国でもっとも優れたブランドと言われる不動産会社の課長でした。
30箇所も見て回れば、怪しい物件や、いい加減な物件を見抜く目が養われ、やがてきちんと設計施工した自社物件に顧客は舞い戻ってくるはずだという彼なりの自信と信念があったのでしょう。
中古物件と新築モデルルームをあわせて、合計29件の見学を行いました。
あの課長のアドバイスに1件足りない段階で、私の意志は決定しました。
結果的に購入したのは、あの課長の不動産会社が鉄道会社とジョイントベンチャー(共同事業)で作った新築マンションでした。
知人はもう2年前に年満退職し子会社の社長をしていますので、彼の企画設計物件ではありえません。
その結果がよかったか悪かったかは、意見の分かれるところでしょうが、2ヶ月間に29件も足を使って見歩き、その上て決定した「一生のお買い物」ですから、私自身の内面ではいささかも悔いがありませんし、今後もないことでしょう。
「自ら納得する選択をする。」
それがあの課長が教えてくれた「大事なこと」だったのではないかと思っています。
私は田舎に小さな持ち家を持っていて、会社命令の転勤ゆえに…という「特例貸与」とはいえ、60歳まで会社の社宅を貸していただいたことに厚く感謝をしています。
「何よりも従業員の福利厚生を大事に考える。」
いまどきそんな悠長な考え方の企業は少ないと思います。
稀有な会社に長く勤められたことに幸福を感じつつ、引越し準備のダンボールが積み上げられた和室の中で再び奥州街道歩きの記事を執筆いたします。
ゴールの三厩(みんまや、みまや)宿へたどり着くまで……!
今日は親会社退社式 [奥州街道日記]
親会社社長と昼食と案内に書いてあるが、代理かも知れない。
もしご本人が参加されるなら、A氏の勤続38年間で直接話をする最初で最後の機会である。
それが代理出席となるなら同期入社の事務屋が話相手となるだろう。
仕事で事務屋に負けると思ったことは一度もないが、皮肉なものである。
最後の出社日は小雨が降っている。
明日からは子会社の嘱託社員として在宅勤務になる。
しかも週三日勤務だから、その薄給では食べていけない。
更に年末には親会社社宅から出ていかねばならない。
最低賃金(サイチン)のちょっと上では一流企業OBの体裁など保てない。
私だけなら寒くなるまでは街道歩きの経験から隅田川河川敷にテント泊も可能だが、家内はそうはいかない。
移転先探しとアルバイト探しが今後の我が家の最重要業務になる。
もしご本人が参加されるなら、A氏の勤続38年間で直接話をする最初で最後の機会である。
それが代理出席となるなら同期入社の事務屋が話相手となるだろう。
仕事で事務屋に負けると思ったことは一度もないが、皮肉なものである。
最後の出社日は小雨が降っている。
明日からは子会社の嘱託社員として在宅勤務になる。
しかも週三日勤務だから、その薄給では食べていけない。
更に年末には親会社社宅から出ていかねばならない。
最低賃金(サイチン)のちょっと上では一流企業OBの体裁など保てない。
私だけなら寒くなるまでは街道歩きの経験から隅田川河川敷にテント泊も可能だが、家内はそうはいかない。
移転先探しとアルバイト探しが今後の我が家の最重要業務になる。
松陰の奥州旅行 [奥州街道日記]
何故松陰は雪深い時期に奥州を旅したのか?
私にはそれが謎だった。
しかし今日その理由がわかった。
(東北遊行)赤穂義士復讐の日を期して途に就かんとす。嘉永4年12月15日発
(「吉田松陰」徳富蘇峰著、岩波文庫より)
私にはそれが謎だった。
しかし今日その理由がわかった。
(東北遊行)赤穂義士復讐の日を期して途に就かんとす。嘉永4年12月15日発
(「吉田松陰」徳富蘇峰著、岩波文庫より)